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2020年1月29日水曜日

昭和の温泉旅館パンフレット

物置から持って来た、昭和の温泉旅館パンフレット。
こういうのも捨てずにとっておいたのか。旅行が一大イベントだったんだろう。
私が子どもの頃、家族旅行なんかしたことなかったなあ。

ではまず、福島県飯坂温泉。黒門町の師匠、八代目桂文楽が噺の中で「いい酒、いいざけ(飯坂)の温泉」と洒落ていたっけ。





お次は栃木県川治温泉。





もう一つ、福島県東山温泉。



つげ義春の『長八の宿』に出てくる、ジッさんが船着き場で配っていたパンフレットも、こんなのだったんだろうなあ。

2020年1月23日木曜日

昭和の観光パンフレット

物置から、昔の観光パンフレットが出てきた。
多分、戦後のものだから、祖父や父がとっておいたのだろう。
いくつか紹介したい。

まずは本県の水郷。「風歌う緑のポプラ、水辺に咲くあやめ」のコピーが素敵だ。





お次は東京。ポップなイラストが素晴らしい。


こちらもポップなイラストが素晴らしい新潟。



今や世界遺産の日光。豪華パノラマ地図付きである。



奥日光から川治・鬼怒川まで網羅している。

讃岐、屋島。これも豪華パノラマ地図が付いている。

那須与一。美しい武者絵だ。



屋島をアップで。昔、高山T君と行ったなあ。
いいなあ。地図をつまみに何杯でも酒が飲めます。

2020年1月22日水曜日

続水戸射爆場のこと

以前、水戸射爆場の記事を書いた。

水戸射爆場のこと

現在のひたちなか市と東海村にまたがる広大な土地で、戦後米軍が爆撃演習を行っていた。射爆場の歴史は事故の歴史でもあって、前回は「ゴードン事件」について触れた。
他にも「那珂湊市街地誤射事件」というのがある。詳しいことが分かったので、ここで紹介してみたい。
昭和36年(1961年)11月、那珂湊市(現ひたちなか市)釈迦町の民家に米軍機の機関銃弾数十発が撃ち込まれた。釈迦町は那珂湊駅近くの繁華街だった。弾丸は寝ていた子どもの布団の脇にまで飛んできたという。
同月21日には当時の真名子調達庁次長が、日米合同委員会施設特別委員会の席上、米側議長のスパングラー大佐に演習中止を申し入れた。横田基地配属の第三爆撃連隊司令長官レオ・ハウエル中佐は、「誤射の原因は二重安全装置の故障で、パイロットの過失ではない。米空軍は直ちに補償問題を解決する」と語っている。
しかし、翌月13日から米軍は、市民からの抗議、決議文に何ら回答もしないまま演習を再開する。那珂湊市民はトラック3台に乗り、マイクで市内で演習再開を知らせながら射爆場までデモ行進。代表者がエバンス少佐と会見し抗議した。

下の図の〇印が誤投下のあった場所。いかに多発したかが分かる。


当時の新聞記事によると、昭和44年(1969年)までに周辺地域で起きた誤射、誤投下などの事故は約260件に上り、海辺で遊んでいた子どもや畑仕事に向かう途中の農家の人たちなど、5人の命が奪われたという。地域住民は土曜、日曜を除いて連日100ホーンを超える爆音にも悩まされた。保育園で昼寝をしていた幼児は一斉に泣き出し、小中学校では授業がしばしば中断した。生徒の学力低下も話題になったほどだった。
昭和39年(1964年)1月に移転先として伊豆諸島御蔵島が候補に挙がる。将来、東海村に原子力施設が集中することが予想されたため、政府としても出来るだけ早い移転が望ましいと考えたのである。しかし島民300人は立ち退き、天然記念物の動植物が生息する自然豊かな島を射爆場にするということで激しい反発を招き、同年5月には断念に追い込まれた。
その後、昭和41年(1966年)同じ伊豆諸島の新島移転が決定されたが、これも地元の強硬な反対に遭う。昭和44年(1969年)3月20日には防衛庁が設置計画と対策を発表するも聞き入れられず、ついに7月9日、米軍に断念を通告した。新島の代替地として、青森県三沢や沖縄県伊江島を挙げる声が上がったが、横田基地から遠いところから米軍が応じる見通しも立たず、結局、昭和48年(1973年)3月、移転無しでの返還が決まった。
跡地は、一時、原研の核融合研究所建設の話が持ち上がったが、結局、交通安全センター中央研修所と国営ひたち海浜公園として利用されることになった。

昭和45年(1970年)10月出版の「日本作文の会」が編集した『日本子ども風土記8・茨城』という本がある。この中に、那珂湊市立阿字ヶ浦中学校3年の生徒が書いた作文が収められていたので、紹介しよう。これが当時の日常だったのである。
  
