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2010年12月29日水曜日

TDLからお台場


妻子を連れて、1泊旅行。
初日は東京ディズニーランド。
ゆっくり家を出て、途中妻の実家に寄り、義母を乗せて行く。
昼頃、舞浜着。エレクトリカルパレード、花火を見て浦安のホテルに泊まる。
翌日はお台場へ。観覧車に乗り、トヨタの展示場で遊び、ヴィーナスフォートでバイキングのランチ。妻子はデザートのチョコレートフォンデューで大喜びだった。
TDLにヴィーナスフォート。人工の美を味わい尽くす。
仕上げはお台場海浜公園。いい天気で気持ちいい。
私は魚座の生まれのせいか、水のある風景が好き。海はいいねえ。
TDLからお台場。確かに以前の私の趣味ではない。でも、そんなことはどうでもいい。
妻や子が喜ぶ顔を見るのがいちばん嬉しい。この歳になって、素直にそう言えるようになったかな。

2010年12月25日土曜日

出囃子補足

前回の補足。
「鞍馬」の紫雀さんは二代目。1学年上の三代目の紫雀さんは先代正蔵ファン、当然「あやめ浴衣」を使っていた。
私は当時もいちばん好きだったのは文楽だった。でも「野崎」は使っていない。
なぜなら、私がいた落研では、文楽の「野崎」、志ん生の「一丁入り」、圓生の「正札付」、それと技術顧問である七代目圓蔵師匠の「お江戸日本橋」は使用禁止だったからだ。素人なりに遠慮してのことだろう。好きなの使えばいいじゃんという考えもあろうが、むしろうちの落研のそういう部分が、私は好きだった。
ただ、「追ん出し寄席」(現役引退興行)は、その限りではなかった。1学年上の圓生大好き美恋さんは「正札付」を使った。かくいう私もその時ばかりは「野崎」で上がらせて頂きました。(余談だが、大福さんが口上を務めてくれた。)
卒業して10年ぐらい経ってから、一度落語を演る機会があった。出囃子のテープが見つからず、文楽のスタジオ録音の「野崎」を使ったのだが、その時の演目「もう半分」には合ってなかったような気がするなあ。

2010年12月21日火曜日

出囃子雑感

この前寄席に行った時、小円歌が出ていた。昔の名人の出囃子を弾いてくれたのだが、これがよかったねえ。
出囃子というのは、文字通り落語家が高座に出るときのテーマソング。邦楽からの選曲が一般的だが、その人の個性に合っていて下座さんが弾ければ何でもありだ。(春風亭昇太は「デイビークロケット」を使っている。)それだけに、出囃子はその落語家と密接に繋がっている。
華やかな「野崎」の後には「いっぱいのお運びでありがたく御礼申し上げます。」という抑えた調子の先代文楽の口上が聞こえるし、ちょっととぼけたような「一丁入り」の後には「昔は、ってえと、」と志ん生の甲高い声が聞こえる。
実際に自分が見た落語家の出囃子だともっとリアルだな。「本調子序の舞」では、まるで木刀を持つみたいに扇子を持った先代小さんが、のっしのっしと高座に現れる姿が見えるし、「祭囃子」では先代三平の賑やかな登場が目に浮かぶ。「老松」では志ん朝が現れたときの、客席がぱあっと明るくなるような感じ、「木賊刈り」では談志の現れる前の痺れるような緊張感が蘇る。まさに出囃子はシンボルだ。
そういえば、昔は出囃子に合わせて落語家の形態模写を演る人がいたものだ。前落語協会会長、鈴々舎馬風が寄席でよく演ったものだし、春風亭小朝も上手い。もっと昔は柳家小三治も演っていたらしい。演り手がいないのか、それとも需要がないのか、現在は見たことがないなあ。
落研時代も出囃子は決まっていた。やはり、素人なので好きな落語家や先輩に影響された。
先代馬生の熱狂的なファンだった紫雀さんはしっかりと「鞍馬」を使っていた。(口調は志ん朝そっくりだったけど。)私の同期では志ん朝命の弥っ太君は「老松」。先代可楽が好きだった(渋いなあ)八海君は「勧進帳」。世之助君は曲名が面白いと言って「のっと」。悟空君は、先輩の歌ん朝さんが使っていた「ぎっちょんちょん」(彼は真打ちになる時、歌ん朝を継いだ)。酒合丈君は「外記猿」だったかな、自信ないや、ごめん。夕姫さんは確か「梅は咲いたか」。楓さんは枝雀の「ひるまま」だったような…。
私は2年の時には「元禄花見踊り」だった。先輩に「お前にぴったりだ」と言われて、半ば無理矢理決められた。私は圓楽が嫌いだったので、嫌で嫌で仕方がなかった。3年になって、好きなのを使えるようになって迷わず決めたのが「木賊刈り」。何より談志が好きだったし、これで上がるとすんなり落語に入っていけるような感覚があった。
私が卒業した後は大福君が使ったのかなあ、「木賊刈り」。

