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2013年12月30日月曜日

長男と東京に行く

先日、妻と次男が親子キャンプに参加した。
妻が「東京にでも遊びに行っておいでよ。」と言うので、ありがたく長男とお出掛け。
電車大好きの長男は大喜びだ。
まずは上野に出る。不忍池のすぐ側にある、下町風俗資料館を見る。
本当は江戸東京博物館に行くつもりだったが、年末で休館。だいぶスケールは小さいけど、こっちはこっちでいい味を出してます。
1時間ほど見学し、アメ横を歩く。息子の手を引いて年末のアメ横の雑踏を歩いていると、昔、親父に連れられて歩いたことを思い出す。
昼飯は、アメ横を出たとこの「じゅらく」。長男はデミグラスソースのオムライス、私はカキフライ定食で生ビール。
そして、私の念願、親子の寄席見物。鈴本、池袋は休業。浅草は特別興業で二つ目競演。トリは桃月庵白酒で私の好みなんだが、いかんせん色物がほとんどない。息子の寄席初体験は、やはり定席を見せたい。というので、新宿末広亭に連れて行く。ここはお父さんが学生時代のホームグラウンドだったんだよ。
末広亭は満席。二階席も使っていたな。昔のままの佇まいだが、椅子が改善されていた。何しろ末広亭は15年振りか。
トリまでたっぷり堪能して帰る。
夕食は、石岡駅前、福々食堂。長男は炒飯、私はモツ炒めで燗酒。
一緒に風呂に入り、一緒に寝る。
いい一日だった。長男はまた一緒に寄席に行ってくれるという。嬉しいなあ、また行こうね。

寄席のレポートはまた後日。

2013年12月28日土曜日

高浜を歩く②

この間、高浜を歩いた時、撮った写真の続編。

肉屋の大和屋さん。コロッケとかとんかつとか旨いよお。
親鸞上人爪書阿弥陀堂。どんないわれがあるのか、よくは分かりませんが。


なかなかいい雰囲気でしょ。
 高台にあるお堂。
こんな感じは映画『転校生』にでてきそう。
ここからは霞ヶ浦が望める。

古い歴史を持ついい街なんだけど、あまり関心を持たれないうちに古い建物がどんどんなくなっていくんだよねえ。

2013年12月23日月曜日

高浜を歩く

長男のピアノ教室の送迎のついでに、高浜の街を散歩する。
石岡市高浜。昭和の大合併前は新治郡高浜町だった。
霞ヶ浦の舟運で栄え、古い建物が多く残っていた。それも大分減ったなあ。震災で傷んだ建物も多い。
でも、歩いてみると、まだまだ味のある街だ。ただ道が狭く歩道がないので、歩きづらいんだよねえ。

まずは土蔵からアップします。

2013年12月21日土曜日

「S大寄席」復活に思う

大福さんのブログで、「S大寄席」の復活を知った。
私が現役の落研部員だった頃、対外発表会は「みな好き会」と「S大寄席」の二つ。(入学の前年までは「落語長屋」があった。この「落語長屋」は、4年の時、八海君が主導して復活させた。)
中でも「S大寄席」は、対外発表会では最高の位置づけにあった。(「みな好き会」の時に出される機関紙「与太郎」がガリ版刷りであったのに対し、「S大寄席」の機関紙「かぜ」は、本格的に印刷所で刷られたものだった。)
その「S大寄席」の復活は、OBとして嬉しい。
ここからはおじさんの愚痴。ちょっとだけ言わせてね。その復活が「第1回」と銘打たれたことに関しては、少しだけ寂しい。
「新たなスタート」という意図はよくわかる。けど、何となく「今までが無かったことにされた」ような感じがしてしまうのよ。
1年の時、初高座で酒合丈君に後れをとって悔し涙を流したこと。『締め込み』に悪戦苦闘したこと。最後の発表会『芝浜』でトリをとったこと。どれもS大寄席での思い出だ。私個人だけのことではない。二代目紫雀さんの『居残り佐平次』、三代目梅之助さんの『柳田格之進』、三代目紫雀さんの『笠と赤い風車』などの歴代のトリの名演、現役の頃、昔の「かぜ」を見ながら思いを馳せた、二代目金瓶梅さんの『芝浜』など、それらが皆「無かったこと」にされてしまうのかなあ。
まあ多分随分間も空いたことだから、正確な回数も分からなくなっていたんだろうし、しょうがないことなんだろうな。何といっても、今のクラブは、他の誰のものでもない、現役の方たちのものだ。おじさんの感傷なんか気にせず(まあ気にしないか)、新たな歴史を積み重ねてください。

