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2009年5月29日金曜日

サンキュー・ベイベー

TVブロスの『忌野清志郎・追悼特集号』を読む。
皆、清志郎が好きだったんだなあ。ほんとそう思う。
私は、それ程熱心なファンではなかったけど、でも、『初期のRCサクセション』、『ラプソディー』、『カバーズ』、『タイマーズ』、『冬の十字架』など要所要所のアルバムはちゃんと聴いている。それくらい無視できない存在だった。
声が圧倒的にいい。心にまっすぐ突き刺さってくる。(もし、後継者がいるとすれば、甲本ヒロトなのではないかと私は思う。)
何年か前、水戸のライブハウスで清志郎を観た。彼は放送禁止となった『君が代』を「こけの~む~す~ま~で~」と歌いながら、ムースを頭に塗りたくっていた。都会人のシャイであるが故に、ふざけてしまう様が、何とも格好良かった。観ておいてよかった。本当にそう思う。
そうなのだ。清志郎はシャイだが、言うべきことはきちんと言ってきた。たとえ、それが業界内でタブーとされていることでもだ。それがこの上もなく格好いい。
清志郎のメッセージは、いつでもシンプルでまっすぐに心に届く。
清志郎、大丈夫、僕たちはちゃんと愛し合っている。だから、君もそこからちゃんと見ていてくれ。
清志郎、ありがとう。

2009年5月28日木曜日

桂文楽 文楽襲名

大正9年、馬之助は八代目桂文楽を襲名する。この襲名は、もちろん五代目左楽の意志で行われたのだが、かなり強引なものであった。なぜなら、この時、桂文楽を名乗る落語家がいたからである。それを無理矢理「桂やまと」と改名させての襲名だ。当然、批判はあったろう。しかし、それを押さえるだけの力が、左楽にはあったのだ。

初代文楽は、三代目桂文治が名乗った。彼は文治を名乗った後、文楽、楽翁を経て桂大和大掾となる。文治が桂の止め名であることを考えると、いわば隠居名として作られたものだ。最初の師匠、三笑亭可楽の「楽」の字をもらったのだという。
二代目、三代目はそれぞれ五代目、六代目の文治となった。この辺りは、桂の出世名としての役割を与えられている。
文楽の名を不動のものにしたのが、四代目、「でこでこの文楽」と言われた人である。このあだ名は、噺の合間に度々「でこでこ」という言葉を入れることから付けられた。(ちなみに、八代目の『締め込み』の中に、「長火鉢にでこでこに火をおこして…」という台詞が出てくる。)江戸前の芸風で、廓を舞台とした『雪の瀬川』などの人情噺を得意とした。(左楽は、この文楽に憧れて落語家になった。拳を軽く握って膝に置く高座姿は、この文楽を真似たものだという。つまり、その名前を愛弟子にやろうとして、左楽は無理を通したのである。)
五代目は、その顔立ちから「あんぱんの文楽」と呼ばれた。地味だが軽妙洒脱な江戸前の噺家だったという。文楽の後「やまと」となり、その後実父の名前、桂才賀を継いだが、既に病床にあり、間もなく死んでいる。

こうして、八代目桂文楽は誕生した。五代目から引き継いだわけだから本来は六代目のはずだが、末広がりで縁起がいいとのことから八代目となった。もうこうなると、筋から言えば滅茶苦茶である。前述もしたが、左楽にそれほどの力があったのだろうし、文楽自身にそれほどまでにさせる魅力と可能性があったのだろう。しかし、文楽は左楽にとって途中からの弟子、当時はいわば新参者である。そう考えると、改めてこの襲名は異例ずくめだったことが分かる。
時に文楽28歳。後50年余り、死ぬまでこの名前を名乗り続けることになる。

2009年5月22日金曜日

石岡散歩

久し振りに平日の休み。
妻と外出しようと計画していたが、妻の用事が入りキャンセル。
加えて、下の息子の咳がひどく幼稚園を休ませた。
午前中は妻が用事を済ませている間、息子と遊ぶ。色んなおもちゃを出してくる。
昼は三人で焼きうどんを食べる。
午後は妻が「どこかに行って来なよ」と言ってくれたので、石岡に散歩に出かける。
いつもの中町の駐車場に車を止め歩き始めるが、今日は商店街の定休日だった。いつにも増してシャッター率が高い。
お気に入りの十七屋も東京庵もお休み。いつもはあまり行かない方へ向かう。
市民会館から国分寺辺りから駅前通と、1時間ばかりうろつく。
中町の紫園でアイスコーヒー。ビッグコミックスピリッツを読む。
妻と息子に、お土産に煎餅と団子を買って帰る。
今年初の真夏日。暑かった。

