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2010年3月25日木曜日

泉鏡花『婦系図』

泉鏡花、最大のヒット作。初めて読んだ。いやあ面白い。
独逸語学者、早瀬主税は師に内緒で、元芸者のお蔦と所帯を持っていた。ある時、師の娘であるお妙に縁談が持ち上がる。相手は主税の友人、河野英吉。河野の家は静岡の名家だが、その傲慢な縁談の進め方に主税は憤慨。河野家との確執が生まれる。折悪しく、師、酒井にお蔦の存在が露見。師の怒りに触れ、主税はお蔦と別れさせられる。掏摸騒動に巻き込まれた主税は仕事も失い、静岡へと落ち延びる。これが前編。
後編は静岡が舞台。ひょんなことから主税は、既に人妻となっている河野の次女と知り合い、彼女の協力を得て、独逸語の塾を開く。主税は、これもまた人妻の長女とも昵懇になる。一方、主税と別れたお蔦は病に倒れ、酒井に看取られながら息絶える。お蔦の遺髪を携え、お妙は静岡の主税の元へ。河野家の面々、お妙が久能山で日蝕観測に集う中、主税は河野家当主、英臣と対決する。そこで迎える大団円。意外な結末で物語は終わる。
『婦系図』というと、新派の舞台が連想され、お蔦主税の悲恋の物語という印象があるが、全然違う。あの有名な「別れよ、切れよというのは、芸者の時にするものよ、云々」という台詞すら出てこない。
目くるめく展開、息もつかせぬ面白さ、まさにジェットコースタードラマである。根底に流れるのは、家のために、何も分からぬまま嫁に行き、好きでもない男に身を任せる当時の女性に寄せた、鏡花の強い想いだ。
それに文章がいい。くだけた調子だが、さすが鏡花先生、格調が高い。お蔦臨終の場面における酒井の情。河野当主に向かって切る、主税の啖呵。いいなあ。胸に迫る、小気味いい。それだけじゃない。魚屋、芸者、掏摸、裏店の住人など、ちっとも偉くない奴らが生き生きと躍動する。鏡花という人の優しさを、私はそんなところに感じるのだ。

2010年3月13日土曜日

七味焼き定食

鉾田市、たきの井食堂、七味焼き定食、900円。豚バラ肉を焼いたのに、七味唐辛子がたっぷりかかっている。こいつをキャベツと一緒に食べる。旨いが辛い、辛いが旨い。ご飯が進む進む。もう癖になる。他に辛肉ラーメン、肉煮込み定食(生卵つき)もお勧め。店もこぢんまりとして渋い。何から何まで、私好みです。

2010年3月12日金曜日

石岡の雛祭り

平磯から帰ったのは、昼近くだった。
妻子は妻の実家に行っている。昼飯を食いに行きたい。雪は心配だが、早いうちに帰ってくれば大丈夫だろう。とりあえず石岡に向かう。
ちょっとモスバーガーでも、と思ったが、せっかく石岡に行くのだ、私の愛する東京庵で食べることにする。
中町駐車場に車を止める。雪はもうほとんど雨に変わっている。街は雛祭りの真っ最中。古い商家の店先に、様々なお雛様が飾ってある。
東京庵に入る。昭和初期そのままの建物。薄暗い店内には、雛壇が二つも飾られている。芥川龍之介の世界みたい。何枚か写真を撮らせてもらう。
カレー南蛮蕎麦と半ライスを頼む。ちょいと野暮かもしれないが、あの古今亭志ん朝が好んだメニューだといえば何となくいいでしょ。
まずは蕎麦をたぐる。蕎麦を食べてしまったら、ライスをつゆの中に投入、カレー丼というかカレーおじやのようにして食べる。旨いのよ、これが。一粒で二度美味しい。体の中から温まる。
それから、丁字屋さんでコーヒーを飲むことにする。ここは「まちかど蔵」として古い商家を公開しており、座敷でお茶を飲めるのだ。ここでも見事なお雛様が飾っている。卓袱台の前に座りコーヒーをいただく。落ち着くなあ。
店先に長火鉢がある。これで燗をつけ、湯豆腐などやりながら飲みたいねえ。
石岡にいたのは、ほんの1時間ほど。それでも、随分ゆっくりした気分でしたな。

