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2010年7月28日水曜日

土用の丑の日

この間、土用の丑の日、家族で鰻を食べました。
鰻屋の二階で、中串が焼けるのを待ちながら、お新香をつまみに酒を飲み、最後はうな茶で締めるといった小洒落た食い方は、茨城の田舎者(私のことです)はやりません。
霞ヶ浦名産の、佃煮だのわかさぎの煮干しだのを売っている店で、鰻の白焼きを買ってきて、醤油と砂糖で煮るんですな。野暮な食い方かもしれないが、柔らかくて味がしみて、これはこれでいいもんです。
以前、浜名湖の北岸に住む友人が鰻を送ってくれたことがありました。やはりこれが白焼きで、説明書に「一緒に入っているタレで煮ること」と書いてあった。もしかしたら、鰻の産地ではこういう食べ方が一般的なのかもしれません。
もし、「勝負飯」というものがあるとしたら、私の場合、鰻でしょうな。
非日常のイメージがあり、何と言っても「精がつく」。滋養強壮。力が漲ってくる感じが嬉しいじゃないですか。
ただねえ、ここんところ鰻を食うと胸が焼けるんですよ。
年齢的に鰻の脂がきつくなった? 
そうかもしれない。切ないなあ、好物なのに。これからは、なるべくいいコンディションで鰻が食べられるようにしようと思いますよ。

2010年7月25日日曜日

ご先祖様


ご先祖様の掛け軸の修繕が出来上がったというので、見せてもらう。

虫食いの後は分かるものの、きれいに仕上がった。

「良く描けた絵ですよ」と言われたという。

私もそう思う。

これが私の家の始祖となった女傑の像である。

2010年7月18日日曜日

鈴本7月中席昼の部

さて、鈴本7月中席昼の部の話だ。
入ったのは1時頃。平日の昼にしては、そこそこの入り。
後ろの方に座ると、林家彦いちが出てきて「権助魚」を始める。新作派のイメージがあるが、噺の骨格がしっかりしてきたように思う。
お次は古今亭志ん輔。志ん朝門下の中では華がある。ネタは「ガマの油」。私はこの人の酔っぱらいが好き。軽くてデフォルメがきいていて、いい。
柳家喬之助は「宮戸川」。噺家臭さがない。悪く言えば素人口調だが、この現代的な演出にはよく合っている。
大空遊平・かほりの漫才。しっかり者の妻と頼りない夫との掛け合いが売り物。ライトグリーンのワンピースとネクタイがお揃いだ。本当は仲が良さそうなところがいいな。
柳家喜多八、「いかけ屋」。ダルな雰囲気を売りにしているが、噺に入ると威勢がいい。悪童どもに取り巻かれ、パニックになっていく商人たちが楽しい。
ギター漫談のペペ桜井は自らを「絶滅危惧種」と呼ぶ。貴重な存在。面白いよ。寄席でこの人が出てると得した気分になる。
仲トリは柳亭小燕枝。演目は知らない。登場人物が全て強情者で、金を借りるとか返すとかで、もめるお話。この人の古風な佇まいが好き。「待ってました」の声がかかる。根強いファンがいそう。もっと脚光を浴びてもいい人だと思う。
くいつきはレッドカーペットでブレイクしたロケット団の漫才。三浦のボケに磨きがかかってきた。ナイツといい、こういう東京の若手の漫才が注目されてくるのは嬉しい。いつまでも寄席の高座を大切にしてほしい。
売れっ子、柳家三三登場。次代の名人候補だ。「高砂や」をさらりと演じる。風格が出てきたな。自分は上手いという自覚がある。
橘家文左衛門は「手紙無筆」。落語家には寄席でずっと同じネタをかけ続けるタイプがいる。先代馬生なんか「しわいや」ばっかり演っていた。文左衛門もここのところこれしか聴いていない。でも、噺が動いている。噺と遊んでいる感じ。スケールの大きさを感じるな。
膝代わりはダーク広和の手品。微妙なネタを好んでやる人だ。おやおやと思っているうちにするすると引きつけられていく。
そして、トリは柳亭燕路、「夜鷹そば屋」。先代古今亭今輔の十八番、「ラーメン屋」を古典の舞台に焼き直したもの。もともと軽妙で明るい口調が持ち味の人だが、人情噺風のネタをしっかり笑いを取りながら、手堅く進めていく。涙ぐんでいる人もいた。聴き応え充分。来てよかったという気持ちになった。
別にしんみりした噺でなくてもいいけど、トリには「来てよかったなあ」と思わせてくれるような噺を演ってほしいよね。

