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2011年9月25日日曜日

柳家さん助死去

柳家さん助死去。享年85歳。
人間国宝、五代目柳家小さんの二番弟子。
もう随分寄席では見ていない。2006年から落語協会の相談役に就任していたらしい。
私が大学の頃は、寄席に行けば必ずといっていいほど出ていた。
「盛大なる拍手をばさばさばさっと頂戴しまして…」というのがマクラの決まり文句だった。
よく聴いたのは『無精床』『長短』といった小さん譲りのネタだったが、あの頃からオールドタイマーのような雰囲気があった。
さん助といえば丁髷。それもお相撲さんのような丁髷ではない。きちんと月代を剃った本格的なものだった。だが、私が寄席に通い出してすぐの頃にはやめていたな。手入れがものすごく大変だとのことだった。そりゃあそうだ。月代を毎日剃る手間もそうだし、刷毛先を油で固めるのも面倒そうだ。
丁髷をやめたさん助は、出の時の客のどよめきもなくなり、まあ普通の噺家になった。噺も特に面白かったわけではない。私自身、丁髷をしていてもやめたからといっても、別に好きな噺家ではなかった。
でも、変に懐かしい。何だかあの頃の寄席というと、さん助とか馬楽とかを思い出す。あの頃好きじゃなかった落語家を、今聴いてみると悪くなかったと思い直すことが、けっこうある。さん助の場合、そう思える前に寄席に出なくなってしまったのが残念だ。
柳家さん助師匠の冥福を祈る。彼も、私の青春時代を体現する落語家の一人であったことに間違いはないのである。

2011年9月24日土曜日

とちぎわんぱく公園で遊ぶ


今日は墓参りをしてから、栃木県壬生町にある「とちぎわんぱく公園」に行く。
妻が退院してから、初の遠出だ。
次男が幼稚園の時の遠足で行った所。「僕が案内するんだ」と、昨日から張り切っていた。
駐車場はいっぱいだったが、敷地が広いせいか混雑している感じではない。
入場無料。その中に有料施設や体験施設が点在している。
まずは有料施設、ふしぎの船に入る。入場料を取るといっても、大人200円、こども100円だ。船形の建物の中に、ちょっとしたアトラクションやらトリックアートやらがある。前回もここで遊んだ次男が、得意気に案内してくれる。
その後、外の遊具で遊ばせながら、みどりの丘に移動。芝生で弁当を食べる。
すっきりとした秋晴れ。日差しは強いが、空気は爽やか。気持ちいい。
アスレチックで遊び、シメはこどもの城。いっぱい遊んだなあ。今度はボールとか持って行ってキャッチボールなんかしてもいい。
家から2時間足らずで行ける。お金もそんなに使わなくて済むし、けっこう使えるな。また行きましょう。

2011年9月21日水曜日

台風15号直撃


台風15号が接近する中、外回りの仕事。
外回りったって、札束をふんだんに鞄に詰めて、きれいどころを2、3人も連れて、世界各国の温泉を回ってラジウムを発見するというのでもなければ、普請場行って木っ屑を貰ってくるわけでもない。
時折、激しい雨が降る。風も強くなってきた。北浦大橋を渡ったが、湖面は荒波が立っている。
昔、台風の暴風雨の中、車で波崎の町を走ったことを思い出す。あの時聴いたビリー・ホリデイはよかった。
潮来で仕事を済ませて帰る。日の出地区を通る。震災で液状化の被害がひどかった所だ。現在も、道はでこぼこ、電柱は傾いていたままだ。低い所では水が溜まっている。浸水などの被害が出なければいいのだが。
夜には一段と雨風が強くなった。二階にいると、強風で家が揺れているのが分かる。地震で家が弱っているのではないかと不安になる。
妻は台風が近づいて気圧が低くなると喘息の発作が起きる。昨日から苦しくなってきたという。今夜は薬を飲んで早めに床に就いた。
今はどうやら峠は越えた。台風は東北地方の太平洋岸を北上している模様。震災の被災地でも被害が出ているらしい。心が痛む。
写真は台風の潮来市。ちょっと凄まじい光景だ。

2011年9月18日日曜日

石岡のおまつり2011


石岡のおまつりに行ってきた。
明日の天気が悪いみたいなので、ちょっと無理な日程だったが、妻子を連れて見物してきた。
同じように考えた人が多いせいか、凄い人出だった。
車で行ったのだが、市営駐車場に停めるのに、40分ぐらいかかったかなあ。
八間道路を歩いていたら、地元の人によく出くわした。皆、バスとか電車を利用しているみたい。そっちの方が賢明かも。
子どもたちは相変わらず屋台の方に夢中。長男は、やたらとくじ引きをやりたがる。博打が好きなのか。困ったなあ。
帰りに裏通りを歩いていたら、長男が「お父さん、こんな所写真撮りたいでしょ。」と、古い店舗を指さして言った。「よく分かるな。」と言うと、「古いお店とか、木造建築、好きだもんね。」と答えた。子どもは怖いな、よく見てるよ。
帰ってから、屋台で買ってきた、たこ焼き、焼きそば、揚げ餅で、まずはビール。暑かったから、これが旨いこと旨いこと。
写真は、土橋町の獅子。石岡の獅子の中では最高峰だ。写真の方はその格調の高さを、十分に伝えられていないのが残念だが…。