2010年3月9日火曜日

文楽と金馬

昭和15年の東京落語家番付が手元にある。
検査役に四代目小さん、八代目文治が座り、堂々東の大関を張るのは六代目春風亭柳橋。西の大関には三代目三遊亭金馬と八代目桂文楽が並ぶ。(志ん生は西の小結、圓生は東の前頭二枚目だった。)
戦前の最大のスターは、春風亭柳橋だった。しかし、一方の雄として、三代目金馬を挙げなくてはなるまい。
三代目三遊亭金馬。明治27年生まれ(文楽より2歳年下)。大正元年、講釈師として芸界に入るが、翌年初代三遊亭圓歌に入門、落語家に転向する。三代目三遊亭圓馬に傾倒し、圓馬の橋本川柳時代、師匠圓歌の世話を弟弟子の歌寿美(二代目円歌)に任せ、旅巡業に従う。大正9年、圓洲で真打。大正15年に三代目金馬を襲名する。昭和初期、『居酒屋』のレコードが売れに売れ、改作ものも次々に世に出した。私の父の年代は、落語家といえば柳橋、金馬だったという。
文楽と金馬は、ともに三代目圓馬のもとで修業し、ともに落語家としての才能を開花させた。文楽は圓馬の繊細さを、金馬は豪放さを受け継いだと言われた。
正岡容が二人を評してこう書いている。
「そのきびしく掘り下げてゐる『面』の方が文樂へやや神經質につたはつてゐるとおもふ。此は團十郎の精神が、蒼白い近代調となつて吉右衛門の上に垂れているごときであらうか。豪放の點は、むしろ金馬にのこつてゐる。しかし、金馬には、俗氣を離れたところがない。云ひ換えると、いいイミの『バカ』なところがない。もつとあの人の全人格が簡單に、文化的なつてしまつてゐる。それが圓馬までゆけてゐない所以とおもふ。」―「三遊亭圓馬研究」より(『随筆寄席囃子』昭和42年刊)
これは名文である。その話芸を高く評価されながら、「噺家魚見立て」で「金馬、秋刀魚、うまいが下卑ている。」と評された金馬の特質を余すことなく伝えている。
しかし、同業者の中では金馬の評価は絶大であった。後年、矢野誠一が「精選落語会」を企画した時、「東横落語会」の向こうを張って、文楽、圓生、小さん、可楽、正蔵の5人をレギュラーメンバーに固定した。(「東横」は文楽、志ん生、圓生、三木助、小さん。ちなみに「精選」の時、志ん生は病床にあった。)それを知った文楽は、矢野に「どうして金馬さんが入っていないんですか?」と疑問を呈したという。骨太で、それでいて大衆性を持つ、そんな金馬に、文楽は自分にないものを見、敬意を抱いていたに違いない。
文楽と金馬は、同じ圓馬の薫陶を受けた同志のような関係だったのだろう。(釣り仲間でもあった。)志ん生とともに親友といってもいいかもしれない。
そういえば、昭和12年、睦会解散の後、文楽は一時、東宝名人会に加入する。金馬はそれに先立つ昭和10年、東宝名人会の専属となっていた。もしかしたら、金馬と一緒に、という思いもあったのだろうか。
文楽はその後、落語協会に参加、昭和の名人への道を歩む。金馬は、東宝名人会の専属となった時の確執から、落語協会には戻らず、終生フリーの立場を貫く。ただ、正月の興行にはゲストとして落語協会の寄席に出た。昭和32年の新宿末廣亭のビラには、夜の部に志ん生、文楽、金馬の名前が並んでいる。

2010年3月7日日曜日

スタミナラーメン

T君のリクエストにお応えして。ひたちなか市「寅さんラーメン」のスタミナラーメン。レバー、キャベツ、かぼちゃを炒めた甘辛の餡が絶品。別メニューに、スタミナ冷やし、スタミナ焼きそば、スタミナ丼がある。T君、次回はぜひ。

