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2009年11月29日日曜日

穏やかな週末

昨日は妻子を連れ、麻生温泉へ。
ゆっくり温まる。
小春日和。
霞ヶ浦に帆引き船が浮かぶ。絶景。
湯上がりのサイダーが旨い。

今日は妻子とつくばに出かける。
すっかりクリスマスの装い。
西武で古本市をやっている。
『藝談』(東京新聞社・昭和25年刊)、『野球の好きな少年少女へ、ぼくの野球コーチ』(川上哲治・昭和33年刊)、『長枕褥合戦』(風来山人・昭和27年刊)の3冊を買う。
どれも、まあすごいな。
子どもたちはメリーゴーランドに乗ってご満悦。
夕食は、ピザ、ミートローフ、サラダ、フランスパンで赤ワイン。
パンにタルタルソースを塗り、サラダのレタスとハムを挟んで食べる。旨し。

2009年11月20日金曜日

寒い日

昨日は平日の休み。
下の子がインフルエンザ。昨夜まで高熱でしくしく泣いていたのに、タミフル飲んだらもう元気になった。上の子は弟のおかげで出校停止。
1日、子どもと遊ぶ。将棋を3回もやっちゃった。
冷たい雨。
夕食はビザ、ナポリタン、パン、サラダでボジョレーヌーボー。
子どもを寝かしつけて、ボウモアを飲む。
寝酒にアイリッシュウイスキーを飲むのが、この頃のお気に入り。
氷は入れず、少量の水で割る。こうすると味の角が取れるのだ。
鼻腔に潮の香りが広がる。

   海にゐるのは、
   あれは、人魚ではないのです。
   海にゐるのは、
   あれは、浪ばかり。

中原中也の『北の海』が、思わず口をついて出てくるのでした。

2009年11月16日月曜日

田山花袋『田舎教師』

このところ昔読んだ本を読み返している。これもその一つ。
高校生の頃読んだときはつまんなかったなあ。でも、今読んでみると面白いのよ。
青雲の志を抱くものの、家の貧困のため、やむなく小学校の教員になった青年、林清三。
友人は東京の学校に進み、学問に恋愛に青春を謳歌している。それを羨望の眼差しで眺めつつ、自らも文学や音楽で世に出ようと試みるが、結局挫折してしまう。密かに想っていた女も親友に取られ、絶望の淵に落ちる。
一時女郎買いにはまり身を持ち崩しかけるが、やがてその女郎が身請けされ店からいなくなると、目が覚め立ち直る。平凡の尊さに気づき、日々の生活に向かうようになるのもつかの間、病魔が清三を襲う。肺病を病み衰弱し、日露戦争の遼陽陥落を祝う提灯行列賑わう中、息を引き取る。
切ないねえ。
皆、若いうちはひとかどの人物になりたいものだ。人間として生まれてきたからには、人の世にわずかでもいいから自分の名前を残したい。しかし、実は名も知られず死んでいく人の方が圧倒的に多いのだ。しかも、実際に世の中を支えているのは、一握りの名を残した人ではなく、名もない多くの人々なのである。
多くの人にとって人生とは、自分は特別な人間ではないということを知っていくことなのかもしれない。そして、自らの平凡と向き合い、自分と自分に関わる人たちの幸福への道を探っていくものなのだ。
清三は、恋に破れ、功名に挫折し、女の肉に溺れた。そうした体験をくぐり抜け、やっと平凡の尊さに気づいた直後、死病に冒された。日々衰弱していく清三が、路傍の草花を丹念に書きとめ(「じごくのかまのふた」「ままこのしりぬぐい」なんて名前の植物があるんだねえ)、元教え子との淡い恋に想いを寄せる。私は、この人は死ぬのだろうなと思いながら読み、死なないですむ終わり方はないものかと思いながら読んだ。
主人公は実在の人物をモデルにしている。実際にこういう人生を歩んだ人がいて、結核で死ぬ人が多かった時代、それがそんなに特異な人生であったわけでもないのだろう。
時折差し挟まれる「ラブ」や「ライフ」などの英語が何とも気恥ずかしいが、若者の稚気がよく出ていて微笑ましい。一度女の肉を知った後、それに溺れていくのも気持ちは分かる。元教え子との恋も応援したくなった。林清三は、至らぬところは多いが、側に行って手を差し伸べたくなるようないい奴だったな。
この小説の読み所をもうひとつ。片田舎の自然描写がすばらしい。清三の功名心や鬱屈とは関わりなく悠然と流れる四季の移ろいがいい。
ちなみに、この舞台となっている埼玉県の羽生・行田・熊谷にかけての辺りが、妻との交際時代よく通った所なんだよねえ。私事で申し訳ない。

