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2011年8月31日水曜日

初代林家三平

初代林家三平。言わずと知れた昭和の爆笑王である。
しかし、子どもの頃、この人の落語でひっくり返って笑った覚えがない。
私は田舎者なので、落語を聴くのはテレビかラジオでしかなかった。もちろん、三平は大スターだったから、聴く機会は多かった。ただ、内容がなあ。正月番組で演った小咄が、「坊さんが二人通るよ、和尚がツー」とか「車が衝突したよ、ガンターン」だもんなあ。子ども心にくだらねえなあと思ったよ。客席のおばちゃんのげらげら笑いに、そんなに面白いか?と心の中で突っ込んでいた。(ごめんね、嫌なガキだったんだ。)
その三平が脳溢血で倒れ、過酷なリハビリの末、寄席に復帰したのが、私が大学に入った年の秋だった。新宿末廣亭でトリを務めた高座を、落研の仲間で観に行った。私はそれほど乗り気ではなかった。(何しろ嫌なガキだったからね。)それでも、4年生の二代目紫雀さんが「絶対観ておいた方が良い」というようなことを言ってくれた。金原亭馬生の熱烈なファンで、古今亭志ん朝ばりの鮮やかな口調を聴かせてくれる紫雀さんがこう言うのだ。行ってみようという気になった。
この時、三平は『源氏物語』を落語化し、新境地を開く、と公言していた。もちろん、誰も本気にしていない。事実、「いづれの御時にか」を繰り返すばかりで、内容はいつもの三平だった。
でもねえ、これが面白かったのよ。入ってきた客に「そろそろお見えになるんじゃないかと思っていたところなんすよ」なんていう客いじりで、私はひっくり返って笑った。生の三平は、放送の三平とは違った。三平の必死のサービスが直接伝わってくる。三平の、人柄の良さが、誠実さがストレートに人の心を揺さぶるのだ。
あの、安藤鶴夫も「三平は生で聴くべきだ」というようなことを書いているが、まさにその通り。三平の生の高座を観て、私も、そうだ、感動したのだ。
病後のことだ。迫力は全盛期に及ばない。三平の目はとろんとして、生き生きしたところがなかった。復帰興行ということで、好意的な笑いもあったろう。でも、それでも、この日の三平は、掛け値なしに面白かった。全盛期なら果たしてどれほどだったか。三平恐るべし、である。
しかし、その後は精彩を欠いた。本来の迫力、テンポを失った三平から、爆笑は遠のいていった。そんな折、弟弟子の月の家圓鏡(現橘家圓蔵)がめきめきと評価を上げていく。三平の高座が、結局のところ小咄の羅列であるのに対し、圓鏡は破天荒ながらストーリーのある落語を語ることができるという強みがあった。圓鏡は、四天王として、古今亭志ん朝・立川談志・三遊亭圓楽と肩を並べるまでになった。
復帰の翌年、三平の師匠、七代目橘家圓蔵が死んだ。葬儀委員長は惣領弟子の三平が務めた。圓蔵師匠は、私の所属していた落研の技術顧問をされていたので、私たちも葬儀の手伝いに行った。葬儀の終わりに挨拶に立った三平の、目が死んでいた。そのことだけ、私は強烈に覚えている。
その年の秋、林家三平死す。癌だった。
三平のことについて、書かれたものでは色川武大の『林家三平の苦渋』(『寄席放浪記』に収録)、録音では立川談志の『三平さんの思いで』(『席亭立川談志のゆめの寄席』に収録)が双璧。是非、読んで聴いて欲しい。

2011年8月27日土曜日

妻の退院


妻が退院した。
午前中、子どもたちを連れて迎えに行く。
長男は、妻の入院中、こっそり泣いていたという。それを聞いた次男は、「僕は1回も泣かなかった」と言ったが、昨日は「明日が超楽しみだよ」と盛んに言っていた。
土曜日ということで、事務手続きは一切なし。ナースセンターに声を掛けて、そのまま帰る。
昼食は牛久の千成亭。ここは、味噌ラーメン(店のメニューではサッポロラーメンという)が、絶品。具はもやしと挽肉。にんにくと七味のパンチが効いたスープが旨い。子どもたちは醤油ラーメンを完食。写真を撮ればよかったのだが、気づいたときにはもう食べ終えていたよ。
とりあえず、妻は実家で1泊。妻の実家で夕食を食べ、次男を置いて、長男と家に帰る。(明日、私と長男は小学校の奉仕作業に出なければならないのだ。)
色々あったが、何とか一区切りついた。まだまだ快復するまで時間はかかるだろうが、協力してやっていこうよね。

