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2015年12月28日月曜日

スカイロッジに宿泊


妻子と、笠間市の「あたご天狗の森スカイロッジ」に行く。
妻と次男が参加した親子キャンプで利用した施設である。なかなかよかったので、今度は家族で利用してみようということになったのだ。

チャックインは午後3時なので、家で昼ご飯を食べ、途中石岡で夕食の材料を買って行く。
料金は4人用ログハウスで16000円。バス・トイレ付、冷暖房完備、台所用品、家電製品が一通り揃っていてこのお値段。室内は掃除も行き届いていてきれいだ。
加えて眺望がすばらしい。霞ヶ浦、涸沼はおろか、遠く太平洋まで見渡せる。


子どもたちが夕食の支度のお手伝い。
メニューはチーズフォンデュ―。子どもたちは野菜を切り、私はチーズを溶かす。


で、完成。石岡イオンに入っている焼き鳥屋の焼き鳥も付けて。子どもたちはウェルチのグレープジュース。妻と私は安いチリワインで乾杯。(焼き鳥にワインというのも合うんだよね)


8時にはワインが空く。晩飯でワインを1本空けるのは久し振り。
夜景を眺めながら飲むワインは旨かった。
10時に皆で就寝。

翌朝は6時に起きて、山頂にある愛宕神社まで、日の出を見に行く。
展望台には学生らしい団体が先客でいた。わいわい話しながら日の出を待っている。若いっていいなあ、と思いましたよ。
東の空にあった雲のおかげで時間はかかったが、かえって幻想的な日の出を拝むことができた。




愛宕神社にお参りしてロッジに戻る。


朝食は、「キャンプの朝食はインスタントラーメンだ」という私のリクエストで、明星チャルメラ。
昨夜残った野菜を入れる。じゃがいもが思いのほか旨かった。

チェックアウトは9時。
だけど、そのまま帰ったんじゃあ10時前に家に着いてしまう。
それも味気ないので、北関東自動車道に乗って栃木県壬生町へ。
バンダイミュージアムで遊ぶ。

ま、ガンダムにそれほど思い入れはないんですがね。

子どもたちはファミコンでスーパーマリオをやって大喜びでした。

風もなく暖かかった。天気にも恵まれ、楽しい小旅行になりました。

2015年12月26日土曜日

「洋食亭ときわ」のカツカレー


鉾田市、「洋食亭ときわ」のカツカレー。税込810円。
1回出前で食べたけど、店で食べた方が抜群に旨い。
揚げ立て、さくさくのカツ。ルーにまたコクがあるのよ。
カレーのランチもあるけど、カツカレーの魅力には抗しがたい。だいたい、いつもカツカレーを頼んでしまう。
きちんと美味しい街の洋食屋さん。他のメニューも豊富で充実している。長年、多くの人たちに愛されてきた味だ。
鉾田にお立ち寄りの際は、ぜひ召し上がっていただきたい。

2015年12月25日金曜日

ハッピー・クリスマス

昼は、おぬま食堂でモツ炒め定食。

昨日のイブは、次男の習い事があったので、今日クリスマスパーティーをやる。
ま、何たって今日がクリスマスなのだ。
チキン、ピザ、生ハムサラダ、チーズ、クラッカーでスパークリングワイン。
子どもたちはグレープジュースをワイングラスに入れて飲む。
スパークリングワインは、カスミで買って来た。ほんのり甘くて、旨し、でした。

その後、抜け出して近所の中華屋へ行き、地元の先輩・後輩と忘年会。
鮪の中トロ、しめ鯖で燗酒。中華屋っぽくないけど、これがまた旨いのよ。
餃子、エビチリも絶品でした。
2次会は隣町のスナック。10時頃帰宅。

妻が早めに寝たので、ユーチューブで、ジョン・レノンの「ハッピー・クリスマス」と、忌野清志郎の「イマジン」を聴く。

「Happy Christmas - War is over. If you want it.」
「夢かもしれない でもそれを夢見てるのは 君ひとりじゃない 仲間がいるのさ (ここにいるぜ)」
お花畑と笑わば笑え。それでも、ジョンの、清志郎の言葉は、私の心を揺さぶり続けるのだ。