2010年12月18日土曜日

イルミネーションを見に行く


風が強く、寒い。
図書館でお話会があるというので、皆で出かける。
お話会の間、私は読書。『平家物語』。白拍子、祇王が清盛の寵愛を仏御前に取って代わられる場面。哀れを誘う。窓外、眼下には霞ヶ浦。
お話会終了後、家に帰って昼食。妻手製のいなり寿司、餃子、わかめスープ。
うつらうつらしながら、エルビス・コステロを聴く。コステロ、かっこいいなあ。
夕方、つくばのイルミネーションを見に行く。
子どもたちはメリーゴーランドがお気に入り。3回も乗る。西武デパートの前ではランタンアートをやっていた。
Q’tの眺めのいいレストランで夕食を、という予定で来たのだが、結婚式の二次会らしく貸し切り。残念。
子どもたちのリクエストで寿司にする。お子様セットと豊漁セット。妻には申し訳ないが、私は燗酒を2本。回転しない寿司は久し振り。旨し。白身魚にすだちを載せ、塩を振ってあったのが秀逸。子どもたちは、板前さんに生きた蛸を触らせてもらって大喜びしていた。
外に出て、歩きながらイルミネーションを見る。夜になって風は止んだ。ひんやりとした冷気が心地よい。妻の運転で帰る。
寝酒にタラモアデュー。
今日買った荒木経惟の写真集『チロ愛死』を見る。(チロとは荒木の愛猫。平成の初め頃、彼は『愛しのチロ』という写真集を出している。)あのチロが、老いさらばえ死に向かう姿を我々も目撃させられる。やがてチロの命の灯が消えると、荒木は、妻陽子が死んだ時と同じように、チロを納棺し、火葬の後の骨を自宅に持ち帰り、呆然と何日も自宅のベランダから空を撮影する。死の直前のチロの眼がいつまでも胸に焼き付いて離れなかった。

2010年12月16日木曜日

今日は寒かった


今日は休み。妻とつくばに行く。
楼外楼でランチ。妻は五目あんかけ焼きそばのセット、私は牡蠣と野菜のオイスターソース炒めラーメンのセット。サラダバーに杏仁豆腐、コーヒーが付く。お腹いっぱい。旨し。
お互いのクリスマスプレゼントを買う。
一日中雨模様。朝には雪がちらついた。
夕食はシチューの残りで作ったグラタン、サラダ、フランスパンで白ワイン。これもまた旨し。
写真は筑波山。山頂付近がうっすらと白いように見える。