2010年7月17日土曜日

日暮里を歩く


先日、平日に休みをもらえた。
妻が「たまには寄席にでも行っておいでよ」と言ってくれたので、お言葉に甘えることにする。
10時40分、日暮里駅で下車。ここのところ谷中を歩くことが多いが、気分を変えて日暮里側へ出る。
駅前の太田道灌像を暫し鑑賞し、ぶらぶらと歩き始めた。
特にあてはない。1時間ほど歩いて上野にたどり着けばいい。
日暮里の繊維街を横目に根岸へ向かう。時折、横道にそれ、面白い家並みがあれば、愛機ライカC2のシャッターを切る。
根岸の何てことない蕎麦屋のウインドーに、九代目正蔵・二代目三平兄弟の高座扇が飾ってあった。根岸は林家の街なのだな。
下谷から竜泉に入った辺りで、上野に進路を取る。
年のせいかな、1時間以上歩くと足裏が痛くなる。休憩がてら、適当なところで昼飯を食いたい。
上野駅の下谷口と浅草口との間辺りか、目についたトンカツ屋に入る。ほぼ満席。小さなカウンターに座る。夜は居酒屋になるらしい。
ランチメニューにあるカツカレーを注文。すかさずビールも頼む。きりっと冷えたキリンのラガー。旨いねえ。カツカレーも結構。カツもたくさん載ってるし、ルーに一晩経ったようなコクがある。サラダ、冷や奴、味噌汁が付いて800円という値段も嬉しい。すっかり元気になりました。
それから、上野駅の構内で本を買い、鈴本の昼の部を観る。
4時30分終演。上野駅構内でお土産にロールケーキを買って帰る。
奥さんありがとう、いい休みだったよ。

2010年7月7日水曜日

終戦後の桂文楽

昭和20年8月15日、戦争は終わった。
当時の落語協会で、文楽より上にいた落語家は、四代目柳家小さんと八代目桂文治の 2人だけだった。
一世を風靡した柳家三語楼も、名人と誉れ高い五代目三遊亭圓生も既に亡かった。
三語楼は、向かいに住んでいた志ん生の次男に「強次」という名前を付け、それを置き土産にするように、間もなく死んだ。(強次は長じて古今亭志ん朝となる。)
五代目圓生、人呼んでデブの圓生。でっぷりとした外見に似合わず色気のある高座だったという。「三年目」「二番煎じ」「三十石」「文七元結」などを得意とした。戦後、人形町末広の席亭が、文楽が「松山鏡」を演っているのを聴いて、「今は他に人がいないから、この人を名人とか言っているが、圓生さんのこの噺を聴いたら、とても聴いていられないよ」と言っていたと、立川談志が証言している。
小さんは名人ではあったが、地味な芸風で爆発的な人気はない。文治はもはや盛りを過ぎていた。
ライバル志ん生と六代目圓生は、満州に行ったまま行方不明。
柳橋と金馬は戦時中、時流に乗った新作で売れ、どこか本格派とは言いにくい。
つまり、そのような状況に文楽はいたのだ。
大正の頃から売れっ子で、本格派の実力者として着実に地歩を固めたものの、戦時下の言論統制で不遇を託つ。これは褒めやすいわなあ。
もちろん、それだけではない。文楽の噺には、華があり艶があり品があった。明治大正の匂いを色濃く感じさせる、近代文学のような佇まいがあった。大衆の人気は圧倒的でないものの、言論界をリードする批評家、識者にとっては魅力的な存在だった。
しかも、昭和20年当時、文楽は53歳。体力的にも経験的にも円熟期に入る時期である。迫力もあり、豊かなふくらみもある。絶好の状況で、絶好の年齢を迎えていたのだ。
昭和20年代、文楽は東京落語界の頂点に駆け上る。それはまさに文楽の力と時運が絶妙にマッチした結果だったのである。