2011年8月22日月曜日

上野「蓬莱閣」のCランチ


先月の末、上野へ行った時の昼食。
北京料理、蓬莱閣のCランチ。
とりそば、蟹春巻、杏仁豆腐。
とりそばは塩味のスープ、野菜はセロリが中心。
私はセロリが苦手なので、失敗したかなあと思ったのだが、これがなかなか爽やかなお味。
1260円と値段もお手頃。メニューも豊富で、客もよく入っていた。
今度妻子を連れて来てもいいなあ。


2011年8月21日日曜日

吾妻庵総本店


中城通りにある吾妻庵総本店。
いい風情でしょ。
何でか知らんが、『世界でいちばん○○なタテモノ』という本のP45「町屋(江戸時代)」のイラストで登場している。
10年ほど前、火事で半焼し、元通りの形で再建した。
老舗の蕎麦屋。木田余とつくばに支店がある。
私たちは、家から近い方の木田余店に行くことが多い。
妻は、夏は冷やしたぬきそば、冬はあんかけそばがお気に入り。私の方は、鴨汁つけそば、天盛り。おろしそばも旨い。ここの海老天は、以前、コロモに小海老をまぜて揚げていた。いい工夫だと思っていたのだが、ちょっと前に行ったら、やってなかった。この頃は行ってないから、どうなっているかなあ。復活しているといいけど。
小さい子どもがいると、どうしてもこういう店は足が遠のく。残念だ。
いつか、夕方ふらりと入って、酒でも飲みながら、といきたいもんです。

2011年8月20日土曜日

土浦を、ちょっとだけ歩いた


ちょいと前のことだが、ミニを車検に出した帰り、土浦に寄った。
震災からこっち、土浦の街を歩いたことがなかったのだ。
いつもの「まちかど蔵」の駐車場に、代車のボルボ(ヴォルヴォと表記した方がいいのかな)を止め、中城通りをちょっとだけ、歩いてみた。
お気に入りの喫茶店「蔵」は営業していない。向かいの矢口酒店は瓦が落ち、壁には亀裂が走っていた。
やはり、震災以降の街歩きは心が痛む。私の好きな古い建物が、けっこう被害を受けているのだ。
小一時間歩いて、矢口酒店の自販機で、缶コーヒーを買って帰る。
写真は、私の大好きな矢口酒店。勝手な願いかもしれないが、何とか修復して欲しいなあ。

2011年8月18日木曜日

森まゆみ『断髪のモダンガール』

「新生」の明治と「破滅と再生」の昭和とに挟まれた大正という時代は、いささか影が薄く感じられる。実際、明治の45年、昭和の64年に対し、大正は15年と短いしね。
でも、この本を読むと、その大正という時代が鮮やかな光芒を放つ。
大正を彩った女性たちの列伝だ。それは、望月百合子を始めとして、与謝野晶子、平塚らいてう、宇野千代など42人に及ぶ。
大正デモクラシー、自由と平等、女性解放。旧態然とした社会の中で、彼女たちは闘った。闘うために、女の命と言われた髪を切った。
ある者は文学に芸術に、ある者は社会運動に革命に、そして恋愛に、命をかけ生きた。
それを、筆者は彼女たちに寄り添い、丹念に紹介する。その自由さ、奔放さ、真摯さに、読む者は圧倒される。
この本を読んでいて、私はあることに気がついた。彼女たちは、私の祖母と同世代の人たちだったのである。
私の祖母は明治30年に生まれ、大正12年頃、最初の結婚をして浅草に住んだ。関東大震災を経験し、その後離婚して田舎に帰って、昭和10年代に、私の祖父と再婚した。祖母は私を溺愛し、私も祖母が大好きだったが、血のつながりはない。
「断髪のモダンガール」たちが、自由のために闘い、恋に生きていたその同じ空間に、祖母もいたのだ。東京の片隅で、何を生業としていたかは知らないが、決して裕福な暮らしをしていたわけではあるまい。数年で結婚生活が破綻したところをみると、平穏で幸福な毎日とは言えなかったと思う。実直で働き者の祖母は、きっと自由も解放も知らず、懸命に働いていたのだろう。
そして、その祖母が住んでいた目と鼻の先にある吉原遊郭では、『吉原花魁日記』の森光子に象徴される、貧窮故に身を売った女性たちがこの世の地獄を味わっていたのだ。
大正というのは過剰な時代だったのだと、つくづく思う。
この本には、取り上げられた全ての女性たちの写真が掲載されている。美しい人は美しく、それなりな人はそれなりに写っているが、美醜なんて関係ないな。皆、激しく生きたことが形に表れている。
ついでに言えば、この42人は何らかの形でお互いが関わり合っている。まあそれだけ狭い世界だったということかもしれない。巻末の相関図が楽しい。