2011年9月17日土曜日

運動会


今日は息子二人の小学校の運動会。
妻が本調子でないので、親子競技はフル出場だった。
厳しい残暑の中、3種目出た。
特に午後の連チャンはつらかったなあ。
子どもたちはよく頑張っていた。私も楽しいっちゃあ楽しかったです。
何とか一大イベントが終わったよ。
家に帰ってきて飲んだ、きんきんに冷えたコーラが旨かったなあ。
シャワーを浴びた後のビールも旨かったけど…。

2011年9月15日木曜日

最近の日常


妻の退院その後。
手術で味覚神経をいじられて、味覚障害が起きている。舌の右半分の感覚がまるでないという。味覚は完全に失われたわけではないが、何を食べても本来の味がしないらしい。
聴力は以前よりも後退しているとのこと。加えて、耳の不快感が残っている。
そりゃあ、あれだけ脳に近いところをほじくったのだから、すっきり快復というわけにはいかないのは分かる。でも、本人としては、あれだけきつい思いをして、以前より確実によくない状態になっているのだから、釈然としないよなあ。
端で見ててもつらそうで気の毒だ。まあ決定的に悪くなるのを防ぐ手術だったのだ。その意味では仕方のないことなんだよな。
でも、本人はつらいよね。私はそのつらさに寄り添うことしかできない。それがもどかしい。
色々なことが思い通りにはならない、ま、それが人生だ。粘り強く、ちょっとずつ、状況をこっち側に持ってくるよ。
写真は、石岡のすがや化粧品店。石岡には昭和初期の看板建築がけっこう残っている。その中でも、代表的なものの一つ。美しい。

2011年9月13日火曜日

東京庵


石岡市、東京庵。老舗の蕎麦屋だ。昭和初期の建築。渋いよねえ。
祖母が川並病院によく入院した。見舞いの帰りに、ここで天ぷら蕎麦を食べた。
旨かったなあ。
昔は市販の「そばつゆ」なんかなくて、家で蕎麦を食べるとなると、雑煮のつゆとか吸い物みたいなつゆで食べたものだ。それに比べて、蕎麦屋の本職が作るつゆは、衝撃的に旨かった。
前にも書いたが、石岡散歩では、東京庵の盛り蕎麦と朝日屋のラーメンを、はしごして食べるのが楽しみだった。そして、その後は丁字屋でコーヒーを飲むというのが、黄金パターンだった。
東京庵の盛り蕎麦は、せいろで出てこない。丼に似た特製の瀬戸物の器に入ってくる。中にはドーナツ型の、やはり瀬戸物の水切りがあって、その上に蕎麦が載っているのである。一見の価値はあると思う。
丼ものは、天丼、親子丼、玉子丼。カツ丼はない。つまり、全て蕎麦種で出来るものなのだ。見事なラインナップと言っていい。
食は総合芸術。店の佇まい、店内の雰囲気、黒光りした柱の一本一本を鑑賞しつつ、昔ながらの蕎麦を味わって頂きたい。いいよお。