ハッピー・クリスマス。

2015年12月21日月曜日

水戸へ行く


先日、水戸へ行った。
昼食は、「餃子の王将」。焼き飯セット。平松洋子の『ステーキを下町で』に収められている、王将の文章を読んで、久々に食べたくなったのだ。
炒飯の具は、叉焼、葱、卵とシンプル。皿の上に、お玉の形の半球型という王道の盛り付け。餃子6個、唐揚げ2個に中華スープが付く充実のラインナップ。税込で約900円と決して安くはないが、量・質ともに文句はない。
ちなみに学生時代、私は経堂の王将をよく利用しておりました。

満腹を抱えて向かったのは、茨城県近代美術館。ここはテーマを掲げての展示が得意。この前は「笑い」がテーマの展示を観た。そして、今は企画展「幸せはどこにある?」を開催中だ。
「家族」「コミュニティー」「しごと」など、いくつかのキーワードに、美術作品に表れた様々な幸せのかたちを探るという。
私は、前田千帆の版画、『新東京八景』とか、岸田劉生の生家を描いたペン画なんかがよかったなあ。ここは一部、撮影可の絵があるので嬉しくなって、ぱーしぱし撮っちゃった。
1室目はほんわかした雰囲気だったけど、2室目はちょっと違った。テーマは「逆境」。「戦争」とか「死」や「孤独」を題材とした絵が展示されている。
熊谷守一の、若い女の轢死体の絵、中村彝の晩年の髑髏を描いた絵なんてのは鬼気迫るものがあった。中でも浜田知明の版画、『初年兵哀歌』のシリーズが胸にこたえた。浜田は第2次世界大戦で応召され中国戦線に送られた。抽象的な表現だが、戦争で受けた彼の心の傷の深さが偲ばれる。「風景」という作品は、荒野に捨てられた、仰向けの、女性と思われる死体を描いたもの。陰部に棒が突き立てられているように見える。これが「風景」となってしまうことに戦慄を覚える。
最後のテーマは「理想郷」。小野竹喬の『武陵桃源』の屏風が圧巻でしたな。いろんなことを考えさせられる企画でした。


中村彝のアトリエも見学しました。

それから、千波湖のほとりをちょっとだけぶらぶらする。
白鳥や黒鳥や鴨が、のんびりと泳いでいく。
対岸は偕楽園。好文亭が見える。あそこで千波湖を眼下に眺めながら酒飲んだら気持ちいいだろうなあ。




帰り道、イオンシティに寄って、本屋で『ボヴァリー夫人』を買い、ドトールでコーヒーを飲む。

2015年12月19日土曜日

桂文楽の子ども

八代目桂文楽の子どもについて書いてみる。
文楽は5回、結婚したが、初めの3回は短期間で破局しており、子を生すまでには至らない。
最も長く結婚生活を送ったのが4番目の妻、寿江夫人。しかし、二人の間に子どもはできなかった。
そこで、養子の話がいくつか出て来る。
有名なものでは、古今亭志ん生が我が子を売りに来る話だ。色々な本に書かれているが、今回は柳家小満んの『べけんや わが師桂文楽』から引用してみよう。
       *     *     *  
 志ん生師匠ではもう一つ、とんでもない話があった。それは、ある日、志ん生師匠が黒門町へ自分の子どもを売りにきたというのである。
 「あたしゃ驚いてねえ……。そりゃあ孝ちゃんいけませんよって断ったんだがねえ……」
  というのであるが、その時の子どもは長男の馬生師か、その上のお姉さんではなかったかと思う。そのことについては志ん生師自身で語っていたようで、お弟子さんの一人に聞いた話では、途中の電車のなかで子どもが気持ち悪くなってしまったために、一旦家に帰って、おかみさんに、
 「こいつ途中で青くなっちまって、青豆じゃあ売れねえから帰ってきたよ……」
  と云ったそうだ。しかし、いくら何でも子どもを売るっていうのはきつい洒落で、子どものいない文楽に養子としてもらってもらうつもりだったのだろう。志ん生師匠のことだから、
 「ことのついでにいくらか……」
  とでも云ったのかもしれない。文楽、志ん生、大の親友なればこその逸話とご承知願いたい。       *     *     *
志ん生の長女、美濃部美津子の回想録『おしまいの噺』によると、この、売られそうになったという子は、実際には志ん生の次女喜美子、馬生の「その上のお姉さん」だった。こちらでは、文楽から話をもちかけたことになっている。
喜美子5歳ぐらいの頃というから、昭和4、5年頃の話だろう。当時の金で5円というリアルな金額も書いてある。
結末は、「気持ち悪くなってしまった」どころではなく、電車を降りた時に娘が大泣きに泣いたため、志ん生もあきらめざるを得なかったという。 