2年の時の番組。ちょっとしたお遊び、三代目紫雀さんと私の合作。どっちがどの部分を書いているか、大福さん、分かる?

2013年12月18日水曜日

「そうか、森田童子がいたんだ」のコメント

以前書いた森田童子の記事に、「なかにし礼」さんからコメントをいただいた。
コメント内でお返事しようかと思ったのだが、少し落ち着いて考えたいので、記事にすることにする。
「なかにし」さんのコメントの全文は以下の通り。

「彼女の歌が一部の敏感過ぎる人達の、生きようかなそれとも死のうかなという、危うい紙一重の精神状態にあるところを、死んじゃいなよこっちへおいでよと死のスイッチを押させたのは負の一面として事実。
森田童子は手放しで称賛出来ない、ある意味自殺誘発ソングで何人も自殺に追いやった批判も加えられるべき人物。あれだけ死ぬだの死にたいだの死を甘美に唄った自殺誘発ソングの旗手森田童子が平凡に幸せに生きてるのはなんたる皮肉。」

森田童子の歌を聴いて自殺した人がどれほどいるか、私には分からない。ただ、いても不思議はないと思う。私自身、童子の歌を聴きながら、あの記事で書いたように、「深入りしたら危険だ」という思いと「深入りせずにいられない」という思いがせめぎ合っていた。
死への誘惑という点でいえば、文学の方がよりポピュラーだと思う。芥川龍之介の晩年の作品なんかまさにそうだし、中原中也の詩や宮澤賢治の童話だって死に近い。極め付きは太宰治か。太宰の弟子を自認していた田中英光なんか、太宰の墓前で自殺したくらいだ。しかし、彼らはその落とし前をつけるように、早死にしたり自殺したりした。とすれば、そのような作品を世の出した者は死ななければならないのか、という話になる。
人間には死に近づく時期がある。だからこそ、古今東西、死に近い作品は多いのだ。しかし、そこから逃れられれば、それはそれでいいじゃないか。森田童子は、とにかく生き延びたのだ。彼女が死の誘惑から逃れることができたとすれば、それはそれで喜んであげてもいいと思う。
今、昔のアルバムが結構CDで復刻されているけど、森田童子のオリジナルアルバム復刻の話は聞かない。単にセールスが見込めないのか、それとも本人の了解が得られないのか。
もし、森田童子が昔の作品が世に出ることを頑なに拒んでいるとすれば、それが彼女なりの落とし前のつけ方なのかもしれない。

2013年12月15日日曜日

イルミネーションを見に行く

週末、つくばのイルミネーションを見に行く。
晩飯にQ’tのフードコートのカレー屋、辛味飯店のナンプレートを食べる。
外の出たのは7時半頃。
子どもたちのお目当て、メリーゴーランドは7時で終了。西武の前のランタンアートも店じまい。子どもたちは、スタッフの人たちに頼まれて、ランタンアートの灯を消すのを手伝っておりました。
次男が写真を撮りたいというので、デジカメを貸したら、ばーしばし撮ってた。
寒かったので、30分ほどして帰る。
寝る前に、ほていの焼き鳥の缶詰で、缶ビールを2本飲む。

