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2013年1月31日木曜日

文楽と出口①

出口一雄のことに興味があって、調べてみたのだが、あんまり資料がないのね。
結局、ネットで拾えたのが、京須偕充の『みんな芸の虫』(青蛙房)の中の「出口一雄―鬼の眼に涙」だけ。早速、アマゾンで買って読んだけど、これがよかった。
桂文楽関係の本を読むと、出口のことは断片的に出てくるが、出口を主役に据えた文章は、おそらくこれだけではないだろうか。

出口一雄。ラジオ東京のプロデューサー。
昭和28年、ラジオ東京(後のTBS)は、桂文楽、古今亭志ん生、三遊亭圓生、柳家小さん、昔々亭桃太郎と専属契約を結ぶ。この、落語家の生活を向上させ、落語という芸を全国区にしたきっかけとなった出来事に、大きく関わった人だ。
昭和43年に会社を定年になって後は、デグチプロを設立、落語家のマネジメントをした。新富町に事務所を構え、その仕事は、ビジネスライクとは無縁の、とりわけ芸人に寄り添ったものであったという。
古今亭志ん生は契約した翌年、娘が勤めていたニッポン放送に移籍し、三遊亭圓生は、後年、NHKにも出演することを承諾させ、専属契約は形骸化したが、桂文楽は頑としてTBSにしか出演しなかった。文楽は平素洋装を好んだが、その背広の襟には常にTBSの社員章が付けてあったという。TBSというよりは、むしろ出口一雄その人に対する厚い信任を示したものだろう。事実、文楽は極めて私的な事についてまで出口に相談したという。出口もまた、文楽に心酔し、文楽を支えた。
大西信行の『落語無頼語録』(角川文庫)に収められた「桂文楽の死」という文章の中で、出口は次のように描かれる。
まずは文楽最後の高座、文楽が絶句して客に詫び、舞台の袖に下がった場面。
「そこには出口マネージャーが顔をこわばらせて立っていた。文楽が袖幕の蔭へ体を運んで来るのが待ちきれない様子で、両手をさしのべて文楽を抱いた。
『出口君、ぼくは三代目になっちゃったよ。』
文楽が言って、我慢しきれずに出口マネージャーは泣いてしまった。」
そして、文楽の通夜の場面。
「『とても見ちゃいられなかった―』  
黒門会館の広間のいちばん奥でコップの酒を顔をしかめて飲みながら出口マネージャーが言うのを、そうだろうな、さぞせつないことだったろうとぼくはうなずいていた。まだラジオ東京といっていたころのTBSで、文楽たちと契約を結び、民放の落語専属制度を確立させたのが出口マネージャーだった。定年でTBSを辞めてプロダクションをはじめてからも、いまの親と子の間ではとても見られぬこまやかな情愛で文楽の面倒を見続けて来た人だったから、もし文楽が命を終えていなかったら出口マネージャーの方がせつなさのあまり死んでしまったかも知れないと思った。」
いいよな。二人の深く信頼し合っていたことが、ひしひしと感じられる。

京須の文章まで行き着かなかった。次回に続きます。

2013年1月29日火曜日

小川を歩く

小美玉市小川地区。かつては舟運で栄えた町。河岸の跡は、現在は暗渠になって、その上が市営駐車場になっている。
そこに車を止めて歩く。
町の真ん中にある十字路を東に行けば、大町の商店街。北に向かう坂道を上れば、古い家並みが続く。坂の上には造り酒屋がある。
いつもは車で通るだけだが、歩いていると思わぬ発見があって楽しい。脇道に逸れたりすることなんて、なかなか車じゃできないもんなあ。
県道に並行する細道を見つけて歩いてみたけど、面白かった。
ご近所なのだが、まだまだ知らない所があるんだなあ。世の中は奥が深いねえ。

この時代物の建物はタクシー会社の事務所です。
坂の上の造り酒屋。
飼料の看板がしぶい。
脇道の工場。看板もなかったけど、操業してないのかなあ。
路地の奥にはこんな建物。すごいねえ。

2013年1月25日金曜日

神田の建物

OB会で神田に泊まった朝、散歩した時の写真。
ミルクホール「サカエヤ」の建物。しぶいよね。ラーメンが旨いという話です。
これ、前にも載せた建物だけど、いかにもアジアの混沌を体現しているような気がする。
こういう瀟洒な町屋に住んでみたいもんですな。
天麩羅屋さんだったかな。こんな店でちょいと一杯なんざいいよね。

