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2012年5月27日日曜日

筑波山中を歩く

今日は息子の科学教室で、筑波山に行く。
次男の体調がいまいちなので、長男だけを連れて行く。
表筑波パープルラインを走る。土浦市、旧新治村の小野の辺りから尾根伝いに筑波山に向かう道だ。いつの間にか無料になっていたのね。徐々に大きくなる筑波の山容がいい。
集合場所のつつじヶ丘で昼食をとる。私はコンビニのサンドイッチとホットドック、息子は冷し中華。
時間があったので、ロープウエイで女体山頂に上る。いい天気。新緑が美しい。けっこうな人出。山頂は人でいっぱい。山ガールがけっこういたよ。早々に戻る。
いよいよ科学教室。つつじヶ丘から、迎場コースを、途中、植物観察をしながら筑波神社まで歩く。 長男は真面目だなあ。先生の一言一句ノートにメモしてる。ヒノキの森、アオキやシロダモといった低木、足元には羊歯や苔、緑の中を歩くのは気持ちがいい。
2時間のハイキング。まあまあ疲れた。
バスでつつじヶ丘に戻り、ソフトクリームを食べ、妻と次男にお土産を買って帰る。
家では二人が晩御飯を作って待っていてくれた。煮込みハンバーグ、野菜スープ、それと帰りにカスミで買ってきた鯵のたたきでビール、酒。旨し。
今度は皆で行こうな、筑波山、そう言いながら次男と指切りしたよ。

2012年5月25日金曜日

小泊村1985

1985年夏の青森旅行。私にはどうしても行きたい所があった。
青森県北津軽郡小泊村。 太宰治の名作『津軽』のハイライトシーン、「私」が幼年時代の子守だったタケと再会するのが小泊村の小学校だった。肉親の前では萎縮していた「私」が、タケの前で心安らかに肯定感に包まれる場面を読むと、私はいつも瞼が熱くなる。現在はその小学校の校庭には、太宰とタケのブロンズ像が建てられている。
私にとっては、フォークシンガー三上寛の故郷というのが大きいな。
三上寛の世界は凄まじい。あんなの歌じゃないという人と、あれこそが歌であるという人にくっきりと分かれる。歌じゃないという人が、恐らく9割、あれこそが歌だという人が1割だろうが、歌だという人の歌に対する思い入れは、多分歌じゃないという人の10倍濃いだろう。放送禁止用語だくさんの、おどろおどろしい言葉の向こうに、骨太の抒情がある。
三上寛の詩には、故郷小泊村がよく出てくる。私が大学時代熟読した三上の詩集『お父さんが見た海』の表題作は、まさに小泊の海をうたったものだった。彼の代表作『夢は夜ひらく』にはこんな歌詞がある。
「生まれ故郷の小泊じゃ/今日も時化だと言っている/現金書留来たと言い/走る妹よ//どうしても行くというのなら/この包丁で母さんを/刺してから行け/行くのなら/そんな日もあった」
私は三上のこういう言葉にやられたのだった。
運転するOさんに頼んで、国道を外れ、名も知らぬ海沿いの集落に入ってもらった。
小泊の、海とともに生きる人々の暮らす場所の空気に、ほんの少しだが触れることができた。
目の前の海はきれいだった。青いというより、透明な海だった。あれが、『海男』の、「海男になった木下明夫」が眠る海だ。三上寛のお父さんが見た海だ。「まんじりともしない」朝に、「オイデオイデする」海だ。
太宰がタケと再会した小学校には行けなかったけど、あの海を見ただけで、私は満足だった。
またいつか、小泊の海が見たいと思う。
写真は当時の小泊村。海の写真がないなあ。

