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2019年11月29日金曜日

桂文楽、芸術祭賞受賞(昭和29年)

八代目桂文楽が初の芸術祭賞をもらった時のインタビュー記事を見つけた。
記録の意味も込めて、記事にしておく。
昭和29年(1954年)12月13日付の朝日新聞である。

「文楽の話術のおかげで、世の〝知識人〟といわれる連中が落語を鑑賞し、認識するようになった」という書き出し。当時、吉田茂、歌人の吉井勇、早大教授の暉峻康隆などという面々がこぞって文楽を讃え、それが文楽のブランドイメージを高めた。また、記事からも、余計なクスグリやギャグを入れず、いちいち説明しなくても噺の中に時代や情景がきちんと描写される「本当の落語」、「落語話術の最高」という評価が既に定着していたことが見て取れる。

戦時中の言論統制の時代が終わり、思う存分自分の芸ができるようになった。名人と言われた、五代目三遊亭圓生、四代目柳家小さんはもう亡く、八代目桂文治に往年の輝きはない。斯界きっての大物、五代目柳亭左楽も、この年、鬼籍に入った。加えて文楽は当時63歳、落語家として脂の乗り切った時期で、その迫力は他の追随を許さなかった。事実、八代目橘家圓蔵は「その時(昭和29年当時)の黒門町の芸はすごかったなんてもんじゃない」と言っている。彼が落語界のトップに君臨したのは当然だったと言っていい。

興味深いのは経歴。記事では「下谷根岸の花柳界の真ん中で生まれた江戸ッ子」とある。実際には父の任地、青森県五所川原で生まれている。母は江戸詰めの常陸国宍戸藩士の娘、婿養子に入った父は一橋家御典医の家の生まれ、両親ともに東京者で、文楽自身も3歳の時に東京に戻っているが、正確に言えば「青森県出身」である。後に自叙伝『あばらかべっそん』に書かれていることだが、この時点ではそういうことになっていたんだな。

「三木助、小さんなどと門外不出の研究会を作って〝死ぬまで修業〟を実践している」との記述もある。小さんは四代目の死後、預かり弟子として一門に入っている。三木助は春風亭柳橋門下だったが、文楽に憧れ、晩年、文楽門下に入った。他のメンバーは不明だが、いずれにしても弟子筋との勉強会をしていたのか。そういえば、文楽は新しい噺を高座にかける前は、弟子を集めて演じて見せたという。

一方で「余計なものをはぶきすぎて〝純文学のような落語〟という声もあり、それが欠点だとみるむきもある。」という指摘があり、文楽自身、「私の芸は今まで一つところばかりみがいてきたようなもの。これを機会に幅をひろげる勉強をしたい」と言っている。
その後、文楽はモデルチェンジすることもなく、確立されたスタイルにやがて体力がついて行かなくなり、絶句という「名人芸の崩壊」を迎えることになる。
八代目桂文楽の訃報が載るのは、17年後。この記事と同じ12月13日付であったことを思うと、感慨深いものがある。




2019年11月24日日曜日

雨の休日

金曜日は仕事がらみの宴会。
帰りに石岡のバードランドでひとり二次会。ボウモアとカンパリソーダを飲む。

昨日の日記。
朝、厚切り食パン、牛乳、炒めもの、ウィンナーソーセージ。
一日中ずーっと雨。



午前中、次男と図書館。橋本治『草薙の剣』を借りてくる。
昼は次男が作った塩焼きそば。
『草薙の剣』を読む。10代から60代まで、10歳ずつ違う男たちの人生を、その親の世代までさかのぼりながら、昭和・平成の日本を描く。抑制の利いた文体。あの饒舌な『桃尻娘』からここへ来たのか。ぐいぐい引き込まれる。
夕食は花咲蟹、鯖の塩焼きで酒。
寝しなにアイリッシュウィスキー。



今日の日記。一日中雨。
朝、コストコのパンケーキ、ホットミルク。
橋本治『草薙の剣』、読了。図書館に返しに行く。
昼はパスタ。SAVA缶のバジルソース、和風キノコ、ボロネーゼ、カルボナーラを取り分けて食べる。旨し。
グレン・ミラー・オーケストラ、セロニアス・モンクのレコードを聴きながら、短編小説、宮本輝の「力道山の弟」を読む。
夕方ビール。
夕食は秋刀魚の竜田揚げ、煮物で酒。
「世界の果てまでイッテQ」を見る。イモトと石崎Dとが結婚するとのこと。他人事ながら、よかったね、と思う。
妻と次男とでクリスマスツリーを出す。


我が国の「将棋の殿様」とその仲間、その場その場でいい加減に誤魔化してばかりいるから、全体を見ると、もうむちゃくちゃなことになっている。本気で信じている人、いるのかね。でも、ずっと誤魔化し続けるよ。嘘に嘘を重ねて。「そんなことより大事なことが」とか「他に誰がいるんだ」とか「あっちもやってるぞ」とか、魔法の呪文を御用瓦版屋が唱えだすしな。とんだ「美しい国」だな。

2019年11月21日木曜日

女化神社

ちょっと前に行った、女化神社。牛久市女化にあるが、社域は龍ヶ崎市の飛び地である。
永正6年(1509年)創立。伏見稲荷を詣でた地元の人が稲荷信仰を伝えたのが起源とされる。
その昔は女化ヶ原といわれた原野だった。社伝には次のような伝説が残っている。