大福さん、コメントありがとうございました。妻の方は術後の経過も順調です。うまくいけば、来週末には退院できそうです。そちらの方こそ、お大事にしてください。

2011年8月17日水曜日

妻の入院、そして手術


妻が入院した。耳の奥に真珠腫というのができたので、それを切除するために手術をすることになったのだ。全身麻酔で2時間かかるという。
妻を病院へ送る。入院手続きと診察などで午前中いっぱいかかった。
手術は明日だ。妻も不安でいっぱいだという。
幸い、医師や看護師の皆さんは、どなたも親切だ。ここは皆さんにお任せするしかない。
留守は守る。

と、ここまで、昨日書いた。

で、今日はいよいよ手術の日だった。
手術室に入ってから、出てくるまで、3時間半かかったな。
術後の、酸素マスクやら点滴やら、色んな管をつけられた妻が可哀想で見ていられなかった。
それほど重篤でもない病気の、それほど困難でもない手術だったが、妻にとっても、家族にとっても、これはこれでヘビーな出来事だったよ。
子どもたちも何とか頑張っている。私もしっかりやらないとなあ。

2011年8月13日土曜日

『桂小文治落語集 第3集』

小文治さんからDVDを頂いた。
今回の演目は『片棒』『虱茶屋』『文七元結』の3本である。
『片棒』は、吝嗇な旦那が息子たちに「自分が死んだらどのような葬式を出してくれるのか」と聞く噺。長男は大勢の人を呼び豪勢な料理を出す贅を尽くした葬式、次男はお祭り騒ぎで送り出そうという趣向、当然旦那は立腹するが、三男の提案を聞いて…といった内容だ。
聞かせ所は、次男の祭囃子の描写だろう。小文治さんは音感がいい。祭り囃子のリズム、メロディーが心地よい。それから、何と言っても、山車の上の旦那の人形が動く場面での仕草。見事な人形振りだ。素晴らしい。長年修業した踊りが、ここでも売り物になっている。
『虱茶屋』は、私としては、小文治さんの持ちネタの中でも一押しの噺である。悪戯好きな旦那が、お座敷で芸者や幇間の襟首からこっそり虱を入れる。痒みにもだえる彼らの様子が見せ場だ。特に幇間が踊る場面は最高に面白い。踊りで鍛えられた所作が美しい。
トリを飾るのは『文七元結』。このDVDの目玉だな。大分前、小文治さんが水戸の県民文化センターでこの噺をかけた。あいにくその時は行けなかったのだが、このDVDで観ることができた。
前作の『芝浜』でも感じたことだが、小文治さんの程の良さがいい。きちんと笑いを取りながら丁寧に演じていく。大仰な感動巨編ではなく、あくまで落語として聴かせてくれるのだ。娘お久を長兵衛の連れ子で、おかみさんの実の子ではないという設定。そうだな、この方が、お久の健気さが際立つ。文七に金をやる場面の所作が、またいい。どこか古今亭志ん朝を彷彿とさせる。噺の出所は三遊亭遊三とのこと。ただ、住吉踊りで長年の間志ん朝の一座に参加していた小文治さんだ。志ん朝から受けた影響も決して小さくはないと思う。
こうして、先輩の活躍に触れることができるのは嬉しいことだ。芸術協会内でも小文治さんは、持ち前のリーダーシップを発揮しつつあるようである。健康に留意され、ますますご活躍されることを祈りたい。