2009年11月12日木曜日

桂文楽 落語研究会

昭和3年3月11日、第2次落語研究会の第1回が開催された。
ここに文楽は十八番の『明烏』で出演している。
トリは蝶花楼馬楽(四代目小さん)で『長屋の花見』。その他に、五代目三遊亭圓生『二番煎じ』、八代目桂文治『星野屋』、春風亭柳橋『子別れ』と錚々たるメンバーが、それぞれの得意ネタで競演した。若手では三遊亭圓楽(八代目林家正蔵)、橘家圓蔵(六代目圓生)が名を連ねている。
第1次落語研究会は明治38年発足した。
三遊亭圓朝の死後、東京の落語界を席巻したのはステテコの圓遊、ラッパの圓太郎、ヘラヘラ坊萬橘、釜掘りの談志という珍芸四天王だった。
中でも圓遊はそれまでの人情噺を大胆に滑稽噺に改作し、大人気を博した。それは現在演じられているほとんどの落語が、圓遊の影響を受けているといってもいいほどだった。
圓遊を中心とした珍芸は分かりやすく、大量に流入した地方出身者に圧倒的支持を受けた。
一方、そのため寄席ではまともな噺ができないような状況になる。
そのような現状を憂いた知識人や初代三遊亭圓左が中心となって立ち上げたのが、この落語研究会である。
色物なし。事前に演目が公表され、1席の噺をサゲまできちんとやる。後のホール落語の原型となる落語会であった。
この会で四代目橘家圓喬、初代三遊亭圓右、三代目柳家小さんは名人の名を不動のものにし、三代目蝶花楼馬楽(狂馬楽)、初代柳家小せん(盲の小せん)、四代目古今亭志ん生(鶴本の志ん生)、三代目三遊亭圓馬らが抜擢され、世に認められた。
第1次落語研究会は、結局、大正14年の関東大震災で中絶してしまう。それが、圓蔵の奔走で見事復活を遂げたのである。
自分が終生憧れた圓喬、芸の師圓馬らが出演した会に、しかも、その復活第1回に中心メンバーとして出演する。文楽もさぞ晴れがましかったにちがいない。

2009年11月8日日曜日

桂文楽 文楽と志ん生②

志ん生がどん底を味わったのは、ずぼらだったというだけではなかった。
彼は自分のやりたいようにやった。
浅い出番でも平気で大ネタをかけた。
四代目橘家圓喬に憧れ、きちっとした芸風だった。痩せて髪が薄く、多少反っ歯の気味がある。「死に神」とあだ名されるような陰気な顔立ちだった。後のふっくらした容貌からは想像もつかない。
志ん生の後に出る芸人はたまったものではなかった。彼は完全に寄席の流れを無視していた。自分のやりたいようにやる、それを最優先する。それも志ん生の居場所をなくしていく、大きな要因だった。
文楽は違う。文楽は周囲を味方につけることで、自分のやりやすい環境を作った。
初奉公で懸命に勤め主人に可愛がられた。三代目圓馬に食らいつき、五代目左楽に付き従い、圧倒的な信頼を得る。久保田万太郎、正岡容、安藤鶴夫などの評論家に気に入られたことで名人という評価を受けることになる。
決して器用な質ではない。計算尽くで取り入ったわけでもないだろう。文楽は必死だったのだ。必死で自分の周りの環境を整えたのだ。
多分それは、最愛の母から捨てられるように奉公に出されたという彼の少年期の体験によるのではないか。いきなり他人の中に放り出された文楽は、周囲を心地よくすることで味方にし、自分の有利になる方へもっていく、というやり方を必死で身に付けたのではないだろうか。
一方、志ん生は放蕩の末、自分から家族を捨てた。落語家になっても自分から飛び出す形で団体を転々とした。周囲に合わせて自分を曲げることより、リスクを負っても自分のやりたいようにやるということを、一貫してやってきた。
対照的に生きた二人だが、二人とも係累を持たない中で、それぞれのやり方でのし上がっていった。二人の友情は有名だが、それはどこか戦友に似た関係ではなかったか、と私は思う。