根本村(現稲敷市)の忠五郎という青年が、土浦に莚を売りに行った帰り、女化ヶ原で猟師に撃たれそうになった狐を助けた。その晩、旅の若い娘と老人が宿を請う。翌朝、下男の老人が路銀を持って逐電し、哀れに思った忠五郎は、娘を家に置いた。娘は八重と名のった。やがて二人は結ばれ、三人の子どもに恵まれる。ある日、八重が末っ子の添い寝をしていると、子どもたちに尻尾が出ているのを見つけられる。八重は、あの忠五郎に助けられた女化ヶ原の狐の化身だったのだ。正体を見られたのを恥じた八重は、「みどりごの母はと問わば女化の原に泣く泣く伏すと答えよ」と書置きをして姿を消した。
その後、忠五郎の末子の子どもは侍となり、数々の手柄を立てた。これも狐の祖母の御加護だと思い、祖母が隠れたという女化ヶ原の穴の近くに稲荷神社を建立したという。



社殿は平成14年再建のもの。

狛犬は、親子の狐である。
 


奉納額。その昔の女化神社の様子らしい。

こちらは天岩戸伝説でしょう。
 
 

この日は雨でした。

2019年11月17日日曜日

今日の日記

今日の日記。
朝、御飯、味噌汁、ハムステーキ、山椒ちりめん。
息子と市会議員選挙の投票に行く。
帰りに近くの神社にお参りする。


秋晴れ。歩くのは気持ちがいい。




妻は一日仕事。普段は半日のパートタイムだが、9時5時という正社員並みの勤務。
コーヒーを淹れて飲む。
ベニー・グッドマンのレコードを聴きながら、昔、新潮社から出た『アメリカ青春小説特集』を読む。


昼は次男が作った明星チャルメラ。旨し。
ミー太郎は先日、前足に酷い怪我を負ってきた。何者かに噛まれたらしい。それからずっと三本足で歩いている。でも、表には出たがるんだよなあ。
今日も午前中外に遊びに行って、午後からはお休みタイム。


夕食に塩ちゃんこ鍋を作る。
夕食は鍋で燗酒。食後にアイリッシュ・ウィスキーを飲む。

公金を使っての支援者接待。ここへきて、「そんなの大したことじゃない」とか「台風被害者もいるのにそんなことを」とか言う人が出てきた。東大一直線の人も、羞恥心の人も、「将棋の殿様」のお仲間なんだねえ。中には「民主主義で選挙に勝った方の支持者がいい目を見てどこが悪い」と言う人まで現れたよ。よーく見ておこう、我が愛する祖国の姿を。

2019年11月16日土曜日

鹿嶋をちょっとだけ街歩き

鹿嶋に泊まった夕方は、ちょっと街歩き。
神宮の近くをぶらぶらした。










ちゃんと神宮もお参りしましたよ。






閑話休題
「将棋でいえば、もう詰んでいる」と言われているあのお方。でも、落語『将棋の殿様』みたいな人だからなあ。しかも取り巻きたちが必死になって頑張り始めた。ここは皆が殿様を戒める田中三太夫さんにならなきゃ。あんな出鱈目が通っちゃいけないよな。(これまでも随分通ってきちゃったんだけどね)

2019年11月15日金曜日

鹿島神宮

この間、仕事で鹿嶋に泊まった。
朝食を食べて、朝一番で鹿島神宮にお参りした。




創建は神武天皇即位の年。香取神宮と並んで、東国一の歴史を誇る神社である。
『常陸風土記』には、「大化5年(649年)、中臣氏が惣領であった高向の大夫に請願して神の郡を設置した。その地に鎮座する天の大神の社、坂戸の社、沼尾の社の三社を合わせて香島(かしま)の大神と申し上げる」という記述がある。

突き当りは坂戸神社、沼尾神社の遙拝所である。
まず最初に高房社にお参りするのが決まりなのだという。

手前が高房社。武甕槌大神の東国平定に貢献した建葉槌神をお祀りしている。
後方は仮殿。現本殿が出来上がるまで神様を遷すために造営された。
拝殿にお参りする。本殿・拝殿を含む社殿は1619年、徳川二代将軍秀忠によって寄進された。



きれいに掃き清められた奥参道を歩く。


奥参道途中に鹿園がある。江戸時代にはここに神宮寺という寺院があった。


奥宮にお参り。この社殿は徳川家康が寄進したものである。


ここから左に行くと御手洗の池。右へ行くと要石がある。



鎌倉時代以前は、御手洗の池辺りまで入江になっていて、参拝者はここまで船でやって来た。御手洗の池で身を清めてから参拝するのが習わしだったという。


この先に船着き場があったのだろう。
震災で鳥居が倒壊し、いまだに再建されていない。
御手洗の池から坂を上ると奥宮に出る。


そこから、さらに真っ直ぐ奥に進むと要石がある。

要石に行く途中にある、大鯰を抑える武甕槌大神像。

要石。地中には巨大な岩があり、言い伝えでは千葉県の香取神宮まで及んでいるらしい。
この御手洗の池から奥宮、要石へと続くコースが古代の鹿島神宮の社域だった、という説がある。
鎌倉時代、土地の隆起によって御手洗の池への入江が航行できなくなり、大船津から行くことになった。そこに西の一之鳥居が作られた。


以後、現在の参拝ルートが確立され、楼門とか社殿とかが整備されたのではないか。
位置関係は、境内の案内図の通りである。T字の形になっているのは、そのような経緯からだったと考えると納得がいく。



2019年11月12日火曜日

1999年の行方市麻生

行方市麻生の20年前の写真を見つけたので、載せます。





当時はフィルムだったので、あんまりばーしばし撮っていない。4枚しかなかったか。

行方市は、いずれも行方郡の麻生町・玉造町・北浦町の3つが合併した。
中でも麻生は江戸時代、新庄家が治めた麻生藩一万石の陣屋があり、警察署や水戸地裁の支部、旧制中学だった高校などもあり、行方郡の中核をなす町であった。
冬になると公民館や商店街でイルミネーションフェスティバルが開催されるという。機会があったら、見に行こうかねえ。