2011年8月11日木曜日

大喜利の話

今日は小文治さんのDVDの感想をアップしようと思っていたが、大福さんのブログを読んで、大喜利の話にすることにした。
うちの落研では、夏休み前の校内寄席は「ファミリー寄席」と称して大喜利をやった。
私も2年の時大喜利メンバーに選ばれて出演したのだが、この時は皆不調でなかなか答えがでない。同輩の弥っ太君など、指名されても「今考え中です」なんという、まるで小学校の学級会みたいな返答をしていた。
奮闘していたのは、茨城の星、我らが先輩歌ん朝さんだった。月の家圓鏡(現八代目橘家圓蔵)のごとくスピード感あふれるアドリブを連発し、何とか客席は盛り上がりを見せた。
最後のお題は「あの人にこの歌を」。歌ん朝さんは下ネタで繋いでくれる。この流れなら行けるかなと思い、今まで控えていたネタで勝負することにした。
「一つの卵に向かって懸命に泳ぐ、無数のおたまじゃくしに捧げます。」
こう言うと、司会の風来坊さんが、「お前、大丈夫か?」といった顔で「その歌は?」
「ゼリーがライバル。」(元ネタは石野真子の「ジュリーがライバル」である。)
これがウケたのだ。今書いてみると、どこが面白いんだという話だが(元ネタ自体、知っている人は少ないだろう)、この時はウケたのだ。思いっ切り、張り扇で後頭部をやられたけど、気持ちよかったなあ。
翌日、体育の授業に出たら、見に来てくれたのか、国文学科の知り合いが、「伝助、昨日面白かったぞ。」と言ってくれた。その日のソフトボールの時間中は、密かに「ゼリーがライバル」が流行語になったのだった。

大福さん、本当に人生は思い通りにならないなあ。軽々しく言えないけど、大福さんと彼女さんの幸福を祈っている男が、そこから30㎞付近にいるということだけ、知っていて欲しいな。

2011年8月8日月曜日

浅草へも行って来た


前回の続き。
東京タワーを出たのは、2時過ぎだった。首都高を箱崎方面に進んでいたが、このまま帰るのはちと惜しい。
そこで浅草に行くことにする。浅草も子どもたちは初めてだ。
首都高を駒形で下りる。駒形橋を渡り、馬道から観音様の裏っ手をぐるっと回って、花屋敷通り近くの駐車場に入れる。
花屋敷通りから観音様へ。花屋敷通り、きれいになったなあ。
観音様をお参り。休みとあって人が多い。子どもたちはおみくじを引く。長男が凶を引いた。私も昔引いたことがあるぞ。
次男は歩き疲れたというので、妻と藤棚の下で休憩。長男と私は仲見世をぶらぶら雷門まで歩く。色々な店があって面白かったようだ。浴衣を着たカップルがけっこういたなあ。
妻の好物、揚げ饅頭を買う。こしあん、クリーム、いも、もんじゃを1個ずつ。
藤棚の所に戻ったら、次男が大喜びで鳩を追いかけていた。ジュースを飲んで帰ることにする。
花屋敷通りを戻る。途中、パントマイム師が全身真っ白にして「人間彫刻」のパフォーマンスをしていた。微動だにしない。足下に100円入れてくださいといった体で箱が置いてある。こういうのの大好きな長男は素通りできない。親が止めるのも聞かず、100円玉を入れると、「人間彫刻」がやおらガッツポーズをし、Vサインをしてみせた。兄弟2人で一緒に写真を撮ってやる。側にいた観客バカウケ。立て続けにもう200円入った。うちの長男、こういう空気を作るのが得意だなあ。いったい誰に似たんだ。(俺じゃないぞ。)
それから、車に乗り込み、鷲神社の脇を通って白髭橋に回り、堤通から首都高に乗った。
守谷のサービスエリアで揚げ饅頭を食べる。旨かった。もんじゃもなかなかいける。
楽しい休日でした。