以下は次男の作品です。

2013年12月12日木曜日

北越谷をぶらぶら

前回の続き。
北越谷に戻り、長男とぶらぶら文教大学の方に向かう。
駅の近くに、面白い一角を発見。

こんな感じの袋小路に味のあるお店が数軒。
なかなか不思議な佇まいでした。

大学に行く途中には、だるまの製造所があった。
越谷もだるまの産地だったんだね。

2013年12月9日月曜日

春日部ぶらり旅

先週末は、妻と次男が文教大学に用事があり、皆で車で出掛けた。
妻と次男の用事は2時間程かかる。
その間、長男と私は電車に乗って、ちょっとだけぶらり旅と洒落込んだ。
この頃、長男は電車にはまっているのだ。

まずは北越谷から東武スカイツリーラインに乗る。
各停に乗り、せんげん台で急行に乗り換えて、春日部まで。

とりあえず西口に出る。
西口にはイトーヨーカドーがあった。
どうやら旧市街は東口の方らしいので、そちらに向かう。

いい感じの家並が続く道に出る。
東口側に渡る踏切は「あかずの踏切」。開くまでに、上下7本(長男計測)の電車が通った。
踏切そばにあったたこ焼き屋。「なべさんたこやき、なべさんたこやき、ほっかほか」とエンドレスで歌が流れている。
私好みの建物が続く。
立派な土蔵。庇の形が特徴的だねえ。

古利根川を渡る。

駅前通りに出て、東口へ向かう。
さすが粕壁宿、豪商然とした商家が多い。
この、土蔵の庇の形は、この地方独特なものなんだろうか。

駅前のパン屋さんのイートインで、私はコーヒー、長男はりんごジュースを飲む。
そろそろ時間、北越谷へ戻ろう。

2013年12月4日水曜日

落研の真打

うちの落研では、真打制度があった。
真打が誕生するのは、合宿(春、夏、冬の年3回)、対外発表会(年2回)、学祭(年2回)といった大きなイベントに加え、臨時的に行われる「二ツ目勉強会」においてだった。
まず真打会議で新真打が選考され、幹部会議に報告される。そして、前述のイベントの最後に、部員に発表されるのである。
真打昇進は3年生から対象となる。
私の2年先輩の場合。トップ真打は、3年の夏合宿後の二ツ目勉強会で三代目松竹亭梅之助さん、七代目松風亭風来坊さんの同時昇進。冬合宿で三代目夢三亭圓漫さん。4年の春合宿で二代目松風亭歌ん朝さん、初代夢三亭海太郎さんの同時昇進だった。
1年先輩。トップは、3年の夏合宿後の二ツ目勉強会で三代目松風亭紫雀さん。4年の夏合宿で初代夢三亭希蝶さん。この代は男女1名ずつだった。
で、我々の代はこうだった。
まずは、トップが私。3年の夏合宿。その後の二ツ目勉強会で、弥っ太君が昇進、四代目夢三亭艶雀を襲名。八海君が3番目、学祭だったか発表会だったかどっちが先だっけ、五代目松竹亭梅王(バイキング)で昇進。4番目の世之助君が、学祭か発表会で、五代目夢三亭一生楽。冬合宿で、悟空君が三代目松風亭歌ん朝、初代小酒家酔梅(よばい)で同時昇進。4年の春合宿では、楓さんが初代松風亭わか菜、夕姫さんが三代目松竹亭かぐや姫で同時昇進した。
実は私たちの代は画期的な代だったのだ。つまり、男子は全てが3年のうちに、女子も4年の春合宿には真打に昇進したのだ。
これは八海君の主導による。落語協会において五代目柳家小さんが大量真打をやってのけたのに匹敵するのかもしれない。八海君の主張は、「4年は皆真打にしよう。今までのままじゃ、女子は真打になったらすぐ引退だ。」というものだったな。
幸いなことに、うちの落研には三遊亭圓生のような人がいなかったので、まったく騒動めいたものはなかった。まあ真打観でいえば、私が圓生タイプだったかもしれないが、八海君のリーダーシップに心酔していたので、運営はすべてお任せだった。
昨年のOB会の時、後輩が八海に「どうして八海さんの代はもめごとがなかったんですか?」と聞いていた。八海はそれに答えて「うちは役割がはっきりしてたからな。伝助は風柳だったし。」と言っていた。そう、私は落語だけやっていれば満足だったのだ。そして、八海君はまさに天性のリーダーだったよ。