  水戸射爆場

 キーン、ズズーン。

 クラスの友だちの、エンピツを持っている手が耳に行く・・・。
 こういうことが一日に何度となく繰り返される。これが私たちの実態なのです。これは、毎年話題になる、水戸射爆場が、私たちの学校から歩いて、約二、三分というところにあるためです。
 その射爆場の入り口は、立入禁止の立て札と、バラ線で固く閉じられています。
 そのため、交通も三角形の二辺となっても止むを得ず、わざわざ遠回りをして行かなければならないのです。
 すさまじい音にいらいらし、防音工事の新校舎がはやくできればよいのだがと、それを心待ちにしながら、三年生になってしまいました。
 残り少ない中学生活ですが、私たちの後輩を考え、同じ苦しみを、いやそれ以上かも知れない苦しみを味わわせたくないと思います。

国営ひたち海浜公園、見晴らしが丘を望む眺め。
初夏はネモフィラ、秋はコキアで賑わうが、冬枯れの光景は射爆場当時をしのばせる。


2020年1月16日木曜日

大正時代の東京落語界 ~演芸会社と睦会~


このブログで、昭和53年(1978年)に起きた、落語協会分裂騒動についての記事をいくつか書いてきた。
先日、コメントで「落語協会分裂は鈴本が仕掛人説」を知った。その後、大正時代の演芸会社設立にも鈴本が大きく関わっていた、ということもご教示いただく。そのコメントの中で紹介してくださった、上野鈴本のHPにある「寄席主人覚え書」という記事を読んでみた。これが面白かった。
ということで、演芸会社について、ちょっと調べてみたことを記事にしてみる。

「東京寄席演芸株式会社」は大正6年(1917年)8月、東京市内の有力な寄席が中心となって設立された。社長は上野鈴本席亭である。
『図説・落語の歴史』(山本進編/河出書房新社)に、『文芸倶楽部』(大正610月号)に出た会社設立の趣旨が載っている。以下引用する。
「寄席の営業法が依然古来の因習を守って時勢の進歩に伴わない、一方出演者がみだりに休演をして規律が正しくない、それらを根本的に改革するには、従来の歩合制では思うようなことができない、よって芸人を定給で抱えて、これを同盟の席に供給してもって革新をはかる。」
鈴本のHP「寄席主人覚え書」は三代目席亭、鈴木孝一郎(1880年生まれ、1961年没)が昭和32年(1957年)に東京新聞に連載したもの。この中で鈴木は演芸会社設立を「わたしの案」と言っているから、これが鈴本主導によるものだったことが分かる。
それに続けて、彼は「わたしとしては人員整理の腹もあったんですから、必要の芸人さえ残れば、あとはむしろ掃いちまった(お払い箱にしてしまった)方がさばさばしていいぐらいに思っていた」と言っている。
つまり、鈴木としては、要らない芸人を排除する意図を含んでいたということだ。この辺りに「企業論理第一の鈴本」の思想が見て取れる。
そういった意図が透けて見えたのだろう、その八月下席には反対派が立ち上がる。反対派は「一部の者だけが優遇されるとして月給の額に不満を持つ芸人と、従来の歩合制に固執する席亭」(『図説・落語の歴史』より)であった。

東京寄席演芸会社には錚々たる顔ぶれが並んだ。寄席側は、上野鈴本を筆頭に、神田立花、京橋金沢、浅草並木、両国立花、本郷川竹といったところ、芸人は、三代目柳家小さん、初代三遊亭圓右、四代目橘家圓蔵という当時の名人上手に加え、三升家小勝、柳家三語楼、六代目林家正蔵といった売れっ子、次代を担う、翁家さん馬(後の八代目桂文治)、三遊亭圓窓(後の五代目三遊亭圓生)などが名を連ねた。
一方、反対派の「三遊柳連睦会」は、会長四代目春風亭柳枝(後に華柳と改名)、副会長五代目柳亭左楽、大阪から、売れっ子の桂小南を迎えた。寄席は、人形町末廣、神田白梅、芝恵智十など。
メンバー的には、圧倒的に会社派が強い。睦会など到底太刀打ちできるはずがない。ところが、そうではないところが、人間の面白い所だ。
笠間稲荷神社、東門に、大正9年、睦会が奉納した額がある。そこには、当時の睦会の芸人や寄席の名前がずらりと並んでいる。





これを見ると、政治講談の伊藤痴遊、浮世節の立花家橘之助という大御所が参加、演芸会社から談洲楼燕枝、林家正蔵、金原亭馬生(後の四代目古今亭志ん生)が移籍し、講談からも神田伯山、神田伯龍といった実力者の名前が見える。
『図説・落語の歴史』では「芸人たちの意気込みに加え、当時抜群の話術で政治講談に人気を誇った伊藤痴遊の応援加入を得たことによって、形勢は睦会有利に傾いた」とある。
鈴本の席亭、鈴木孝一郎は次のように語る。
「(華柳、左楽という人は)芸よりも人を動かすことが巧くて、そこへいくとその点、まるでゼロの会社派の芸人はまるでお話になりません。でも、客が来なくても月給制だから芸人は驚かないが、客は来ないは、月給は払わなけりゃならないこっちはまるでお手上げです。」
「大正12年大震災で東京の寄席がめちゃくちゃになってしまったのを機会に演芸会社も解散してしまいました。」