2010年12月14日火曜日

渋谷から南青山、そして表参道


この前の週末は知人の結婚パーティーで東京に行っていた。
渋谷のハチ公前で待ち合わせ。待ち合わせの王道ですな。
ちょっと早めに着いたので、少し渋谷を散歩する。
渋谷は全く縁がない。学生の頃、NHKで大学落研小咄大会に出場した時に来て以来だ。あの時私は決勝に出るはずだったが、我が校は準決勝で敗れたため出番はなかった。後ろの雛壇に着物を着て座っていたのを、たまたま昼休み役場の人がテレビで見ていて、わざわざ実家の両親に電話をかけ、「息子が出てるぞ」と教えてくれたという。
さて、どこへ行こうか見当も付かない。まあとりあえず109だな。荒木経惟がよく撮っているもんな。今日のお供は、昨年職場の忘年会で当たったデジカメ。ちゃんと109を撮りました。
そこから何となく道玄坂を上る。路地に入ったりしているうちに、いつの間にか待ち合わせの時間が迫る。焦って戻るが、全然土地勘がない。やっとのことでハチ公前にたどり着く。
メンバーも揃ったので、タクシーで南青山へ。パーティー会場は地下にあるライブハウス。ジャズの生演奏もあったりして洒落た雰囲気。懐かしい顔が10人ほど。ひとつテーブルでワインを飲む。新郎新婦の人柄そのままのいいパーティーでした。
お開きの後は表参道に出て知人同士で飲み直す。韓国風さきイカで生ビール。どの辺が韓国風なのかよく分からない。
再会を約し、帰途に就く。家に着いたのは8時過ぎ。子どもたちが寝る前に帰ることが出来た。
上野で買った鯖寿司で酒。鯖は八戸産。これが肉厚で柔らかい。〆加減もちょうどいい。1杯だけのつもりが2杯も飲んじゃった。旨し。
もちろん、奥さんにもお土産にロールケーキ買ってきましたよ。
南青山から表参道か、お前には似合わない所だと言われそうだな。

2010年12月13日月曜日

大福さんのブログへ行ってみた

読者になってくれた大福さんがブログをやっているようなので行ってみた。
やっぱり落研の1年後輩、夢三亭大福さんであったか。
早速読者にさせていただきました。
ブログ、夢中で読んでしまったよ。おまけにキリ番100をゲットしてしまったぜ。
大福さんのブログを読んでいると、「あの頃」が蘇る。無頼派を気取った、自意識過剰だった私がいる「あの頃」だ。自分のことしか考えられなくて、色々な人に迷惑をかけていた「あの頃」だ。ちりちりと胸が痛い。鼻の奥がつんとする。まるでタイムスリップしたようで、今日は一日中、現実との距離感が上手く取れなかった。
「あの頃」よりは、ちょっとは丸くなったし、ちょっとは世間との折り合いを付けることができるようになったと思う。でも、それが何なのだろう。
どうしようもないわたしがあるいている、おそらく今でもそれは変わらない。
大福さん、これからもよろしく。いいブログです。更新、楽しみにしています。

2010年12月8日水曜日

あれから30年が経った


ジョン・レノンが死んで、今日で30年。
あの日、私は大学の落研の仕事があり、どこかで落語を演っていた。
帰りは、武蔵小杉まで東横線に乗り、そこで南武線に乗り換えた。
寒い夜だった。人気のない南武線のホームで、なかなかやって来ない電車を待った。
何だかとても疲れていたような気がする。
ぐったりして川崎のアパートに帰り、炬燵に入ってラジオをつけた。
すると、いきなりジョンの曲がかかった。
その年、ジョンは5年間の沈黙を破り、音楽活動を再開していたので、私はてっきりそのための選曲だと思っていた。
しかし、曲が終わるとDJはこう言ったのだ。
「今日亡くなったジョン・レノンさんの…」
とっさに私は聞き間違いだと思った。だが、事実を確かめるのが怖く、そのままラジオのスイッチを切って蒲団に入った。
次の日、落研の部室で後輩が読んでいた新聞を見せてもらった。社会面にジョンが死んだことが載っていた。
「本当だったんだ。」と私が呟くと、後輩は「信じてなかったんですね。」と言った。
その日はまっすぐアパートに帰った。コンビニでたったひとつ残っていたスポーツ新聞を買った。「ロックの帝王レノン死す」という青い見出しが踊っていた。
あれから30年が経った。私はジョンの歳をとっくに追い越した。思えば遠くへ来たもんだ、今では女房子ども持ち、か。
かつてジョンは「想像してごらん、国境などないって」と歌った。そして今、世界は市場経済のグローバル化によって画一化されようとしている。だけど、ジョンはこのような形で国境がなくなることを、果たして望んでいただろうか。