2012年5月21日月曜日

続川崎の一日

写真はアパート前の路地。わが幸和荘は右奥のトタン張りの2階建て。
風呂は、もちろん銭湯。アパートから尻手駅の方に歩いて5分ぐらいの所にあった。
湯船の中に真っ赤な電灯が仕込んであった。赤外線風呂というのかな、それがウリだったようだ。ご近所だったフォークシンガーの友川かずきを、この銭湯で見かけた。もちろん、声を掛けることはできなかったが。
風呂の帰りは、コンビニエンスあきやまに寄って食料を買い、三玉酒店で酒を買った。
それから、アパートに帰って一人酒を飲むことになるんだろうが、晩飯はどうしたっけ?あまり覚えがないな。晩酌をやり出したのは就職してからだから、多分、晩飯は食べたよな。米は田舎から持ってくるので不自由はしない。自分で飯を炊いて、缶詰とかレトルトのカレーやシチューなんかで、風呂に行く前に食べてたんだろうなあ。
まあそれはともかく酒だ。 まずはビール。500ml缶を1本か2本あればいい。
メインは日本酒。日本盛とか黄桜の2級を飲んでいた。だが、3日もすると1升が空いちゃうので、後にはウイスキーにした。最初のうちはサントリーホワイトを飲んでいたけど、そのうちレッドのビッグサイズを買うようになった。そいつを例の笠間焼の湯呑で水割りにして飲んだ。
つまみは最初は冷凍餃子を焼くことが多かった。あとは小鉢に豆菓子なんぞを入れてつまんでたな。よく作ったのがスクランブルエッグ。塩胡椒、それにガーリックパウダーを入れるのがミソ。簡単で旨い。
そのうち、酒のお供に落語やら本やら音楽やらを手当たり次第に引っ張り出す。本なら、太宰治、坂口安吾、中原中也なんてところ。音楽はフォークをよく聴いた。友川かずき、三上寛、友部正人の3人は外せない。女性シンガーでは森田童子。ちょっとメジャーなところでは泉谷しげるや岡林信康。(そういえばあの部屋の蛍光灯の豆電の色は青だった。泉谷の『裸の街』、「ブルーランプの部屋でお前と暮らしたい、それだけの俺」というフレーズがぐっときたねえ。)川崎で聴く宇崎竜童はいい。
こう並べると、暗いなあ。でも、こんな世界にどっぷりつかるのも、これはこれで快感なのよ。誰もこんな世界に付き合ってもくれないしね。こんな風に好き勝手飲んでいると、飲めば飲むほど頭が冴えてくるような気がしたもんだ。
川崎では外で飲むことはなかった。馴染みの飲み屋を作ることもしなかったな。一人になって内省的な飲み方をするために、私はアパートに帰って来たのかもしれない。あの四畳半は、そのためにもうってつけの空間だったのだ。

2012年5月20日日曜日

川崎の一日

大学の頃、人の家を泊まり歩くという「中原中也的生活」をしていた、と以前書いた。
でも、川崎のアパートは好きだった。特に一人で酒を飲むようになると、ちゃんと帰ることが多くなった。(勝手なもんだ。)
川崎の朝は遅い。と言っても、私が起きるのが遅いだけだ。
私が起きるのは、申し訳ないが、お天道様が大分高く上がってからだ。 起きると、まずお湯を沸かし、ほうじ茶を淹れる。炬燵の上には、中学の卒業記念品の笠間焼の湯呑が置いてある。大振りで使い勝手がよく、コーヒーでもお茶でも酒でも、この湯呑で飲んだ。
蒲団は敷きっぱなしの万年床。起き上がると、座布団として使った。 ほうじ茶を飲みながら、まずは目覚めの一服。当時はマイルドセブンを吸っていた。
ちょっとばかりうだうだして、朝食兼昼飯を食べに表へ出る。 アパートの前は狭い路地だ。向かいは、何かの作業場になっているらしく、いつもグラインダーの音が聞こえた。
大通りへ出る。飯屋の持ち駒は三軒ほど。最初の大きい交差点の角にある、中華料理の「ちづる」、そこを渡って少し歩いた所にある、南河原銀座商店街入り口向かいの「角屋食堂」、それから、商店街の中にある「たまるや」という蕎麦屋だ。 「ちづる」ではラーメンライス、「角屋食堂」ではメンチカツ定食、「たまるや」ではカツ丼をよく食べた。どこも500円も出せばお釣りが来た。とんでもなく旨いという訳ではなかったけど、落ち着けて好きな店だったよ。
腹がいっぱいになるとぶらぶら散歩をしながら、本屋をひやかす。本屋の名前は忘れたが、「ちづる」と南河原銀座の中間ぐらいにある店と、南河原銀座の中にある店が馴染みだった。
このどちらかで、フォークシンガー友川かずきのエッセイ『死にぞこないの唄』を買った。奥付の著者紹介には、友川の住所が掲載されていた。(今の時代じゃ信じられないことだけどね。)これが、うちのアパートのすぐ側。番地が1しか違っていなかった。この時はすごくコーフンしたなあ。
この頃は、マンガに凝っていたので、掘り出し物があるとせっせと買った。当時は個人商店でもけっこうマニアックな本があったのだ。
つげ義春の『必殺するめ固め』『夢の散歩』、吾妻ひでおの『不条理日記』、いしかわじゅんの『憂国』『蘭丸ロック』なんてところを熱狂して読んだ。また、女流では高野文子が『絶対安全剃刀』、近藤ようこが『月夜見』で鮮烈な単行本デビューを果たしていたし、マンガ雑誌では『マンガ奇想天外』『ひゅーじょんぷろだくと』なんてのがあって、マンガがとんがっていた時代だった。
散歩から帰り、四畳半のアパートでそういった本をむさぼり読んでいるうちに、やがて日は暮れていくのであったね。