2013年1月22日火曜日

伝助の根多帳⑧

3年の夏合宿の噺。『締め込み』。
桂文楽との出会いの噺。ずっとずっとやりたかったネタだ。
空き巣に入った泥棒が、荷造りして逃げようとした途端、亭主が帰って来た。慌てて泥棒は、台所の縁の下へ。亭主は泥棒がこさえた風呂敷包みを見て、女房が間男して駆け落ちしようとしたと勘違い。やがて女房が帰って来て夫婦喧嘩が始まる。亭主の投げた鉄瓶の熱湯が、台所の縁の下へ滴り落ち、堪らなくなって泥棒が飛び出して仲裁に入る。こうして喧嘩が収まり、めでたしめでたしという噺。
もちろん、文楽のテープで覚えた。文楽は泥棒が「これをご縁に、またちょくちょく伺います。」と言うところで切っており、「外からしんばりかって、泥棒を締め込んでおけ。」というサゲまでは演っていない。私も文楽のまま演じた。
合宿の発表会。運がいいのか悪いのか、たまたまOBの先輩がいらしていた。二代目紫雀さんには「真打がかかっているんだから、サゲまでやれよ。」と言われた。あちゃーっと思ったが、初代風柳さんは「そこで切っていいんですよ。」と言ってくださった。
私がやりたかったのは、何と言っても、あの夫婦喧嘩の場面だった。お福さんの男勝りで可愛らしいところを描きたかった。だけど、あの場面を気を入れて演じれば演じるほど、反応は逸れていく感じがした。
この噺は、発表会の演目でもあったのだが、夏合宿後も、いくら練習しても思うようにできなかった。「難はないんだけど、面白くならないなあ。」と言われ続けて、仕舞いには嫌になった。
当時は、「噺を構築する」なんて考えは、まるでなかったな。文楽の演ったままを覚え、そのまま喋った。「でこでこに」とか「前尻」とか、自分の言葉でもないものでも、そのまま使っていた。人物描写も、なり切るだけ。文楽の「無駄を削ぎ落とせるだけ削ぎ落とした」噺をそのまま学生が演っても、聴く方は面白くも何ともないよな。
案の定、本番でも評判は芳しくなかった。文学部の友だちも、「人情噺はよく分かんない。」と言ってた。『締め込み』を「人情噺」にされちゃいかんな。
立川志の輔は学生の頃、志ん朝で覚えた『鰻の幇間』を志ん朝そのままに演じて、見事にケラれたという。私の『締め込み』は、志の輔における『鰻の幇間』だったのだろう。若かったなあ。
でも、好きな噺に変わりはない。今なら、もうちょっとましに出来るかなあ。

2013年1月17日木曜日

石岡を歩く

この間、石岡の街を散歩した。
いつものように中町商店街の駐車場に車を止め、小一時間歩く。
こういう古い街を、カメラ片手にぶらぶらするのが、私のささやかな楽しみだ。
震災からこっち、石岡も昔なじみの建物が、大分なくなってしまった。
寂しいけど、しょうがないな。今、あるものを愛しもう。
まだまだ、味のある風景はある。

冒頭の、バークロンボ。もう随分前に、店は閉めている。というか、営業していた頃を知らないな。
建物はこんな感じです。
ここから入ると、どんな感じの雰囲気だったんだろうね。一度飲んでみたかった。
朝日屋なき後、昔からのラーメン屋はここぐらいだなあ。
八間道路のミシン屋さん。いいねえ。

