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2015年12月19日土曜日

桂文楽の子ども

八代目桂文楽の子どもについて書いてみる。
文楽は5回、結婚したが、初めの3回は短期間で破局しており、子を生すまでには至らない。
最も長く結婚生活を送ったのが4番目の妻、寿江夫人。しかし、二人の間に子どもはできなかった。
そこで、養子の話がいくつか出て来る。
有名なものでは、古今亭志ん生が我が子を売りに来る話だ。色々な本に書かれているが、今回は柳家小満んの『べけんや わが師桂文楽』から引用してみよう。
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 志ん生師匠ではもう一つ、とんでもない話があった。それは、ある日、志ん生師匠が黒門町へ自分の子どもを売りにきたというのである。
 「あたしゃ驚いてねえ……。そりゃあ孝ちゃんいけませんよって断ったんだがねえ……」
  というのであるが、その時の子どもは長男の馬生師か、その上のお姉さんではなかったかと思う。そのことについては志ん生師自身で語っていたようで、お弟子さんの一人に聞いた話では、途中の電車のなかで子どもが気持ち悪くなってしまったために、一旦家に帰って、おかみさんに、
 「こいつ途中で青くなっちまって、青豆じゃあ売れねえから帰ってきたよ……」
  と云ったそうだ。しかし、いくら何でも子どもを売るっていうのはきつい洒落で、子どものいない文楽に養子としてもらってもらうつもりだったのだろう。志ん生師匠のことだから、
 「ことのついでにいくらか……」
  とでも云ったのかもしれない。文楽、志ん生、大の親友なればこその逸話とご承知願いたい。       *     *     *
志ん生の長女、美濃部美津子の回想録『おしまいの噺』によると、この、売られそうになったという子は、実際には志ん生の次女喜美子、馬生の「その上のお姉さん」だった。こちらでは、文楽から話をもちかけたことになっている。
喜美子5歳ぐらいの頃というから、昭和4、5年頃の話だろう。当時の金で5円というリアルな金額も書いてある。
結末は、「気持ち悪くなってしまった」どころではなく、電車を降りた時に娘が大泣きに泣いたため、志ん生もあきらめざるを得なかったという。 

その後、文楽は親類から敏夫という男の子を養子にもらう。
この子は中学に在学中、自ら志願して軍属として満州へ渡った。「もう15日か、ひと月我慢したら終戦になっていたのですが」と自伝『あばらかべっそん』で文楽が語っているのだから、昭和20年も7月になっていた頃なのだろう。
しかし、彼は「私の船は機雷にかかって沈みましたが、幸いにして私は助かりました」という便りを最後に、音信不通になってしまう。そして、そのまま終戦になってしまった。
それからしばらく経って、息子の戦友を名乗る男から電話が来る。何度かやり取りをするうちに、息子は中国の錦県で捕虜になったということまでは分かった。
文楽は、NHKの尋ね人の時間に頼んだり、つてを求めて調べてみたりと、懸命に探索したが、行方は分からずじまいであった。息子が出かけるときに「お前は桂文楽の子だから、捕虜になると承知しませんよ」と言ったことを、彼は後々悔いることとなった。
四代目小さんの妹は行者だった。小さんの死後、文楽は彼女に息子のことを見てもらった。
すると、彼女が「息子さんのことは申し上げたくない。泡沫のようなもので、まだはっきりしないが―」と言っているうちに息子の霊が出て来て、「いま私は金魚になっています。しかし、幸せでいますから心配しないでください」と言ったという。
 昭和21年、文楽は敏夫の命日を同年6月10日(享年16)と定めた。 

それから何度か養子の話は出たが、どれも実現はしなかった。
養子の候補に挙がった中に、立川談志がいる。
談志はこの話を何度かしているが、晩年の対談でもこんなことを言っている。(『談志 名跡問答』、福田和也との対談より) 

福田「家元が先代文楽の家の養子に入られるという話があったと伺ったことがあるのですが。」
談志「あった。それは本当にあった(笑)。俺の名前が克由(かつよし)っていうんですけどね、養子に入ったら並河克由になっちゃって、先代文楽の本名並河益義(なみかわ・ますよし)とよく似てんだよね。そうなったら、周りは反対したろうねぇ。正月なんか小さん師匠はじめ、みんな挨拶に来るでしょう。文楽師匠の脇に俺が座ってて、下手すりゃ『おい、モリちゃん』なんて言いかねねぇ。」 

もう一人、文楽の養子になっていたかもしれない人物に、現六代目柳亭左楽がいる。
左楽はこう語る。(『内儀(かみ)さんだけはしくじるな』古今亭八朝・岡本和明編より) 

左楽「僕は知らなかったんだけど、お内儀さんは自分の弟の長女を僕と一緒にして、自分のところの養子にしようと思ってたらしいんですよ。」
― 師匠も賛成していた?
左楽「いや、『うん』とは言わなかった。師匠には他に息子がいたでしょ。そのことはお内儀さんは知らなかったから。」 

左楽の言う「他にいた息子」とは、文楽の5人目の妻となる梅子夫人との間に生まれた子どもである。
彼のことについては、大西信行の『落語無頼語録』に書かれているので、少し長くなるが引用してみよう
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  先年文楽は長年連れ添った女房を亡くした。女房のほかにこれまた長い仲の女性がいて、文楽との間に男の子も一人いる。籍を入れてあげたらというはなしになった。しかし文楽はそのことを拒んだ。かみさんはかみさん、おんなはおんな、所詮ひとつのものではないと言い張った。それでは子供が可哀相じゃないかという者がいた。が、可哀相なのはいまにはじまったわけじゃありませんと文楽は言った。確かに子供はもう大学を卒業する年齢になっていた。おまけに全学連の闘士だった。あんな者が文楽の倅だと世間に知れたら勲章をお上へ返さなきゃならなくなりますと、文楽はおぞましげに身を震わせた。勲章をとりあげられて、せっかくの名誉を失うことを恐れて言ったのではない。自分みたいな浮ついた生き方をして来た人間に勲章を下さったお上が、やはり文楽になぞ勲章をやらない方がよかったと後悔するような結末をひき起こしたのでは恐れ多すぎるという想いが、文楽にはつよくあったからである。
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昭和45年に文楽は梅子夫人と同居を始め、翌年3月入籍、同時に息子も籍に入れた。
また、それまで「死んだとは思えない」と言い続け、墓も作らずにいた養子敏夫の名前も家の墓石に刻んで供養をした。
大西は「これまで長い年月意地を張り通しこだわり続けて来たものを二つまで、文楽はあっさりおれてしまったのだ」と書いた。
それから間もない昭和46年12月12日、八代目桂文楽はこの世を去る。 

ちなみに梅子夫人との間にできた息子は、大学卒業後、菓子職人となった。彼の経営する洋菓子店はその界隈でも名店として知られている。その仕草物腰は、亡父生き写しだともいう。
平成11年に小学館から出た『CDブック 完全版八代目桂文楽落語全集』の企画協力に名前のある「並河益太郎」は、恐らくこの人に違いない。

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