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2009年2月28日土曜日

長谷川泰子『中原中也との愛ーゆきてかへらぬ』

長谷川泰子。中原中也と小林秀雄という二人の天才に愛された女、その人が語る一代記である。面白くないわけがない。
最初に愛したのは中原だ。泰子が売れない女優として京都でくすぶっていた頃、当時17歳の中原と出会い同棲することになった。劇団がつぶれて途方に暮れていた泰子に、中原が「僕の家に来てもいいよ」と言ったのだ。その日のうちに中原の下宿に行った泰子は、中原に迫られ関係を結ぶ。泰子に中原を愛した様子はない。泰子自身、中原との性交渉は嫌だったと言っている。
その後二人は上京し、小林秀雄を知る。やがて、泰子は都会的で優しい小林に惹かれ、小林のもとへ走る。泰子が小林と暮らすため中原の下宿を去る時、中原がその引っ越しの手伝いをしたのは有名な話だ。
しかし、小林と暮らし始めた泰子は潔癖性を病み、二人の生活は破綻する。小林は泰子から逃げ、姿をくらました。
失意の泰子は再び女優を志したり、中原に勧められて詩を書いたりしながら転々とする。そのうち、好きでもない男との間に子供ができるが、その男は泰子を捨てる。中原はその子の名付け親になるなど、何かと泰子の面倒を見ようとしたが、泰子は中原の所には決して戻らなかった。その間泰子は「グレタ・ガルボに似た女」コンテストで1位になったりもしたが、結局何者にもなれなかった。なりふり構わずのし上がる強さを、彼女は持っていなかった。
中原を「私の思想の故郷」と呼び、自分の原点と自覚はしていたものの、泰子が愛したのはずっと小林秀雄だった。
考えてみれば、定職を持たず中学までの学歴しか持たない田舎者の中原と、東大出のエリートで洗練された都会育ちの小林では、女にもてるということについては勝負にならない。小林は旅館の朝食にオイルサーディンを食べ、女郎の手土産にも美家古の穴子寿司を持っていくような男だ。新進気鋭の評論家として認められるほどの知性もある。とうてい中原ごときが太刀打ちできる相手ではない。だが、中原には物事の本質にずばりと迫る天才的な感性があった。小林は後年中原に「お前は千里眼だよ」と言ったという。世間的には大きな開きはあったが、小林は内心この年下の詩人に畏敬の念を持っていたと思う。
結局、泰子は小林とも中原とも結ばれなかった。
やがて、中原は遠縁の女と結婚し、泰子はある実業家と結婚する。二人の間にも適度な距離ができて穏やかな付き合いができるようになったのもつかの間、中原は長男を亡くしたショックで精神を病み死んでしまう。中原の死後、泰子の夫は中原中也賞を設立してくれ、立原道造が第1回目の受賞者となる。
第二次大戦後、泰子は夫と別れた。宗教の世界に入り、長年横浜でビルの管理人を務め、晩年は湯河原の老人ホームに入った。それでも、度々東京に出て昔の仲間に会っていた。その仲間は、青山二郎、大岡昇平、河上徹太郎といった錚々たる人たちだった。彼らは泰子の面倒を実によく見た。彼らにとって泰子は、小林、中原と共に青春そのものであり、アイドルであったのだと思う。
中原の熱狂的なファンのストーカーめいた行動に悩まされながらも、凛とした佇まいをくずすことなく泰子は88歳でこの世を去った。巻末に70歳の泰子の写真がある。巻頭にある若き日の写真より、私は美しいと思う。