2013年1月15日火曜日

一筆描きの芸

晩年の二人の落語家の芸に対し、その弟子が同じようなことを言っている。
落語家は、五代目柳家小さんと五代目(正確には七代目)立川談志。この二人もまた、師弟関係にある。
まずは小さん。語っているのは十代目柳家小三治。
小三治は、最晩年の高座こそ小さんの最高の姿であると言う。それは「小さんのやりたかった噺というのは世間の評判に応えよう。期待に応えなくては等々ではなく、まさにこの世界じゃないのか」と思うからだ。そして、四代目小さんを例にとり、「一本調子は悪くないのです。めりはりなんか無くったっていいのです。」とまで言うのである。(『五代目小さん芸語録』中、「我が師五代目小さんの落語」より)
お次は談志。立川志らくが、談笑との対談で、談志の晩年を「一筆描きの時代」と称し、こう語っている。
「何の創意工夫も加えず、感情も入れず、目線もほとんどあげず、強弱さえもあまりつけず、ぼそぼそとしゃべる…弟子に稽古をつけるときのやり方そのままを高座でやるようになった。」「なのにそれが立川談志そのものだから面白いんですよ、(中略)ただぼそぼそやってるだけなのに、心に沁みるいい『子別れ』になっている。」(『落語ファン倶楽部VOL.16 談志だいすき』より) 
二人とも、言っていることは同じだ。多くの人が「衰えた」と見る晩年の芸を、技巧を排したひとつの到達点として、高く評価している。
しかし、それはあくまで「線で見た」視点によるものだろう。全盛期の小さんや談志を知っているからこそ、あの小さんが、あの談志が、辿り着いた境地として感動を呼ぶのだと思う。
あれを「点で見た」場合、例えば何の予備知識もない、落語に関心を持ったばかりの少年が、晩年の小さんや談志の落語を聴いたとして、果たして面白いと思うだろうか。
私もまた、晩年の小さんの高座に感動した一人だが、あれは意図的に技巧を排したわけではなく、あのようにしか喋れなくなっただけなのである、と言っては身も蓋もないか。
ただ、長い年月を積み重ね、自然に辿り着いた境地であることに違いはない。談志とて暴れに暴れたが、最後には「江戸の風」を志向し、「一筆描き」に行き着いた。
63歳で逝った古今亭志ん朝に、遂にそういう日が来なかったことを考えると、感慨深いものがある。

2013年1月13日日曜日

子どもをスキーに連れてった

塩原ハンターマウンテンスキー場へ行く。
子どもたちが雪遊びをしたいというので連れて行ったのだが、次男がいきなり「スキーがやりたい。」と言い出した。まあいつまでもキッズスペースもないだろうと思っていたので、いいよということになる。
子どもたちはスキーはまるっきりの初体験、まずはきちんと基礎から身につけさせようと、スキー教室に入れることにした。
受付に行くと、まずはスキーを用意せよ、とのこと。
ただちにレンタル窓口へ。来る途中で見かけたレンタル業者に比べると、およそ1000円は高い。
スキーを借り、レッスンの手続きをするが、サングラスは不可、ゴーグルにせよ、とのこと。急遽、売店で買う。これも高い。予想外の出費が続く。
午後1時からの2時間のレッスンが取れた。
それまで、ゲレンデでスキーを履かせてみたが、私たちのコーチではまあ無理だな。長男は一人でスキーを履くこともできず、次男は飽きて雪遊びに興じる始末。大丈夫か、レッスン料に大枚叩いているのだが。
早めに昼食を済ませ、いよいよレッスンへ。
ところが、餅は餅屋だね。2時間のレッスンで、全くの初心者がボーゲンで滑れるようになった。レッスンの手順も、至って合理的。特に次男は自由人なので心配していたが、何とか頑張った。
私たちはただ見ているだけだったが、楽しかったなあ。
大福さんがブログで、親を「バトンを渡したランナー」に例えていたけど、そうかもしんない。自分の楽しみもいいが、それよりも子どもの成長が嬉しい。うちの子は運動が苦手なだけに、滑っている姿を見て、じんときてしまった。親なんてちょろいもんだ。
途中、日帰り温泉に入って帰る。源泉かけ流し。いいねえ。
「この次はお父さんとお母さんも一緒に滑ろうよ。」と子どもたちはしきりに言う。そうだな、今度はゆっくり泊まりで来ような。

2013年1月11日金曜日

グアム

今日は、もっと寒いなあ。
というわけで、南国グアムを夢想しよう。

まずはホテルの窓から。ヒルトンホテルを望む。義妹の結婚式の時は、ここに泊まった。
お向かいのコンビニ。重宝しました。
コンビニの並び。カタカナやハングルの看板も多い。
グアムの街。バスの車窓より。