2013年12月2日月曜日

石岡散歩の途中で





 

蔦の絡まる廃屋の2階に・・・
裸電球が下がっている。
 
あの電球、点きそうで怖い・・・。


2013年11月29日金曜日

怒り心頭

境町の利根川の堤防にあった看板の落書き。
随分怒ってますなあ。
ここに至るまでに、何があったのか興味深い。

2013年11月27日水曜日

山口果林『安部公房とわたし』

高校の卒業アルバムの寄せ書き、友達が「大社長」とか「トレノGばんざい」なんてことを書いている中で、私は「終わりし道の標べに」と書いた。気障だねえ。その頃から、安部公房は、私の好きな作家だったのだ。

一読して思う。そうか、安部公房も「火宅の人」であったか。 檀一雄の『火宅の人』は小説家が女優を愛人にする話だったが、この本は小説家の愛人になった女優の話だ。
23歳年下、自分が勤める大学の教え子で、自分の劇団の女優となる娘と関係を持つ。しかも、安部の方からアプローチしたらしい。
安部公房といえば、抒情に流されない、圧倒的に知的な作家という印象がある。それが、しっかり若い娘に溺れるんだな。
つくづく人間って弱いんだな、と思う。人には理性では御しきれない業ってやつがあるのだろう。安部にとっては、この山口果林がそういう存在だったのかもしれない。
でもね、著者と安部の家族との確執も綴られているが、そりゃ妻や娘にしたら堪ったもんじゃないよねえ。私は家庭が大事だし、妻や子を愛しておるので、どうしても安部の家族の感情を想像してしまう。著者も辛かったろうが、家族の辛さは格別だろう。安部公房自身は苦しかったんだろうか。
だからといって、安部を責めるつもりはない。おそらくしょうがないことだったのだ。安部公房は、火宅の道を選んだ。そういうことだ。

著者による衝撃の告白の連続だ。家業の従業員に受けた、幼児期の性的虐待。NHK連続テレビドラマ『繭子ひとり』のヒロインが決まった頃、安部の子どもを宿し中絶したこと。安部の妻との修羅場。安部公房との事実婚生活、そして彼の最期。行きつ戻りつ、時に繰り返されながら、それらが淡々と語られる。
安部の死後封印され、なかったことにされたが如き存在だった著者は、語らずにはいられなかったのだ。安部とともに生きた証が欲しかったんだと思う。それは、安部のことを、「安部」でも「公房」でも「彼」でもなく、いちいち「安部公房」とフルネームで表記していることに、痛切に感じられた。

余談だが、安部公房が撮ったと思われる写真がいい。表紙カバーの無防備な表情、仕草。まさに心を許した者にしか見せない姿だ。可愛らしいし、美しい。安部公房が彼女に溺れているのが、まざまざと分かるようだ。