その後、文楽は親類から敏夫という男の子を養子にもらう。
この子は中学に在学中、自ら志願して軍属として満州へ渡った。「もう15日か、ひと月我慢したら終戦になっていたのですが」と自伝『あばらかべっそん』で文楽が語っているのだから、昭和20年も7月になっていた頃なのだろう。
しかし、彼は「私の船は機雷にかかって沈みましたが、幸いにして私は助かりました」という便りを最後に、音信不通になってしまう。そして、そのまま終戦になってしまった。
それからしばらく経って、息子の戦友を名乗る男から電話が来る。何度かやり取りをするうちに、息子は中国の錦県で捕虜になったということまでは分かった。
文楽は、NHKの尋ね人の時間に頼んだり、つてを求めて調べてみたりと、懸命に探索したが、行方は分からずじまいであった。息子が出かけるときに「お前は桂文楽の子だから、捕虜になると承知しませんよ」と言ったことを、彼は後々悔いることとなった。
四代目小さんの妹は行者だった。小さんの死後、文楽は彼女に息子のことを見てもらった。
すると、彼女が「息子さんのことは申し上げたくない。泡沫のようなもので、まだはっきりしないが―」と言っているうちに息子の霊が出て来て、「いま私は金魚になっています。しかし、幸せでいますから心配しないでください」と言ったという。
 昭和21年、文楽は敏夫の命日を同年6月10日(享年16)と定めた。 

それから何度か養子の話は出たが、どれも実現はしなかった。
養子の候補に挙がった中に、立川談志がいる。
談志はこの話を何度かしているが、晩年の対談でもこんなことを言っている。(『談志 名跡問答』、福田和也との対談より) 

福田「家元が先代文楽の家の養子に入られるという話があったと伺ったことがあるのですが。」
談志「あった。それは本当にあった(笑)。俺の名前が克由(かつよし)っていうんですけどね、養子に入ったら並河克由になっちゃって、先代文楽の本名並河益義(なみかわ・ますよし)とよく似てんだよね。そうなったら、周りは反対したろうねぇ。正月なんか小さん師匠はじめ、みんな挨拶に来るでしょう。文楽師匠の脇に俺が座ってて、下手すりゃ『おい、モリちゃん』なんて言いかねねぇ。」 

もう一人、文楽の養子になっていたかもしれない人物に、現六代目柳亭左楽がいる。
左楽はこう語る。(『内儀(かみ)さんだけはしくじるな』古今亭八朝・岡本和明編より) 

左楽「僕は知らなかったんだけど、お内儀さんは自分の弟の長女を僕と一緒にして、自分のところの養子にしようと思ってたらしいんですよ。」
― 師匠も賛成していた?
左楽「いや、『うん』とは言わなかった。師匠には他に息子がいたでしょ。そのことはお内儀さんは知らなかったから。」 