2013年1月10日木曜日

沖縄

毎日寒いねえ。
こんな時は南国沖縄の風景でも思い出そう。

まずは、那覇国際通り。夕方の青い空。
那覇の朝。
アグウ豚のキューピーかな?
中城城跡近くの元ホテルだった建物。廃墟マニアには有名らしい。

2013年1月6日日曜日

五代目柳家小さんの晩年

三代目柳家小さんは、夏目漱石をして「天才」と言わしめた名人であったが、晩年は耄碌してしまい、老醜をさらしたという。八代目桂文楽が、最後の出演となった高座で絶句し、舞台のそでに戻った時「三代目んなっちゃった。」と呟いたのは、そのエピソードを踏まえてのものである。
私たちがよく知る五代目小さんも、やはり晩年の高座は痛々しかった。表情も乏しく、抑揚もメリハリも人物描写もなかった。私が子どもの頃から聴いていた小さんとはまるで違っていて、ひどく寂しかった。
惚れて惚れ抜いた人という訳ではない。でも、落語といえば欠かせない人だった。寄席に行けば小さんがいて、彼の落語を聴いて失望することなんてまずなかった。ぼそぼそとして、さりげない、けれども、的確な人物描写、緻密な構成は、常に笑いを呼んでいた。『長短』、『饅頭怖い』、『禁酒番屋』、『粗忽長屋』、『二人旅』、『時そば』等々、お馴染みの根多ではあるが、小さんの噺はその最高水準のものであった。圓生のような大向うを唸らせるタイプではない。しかし、大したストーリーのない滑稽噺で、これほど観客を惹きつけるのは、人情噺で大向うを唸らせるよりも、数倍困難なことなのではないか、と今にして思う。
だから、衰えた小さんの噺を聴くたび、引退すればいいのにとか、名跡を小三治に譲り、自分は「さん翁」とでも名乗って、気が向いた時に高座に上がればいいのではないかとか、ずっと思っていた。
あれは、2002年の初席、鈴本演芸場の夜の部、柳家小三治が主任の興行だった。突然、高座に「小さん」のめくりが現れた。プログラムに小さんの名前はなかったので、サプライズ出演だったのだろう。客席がどよめき、歓声に迎えられ、小さんが高座に上がる。釈台を使う高座。そこで小さんは与太郎の小噺を喋った。

「与太郎、お前もそろそろいい歳だ。嫁を貰え。」
「嫁なら、面倒臭いから妹のお花を嫁にする。」
「馬鹿、妹なんぞと夫婦になったら犬畜生と言われるぞ。」
「お父っつぁんとおっ母かさんなんか、親同士で夫婦じゃねえか。」

大喝采の中、いつもの無表情で小さんは高座を下りた。
一本調子の、メリハリも人物描写もない高座だったが、圧倒的な存在感だったな。あの無表情も一本調子も、ものすごくクールに見えた。
あの高座を観なかったら、私にとって、五代目柳家小さんの存在は、かなり寂しいものになっていただろう。小さんは、やはり巨人だったな。あの小さんに出会えたことを有難く思う。
その年の5月、五代目柳家小さん死す。前夜にちらし寿司をぺろっと食べて、翌朝死んでいたという。いかにも小さんらしい、大往生と言ってもいい最期だった。
小さんは死ぬまで小さんであることを選んだ。そのことに賛否両論あり、私はどちらかと言えば否の方にいるけれど…。

2013年1月2日水曜日

村松へ行く

妻子を連れ、村松虚空尊へ初詣。
虚空蔵尊はご存知、丑寅の守り本尊。境内には牛と虎の石像がある。我が家は6人中、3人が丑年。今年は長男が年男なので、十三詣りも兼ねている。
お参りを済ませ、参道の出店で焼きそばやたこ焼きを買い、阿字ヶ浦まで行って海を見ながら食べる。
海岸で凧揚げ。けっこう風が強く、よく上がる。
帰ると妹一家が来ており、晩飯を一緒に食べる。
大人数で子どもたちもテンションが高かった。刺身、寿司、おせちで白菊酒造の「紅梅一輪」。
旨し。

下の写真は大洗港の新春風景です。

2013年1月1日火曜日

明けましておめでとうございます

坪の新年会に出た後、近くの神社に初詣に行く。
いい天気。難台山がよく見える。小学生の頃は、登校途中によく見たものだ。
同級生のお父さんが神社の役員をやっており、呼ばれてお神酒を頂戴する。
帰って、年賀状の返事を書く。
ボブ・ディランの新作、ラストはジョン・レノンへ捧ぐ曲。ディランは、数年前リバプールへ公演で行った時、一般客向けのバスツアーに参加したという。ジョンの死後32年経って、彼へ向けたメッセージがこれか。「転がれ、ジョン」。いいなあ。
何はともあれ新しい1年が始まった。
今年もよろしくお願いいたします。