2009年5月15日金曜日

桂文楽 真打ち昇進

大正6年、さん生は五代目柳亭左楽のもとで、翁家馬之助を襲名し、真打ちに昇進した。
左楽の睦会は、東京演芸会社に対抗して結成された。三代目小さん、四代目圓蔵などの当時の大看板はこぞって演芸会社に参加した。したがって、睦会は若手を売り出すしか手はなかった。左楽は有望な若手を重用する。
その中に、馬之助もいた。彼の端正で明るく艶やかな芸は人気を呼んだ。中でも、三遊亭志う雀から教えて貰った『明烏』は強力な売り物になった。
『明烏』という噺は、新内『明烏夢泡雪』のパロディー『明烏後正夢』の発端の部分、稀代の堅物、日向屋時次郎の、吉原での初体験を描く。初午の日、遊び人の源兵衛と多助に「お稲荷さんのお籠もり」と騙されて、時次郎は吉原に行くことになった。(そこには息子の堅物さを心配した父親の意志も大いに反映されていた。)疑うこともなく登楼するが、やがて、そこが女郎屋であることに気づき大騒ぎする時次郎に、二人は「今一人で帰れば不審に思われ、門番に大門で拘束されるのが吉原の決まりだ」と脅す。やむなく時次郎は泊まることに同意する。そこで彼の敵娼で出たのが、絶世の美女、浦里。さて翌朝、二人が部屋を訪ねると、時次郎は昨夜至福の時を過ごしたらしい。二人は帰ろうとせかすが、時次郎は同衾している浦里と離れようとしない。業を煮やして自分たちだけで帰ろうとする二人に、時次郎はこう言う。「あなた方、帰れるもんなら帰ってご覧なさい。大門で止められる。」
当時は際どい描写もあったというこの噺を、馬之助は、品良く、さわやかな色気あふれる一遍に仕立て上げた。しかも、翌朝の場面で、多助がぼやきながら食う甘納豆の仕草が評判を呼ぶ。(この仕草は三代目三遊亭圓馬に厳しく仕込まれた賜であろう。)馬之助が『明烏』を演じた後は、売店の甘納豆が飛ぶように売れた。
こうして、馬之助は新進気鋭の若手真打ちとして認められるようになった。
大正8年、馬之助は最初の妻おえんと別れ、日本橋にある「丸勘」という旅館に婿に入る。桂文楽を襲名するのはその翌年。要は金のためである。
前に書いたが、おえんは大阪でお茶子をしていた。馬之助とともに東京に出て所帯を持った。おえんは、年下の馬之助に懸命に尽くした。売れっ子の若手真打ち、男っぷりもいい、素人玄人問わず、女にもてた馬之助に捨てられまいと必死だったのだろう。馬之助が足を挫いたときは、彼を背負って医者に連れて行ったという。私は『厩火事』のお崎さんは、このおえんがモデルではないかと見ている。
その糟糠の妻を、馬之助は(手切れ金は払ったというが)、いとも簡単に捨てた。当時のゴシップ紙には「馬之助のイロになると尻の毛まで抜かれる」と書かれる始末だった。

馬之助がめきめきと売れ出したのと同時期、古典の世界に近代的な解釈を施した短編小説を次々に発表し文壇の寵児となった青年がいた。馬之助と同じ明治25年生まれの、芥川龍之介である。

2009年5月13日水曜日

大洗鹿島線に乗る

水戸での宴会があるため、初めて大洗鹿島線に乗る。
私は別に鉄道ファンというわけではないのですが、いやあ、いいですねえ。
この鉄道には新しいというイメージがあるのだが、開通してもう20年以上か。
いい具合に味が出てるなあ。
田園風景の中を進むディーゼルカー。
山は目も痛いほどの新緑。所々で藤の花がぶら下がる。
眼下には田植えを終えたばかりの田圃が広がる。
基本的に高架を走っているので、本当に見晴らしがいい。
大洗駅手前では停泊中のフェリーが見えた。
景色もバリエーションがあって楽しめました。
ローカルの私鉄ということで経営は決して楽ではないだろうが、是非とも頑張って欲しいものです。