2009年2月27日金曜日

カツ丼はさらに重く運ばれてきた

子供の頃、外食でしみじみとうまいなあと思ったものは、あまりない。カレーライスは子供の口に辛すぎたし、ラーメンは、正直言ってサッポロ一番みそラーメンの方がおいしく思えた。町の食堂でお金を出して食べるものより、ただで家で食べる物の方が好きだったのである。 
そういう思い込みを根底から覆したのが、カツ丼だった。 
カツ丼に関して一番古い記憶は、小学校の低学年の頃である。親戚と一緒に鹿島神宮にお参りに行き、食堂に入った。中学生になっていた従兄は、かたやきそばなんぞというコザカシイものを頼んでいたが、私は勧められるままカツ丼を頼んだ。これがうまかった。
それまでにとんかつは食べていたのだが、それとは全く違うものに思えた。それだけでもおかずとして成立するとんかつを、さらに卵をからめて煮てご飯の上にのせるという行為に感動すらおぼえたのだ。そのときの私の気持ちを表すとすれば、多分こんな言葉だ。「藍は藍より出でて藍より青し」、「カツ丼はカツより出でてカツよりうまし」。 
三上寛の唄に「カツ丼はさらに重く運ばれてきた」という歌詞があるが、やはり(それが出前であっても)、カツ丼は瀬戸物の丼で重く運ばれてくるのが望ましい。あの左手にかかる、ずっしりとした重量感こそが、カツ丼にもっともふさわしい。
食べる時には、おれの場合、まず一番手前のカツを二番目のカツの上に載せるね。そして、あざやかに露出しためしを、わしわしと食べる。丼のふちとカツの間のめしをすっかり食べ終えたあと、おもむろにカツを食べる。こうして順順に食べ進んでいくと、最後にカツが一切れ残る。それをお茶とともに余韻を楽しみながら食べるのである。 
この近くでは小川の小月庵がうまい。何の変哲もない町のそば屋だが、肉厚の、とても優しい味のカツ丼が出てくる。この頃は年齢のせいか、昔ほど頻繁には食べないが、時々無性に恋しくなる時がある。
以前、北海道を旅した時、最終日にどうしてもカツ丼が食べたくなって、室蘭の食堂でカツ丼を頼んだ。持ってこられて驚いた。それはカツ煮を皿に載せ、白いめしを丼に盛った、いわば「カツ煮定食」というべき代物だったのだ。これは丼もんじゃないよなあ、私はそうつぶやきながら、カツ丼の世界の奥深さに、暫し呆然としたのであった。  

2009年2月26日木曜日

師匠の影法師

だいぶ前の話だが、八光亭春輔の落語を聴いて驚いた。師匠である八代目林家正蔵に、実によく似ているのである。口調といい、間の取り方といい、声がひっくり返る所まで、そっくりなのだ。 
春輔といえば、真打昇進時に、故三遊亭圓生から名指しで、「あれはセコでげす。」と言われたことでその名を知られた。考えてみれば、これほど不幸な名の知られ方はない。この時の大量真打昇進問題で、圓生は落語協会を離脱するという大騒動となった。もう30年も前の話である。 
春輔の噺は、正蔵そっくりであったが、少しもいやな感じはなかった。師匠への敬慕の情が感じられて、かえって暖かい気分になった。 
師匠そっくりといえば、もう一人、思い出さずにはいられない落語家がいる。春風亭一柳。圓生門下では三遊亭好生といった。人呼んで「圓生の影法師」。師匠圓生を尊敬すること神の如し。その結果、口調から高座における立ち居振舞い、何から何まで圓生に似てしまった。 
彼の不幸は、それほどまでに尊敬した師に、徹底して嫌われてしまったことだ。この辺のことは、彼の著書「噺の咄の話のはなし」に詳しい。特に圓生の落語協会離脱時の一柳への仕打ちは、残酷といっていい。 
では、なぜ圓生が、そんなに一柳を嫌ったのだろうか。自分を敬愛し、その芸を忠実になぞる弟子は、異端を嫌う圓生にとって、可愛い存在であってもよさそうなものなのに・・・。 
ここで私は、昭和の名人、六代目三遊亭圓生が、若い時分にはまるで売れなかったという事実に思い当たる。古今亭志ん生も売れなかったが、彼には「売れなかったが、噺は本寸法でうまかった」という評価がある。しかし、こと圓生に関しては、「気障なばかりで、まずかった」という話ばかりなのである。 もしかしたら、圓生は、一柳に若き日の自分を見てはいなかったか。昭和の名人として落語界に君臨し、誰もがその至芸を賞賛する圓生にとって、一柳の存在は、忌まわしき過去を思い出させるものだったのではないか。もちろん、これは推測でしかない。危険な見方かもしれないが、私はそう思わずにはいられない。 
一柳は、圓生が死んでほっとした、と書いた。師匠との愛憎からも、それで解放されるはずだった。しかし、程なく彼は自ら命を絶った。「自分の間(ま)が、確立できない」と悩んでいたという。一柳は、ついに「師匠の影法師」から解放されることはなかったのだ。