写真は現在の尻手駅。あの日、私はこの道を、思い詰めたような表情でアパートに向かっていたのだな。

2010年12月7日火曜日

立川談志(聞き手・吉川潮)『人生、成り行き―談志一代記』

落語界の風雲児、立川談志の一代記。文庫化されているのを見つけて早速読む。
生い立ちから、落語家入門、政治家時代、協会分裂騒動、立川流設立と波瀾万丈の人生だ。面白くないわけがない。
しかも、聞き手は立川流顧問、吉川潮。ビートたけし・高田文夫と匹敵する絶妙な組み合わせだ。
またこの、吉川潮の見事な幇間振り。談志、さぞや気持ちよかったろうなあ。
一読してまず思う。立川談志、まさしく天才だ。本質をずばりと掴む勘の良さ。明晰な論理。狂気の香り。この希有の才能の持ち主と同時代に生まれたことは、やはり幸運なのだと思う。
談志特有の自己愛も随所に見られる。前座の時には桂文楽より巧いと思っていた、三遊亭圓生が新協会設立に失敗したのは自分を後継者に選ばなかったからだ、柳家小さんは俺だけを可愛がればよかったのだ、等々。人を褒めるのでも素直にはいかない、必ず自分を一段上に置く一言を忘れない。
もはや誰もツッコめない。激烈を極める反論が返ってくるのは目に見えているし、それに対抗するのも面倒くさい。談志師匠、恐いしな。
ただ、その屈折もひっくるめて談志の魅力なのだ。圧倒的に感動的な彼の落語をまずは聴け。彼の道案内に従って落語の世界に足を踏み入れよ。正しい審美眼があれば、一度は談志に狂うはずだ。
談志はその鋭さをもって落語の世界に穴を穿ち、我々を刮目させた。そして、きりきりとその世界を広げた。現代落語にとって談志の果たした功績は計り知れないものがある。
ただ、談志の示した世界観が落語の全てではない。ともすれば、若い談志ファンには立川流が全てで、その他は生温い二流に映るかもしれない。しかし、落語の世界はもっともっと豊かだ。分析や分解だけが解釈ではないし、鋭く意識的なものだけが優れているわけではない。談志を先達に落語の森に分け入ったとしても、大いに道に迷い彷徨っていい。
確かなことは、談志を通ってきた客は、落語家に野次を飛ばすこともないし、大声で次の展開を話すこともしないだろう。噺の途中で携帯電話を鳴らすこともすまい。立川談志という存在を体験することによって、落語家に対する畏敬の念を、彼らは既に身に付けているだろうから。

2010年12月5日日曜日

霞ヶ浦ランチ


この週末は、次男が水疱瘡に罹っていたので、ずっと家にいる。
やっとよくなってきたので、今日は少し車でお出掛け。
マクドナルドでテキサスバーガーとチキンフィレオ、ホットコーヒー、ハッピーセットを買って霞ヶ浦の湖岸へ。霞ヶ浦を見ながらランチ。
いい天気。暖かい。
子どもたちを堤防で遊ばせる。
夕方はピザ作り。夕食は手作りピザで赤ワイン。もちもち、旨し。
村上春樹のインタビュー集を読む。

2010年12月1日水曜日

ライカ蘇生


修理に出していたライカが戻ってきた。
もはや部品がなく「修理不能」とのこと。
がっかりして帰ってきて、ちょっといじっていたら、これが何と蘇生したのだ。
嬉しかったねえ。
まあ、電源が入らなくなったのは事実だし。無理はさせないように、大事に使うことにします。