左楽の言う「他にいた息子」とは、文楽の5人目の妻となる梅子夫人との間に生まれた子どもである。
彼のことについては、大西信行の『落語無頼語録』に書かれているので、少し長くなるが引用してみよう
       *     *     *
  先年文楽は長年連れ添った女房を亡くした。女房のほかにこれまた長い仲の女性がいて、文楽との間に男の子も一人いる。籍を入れてあげたらというはなしになった。しかし文楽はそのことを拒んだ。かみさんはかみさん、おんなはおんな、所詮ひとつのものではないと言い張った。それでは子供が可哀相じゃないかという者がいた。が、可哀相なのはいまにはじまったわけじゃありませんと文楽は言った。確かに子供はもう大学を卒業する年齢になっていた。おまけに全学連の闘士だった。あんな者が文楽の倅だと世間に知れたら勲章をお上へ返さなきゃならなくなりますと、文楽はおぞましげに身を震わせた。勲章をとりあげられて、せっかくの名誉を失うことを恐れて言ったのではない。自分みたいな浮ついた生き方をして来た人間に勲章を下さったお上が、やはり文楽になぞ勲章をやらない方がよかったと後悔するような結末をひき起こしたのでは恐れ多すぎるという想いが、文楽にはつよくあったからである。
       *     *     *
昭和45年に文楽は梅子夫人と同居を始め、翌年3月入籍、同時に息子も籍に入れた。
また、それまで「死んだとは思えない」と言い続け、墓も作らずにいた養子敏夫の名前も家の墓石に刻んで供養をした。
大西は「これまで長い年月意地を張り通しこだわり続けて来たものを二つまで、文楽はあっさりおれてしまったのだ」と書いた。
それから間もない昭和46年12月12日、八代目桂文楽はこの世を去る。 

ちなみに梅子夫人との間にできた息子は、大学卒業後、菓子職人となった。彼の経営する洋菓子店はその界隈でも名店として知られている。その仕草物腰は、亡父生き写しだともいう。
平成11年に小学館から出た『CDブック 完全版八代目桂文楽落語全集』の企画協力に名前のある「並河益太郎」は、恐らくこの人に違いない。

2015年12月15日火曜日

この前の休み

この前の休み。
昼は妻の作った和風きのこスパゲッティー。
午後は、長男のピアノのクリスマスパーティーの送迎。
1時間ほど時間があるので、石岡の街を散歩する。
曇っているので、いつもは逆光になってしまう建物を重点的に撮る。

晩飯はおでんで燗酒。
今年の冬は何だか寒くないけど、でも冬はやっぱこれだね。

以下は散歩しながら撮った写真。

すがや化粧品店。
石岡の西洋風看板建築の中でも代表的な建物です。

目立たないが、隣も看板建築。

森戸商店。ここも重厚。

元お菓子屋さんだったな。

金丸通りに入る。シブイ喫茶店。

こちらも石岡の西洋風看板建築の代表選手、喫茶四季。

八間通りに出た。
石岡印刷の建物も好き。

正面から。


川口ミシン商会。たまんないねえ。


ちゃっちゃっと歩いて、長男を迎えに行きました。

2015年12月12日土曜日

出口一雄の昭和46年8月31日

昭和46年8月31日、国立小劇場で行われた「落語研究会」において、八代目桂文楽は『大仏餅』の口演中に絶句して、「もう一度勉強し直してまいります」と客に詫び、高座を下りた。これが名人文楽の最後の高座であった。
その時のことは、ブログの「桂文楽 最後の高座」という記事で2回にわたって書いたので、詳しくはそれをご覧いただきたい。 

では、その時、出口一雄はどうしていたか。これも『対談落語芸談2』(川戸貞吉編)の中に詳しい。
 TBSのディレクターだった川戸は、その時、収録のために中継車にいた。文楽の絶句に衝撃を受けるも、次の立川談志の落語を収録しなければならない。焦る気持ちを抑えながら仕事を終え、楽屋に駆け付けた時には、もう文楽は帰った後だった。
偶然客席に居合わせ、文楽を診察した主治医西野入尚一は、川戸との対談でこんな証言をしている。 

西野入「出口さんはウロウロウロウロしてた。」
川戸「ウロウロというのは、そばを歩き廻っていたの?」
西野入「うん。周囲(まわり)をウロウロウロウロ。出口さんにしてみりゃァ、『これで黒門町が駄目ンなったらどうしようか』ッていうのが、頭にあったんだろうな。だから、『どうしよう先生?! 大丈夫?!』ッて訊いてくるのが、もつれちゃッてさァ、口が。」
川戸「ああ。私がね、談志さんを録り終えて、アタフタと楽屋のほうへ駆けつけてったときには、もうすでに文楽師匠はいなかった。」
西野入「そうでしょう。」
川戸「ただ、出口さんが呆然とねェ、魂の抜けたような顔をしていましたな。」
西野入「そうだろうなァ。」
川戸「ボーッとしちゃってねェ、立ってるだけ。『どうだったの出口ッあん、容態どうだったの?』ッたらねェ、首ィ振んですよね。口きかないの。『(黒門町は)“三代目ンなっちゃた”ッていってた』ッていうだけ。」 