2012年5月16日水曜日

今年初の夏日、土浦散歩

平日の休み。 妻と阿見のアウトレットにでも行こうと話していたのだが、次男が風邪を引き家にいるので断念。 この頃、こういうことが続くなあ。
昼はマクドナルドのビッグマックとチキンナゲットのセット。
午後から「表に出ておいでよ」という妻の勧めで土浦を散歩してきた。
モール505付近の駐車場に車を止める。ここは昔イトーヨーカドーがあった場所だ。
モール505から歩いて、まずは桜川の土手まで。 定休日で休んでいる店が多い。ひっそり閑とした通りを歩く。
桜町から駅前に戻り、駅前通りを中城まで行く。矢口酒店はだいぶ傷んでいたが、まだある。まちかど蔵はまだ修理中。 ものの本によると、中城から大徳裏には娼家が建ち並んでいたらしい。近くに繭の集積所があり、そこで手に入れた現金を握りしめた男たちで賑わったという。今はそんな面影はまるでない。所々に空き地がある。震災の影響で古い家が取り壊されたんだろうな。
1時間ほど歩いて、また駅前に戻り、高月堂でお土産に「利休ロール」を買って帰る。
今年初の夏日。暑かった。

2012年5月13日日曜日

鰺ヶ沢のイカ焼き

前回の続き。
弘前から西北の方に行って、やがて日本海とぶつかった所が鰺ヶ沢である。
この旅では、鰺ヶ沢で食べたイカ焼きが忘れられない。
青森の海沿いの国道沿いには、イカ焼きの店がけっこうある。四角い味も素っ気もない建物で、店頭でイカを焼いて売っている。どの店も裏にはたくさんのイカが干してあった。
茨城の方では、イカ焼きというとお祭りの屋台で売っている、あのタレで焼いたやつだが、青森のは至ってシンプルだ。
一夜干しのイカを、塩胡椒を振って焼き、さっさっと切ってパックに入れて「はいよ」とくれる。
これが旨い。肉厚で、柔らかくて、さっぱりしてて。しかもこれが安いのだ。値段は正確には思い出せないが、祭りの屋台のイカ焼きの、半値ぐらいじゃなかったかなあ。
青森の海岸線をドライブする機会があったら、是非お勧めしたい一品です。
写真は鰺ヶ沢のイカ。

2012年5月12日土曜日

1985年の弘前駅前

1985年の夏、職場の先輩Oさんと青森県を旅した。
弘前、浅虫、むつ、八戸でそれぞれ泊まった。4泊5日に及ぶ贅沢な日程だった。
朝の5時に茨城を出て、十和田湖に着いたのが午後3時頃。 そこから奥入瀬から八甲田の中腹に上り、酸ヶ湯の脇を通って黒石に下りて行ったが、この道が国道とは名ばかりのすごい山道。舗装さえしていなかった。
弘前に入った頃には、もう暗かったな。駅前の観光案内所で紹介してもらった宿に泊まった。どんな宿だったかは覚えていない。
写真は朝の弘前駅前。弘前は文化の薫り高いいい街だった。