2011年8月7日日曜日

東京タワーに上る


震災からこっち、家族で遠出をする機会がなかった。
ふと思い立って、東京タワーに行く。妻と独身時代デートで行って以来だから、17、8年振りぐらいになる。
子どもたちは、もちろん初めてだ。
8時に車で家を出て、ナビちゃんの言うがまま、10時半過ぎに到着。
ポケモンのイベントをやっていて、子どもたちは大喜び。長男は早速ポケモンカードを買い、次男は3DSに夢中。
展望台に上る前に昼食をとる。蕎麦を食べたが、次はフードコートのマックにしようという感じ。
東京の街を眼下に望む、展望台からの眺めは素晴らしい。私は高所恐怖症だが、足下がしっかりしていていれば大丈夫なのだ。売店でスノードームを土産に買う。
展望台とアミューズメントのセット券を買ったので、せっかくだからと鏡の迷路と蝋人形館に入る。
蝋人形館は妖しかったな。マリリン・モンローから毛利衛さんまで、古今東西老若男女の著名人が並ぶ。確かにリアルだが、瓜二つかと言えば微妙なのだ。ジョン・レノンなどは如何なものか。小窓を覗くと、西洋の拷問の様子が展示されていたりして、およそ子ども向けとは言い難い。リッチー・ブラックモアやらフランク・ザッパやらが展示されているロックスターの間もマニアックだ。ガラスケースには趣味で集めました的なグッズが統一感もなく、ぎっしりと並んでいる。ビキニ姿の榊原郁恵やジーパンを脱いでいる宮崎美子のフィギアなんかもあるぞ。すげえなあ。
2度目のポケモンコーナーに行ってから、マザー牧場のソフトクリームを食べる。こちらは大変美味しゅうございました。
車で行くのは不安だったが、行ってみれば行けるもんだ。ナビちゃん頼りに、また色んな所に行ってみよう。

2011年8月5日金曜日

森光子『春駒日記―吉原花魁の日々』

自由廃業した元吉原の花魁、森光子の著作。『吉原花魁日記―光明に芽ぐむ日』に続く第2弾がこれだ。
これも文庫化されたということは、前作の反響がなかなかのものだったということなのだろう。当時としてもそうだったらしい。『光明に芽ぐむ日』の刊行が1926年12月。そして、この『春駒日記』が翌1927年10月に出た。その『春駒日記』に、『光明に芽ぐむ日』に先立って、1926年7月に婦人雑誌に掲載された手記、「廓を脱出して白蓮夫人に救わるるまで」を収録したのが、本書である。
『光明に芽ぐむ日』が、リアルタイムで書かれた日記であるのに対し、本書は吉原逃亡後自由な身になってからの回想。前作がぎらぎらとした憎しみに満ちているのに比べ、少し距離感がある。回想録、随想といった趣だ。(さすがに「廓を脱出して…」の方は逃亡直後のものだけに、憎悪剥き出しで迫力満点だなあ。)
中心として描かれるのは、花魁の日常、客との交流。大正末期の吉原を、そこで働く女性の立場から見た、第一級の資料だろう。文楽や志ん生が親しんだ吉原はこういう所だったのだな。しかし、ただ単に資料と見るには、あまりに内容が悲惨だ。いかにあの里の情緒を男が懐かしんだとしても、勤めの身にとって男は、女の肉を貪り食う獣でしかない。(そう考えると、『三枚起請』の喜瀬川の「朝寝がしたいんだよ」という台詞は哀れだ。)
著者、森光子はもともと文学少女だった。文章にもそういう匂いが濃い。そんな彼女が、毎日毎日体を売って暮らすのだ。そりゃあ、地獄のような日々だったろう。
この本では、当時の新聞記事も収められている。見出しを見るだけで、人々に衝撃をもって迎えられた事件だったことが分かる。
解説では、光子のその後について、少しだが明らかにされている。結婚の相手は、外務省の官吏、西村哲太郎。彼女の客だったらしい。西村は光子逃亡に手を貸したために外務省をクビになった。その後、西村は社会運動のつもりで自由廃業の手引きをして、吉原の暴力団に追いかけられていたという。戦後は茨城2区から衆議院議員に立候補して落選した。茨城に縁のある人だったんだな。光子自身の生涯については、詳しくは分かっていないが、このような男の妻として生きたわけだ。弱き者、虐げられた者に対して、彼女もまた無関心ではいられなかったのだと思う。