「三代目」というのは、三代目柳家小さんのこと。大正から昭和初期にかけて名人といわれた人だ。夏目漱石は『三四郎』の中で、登場人物の与次郎の口を借りて「小さんは天才である」と激賞した。
それほどの名人が、晩年は耄碌して、噺が同じところをぐるぐる回ったりした。その度に前座が噺の途中で幕を下ろしたという。
文楽は若い時にその惨状を目の当たりにしていて、常々「三代目にだけはなりたくない」と言っていた。

口なれた『大仏餅』、しかも前日の東横落語会では同じ噺をそつなくこなしていたのだから、その衝撃は大きかったに違いない。 
しかし、その予兆がなかったわけではない。 前回の落語研究会で、文楽は『鰻の幇間』を演じたが、それは惨憺たるものであった。(その時の高座は現在DVDに残っている。私が見ても正直つらい。若い落語ファンはこれを見て「文楽なんてこんなもんか」などと、どうか思わないでほしい。)
だからこそ、文楽は、いずれ来るかもしれない「三代目になる日」のために、詫び口上の稽古をしていたのである。 
出口もまた、その日が来るのを恐れていたのかもしれない。
しかし、彼もまたそれが現実にやって来ようとは、思ってもみなかったのだろう。いや、思いたくなかったと言った方が正確なのか。 

大西信行は『落語無頼語録』に収められた「桂文楽の死」という文章の中で、文楽絶句の場面をこんなふうに綴っている。
      *       *       *
  話の途中で詫びを言って、まるい背中をいよいよまるくかがめて舞台を去ろうとする文楽にはいたわりの拍手が湧いた。文楽はその拍手をゆっくり体中で味わうように、しずかに舞台の袖に向かって歩き続けた。
  そこには出口マネージャーが顔をこわばらせて立っていた。文楽が袖幕の蔭へ体を運んで来るのが待ちきれない様子で、両手をさしのべて文楽を抱いた。
  「出口君、ぼくは三代目になっちゃったよ」
  文楽が言って、我慢しきれずに出口マネージャーは泣いてしまった。
     *       *       *
出口一雄の心中察するに余りある。言葉にならない。
ただ、文楽の容態はそれほど心配するほどでもなかった。普段の会話でも、ろれつが回らないといったことは見られなかった。
だから、周囲はいずれ高座に復帰するだろうと思っていたらしい。
しかし、これ以降文楽は、誰が勧めても頑として高座に上がろうとはしなかった。
至上の喜びだったろう、落語家桂文楽のマネージャーとしての仕事を、出口はこの日を最後に失ってしまったのである。

2015年12月9日水曜日

睦会の奉納額 追記

前回の話を少し続ける。
東京演芸会社に対抗して発足した睦会について、八代目桂文楽はこう語っている。
(二つ目だった文楽が、旅から帰って間もなくのことである。)

「ちょうどそのころ三遊派柳派を一つにして演芸会社ができましたが、すぐまた二つにわれまして、演芸会社は三代目小さん、円右、円蔵、小円朝、小勝、馬生(後の先代志ん生)で、睦会は左楽、今輔(先々代)、志ん生(シャモと呼ばれた先々代)、橘之助、華柳、燕枝、神田伯山、伊藤痴遊などでした。」(『あばらかべっそん』より)

顔ぶれからいって、あの笠間稲荷の奉納額は、この辺りの時代といっていいだろう。
ちなみに、当時文楽は、翁家さん馬(後の八代目桂文治)門にいて、翁家さん生を名乗っていた。馬之助を襲名して真打昇進が決まっていたが、師匠さん馬が演芸会社に鞍替えするのに反抗して、柳亭左楽のもとへ身を寄せた。
左楽は、さん生を亭号も変えず身内に迎え、翁家馬之助として真打に昇進させる。
左楽はその時の口上で、
「この馬之助はさん馬の弟子ですが、師匠とこれこれの関係ではなればなれになっておりますので、すがられたら私も男で、どうか一人前にしてやりたいとおもいますから、どうかお客さまもお引き立てください。またはじめて馬之助も真打になったんですから、おかえりをお急ぎの方はいま私がしゃべっているうちにおかえりをねがって、どうかあれが上がりましたら、わずかの時間でございますから、おひと方もお立ちになりませんように、おしまいまで聞いていてやってください。これは左楽のお願いでございます」
と言って、客席を感動させた。
後に文楽はこの睦会で「睦の四天王」の一人として大いに売り出すことになる。(睦会は演芸会社に比べ大看板が少なかった。そのため左楽は積極的に若手を売り出したのである。)