2012年5月7日月曜日

子どもの頃嫌いで、大人になって好きになった食べ物の代表的なものといえば、葱である。
いや、ほんと嫌いだった。無理して食べて吐いたことすらある。あの甘みが気持ち悪かったのに、その同じ味が好きになるんだねえ。嗜好って絶対的なものではないんだな。
古今亭志ん朝の「二番煎じ」に出てくる伊勢屋の旦那のように、あのすき焼きのくたくたになった葱が、今は心から好き。(「二番煎じ」の方は猪鍋だけど。)また志ん朝の、はふはふしながら葱を食べる仕草がたまらなく旨そうなんだ。
葱と豆腐の味噌汁もしみじみ旨い。昔はあんなに嫌だったのに。不思議なもんだ。豆腐と葱の相性はいいな。冷奴でも湯豆腐でも葱が加わると一段と旨くなる。
焼鳥もね、肉だけよりむしろ「ねぎま」がいい。葱がうまくアクセントになっているんだね。そう言えば、学生の頃通っていた焼鳥屋のメニューに「かもねぎ」というのがあった。何だと思って頼んだら、見事に葱オンリーの串焼きだった。「客の方がカモか?」と冗談を言ったっけ。
蕎麦の場合、あの薬味の葱は、私はあまりいただかない。特にもりの場合はちょっと。蕎麦を邪魔するような気がするんだよな。どこかのフードコートの蕎麦で、「ねぎそば」というのがあって、食べてみたんだが、あんまり葱が多すぎて蕎麦の味なんかしなかった。何事もほどほどだと思いますよ。でも、鳥南蛮、鴨南蛮の葱はいい。まさに絶妙。蕎麦だけつーっとたぐって、後は味のしみた葱をつまみに熱燗を飲むのもいい。
麺類では「ねぎラーメン」が革命的だったね。
そして納豆。辛子を効かして、葱をとんとんって刻んで入れて、そいつをぐるぐるっとかき回したやつを、ほかほかのおまんまの上に…。たまんないね。日本人にうまれてよかった、というより納豆の本場茨城に生まれてよかったと思います。
あれ、葱の話が納豆の話になっちゃった。葱っていうのはあくまで脇役なんだよね。主役を張ることはない。でもそこが奥床しくっていいよねえ。

2012年5月5日土曜日

石岡、「福島屋砂糖店」

石岡、福島屋砂糖店。
コンクリート製の土蔵造りという珍しい建物。
この店の向かって右端にはトロッコのレールが敷いてあって、荷物の運搬に使われている。
こんな感じです。

2012年5月1日火曜日

伝助の根多帳②

2年の冬合宿には、「湯屋番」と「二十四孝」を持って行った。「湯屋番」は、中学生の頃、ラジオで柳家小三治のを聴いて以来、ずっと演りたかったネタだった。小三治のテープが見つからず、文治と圓楽のテープで覚えた。
冬合宿には、技術顧問の三笑亭夢楽師匠が参加して、私たちの噺を聴いてくださった。
「湯屋番」では、まず上下の間違いを直していただく。そして、終盤の芝居がかりになる件は、「学生さんには無理だよ」と言われた。
その後、小朝のテープを聴いて再構築する。芝居がかった所はカット。番台の若旦那に気を取られていた客が「軽石で鼻を擦っちゃった」という所でサゲることにした。序盤では、小三治の「宇都宮の釣天井飯」がどうしてもやりたくて、そこだけ思い出して追加した。
なかなか許可が出なかったので、3年の春合宿でも発表会の高座にかけた。部屋で稽古をしていると、相部屋の1年生である駒っ太君には大分ウケた。だけど、この噺は私のニンに合わなかったみたい。まあこういう一人で盛り上がっちゃう噺(俗に“ひとりキ○ガイ”という)は、ウケないと孤独なんだよなあ。
「二十四孝」も夢楽師匠に批評をいただいた。師匠曰く、「談志さんのテープで覚えたね。」
でも、これも実は文治のテープだった。この辺りから談志の影響を受けたんだろうな。ちなみにこの合宿のコンパでは、夢楽師匠についてきた前座の小夢さん(現在は文生門下の桂扇生)の前で談志の物真似を披露した。
「二十四孝」の同工異曲の噺では「天災」がある。紅羅坊名丸の貫録を出さなければならないので、「天災」の方が大きい噺だ。当時の私は「天災」に説教臭ささを感じていたんだろうな。より乱暴な「二十四孝」の方に惹かれた。あまり人前では演ったことはなかったが、今でも好きな噺の一つである。