2011年8月2日火曜日

鈴本演芸場 7月余一会 昼の部


入った時は、前座の途中だった。場内はほぼ満席。この日は余一会で、昼の部は「納涼鈴本特選落語会」という特別番組。顔ぶれも悪くないもんなあ。
春風亭朝呂久、一朝の弟子。ネタは『金明竹』。前座さんらしくない。達者だねえ。
二つ目は三遊亭天どん。枕で芸名に対する嘆きを一くさり。(そういえば落研には牛丼がいたなあ。)『垂乳根』を演るが、そこは圓丈門下、一筋縄ではいかない。言葉が馬鹿丁寧なお嫁さんが、ハーフという設定。例の言い立てに英語が混じる。余計訳分かんない。大ウケ。
和楽社中の大神楽。この日は女の子が一人入る構成。
隅田川馬石の『狸札』が続く。
お次は、三遊亭白鳥が『スーパー寿限無』を披露する。師圓丈の『新寿限無』は元素などの名前を入れたものだが、この『スーパー寿限無』は、ひたすら駄洒落。「ジュテーム、ジュテーム」から「圓朝師匠超すげえ」まで、ひたすら馬鹿馬鹿しくっていい。改めて思ったのだが、白鳥は話芸も達者なのな。だから、面白いんだ。
柳家小菊の粋曲。学生の時は退屈な時間だったが、年を取ってみるといいもんだ。暫し江戸情緒に浸る。
仲トリは柳家権太楼。十八番の『代書屋』で満場の爆笑を誘う。桂枝雀のDNAを感じるが、もはやあれは権太楼ワールドだよなあ。
クイツキは、昭和のいる・こいる。この日はよく歌った。偉そうに見えないが、まさに東京漫才の雄だ。
ここで古今亭菊之丞が登場。未来の名人候補だな。この人と柳家三三、桃月庵白酒を加えた三人が、若手真打ちの三羽烏なのではないか。本格派の三三、才気の白酒に対し、菊之丞は妖しい色気かな。ネタは『紙入れ』。この人ぴったりの噺だ。喝采を浴びて高座を下りる菊之丞の腰に煙草入れが揺れているのを見た。古風だなあ。八代目文楽や三代目三木助みたいだ。菊之丞の、明治生まれの名人たちへの素直なオマージュを感じる。
膝代わりは林家正楽の紙切り。注文がすごい。あっという間に4つ。それでもう持ち時間はいっぱい。大須演芸場の大東両なんか、自分から客に聞いてたぞ。(私はイチローを切ってもらった。これがまた、けっこう時間がかかったのよ。)意外に「招き猫」が難物だったようだ。私も注文したかったが、舌がつって声をかけられなかったよ。(って『火焔太鼓』の甚兵衛さんか。)
トリは三遊亭金馬。膝が痛いのか、釈台を前に置いての高座だ。今年82歳だそうだが、元気だなあ。圓歌とか金馬なんていったところが元気だということに幸福を感じるな。
学生の頃は、この人の軽演劇的な感じやホームドラマのような感じが、生温くって苦手だったが、間違っていた。今の落語界に欠くことの出来ない存在だな。金馬の『七草』を聴くと、本当に正月が来たという気になる。口調や勢いに頼らない芸は、なかなか衰えないものなんだなあ。
ネタは『唐茄子屋政談』。何となくこの噺が聴きたかったので、嬉しかった。本所の叔父さんがいいねえ。吉原田圃での売り声の稽古の場面はカット。この辺の判断は見事だ。あの場面は金馬の芸風には合わないと思うし、カットしたことで噺も引き締まった。
たっぷりと落語を楽しめた。満足、満足である。

2011年8月1日月曜日

上野に行く


久し振りに東京へ行く。
上野駅公園口から上野のお山を歩く。
けっこうな人出。皆、芸術が好きなんだな。
国立科学博物館は子ども連れで行列が出来ている。
天気が悪いので町歩きはやめ、国立博物館に入る。
寄席にも行きたいので、12時過ぎには出る予定。見たいものだけに時間をかける作戦を立てる。
「日本美術の流れ」の展示を見る。これがまた、盛りだくさん。さすが我が国最高峰の博物館だ。
絵、茶器、仏像は面白いなあ。絵では広重・英泉の「木曾街道」の浮世絵、仏像は鎌倉時代のがよかった。妖怪特集コーナーなんかもあって楽しかった。1時間半じゃ足りないな。今度はもう少し時間を取ろう。
12時半に出て、京成上野駅の辺りから山を下りる。
昼食は、ふらりと入った蓬莱閣という中華料理屋。Cランチを頼む。(本当はビールといきたいが、翌日が健康診断なので自重する。)とりそばと蟹春巻、杏仁豆腐のセットで1260円(だったと思う)。とりそばはあっさりとした塩味。野菜はセロリが中心。私はセロリは苦手だが、爽やかな感じで美味しくいただけた。満足。
1時過ぎに鈴本演芸場に入る。まだ前座さんが上がっているところなのに、客席はほぼ満席。すごいねえ。
4時過ぎに終演。上野駅構内でロールケーキをお土産に買い、帰路につく。1日、存分に遊ばせてもらった。
寄席の詳しい内容は次回書きます。