2010年3月5日金曜日

長塚節『土』

郷土の名作、長塚節著『土』である。
郷土の名作ではあるが、この歳になるまで読んだことはなかった。実際、若い頃に読んでいたら、最後までたどり着けなかっただろう。
あの夏目漱石ですら激賞しながらも、読みづらいことを認めている。
方言による会話。(ネイティブである私でも、少々つらかった。)かなりの分量の自然描写。(写生派の歌人だった節にとっては省くことの出来ないものだったのだろう。)平板なストーリー。(寒村の農民の話だ。もともとドラマチックな話ではない。)確かに、読んで楽しい話ではない。しかし、100年残った小説なのである。この事実は重い。
舞台は明治の茨城県、鬼怒川のほとり。貧農の勘次一家の物語だ。
勘次の女房、お品は、この小説の冒頭、胎児を自分で掻爬した時の傷が元で破傷風に罹って死ぬ。残された勘次は男手ひとつで、おつぎと与吉の姉弟を育てる。苦労の末、何とか生活が出来るようになった頃、舅の卯吉が同居することになる。勘次と卯吉は折り合いが悪く、卯吉は庭に掘っ立て小屋を建てて別居するが、ある日与吉の火遊びで小屋が炎上、勘次の家はもちろん隣の主人の家も焼いてしまうという悲劇的な結末を迎える。
ここには、藤村や花袋が語る、ラブだのライフだのという小洒落た観念など出てこない。生きることだけで精一杯なのだ。生きるために、お品は胎児を殺し、勘次は盗みを働き年寄りを邪険にする。本能をむきだしにした人間の姿が淡々と描かれる。清く貧しく美しくなんてのは、どこにもない。
そして、この勘次という男が、本当に不器用で他人と上手くやっていくことが出来ないのだ。しかも盗癖があるものだから、周囲から浮きまくっている。娘おつぎを年頃になっても手元から手放さず、おつぎに近づく若い男をむきになって攻撃することから、近親相姦の疑いすらかけられてしまう。
救いは、最後になって勘次が酷い火傷を負った卯吉を哀れに思い、和解をするところだな。重たい曇天に、わずかに薄日が差した程度のものかもしれないが。
作者、長塚節は茨城県西部の豪農の家に生まれた。旧制水戸中学に進学したが、健康を害し中退。正岡子規に師事し歌人として世に出る。『土』を発表後、肺病を病み5年程療養生活を送り37歳で死んだ。明治の時代、旧制中学に進み、中退後は全国を旅行。上京し子規門下となる。となれば、かなりのお坊ちゃんだ。
それでも、『土』を読む限り、節は名もなき貧しい農民に寄り添っている。(そういえば、勘次の主人も勘次に対し、終始同情的だ。)恵まれた者が貧しい者を見下ろす感じが、ここにはない。その辺りが、この小説が今も生命を保っている所以かもしれない。
また、この巻末に載っている夏目漱石の文章がいいのよ。厳しくて優しい。大きい人だな。かなり偏屈な人だったというが、多くの門弟に慕われたのが分かるような気がします。

2010年3月3日水曜日

平磯の宴②

翌朝、7時半に起床。カーテンを開けると、どんよりとした曇り空。強風で目の前の街灯が揺れる。海は昨日と同じ大荒れだ。
朝食は昨夜と同じ大広間。ご飯、味噌汁、鯵の干物、ハムサラダ、納豆、焼き海苔、カニ足、ひじき、ほうれん草のおひたし。正しい日本の朝ご飯だ。普通に旨い。
窓の上に平磯の古写真が飾ってある。昭和初期の観光絵葉書だな。大漁の様子、海水浴の光景、いいなあ。この宿のもある。規模や造りは今と同じような感じ。海際の棟と高台の棟を通路で結んだ「工」の字型。ただ、昔は高台に矢場があって、それが売り物だったらしい。明治時代の創業だという。現在は老舗旅館という感じではないが、かえって渋く、私好みだ。
朝食の途中から雨が降り出した。けっこう強い。心なしか霙が混じっているような気がする。
1時間ほどのんびりして、部屋に戻る。テレビをつけると、チリの大地震のニュースをやっていた。M8.8で死者も多数出たという。実は昨日、部屋から目前の海を眺めながら、津波が来たらひとたまりもないな、と思っていたのだ。情報では、昼過ぎ、日本の太平洋沿岸に1mから2mの津波が到達するという予想だった。2mといったら堤防を越えるかもしれない。でも、予想は昼過ぎ、まだ時間はある。もう少しのんびりしたい。
すると、サイレンが鳴り、地区の防災無線で「津波警報が発令されました。住民の皆さんは高台に避難してください」とのアナウンス。長居をすると宿の人にも迷惑がかかる。大急ぎで荷物をまとめ、階下に降りる。ロビーではご主人がテレビのニュースを見ていた。
「大丈夫ですか?」と訊くと、「大丈夫ですよ」との返事。でも、用心はした方がいい。
来年の再会を約し、皆と別れる。
私は家族への土産だけ買っていこうと思い、那珂湊の魚市場に寄った。横殴りの雨。とてもゆっくり見て回ることは出来ない。
先日、岐阜から来たT君が買っていった、イカの一夜干しとみりん干しが美味しそうだったので、それを購入。店の人は「津波警報が出てるって貼り紙しといた方がいいかな」などと言い合っている。私はそそくさと車に戻った。
後から次々に買い物客の車が入ってくる。日曜日、かき入れ時なんだな。でも、1mの津波でも冠水しそう。商品は大変なことになるだろう。無理はしない方がいい。(翌日、新聞を見たら、昼で閉店にしたそうだ。)
この天気ではどこかに寄って散歩もできない。まっすぐ帰ることにする。
涸沼を過ぎた辺りで、雨は雪に変わった。みるみるうちに辺りが白くなっていく。強風、津波警報、横殴りの雨、最後は雪か。めまぐるしい展開だったなあ、そんなことを思いながら、私はひたすら家に向かうのだった。