そう考えると、鹿島鉄道鉾田線の廃線は、今もって悔しい。
すぐそこが霞ヶ浦という所を走る唯一の鉄道だったのだ。
霞ヶ浦、筑波山(しかもその形が最も美しい角度で見ることが出来る)、昭和初期製の車両という完璧な組み合わせが楽しめる、我々にとって、本当に貴重な財産だったのだ。
もったいないことをした。この思いは、ずっとずっと忘れられないと思う。

2009年5月9日土曜日

GWのお出かけ

GW、唯一のお出かけは、江戸崎のポティロンの森。
アンパンマンショーをやっているすきに乗り物に乗り、お弁当を食べる。
その後、「わんぱく広場」で子供たちを遊ばせた。30分500円なのだが、時間を計っている様子はない。大らかなもんです。二人とも汗だくで飛び回っておりました。
そして、長男お待ちかねのビンゴ。DSが欲しいと言ってやたら気合いを入れていました。
リーチは早かったが、結局ビンゴならず。
不況のせいか商品が少なくなっていたなあ。
途中から雨が降り出し、帰る頃には結構な降り。
でも、皆、楽しかったみたいで、よかったよかった。
新緑が鮮やかで、気持ちのいい一日でした。

2009年5月4日月曜日

立川談志考 その3

立川談志は優れた評論家でもある。その著書も多い。
ただ、気になるのは、人の芸を語りながら、度々自己評価が挿入されることだ。それも自画自賛といっていい程その評価は高い。
例えば、五代目古今亭志ん生の芸を賛美しながら「でも家元のほうが深い」と言ってみせたり、五代目柳家小さんを「女が描けない」と批判しながら「俺様は何でも出来る」と胸を張ったりする。かつては「文楽師匠の芸なら3日で出来る」と豪語したという。
もはや今、談志を名人と呼ぶのにためらいを持つ者はいないだろう。斬新で確かな解釈、迫真の描写力、その高座は多くの人を感動させている。著名人にも熱狂的なファンは多い。今更「俺は凄い」と強調する必要はあるまい。それが談志の売りだとしてもだ。
自己評価が高い人、それを周囲に主張する人というのは「自分を認めて欲しい」という欲求の強い人である。そして、多くの場合「自分は正当に認められていない」と思っている人である。当代一の名人と自他共に認める立川談志もその一人であるというのは、いささか奇異な感じがする。が、実は談志もその一人なのではないか、と私は思う。
立川談志にはトラウマがある。多分それは自身の真打ち昇進時の記憶である。
談志は、二つ目時代からその才能を認められ、将来を嘱望されていた。と同時にその特異なキャラクターは「生意気だ」という悪評も生んでいた。そんな中、真打ち昇進において、談志は後輩の古今亭志ん朝、三遊亭圓楽に後れをとる。自分の芸に絶対の自信を持つ談志は、志ん朝に対し「昇進を辞退せよ」と迫り、圓楽の昇進時には悔しさのあまり号泣したという。前回触れた落語協会分裂騒動は、談志が志ん朝の香盤順位を下げようとして起こした陰謀であるという説もある。いずれにしろ、この真打ち昇進にまつわる一件は、談志の心に大きな傷を残したに違いない。
もちろん談志はそんなものに負けなかった。闘志をむき出しに落語と格闘した。その結果、談志は既成の名人像に収まらない高みに上り詰めた。にもかかわらず、今なお「俺を正当に評価しろ」とのたうち回る。それを人間くさいととるか、更に高みを目指す志があるととるか、痛々しいととるか、人それぞれだと思う。
新宿末広亭の席亭、故北村銀太郎翁はかつて「談志なんかもあるところまではゆくだろうが、歪んだ感じで進んでゆくことは免れ得ないんじゃないかな。」と言った。
その「歪んだ感じ」の方へ談志を押しやった屈折のおかげで、談志はかつてない形の名人像を作り上げた。しかし、その「歪んだ感じ」を、今の私は受け容れがたいのだ。

3回にわたって立川談志のことを書いた。
「志ん朝・談志」は、私たちの世代にとって「文楽・志ん生」と並ぶ「僕らの名人」と言っていい。おそらく我々は「団菊爺」ならぬ「朝談爺」になるだろう。青春時代の多感な時期に、志ん朝・談志の鍔迫り合いを見ることが出来たのは、私にとって、大きな幸運である。立川談志が大切な落語家であることに、今も変わりはない。
しかし、新興宗教の教祖のような今の談志に、私は強い違和感を抱いている。その違和感がどういうものなのか、うだうだと書いてみた。煮え切らない文章で、結局何が言いたいんだというような内容だが、今の私にはこれが精一杯である。