大福さん、妻も何とか頑張っています。彼女さんのご快癒をお祈り申し上げます。

2011年9月10日土曜日

校外の活動

前に校内寄席のことを書いたが、今度は校外での活動について話そうと思う。
大福さんも書いていたが、うちの落研では定期的に新宿で寄席をやっていた。(それより前は高田の馬場のビッグボックスでやっていた。)
これは初代の風柳さんが持ってきた仕事だった。最初はサブナードで単独で、その後、西口センタービルのNCホールで何校か合同でやった。うちの他に、東海とか國學院とか日大とか国士舘、青学、東洋といったラインナップだった。
この高座は好きだった。私はどちらかというと部員の前よりも、一般客の前で演じる方が好きだったし、他の学校の人たちとの共演というのもいい刺激になった。
頭下位亭切奴時代の春風亭昇太さんの『昭和任侠伝』を聴いて、ひっくり返って笑った。芸術協会の中堅真打、三遊亭遊吉さんが國學院の落研時代、『禁酒番屋』を演ったのを聴いて「うめえなあ」と思った。国士舘の部員と仲良くなって、通学途中、南武線の電車の中で、「僕も『豆屋』の稽古を始めました。」なんて声を掛けられたこともある。
NCホールの時は司会がついた。大福さんが書いていたとおり、ペコちゃんのオオタスセリさんだった。(その頃はペコちゃんでもない「太田寸世里」だった。)これも初代風柳さんの紹介だったと思う。着物で、本当に背が高かった。私が『猫の災難』を演じて、真っ赤な顔をして高座を下りてきた時、「ほんとに飲んでるの?」と言われたのを覚えている。(確かに二日酔いの気味だった。)そうか、大福さん、彼女におでん奢ってもらったのか、下戸なのにずるいぞ。
変わったところでは、お座敷がかかったことがある。これは川崎の議員さんが、支持者を集めた宴会で落語を演ってくれと言ってきた。当時私は4年で、この会のトリをとった。何しろ宴会の席だ。古今亭志ん生でさえ、巨人軍の優勝祝賀会のパーティーの余興に呼ばれ、聴いてもらえなくて頭に血が上り、脳卒中で倒れたのだ。予想通り、飲み食いが始まると、見事に誰も聴いてくれない。五里ん君の『日和違い』、風公君の得意ネタ『蜘蛛駕籠』も通じなかった。
私は覚えたばかりの『鰻の幇間』をやるつもりだったが、やめた。『豆屋』をがんがん演って下りちゃおう、と決めた。ところが、私が上がる前、司会の人が「学生さんが一生懸命やってくれているのだから」と言って、席を静めてくれた。これがラッキーだったね。つかみの一言がちょっと受けて、関心がこっちへ向いてくれた。丁寧に売り声の枕を振っていくと、手応えがある。視界の端に、酌に回ろうとする人を隣の人が制しているのが見えた。しめた、最後まで行ける。後は一気にサゲまでもっていけた。
噺の後は、宴会に混じってご馳走になった。余った料理も折に詰めて持たせてくれた。
川崎のアパートに後輩を連れて行って、飲み直したが、この時は気持ちよかったなあ。文楽は噺の出来がよかった時は「終わり初物ですよ」と言って機嫌良く飲んだというが、(文楽師匠と一緒にするのはもったいないことだが)この時はそんな気分をちょっとだけ味わわせてもらいました。大切な思い出です。

2011年9月7日水曜日

朝日屋


朝日屋。石岡を代表するラーメンの名店だったが、6月いっぱいで閉店となった。震災の影響が大きかったという。
石岡散歩の昼食は、東京庵のもりそばと朝日屋のラーメンをはしご、というのが楽しみだった。
まず、店構えがいいでしょ。まさに昭和レトロ。絵になるよねえ。
暖簾をくぐるとカウンターとテーブル席があって、15人も入ればいっぱいになってしまう。休日には、店の外で順番を待つ客がいたものだ。
メニューは基本的にラーメンとタンメンの2種類。それぞれの豪華版がチャーシュー麺と特製タンメンといった具合だ。この他に餃子とチャーハンがお品書きにあったが、夜限定だったのだろうか、食べている客を見たことがない。
ラーメンは、ナルト、チャーシュー、シナチク、ホウレン草などが載る、昔ながらの醤油味。タンメンは塩味のスープ、豚の細切れと野菜をたっぷり炒めて載せてある。ラー油をちょっと入れながら食うと旨いのよ。
醤油ラーメンもタンメンも、土浦イオンのフードコートの幸楽苑で、そこそこのが食えますよ。でもねえ、朝日屋のラーメンやタンメンは特別なのだ。
食というのは総合芸術である、と私は常々主張している。そう、あの朝日屋の空間で食べるからこそ、あのラーメンは、タンメンは、感動を与えてくれるのだ。
これぞラーメン丼ともいうべき器、油のしみのついたお品書き、調度、店内の佇まい、目の前で静かに繰り返される親父さんの所作、湯気を立てて供される昔ながらのラーメン、何一つ鑑賞に値しないものはない。しかも、どれも一朝一夕に出来上がったものではない。この雰囲気を生み出すためには、何十年という年月の積み重ねが必要だったのだ。本当にかけがえのない店だったな。
いつかはこういう日が来るとは思っていたが、それがこんなに急に来るとは思っていなかった。たきの井食堂といい、震災は、こんなささやかな楽しみまで奪って行ったんだなあ。
親父さん、長い間、旨いラーメンをありがとう。お疲れ様でした。残念です。

2011年9月4日日曜日

今度は、石岡を、ちょっとだけ歩く


朝のうちに、昨日雨で中断した稲刈りを手伝う。割と早く終わった。
妻子を連れ、土浦イオンへ買い物に行く。
昼食はリンガーハットの皿うどん。次男の靴を買う。
家へ帰り、親子4人でゲームを1回だけ。
その後、ちょっと私だけ抜け出し、石岡を散歩。
やはり、震災の傷跡が随所に見られる。
「憧れの鰻屋」という記事の中で紹介した「弁天屋」がなくなっていた。店先にあった鰻を掴んでいる狸の置物だけが、空き地にぽつんとあった。寂しいなあ。
ラーメンの名店、朝日屋も閉店していたし(朝日屋については、後日書きます)、楽しかった町歩きが、震災からこっち、つらくなってきたよ。

写真は弁天屋の鰻狸。きちんとサンダル履いていたのね。