2010年3月1日月曜日

平磯の宴①

昔の職場の仲間で、年に1度泊まりの宴会をしている。今年はひたちなか市の平磯に宿を取った。
本当は常磐線から湊鉄道に乗りたかったのだが、朝から強風。一昨年、那珂湊に行った帰り、常磐線が不通になって大変だった苦い思い出があり、車で出かける。
ひたちなか市、寅さんラーメンで昼食。名物スタミナラーメンと餃子を食べる。キャベツ、かぼちゃ、レバーなどを炒め甘辛い餡に絡めて醤油ラーメンに載せる。結構辛いが、これが癖になるのよ。スタミナ冷やし、スタミナ焼きそば、スタミナ丼なんてメニューもあった。12時前に入ったのでうまく待たずに座れたが、あっという間に満席。さすがスタミナの本家寅さんラーメンであった。
満腹満足で那珂湊に向かう。市営駐車場に車を止め、カメラをぶら下げて町中を散策する。
舟運で栄えた古い町。私好みの街だ。古い小さな本屋に入る。なかなかの品揃え。侮れない。安部公房の短編集と泉鏡花『婦系図』を買う。
1時間ほど歩き回って、次は阿字ヶ浦に行く。湊鉄道の終点、阿字ヶ浦駅で写真を撮る。駅舎もいかにも終着駅らしい佇まい。地方のローカル私鉄の例に漏れず赤字に苦しんだが、支援を受け第3セクターとして存続した。鹿島鉄道、日立電鉄は廃線になったが、ここは頑張って欲しいな。
平磯へは少し那珂湊方面に戻ることになる。海沿いの道を行く。強風で海は大荒れ。
平磯駅に行ってみる。駅舎はない無人駅。つぶれたスーパーの建物の一部にひっそりと券売場がある。駐車場に車を置いて付近をぶらつく。湊鉄道は台地の上を走っており、坂を下れば海に出る。古い漁師町。いいねえ。
宿に着いたのは3時半過ぎ。2階の部屋に通される。オーシャンビューの素晴らしい眺め。左前方に海水浴場。「鯨の大ちゃん」が浮かんでいる。
Oさんが来たので、一緒に風呂に入る。天然の岩を使った装飾、山水画の如し。二つの峰の間に滝が落ち、釣り橋が架かる。風呂は海藻風呂。海藻のエキスをたっぷりと含んだ茶褐色のお湯。十分に温まる。
風呂上がりにビールを飲む。「生きててよかったグランプリ」3位には間違いなく入る一時だな。
そうこうしているうちにKさん、もう一人のOさんがやって来る。メンバーは13人いるが、今年の参加は私を含め4人。こぢんまりとした会となった。
宴会は大広間でやる。昼間は食堂になっているらしい。畳の上にテーブルと椅子。明治の元勲のような気分だ。テーブルの上には天ぷら、刺身、焼き魚などが並ぶ。鍋は何と鮟鱇鍋。泊まり客は我々だけなので、特別にサービスしてくれたのだという。ありがたい。存分に飲み、食い、語る。1年に1度、こういうことがあるのはいい。最後はご飯を鍋に投入、おじやにして食べる。
部屋に引き上げたのは9時。ご当地焼酎「阿字ヶ浦」を酌み交わしながら、夜は更けていくのであった。