2009年2月24日火曜日

土浦の雛祭り

この前の週末、昔の職場の仲間との飲み会で土浦に泊まる。
せっかくなので二日にわたり土浦の街をうろつく。
街は「雛祭り」の真っ最中。方々の商家で、蔵に眠っていた雛人形を持ち出し店先に展示している。真壁で当たってから、石岡、土浦と歴史のある街が軒並み始めた。
いつもはそれほどでもない中城通りが、リュックを背負った中高年で結構な賑わい。土浦は交通の便がよく、人も集まりやすいのだろう。
ざっと見物して、亀城公園へ向かう。途中、古本屋で「縮図」(徳田秋声)、「東京の下層社会」(紀田順一郎)を買う。2冊で200円。安い。公園は土屋氏の居城跡。以前、建物は楼門しか残ってなかったが、平成になって東西2つの櫓を再建した。ここはいつも落ち着いた雰囲気で、私は好きだな。
隣にある市立博物館に入る。今日は一人なので、じっくりと見て歩く。歴史のある街だけに見応えがありますな。
それから大手通りから再び中城通りへ。折からの強風で歩きづらく少々疲れた。いつもの「蔵」に入るもほとんど満席。やっとひとつ空いた。最近お気に入り、ホットアップルタルトとコーヒー。先程買った本を読む。
充分休んで、櫻川沿いに出、ぶらぶら歩く。
ゑびすやに投宿。大満足の大宴会。みんないいおじさんになったなあ。でも話し出すと変わんないんだよなあ。
翌朝は9時にチェックアウト。匂橋を渡る。白き鳥の嘴と脚と赤き鴫の大きさなるが盛んに飛び交う。
亀城通りに出ると、今日もリュックを背負った中高年(私もそうだ)がいっぱい。
真鍋の宿まで歩く。所々で子供が路上に出て遊んでいる。街の子だねえ。こっちの方までは観光客は来ない。1時間ほど歩き、またぶらぶらと土浦に戻る。商工会のテントでお汁粉を配っていたのでご馳走になる。熱くて旨い。白玉を久し振りに食べた。
駅前のイトーヨーカドーで「昔の土浦の写真展」を見る。私は古い写真を見るのが好き。いいねえ。宝の山だ。昭和40年代の写真がなかったのが残念。次回に期待したい。
昼食は「小櫻」。10分並ぶ。またもや小櫻麺。えびまこに惹かれた。今度は別のに挑戦してみよう。
お土産に高月堂の利休ロールを買って電車で帰る。普段は甘いものを食べない下の息子が、この利休ロールはばくばく食べた。お勧めですよお。

2009年2月19日木曜日

石岡を歩く

出張で石岡に行く。
昼食は稲吉屋でランチ。中国みそそば、シューマイ、杏仁豆腐。
会議の合間に時間があったので、また町に出る。
喫茶サニーでコーヒー。まったりする。
会議後、飲み会が流れたので、その辺で飲んで帰ろうと思い、またもや町をうろつく。
小野越に入る。モツ煮込みでビールの中瓶。その後燗酒と鴨汁そばを注文。そばは太目。
茹で立てがいいと思い、まずはそばをたぐる。口中に広がるそばの香り。旨い。
汁の鴨肉、葱をつまみに酒を飲む。これまた旨い。
1時間ほどで店を出て帰った。
たまには仕事帰りに一杯、というのもいいもんですな。

2009年2月15日日曜日

桂文楽 落語家入門

益義が東京へ帰った時、母は本多忠勝という旗本出身の男と再婚していた。この男が二代目三遊亭小圓朝と懇意であったことから、益義は初代桂小南を紹介され、入門することとなった。
ちなみに、二代目小圓朝は五代目古今亭志ん生の最初の師匠。志ん生が入門するのは、文楽の二年後のことになる。
こうして、益義は浅草河原町の師匠小南の家で内弟子として住み込むのだが、これもまた体のいい厄介払いとはいえないだろうか。
ともかくも、桂小南の弟子で桂小莚。これが八代目桂文楽の落語家としての第一歩であった。
明治41年11月3日、奇しくも16歳の誕生日、小莚は神田連雀町「白梅」で初高座を踏む。演目は素人時代に聞き覚えた『道灌』。緊張で何を喋ったか覚えてはいないが、楽屋にいた先輩の落語家に、「小僧さん、お前さんは噺家になれますよ」と言われたという。その後、彼は『道灌小僧』と異名をとることになるが、その話はのちほど。
小莚の師匠である初代桂小南は、豆電球を羽織につけて宙づりになって『夜這い星』などを踊り、人気者になった上方出身の落語家だった。東京落語は一つも出来ない。
そこで小莚は下谷黒門町に住む立花家左近の所に稽古に通うことになる。
立花家左近、後の三代目三遊亭圓馬。父は大阪の落語家月亭都勇。最初、笑福亭木鶴に入門し小勇を名乗るが、浮世節の大家、立花家橘之助に見出され東京に出てきた。大阪生まれだが、見事な東京弁を駆使し、新進気鋭の若手落語家として将来を嘱望されていた。
左近は間もなく真打ちに昇進、朝寝坊むらくを襲名し、浅草三筋町に居を構える。その三筋町の家へ小莚は毎日通い詰めた。
早朝、小莚は、師匠小南の家の掃除を済ませるとすぐむらくの家に駆けつけ、表を掃除しながらむらくが起き出すのを待つ。むらくが起きると家の中を掃除。やがて、むらくのもとには修業中の落語家が稽古にやってくる。(その中には、後の四代目小さん、五代目、六代目の圓生など錚々たるメンバーがいた)
来た順番で小莚から稽古が始まるが、むらくは「だめだ、だめだ」と言って彼を後に回してしまう。そうして、最後にみっちりと小莚に稽古をつけるのだ。その稽古は厳しさを極めた。後に文楽は「どうしてあたしにだけこんなに厳しいんだろうと思いました」と語っている。
稽古は厳しかったが、合理的だった。小莚の発声を聞いて「お前のは川向こうの人に話しているようだ」と言い、長屋の見取り図を書いてくれたり、「ええ」という口癖を矯正するのに小莚が「ええ」と言う度におはじきを投げてその頻度を数値化し、目に見える形で認識させたりした。仕草の稽古では物差しで手の甲を腫れ上がるほど叩いて体で覚え込ませたという。(このおはじきと仕草のエピソードは正岡容の『小説・圓朝』の中で、若き日の圓朝に対する師匠二代目圓生の稽古の場面で使われている)小莚は、この厳しい稽古に耐えた。というよりむらくに必死にすがりついた。彼について行くことが小莚にとって落語家としてやっていく唯一つの道だったのだ。