また、正岡容の文章の中に、あの奉納額のメンバーに関する記述を見つけたので、紹介してみる。出典は、河出文庫刊『寄席囃子 正岡容寄席随筆集』から。

まずは柳亭柳昇。朝寝坊むらく襲名以降のものだ。一部を引用しよう。
「朝寝房むらくは柳昇である。毛筆で描いた、明治の文学冊子における、小川未明氏が肖像の如き、坊主頭のむらくは、つい先の日の柳昇である。― 私は、この人を、今の東京の噺家の中で、それも老人大家たちの中で、かなり高きに買っている。得がたき人だと思っている。
今の世の、客べら棒は、むらくが出ると『酔っぱらい』とのみ注文するし、当人も、近頃人気がなくなったせいか、たいてい『酔っぱらい』ばかりでごまかしては下りてゆくが、その『酔っぱらい』にしても!だ。あの調子っ外れで、いやにはにかみ屋で、妙にきちんと膝にのせて、諷(うた)う時決まって右手を不自然に高くあげたやぞうをこしらえて―といった段どりよろしく諷い始める、めちゃめちゃに文句の錯乱した『梅にも春』や『かっぽれ』は聞きこめばこむほどいいものである。」
お次は文の家かしく。
「震災前では、文の家かしく、あの蟹のようでワイ雑な顔で、いつもきまって十年一日しゃっくりのまじる都々逸ばかりやっていました。― 浅利、蛤やれ待て蜆、さざえのことから角を出し― というのが絶品だったといいますが、そういう文句や節廻しの記憶はなく、やはり、しゃっくりばかり。あとは、むしろ『蟹と海鼠』のとっちりとんが、あの顔にピッタリとしていて結構だったと覚えています。」

どうです?いいでしょ。大正の御世を彷彿させる。あの奉納札の人物が、生きた人間として立ち上ってくる。正岡の文章のリズムがまたいいんだよね。立川談志の文章は、多分正岡の影響を受けているんじゃないかな。
河出文庫のおかげで正岡の文章が手軽に読めるようになった。ありがたいことです。河出さん、これからも頑張ってね。

最後に笠間稲荷の絵馬殿にあった奉納額。こちらは明治時代の役者のもの。


で、こちらが絵馬殿。
江戸時代の建造物です。

2015年12月3日木曜日

笠間稲荷 東門の奉納額


笠間稲荷神社。東門。江戸時代に建造されたもの。


重厚で好きな建物。よく見ると、奉納額がいっぱい飾ってある。思わず足を止めて見入る。

ちょっと影に隠れて見えないけど、落語「強飯の女郎買い」に出て来る「弁松」の札がある。

見事な江戸文字。寄席文字書いていた人間には堪んないな。

花柳章太郎の名前を発見。
もしかしたら、落語関係の奉納額もあるかも、と見ていると・・・。

あった!!
ガラスが反射して見づらいけど、昔の寄席がずらりと並ぶ。
芝恵智十、人形町末廣亭、神田白梅亭、神楽坂演芸場の字が見える。

ついに、お札置き場の屋根の陰に、落語家の名前を発見!