2013年11月20日水曜日

忘れられない、たい平の『お見立て』

それは2006年の4月のことだった。
私は当時、柳家三太楼という落語家のHPを愛読していた。柳家権太楼の一番弟子。柳家さん喬を思わせるソフトな語り口、それでいて時折見せるエキセントリックな爆発力は、確かに権太楼のDNAを感じさせた。2001年に真打に昇進し、実力派若手真打として将来を嘱望されていた。
その彼のHPが突然、閉鎖された。そして、落語協会のHPから三太楼の名前が消えた。やがて、師匠権太楼のHPで、三太楼の破門、落語協会からの除名が発表される。理由は「弟子として許されないことをした」とだけしか書かれていなかった。何が何だか訳が分からず、憶測が憶測を呼んだ。色んな噂が流れたが、真相は依然として分からなかった。
その渦中、私は4月下席の池袋演芸場、夜の部を観に行く。
この席は、三遊亭白鳥、柳家喬太郎等、1960年代生まれの若手真打が競演するという企画で、三太楼も出演予定だった。
近くの回転寿司でビールを飲みながら軽く腹ごしらえをして、客席の人となる。出演者は誰も三太楼のことには触れない。当たり前か。そんなデリケートな話題に、触れられるはずもない。
代演で林家たい平が出た。(それが三太楼の代演だったかは、よく覚えていない。)たい平は、いつも愛嬌のあるサービス精神あふれる芸人だ。しかし、この日は違った。引き締まった、どこか怒ったような顔つきで、彼は高座に現れた。そして、ほとんど枕も振らず、『お見立て』に入っていったのだ。
たい平が登場したのが、仲トリの2つ前。そこへトリネタでもおかしくない『お見立て』をぶつけてきた。私は同じ池袋演芸場で、2000年に古今亭志ん朝の『お見立て』を聴いている。たい平の『お見立て』は、どこか、この志ん朝の『お見立て』を彷彿とさせた。
そして、それは、私には三太楼への強烈なメッセージのように聞こえた。「三太楼、必ず高座に帰って来いよ」と、たい平が叫んでいるように聞こえたのだ。
その後、仲トリの柳家喬太郎が自作の新作(「夫婦喧嘩の噺」と当時のメモにはある。)で場内を爆笑の渦に巻き込み、柳亭市馬が『締め込み』を余裕綽々で演じ、トリの三遊亭白鳥は改作『悋気の独楽』の怪演で観客の度肝を抜いた。
誰もが三太楼の行く末を案じながらも、それを言葉にせず精一杯の熱演でそれに代えたように感じた。その中でも、私としては林家たい平がベストだったな。あの『お見立て』に、私はたい平の男気を感じた。

その年の10月、柳家三太楼は、三遊亭小遊三門下、三遊亭遊雀として再出発を果たした。彼の再起を、私は密かに喜んだ。

2013年11月18日月曜日

白帆の湯

そろそろ妻の手にしもやけが出始めたので、いつもの日帰り温泉に行く。
麻生温泉白帆の湯。
霞ヶ浦を眺めながら温泉に浸かる。至福のひと時。
湯上りには休憩室で三ツ矢サイダー。昼食は海鮮かき揚げそば。
畳の上に寝転がって、テレビのNHKのど自慢を見ながらうつらうつらする。
もう一回入って帰ることにする。
すぐ近くの湖岸は、人工の砂浜になっている。
もともと霞ヶ浦は白砂青松の風景が広がっていた。度重なる洪水を防止するため、周囲をすべて堤防で囲ったため、そんな風景は姿を消した。
最近になって、堤防の向こう側に、何ヵ所か人工の砂浜が作られている。
ちょととだけ、砂浜に出る。やっぱ砂浜はいいなあ。
母の実家が霞ヶ浦に近く、子供の頃にはよく湖岸で遊んだ。小学校に入った頃は、まだ砂浜だった。霞ヶ浦の向こうには筑波山。あれが私の原風景なのだ。
夕食は、ピザとナポリタンで赤ワイン。たまには洋食もいいね。

2013年11月15日金曜日

秋の休日

この間の休み。
お出掛けをするつもりだったが、子どもたちが風邪気味だったので自粛。
お昼だけでもと、はま寿司へ行く。いわし、さば、さんま、あじと青魚を中心に攻める。
午後は少しだけ、石岡を散歩。国分町、若松町を中心に攻める。
この頃お気に入り、休みの日の夕方ビール。ちょっと贅沢に、キリンハートランド。
夕食はいも煮鍋で酒。
小室等のCD『プロテストソング』を聴く。

以下は石岡の写真。
 白壁の土蔵が美しいねえ。
路地の奥にあった商家。私の好みだが、震災でやられたみたいだなあ。
若宮八幡宮。創設は神亀年間、奈良時代に遡る。
透かし彫りもいい。
こういうお店も好きなんだよね。