2009年11月3日火曜日

桂文楽 昭和初期の東京落語界

大正から昭和にかけての落語界は、様々な団体が生まれ離合集散を繰り返していた。
やがて、月給制をとった寄席演芸会社をルーツとする東京落語協会と、月給制に反抗し歩合制をとった落語睦会にほぼ二分されるが、さらに大正15年、東京落語協会から柳家三語楼の一門が離脱、落語協会(通称三語楼協会)を設立する。この三つ巴の状況で東京の落語界は昭和を迎えることになる。(講釈師を辞めた志ん生が、睦会に入れてもらおうと五代目左楽を訪ねて拒絶され、三語楼門下になったのはこの年のことだ。)
最近買った保田武宏の『志ん生の昭和』には、この辺りのことが整理されていて大変参考になる。
睦会は五代目左楽を中心に、六代目柳橋、八代目文楽、初代小文治、三代目柳好の睦四天王が売れ、勢いがあった。一方、東京落語協会は五代目三升家小勝、三代目柳家小さん、八代目桂文治などの大看板が揃う。他に蝶花楼馬楽(後の四代目小さん)、三代目金馬などがいた。三語楼協会は、柳家三語楼、金語楼、小三治(後の七代目林家正蔵、三平の父である)、権太楼、東三楼を名乗っていた志ん生といった面々。五代目三遊亭圓生は睦会から三語楼協会に移籍、再び睦会に戻り、さらには東京落語協会に加入するといった具合だった。
しばらくこの三派を中心に、多少の落語家の移動があったり提携したり離れたりしながら、微妙なバランスを保っていたのだが、やがて三語楼協会が分解する。金語楼の台頭が師三語楼との不仲を招いたのだ。
結局、三語楼は東京落語協会の軍門に下る。当時、志ん生は柳家甚語楼を名乗っていた。隅田川馬石に改名し、一旦フリーとなるも、にっちもさっちもいかなくなって師匠三語楼のいる協会に加入し、名前も柳家甚語楼に戻す。
金語楼は昭和5年、柳橋とともに日本芸術協会を設立。金語楼はやがて、落語の世界にとどまらず、映画、喜劇へと活動の場を広げていくことになる。
昭和7年、三語楼は協会を飛び出す。志ん生はそこで三語楼と別れ、鶴本の志ん生門下にいたときの名前、古今亭志ん馬に改名した。この辺りから志ん生にも日が当たり始める。上野鈴本の支配人に目をかけられ、寄席の出番が増える。その年の11月には、文楽に誘われ睦会の高座に上がった。翌昭和8年には正式に睦会に加入することになった。そして、昭和9年、「若手三十分会」で文楽・志ん生はついに同じ土俵で競演することになる。ここで志ん生は、後に彼の代名詞ともなる『火焔太鼓』を演じたのだった。

2009年11月1日日曜日

圓楽死す

三遊亭圓楽が亡くなった。
文楽・志ん生に圓生を加え昭和の名人とするなら、平成の名人は志ん朝・談志に小三治を加えた3人であろう。
そして、落語の大衆化に大きく貢献した者として、昭和の三代目金馬に匹敵するのが、この圓楽であると私は思う。
そういえば、二人とも声がいい、男っぽい、博識でもある。
功罪相半ばする人であるとは思うが、一時代を作った誰もが認めるスターであった。
晩年の著書、『圓楽 芸談 しゃれ噺』は面白かった。
晩節を汚すことなく引退し、次の圓楽を作った。重い腎臓病、再発した癌、覚悟の最期だったと思う。
立川談志のコメントがとても短いのが印象的だった。
冥福をお祈りします。