撮りづらいよお。

ちょっと見づらいか。

ここにあった芸人の名前を列挙してみる。
春風亭柳枝、柳亭左楽、立花家橘之助、談州楼燕枝、桂小南、古今亭今輔、林家正蔵、金原亭馬生、春風亭小柳枝、柳亭芝楽、柳亭痴楽、柳亭柳昇、柳家枝太郎、文の家かしく、雀家翫之助、神田伯山、神田伯龍。
どうやら大正時代の睦会の面々らしい。

家に帰って、『古今東西 落語家事典』で調べてみた。長老たちの没年と芸名の名乗りの時期を考えると、大正7年から9年までに奉納されたものらしい。東京演芸会社の月給制に対抗して睦会が発足して間もなくの頃だろう。
では、一人一人について解説してみよう。

○春風亭柳枝・・・4代目。後、小柳枝に名前を譲り「華柳」を名乗る。睦会初代会長。昭和2年、60歳の時、ラジオに出演中卒中で倒れ急逝。その時、彼がばたっと倒れた音が放送されたという。
○柳亭左楽・・・5代目。8代目桂文楽の「人生の師」。睦会副会長。柳枝没後は自らが会長となった。抜群のリーダーシップを発揮し、「5代目」といえば左楽を指すほど。多くの人から慕われた。昭和28年、82歳で没。彼の葬儀は落語葬とされ、葬列は200メートルにも及んだという。
○立花家橘之助・・・浮世節家元。「女公方」と呼ばれた。後に3代目三遊亭圓馬となる朝寝坊むらくが、4代目橘家圓蔵を殴って東京を追われたのも、橘之助を巡る三角関係が原因だと言われている。晩年は東京を離れた。昭和10年の京都の水害で、夫の橘ノ圓とともに溺死した。享年68。
○談洲楼燕枝・・・2代目。人情噺の名手。写真を見ると、谷崎潤一郎に似たいい男である。昭和10年に67歳で亡くなった。
○桂小南・・・初代。大阪出身。8代目文楽の最初の師匠。豆電球を着物に仕込み、宙吊りになって踊る芸で満都の人気をさらった。初め三遊派にいたが借金を作って大阪に帰った(このため二つ目になったばかりの文楽は旅に出る羽目になった)。睦会発足に当たり東京に呼び戻される。その後も東京に居着いたが、晩年は不遇だった。昭和22年68歳で没。
○古今亭今輔・・・3代目。「代地の師匠」と呼ばれた。文楽が若手の頃、クイツキで「明烏」ばかり演っていたところ、「その位置で演る噺じゃない」と注意され、『按摩の炬燵』『夢の酒』『おせつ徳三郎』などを教わったという。大正13年56歳で没。
○林家正蔵・・・6代目。本名から人呼んで「今西の正蔵」。若手の時からの売れっ子で、『居残り佐平治』を売り物にした。文楽は弟子の現小満んに「今西の正蔵さんのがよくてね、20分ぐらいでやってたがね。ああ演らなければ売りものにはならないんだ。しかし、お前は『居残り』は柄ですよ」と言っていた。昭和4年42歳で死去。早逝が惜しまれる。
○金原亭馬生・・・5代目。俗に「おもちゃ屋馬生」。大阪に移っている間に、東京では後の4代目志ん生(鶴本の志ん生)が馬生を襲名していて、大正中期に彼が東京に帰って来た時には「金原亭馬生」が二人いるという珍事となった。やむなく、めくりの字の色で区別し、鶴本が「黒馬生」、「おもちゃ屋」が「赤馬生」と言われた。昭和21年83歳で没。
○春風亭小柳枝・・・後の6代目柳枝。実家がゴミ清掃業(横浜の居留地のゴミを一手に引き受けるほどの大手業者だった)を営んでいたため「ゴミ六の柳枝」と呼ばれた。天狗連出身、30歳で4代目柳枝に入門、3年で真打となった。芸の力もあったのだろうが、実家の財力がものをいったという側面もあったらしい。柳枝襲名の際は、本来5代目のところを、5代目左楽に遠慮して6代目を名乗った。昭和7年52歳で没。
○柳亭痴楽・・・後の7代目柳枝。俗に「エヘヘの柳枝」。陽気な歌い調子で人気があったが、昭和16年46歳で早世した。
○柳亭芝楽・・・後の5代目三遊亭圓橘。最初、初代圓右門下だったが、大正7年に左楽門下に移った。昭和34年75歳で没。
○柳亭柳昇・・・後の8代目朝寝坊むらく。正岡容が「耳しいて狂死せる」と書いた人である。『らくだ』において、紙屑屋がらくだの髪の毛をむしり、、願人坊主が紅蓮の炎の中のたうちまわる凄惨な演出を施した。それは8代目三笑亭可楽が、近年では立川談志が受け継いだ。昭和6年に死んだが、生年未詳のため享年も分かっていない。遺骨の引き取り手もなかったという、『らくだ』を地でいく最期だった。
○柳家枝太郎・・・4代目。初代圓右の門人。後に4代目左楽門に転じた。柳家きっての音曲師として活躍、音曲噺でトリをとることもあった実力者だった。69歳の時、昭和20年5月の空襲で孫と嫁をかばって爆死したという。
○文の家かしく・・・音曲師。『しゃっくり都々逸』で有名だったらしい。大正12年63歳で没。
○雀家翫之助・・・4代目柳枝門人。長くドサ回りをしていたが、睦会発足で呼び戻され重用されたが、昭和になると顔付けにも見えなくなった。生没年未詳。
○神田伯山・・・講釈師。「八丁あらし」と異名を取った名人。『清水の次郎長伝』が売り物。後に広沢虎造がそれを浪曲にして当たりを取った。昭和7年70歳で没。
○神田伯龍・・・講釈師。伯山門下の四天王のひとり。江戸川乱歩の明智小五郎のモデルともいわれる。8代目文楽のライバルはこの人だった、という人もいる。昭和24年59歳の時脳溢血で急逝した。