写真は愛機ライカC2。

2010年11月25日木曜日

石井徹也編著『十代目金原亭馬生―酒と噺と江戸の粋』 

いい本だ。まず表紙がいい。
薄手のグラスで日本酒を飲む馬生。突き出しに蕎麦味噌らしきものが見えるところから、蕎麦屋であろうか。箸は割られていない。所作の美しさにほうっとなる。
内容は馬生を知る人たちの証言が中心。弟子たちによる対談。娘、池波志乃とその夫中尾彬との対談。談話も、新宿末広亭の席亭、金沢のお医者さん、立川談志、柳家喬太郎といった多彩な面々。写真は豊富。馬生自身の川柳、エッセイも収録されている。
十代目金原亭馬生を知るには、まさに決定版ともいえる一冊である。
それにしても、馬生死して30年、今になってこういう本が出るというのも感慨深い。
私が大学に入学した頃、馬生は既にその早い晩年を迎えつつあった。高校時代から彼の噺は好きだったが、当時は志ん朝・談志の激しい鍔迫り合いが繰り広げられており、私はそちらの方に心を鷲掴みにされていた。華麗な志ん朝、才気溢れる談志、それが同じ寄席の高座でしのぎを削っていたのだ。どうしたって目を奪われる。そこへいくと馬生はあまりにマイペースだった。ぎらぎらした所などこれっぽっちもなく、ふわふわと高座に現れ、「しわい屋」ばかり演っていた。
私は若かったのだ。馬生のいぶし銀の輝きが見えなかった。いや、見えていたのかもしれないが、私の若さがそれに感応しなかったのだ。
この本を読むと、馬生の優しさ、落ち着き、外見からは想像できない肝の太さが、しみじみと伝わってくる。(いささか神格化しすぎるきらいはあるものの)馬生を失ったことが、いかに大きな損失であったかが分かる。十代目金原亭馬生享年54歳、やはり、その死は早過ぎた。
今、私はこの本をいつも手元に置き、繰り返し愛おしむように読んでいるのである。

2010年11月23日火曜日

里の秋


朝、昨夜のカレーに納豆をかけて食べる。旨し。
先週から次男がおたふく風邪で幼稚園を休んでいる。
痛みはなくなって、すっかり元気。ずっと家にいるので多少ストレスが溜まっているのか、お兄ちゃんとの喧嘩が絶えない。
雨は降っているが、気晴らしに車で出かける。
先月、笠間で作った器が出来たというので、取りに行く。なかなかの出来映え。
それから、柿岡に回り昼食にパンを買う。柿岡の名店「ブレッド」。
田圃の畦道に車を止め、筑波山を見ながら昼食。大葉と鶏肉を挟んだ味噌味の和風サンドが秀逸。晩秋の旧八郷町の里の秋を堪能しながら帰る。
北海道の友人から、鮭、ほっけ、烏賊、秋刀魚等、どさっと届く。毎年すまないねえ。ありがとう。
夕食はおでんと焼き鳥、それと従兄が打ってくれた蕎麦で一人娘。旨し。
写真は筑波山。麓は紅葉真っ盛り、写真では、はっきり写っていないけどね。

2010年11月17日水曜日

桂文楽の穴

文楽の芸を「完璧主義」と評する人は多い。
曰く、「一点一画をゆるがせにしない」、「磨き上げられた緻密な芸」等々、いずれもきちんとした破綻のない楷書の芸という評価である。
確かに文楽の噺は、台詞も時間もきちっと決まっていた。ただ、神格化されるほど全てにおいて完璧だったわけではない。
例えば『富久』。この噺で文楽はカンニングペーパーを持って高座に上がっている。久蔵が旦那の家に駆けつけ、火事見舞いの客の応対をしている場面、文楽は見舞い客の屋号や名前を手ぬぐいの上に置いたカンペを見ながら言っているのである。もしかしたら、彼が『富久』をなかなか高座にかけなかったのは、それが覚えられなかったからではないか、と勘ぐりたくなる。
また、色々な噺の映像を観ていて気づいたのだが、噺の途中で上下(かみしも)が入れ替わってしまうことがよくあるのだ。(多分、三遊亭圓生はこのようなことはしない。圓生のプライドはこんな初歩的なミスを許すまい。)
文楽の上下に関しては、松本尚久著『芸と噺と―落語を考えるヒント』(扶桑社刊)の中に出てくる。少し引用してみよう。
「小満んさんによれば、文楽は噺のトーンの維持に最も神経を使っていて、会話、地の文一体になったテンションを保つために、息継ぎの箇所がほかの人よりも少なく、また、普通は切らない所で息を継ぐように配分していた。さらに会話のつながり方を最優先にしているので、ときに人物の上下が逆になっても、そのまま停滞せずにとにかく噺を進めたという。」
文楽は上下より噺のテンションを優先した。つまり、最終的には型よりも内容を優先していたのだ。
文楽は「完璧主義」と賞賛されたが、一方で「いつ聴いても同じ」とか「作品至上主義で人間の業を描いていない」などと批判された。
しかし、文楽は、決して頑なな形式主義者ではなかった。噺が生きたものとなるために、形式を犠牲にするのも厭わなかったことが、それを証明している。