2009年2月11日水曜日

ハンタマ

妻子を連れて、塩原ハンターマウンテンスキー場に行く。
北関東自動車道が、東北道につながったおかげで、大分便利になりました。
午前中はキッズひろばで雪遊び。
午後はそり遊び。
息子二人、夢中で遊んでおりました。
帰りに千本松牧場に寄ってソフトクリーム。
東北道のサービスエリアでは、餃子フランクなるものを食べました。餃子の餡の味がするフランクフルトソーセージ。なかなか美味しゅうございました。
5時過ぎ帰宅。
夕食は、帰りにスーパーで買った焼き鳥と鯵フライで、ビール、酒。
妻が早くに寝てしまったので、古今亭志ん朝の『五人廻し』を聴く。至福の45分間。言葉にならない。

2009年2月5日木曜日

少年期の桂文楽3

東京で職を転々とした益義だが、16の年、東京の家を出て横浜に舞い戻り、いとこがいたマルカという米相場の店に勤める。益義が女の味を知るのはこの頃。ある女郎屋で花魁の方からのお見立て、といえばとんだ「明烏」だが、相方は30余歳の大年増であった。後年、年上の女性と数々の浮き名を流す文楽の、最初の女もやはり10以上も年上の女だった。
しかし、このマルカ、実態のないノミ屋で、程なく廃業。益義は方々の株屋を泊まり歩くうち、土地のやくざ、カネキという家に出入りするようになる。下働きをしたり、博打の人集めをしたり、もうこうなると立派な不良少年ですな。
そのうち、益義はこの親分の養女といい仲になる。得意の絶頂にあったが、やがて事が露見し、彼は袋だたきにあった挙げ句、放逐される。後年の艶福家、桂文楽の初めてのしくじりだ。
手痛い制裁を受けた後、ぼんやりと湯屋に入ったが、番台のおかみさんに声を掛けられ改めて自分の体を見、その傷の惨たらしさに益義は気を失ってしまう。傷が治るまで、その湯屋で厄介になって、やっとのことで東京へ帰った。その時迎えてくれた母親に「お前が手水鉢の側の南天の木に縛られてみんなにぶたれている夢を見て、心配していたんだよ」と言われ、彼はその場へ泣き崩れたという。

閑話休題。文楽の盟友、五代目古今亭志ん生は、15歳で家を出て、そのまま生家には帰ることがなかった。
志ん生は自ら家を捨て、文楽はいきなり奉公に出されるといった形で家に捨てられた。二人はその後、同じように明治の不良少年となり、芸人としての道を歩むことになる。
志ん生は、人に見放されようが己を貫き通して自分の道を切り開き、文楽は自らの才覚で周囲を味方につけながら自分の道を切り開いていった。一方は自ら家を捨てた者、一方は家に捨てられた者の、精一杯の「普通人のはぐれ者」としての生き方だったに違いない。

2009年2月1日日曜日

漫画を買う

晴れ。強風。
妻子を連れて、千波湖に行く。
白鳥、鴨、鳩にビスケットをやる。
昼食はロックシティ。丸亀製麺でかけうどん大盛り、かしわ天。
本屋で、林静一『赤色エレジー』、阿部夜朗『深夜食堂』①、③を買う。
『赤色エレジー』は復刻版。昔、小学館で出した漫画文庫を持っている。
が、今回のは漫画とともにアニメの台本も載っていて二度美味しい。
漫画はかなり省略や抽象的なシーンがあって、難解な部分があったが、アニメの台本のおかげでその辺りがすっきりする。 それにしてもこの人は絵が上手い。一コマ一コマが、優れたイラストレーションだな。 まさに絵師といった感じ。
今、絵師と言えるのは、この林静一と江口寿史かな。
『深夜食堂』は2巻を買って面白かったので、揃えようと思っていていた。
ビッグコミック系らしくいい話だ。こういう大人の漫画が、この頃はしっくりくる。絵も達者。
しばらくこれで楽しめそうです。