文楽・柳橋・柳好・小文治の「睦四天王」が売れ出すのは、もう少し後のことなんだろうな。
およそ100年前に思いをはせるのは楽しかったなあ。・・・あまり共感してくれる人はいないと思うけど。


2015年12月2日水曜日

笠間で充電


代休。笠間へ行く。
昼は「てっぺん」で天丼とかけそばのセット。ここのかけは、天かすがついてくるので、実質はたぬきそばなのだ。きちっと普通に旨い、正しい蕎麦屋。

お目当ての日動美術館に入る。企画展は「孤高の画家 熊谷守一と朝井閑右衛門」。ポップな造形、鮮やかな色彩が特徴の熊谷。まるで立体のように絵具を塗り重ねる朝井。二人とも「孤高の画家」の名にふさわしく独特の芸風。
私は、熊谷の猫や金魚などの小動物、朝井は戦前の「東京十二景の内」2作とか「猫の木のある交番」なんてのがいいなあと思いました。
その後は常設展を見たり、表をぶらぶらしたり。紅葉がきれいだったねえ。


お次は街中を散歩。


井筒屋さんの角を曲がって、お稲荷様をお参り。


仲見世で売っているお狐様。
壮観だねえ。



今回は境内で面白いものを見つけたので、次回報告します。

お稲荷様を出て、ちょっと足を延ばしてみたら、昭和館が崩壊しておりました。うーん残念。


今年の春先はこんな感じだったんだけど。

帰りに駐車場の近くのカフェに入って一服。
メキシココーヒーと、お冷代わりにオリーブのお茶、クッキーが付いて350円。試作品ということで蒸しパンをサービスでいただく。のんびりさしてもらいました。居心地のいい空間だったよ。また来ようっと。
おかげ様でいい充電ができました。

2015年11月30日月曜日

散歩の日


昨日の日記。
7時起床。朝食はマフィンとコーンポタージュスープ。

散歩がてら床屋に行く。
近所の色づく野山を見ながら、岡林信康の「26ばんめの秋」を口ずさむ。
「山は赤く、赤く色づいて/ススキが風に、風に揺れている/朝はとても冷たい/もうすぐ冬が来るね…」いいなあ。ちなみに、岡林自身、この曲を「何年かにひとつという名曲」と言っています。

昼食はマクドナルドのチキンタツタとテリヤキバーガー。チキンタツタは期間限定。昔みたいにレギュラーにすればいいのに。

午後は1時間ほどカメラをぶら下げ近くを散歩。霞ヶ浦の辺りまで足を延ばす。





空気はひんやりしていたけど、陽射しがあって気持ちいい。



霞ヶ浦の堤防に出ると、湖面には鴨がいっぱい泳いでた。
生きとし生けるもの、全てを包んで霞ヶ浦はずっとここにある。
私はそこに安心するのだ。






晩飯は、豚肉炒め、大根サラダ、切り干し大根、さんまの煮たので燗酒。
もう師走か。1年が早いねえ。