理念だけでは人は動かない。昭和の落語協会分裂騒動でも見られた現象である。
『落語の歴史』(暉峻康隆/講談社)にも「天狗の多い咄家のことだから、査定された月給に不平を持つのも当然だし、また腕に自信のある咄家は、月給でしばられて稼ぎを制約されるのも不満であったろう。また席亭にしても、出演者の顔付けを会社から一方的におしつけられる制度では腕のふるいようがなく、これまた不満組が出たのはやむをえない」と書かれている。

ただ、大正の分裂騒動で東京落語界は活性化した。
層が薄い睦会は、若手を積極的に売り出した。そこで「睦の四天王」が生まれる。それが、八代目桂文楽、六代目春風亭柳橋、三代目春風亭柳好、初代桂小文治。彼らは戦後の落語黄金期に至るまで、長年にわたって落語界を牽引することになる。
また東西交流も盛んになり、上方ネタが流入し、出囃子の使用も始まった。
『図説・落語の歴史』に言う。「その結果として、芸の内容向上はさておき、興行面だけから見れば、大正初期の沈滞期をようやく脱し、東京の落語界は大いに活気を取り戻すこととなった。」

鈴本の仕掛けは失敗に終わったが、結果的に見れば、大正の落語ブームを生むきっかけとなった。鈴本としては不本意だろうけど。

2020年1月13日月曜日

寒くない冬

朝、パン、スープ、ハムステーキ。
天気がいいので、布団を干す。
暖かい。日当たりのいい部屋で聴く、ベニー・グッドマンはいい。
昼は妻と次男が買って来たモスバーガー。モスとチキンでコーンスープ。久し振り。旨し。
午後は石岡を街歩き。こちらも久し振りで楽しい。






帰りにウェルシアに寄ってハートランドビールを買う。
おやつでビール。旨し。
夕食はさんまの煮たの、回鍋肉、ポテトサラダで酒。
食後に赤ワイン。

この寒中に3月中旬並みの暖かさ。体は楽だけど、いいのかなあ。

2020年1月10日金曜日

ご先祖の写真

私の家は、私の曾祖母にあたる人が、明治時代に裁縫所を開いたことに始まる。
その裁縫所の写真が物置にあった。


うちのご先祖様については、以前記事に書いている。

ご先祖様
ご先祖様(肖像画)
続ご先祖様
ご先祖様 もうちょっと詳しく

お次は、戦死した伯父の農業青年学校の卒業写真。



伯父のついては、こちらの記事に詳しく書いた。

戦地からの葉書①
戦地からの葉書②
戦地からの葉書 その後

写真の力はすごい。それにしても、よく取っておいてくれたと思う。

2020年1月9日木曜日

浮島の火の見櫓 ~火の見櫓26~

稲敷市浮島を通っている時、火の見櫓を見つけた。
浮島地区では2つ目。
浮島は、かつて霞ケ浦に浮かぶ唯一の島だったが、干拓事業によって陸続きとなった。

では火の見櫓です。





半鐘付き、屋根付きという素晴らしい状態。大事にしてもらいたい。

2020年1月4日土曜日

山田うどん エビフライ丼とそばのセット

村松の帰り、昼食は山田うどんに入る。正月なので、早めの決断。


木曜日の日替わりメニュー、エビフライ丼とたぬきそばのセット。690円。
卵とじに間違いはない。
私にとっては街道沿いにあるチェーン店という認識だが、熱烈なファンがいるらしく、北尾トロとえのきどいちろうが、『愛の山田うどん~廻ってくれ、俺の頭上で‼』『みんなの山田うどん~かかしの気持ちは目でわかる!』という本を出しているらしい。
では、アップで。



安定の味。旨し。

2020年1月3日金曜日

村松に行く

昨日は村松虚空地蔵尊に行く。
毎年、親子四人で行っているのだが、今年は私が代表してお参りに行く。



子どもたちから頼まれたお守りを買う。
大判焼きと干し芋をお土産に買って、海を見ながらドライブ。
磯崎漁港の大漁旗を見る。





2時頃帰る。皆で大判焼きと干し芋を食べる。
夜は妹一家とともに総勢12人の大宴会。地元の銘酒「紅梅一輪」「男女川」、旨し。
うちの子どもたちも、いとこのお兄ちゃんたちにゲームでたっぷり遊んでもらった。いい気分転換になったかな。

2020年1月1日水曜日

謹賀新年

朝、雑煮。おせちで酒。
常会の新年会。12時半頃終了。
散歩がてら、村の鎮守に初詣。





夕食は鳥すき焼きで赤ワイン。

明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。
ブログもたらたら書いていきます。