2010年11月16日火曜日

やったぜ、稀勢の里


昨日、稀勢の里が白鵬の連勝記録を止めた。
いやあ、やってくれた。やっぱり稀勢の里は何か持ってるねえ。
双葉山を破った安芸乃島は、その後、横綱になった。
ここのところ停滞気味だった稀勢の里も、これを機会に是非一皮むけて欲しい。
私が知っている郷土力士は、若浪、多賀竜、水戸泉、武双山、雅山といずれも優勝はしたが、横綱にまでは届かなかった。
武双山は大学の後輩にあたるだけに、とりわけ期待していたんだがなあ。
稀勢の里は妻の実家がある牛久の出身。頑張れよお。
写真は5、6年前、牛久かっぱ祭りに来ていた稀勢の里。妻がケータイで撮って送ってくれた。まさに小山のような体躯だ。

2010年11月10日水曜日

浜川崎線


大学の頃住んでいたアパートから歩いて20分位の所に親戚の家がある。
当時、私は月に1、2回そこに行って、夕食を食べさせてもらったり、風呂に入れてもらったりしていた。
東芝の工場の間を抜け、南武線、東海道線、京浜急行の踏切を渡って、八丁畷の駅前を通っていく。人通りはほとんどない。私はそんな時、歩きながらよく落語の稽古をしていた。時間的にもちょうどいいし、歩きながらぶつぶつ口ずさむ稽古が、なかなか身に付いてよかったのだ。
親戚の家からの帰りは、八丁畷から浜川崎線の電車に乗った。
八丁畷は、京浜急行と浜川崎線が交差している所にあり、京浜急行のホームをまたぐ跨線橋がそのまま浜川崎線のホームになっているという、いささか変わった造りの駅である。その昔、小津安二郎監督の『お早う』という映画のロケで使われた。ビデオで見る限り、駅自体はほとんどそのままといった感じ。戦後の匂いがぷんぷんする。
思い返すと、なぜか冬の印象が強い。ホームにはいつも私一人。寒さに背を丸めて電車を待っている。工場地帯の方角から、ヘッドライトが見え、やがて茶色の電車がやってくる。
電車は2両編成。戦後間もなく国電で使っていた旧式の車両だ。床は板張り。よく揺れた。
椅子に座ると、暗い窓ガラスにしけた私の顔が映り、その向こうに川崎の夜景が見えた。アパート最寄りの尻手まで、たった一駅だったが、いかにも侘びしげで、私はこの電車に乗るのが好きだった。
あれからもう30年か。思えば遠くへ来たもんだ。
写真は現在の浜川崎線の電車。すっかり小ぎれいになったねえ。創設80周年のヘッドマークが誇らしげだぞ。

2010年11月5日金曜日

上野鈴本演芸場 11月上席昼の部


上野鈴本演芸場、11月上席昼の部。8分の入り。ほとんど中高年。
入ったのは1時半頃。古今亭志ん橋が「熊の皮」を演っていた。
お次はホームランの漫才。ネタはこの間と同じ。いいねえ。面白い。
柳家小里ん「碁泥」。これもこの間と同じ。柳家の味。
入船亭扇遊は「権助芝居」。得意ネタなんだな。上手い。
三遊亭小圓歌の三味線漫談。文楽、志ん生、小さん、三平、圓歌の出囃子を弾く。最後は「奴さん」を踊る。小股の切れ上がったいい女。
仲トリは古今亭菊志んの「悋気の独楽」。明るくて達者。ただ長髪のせいか素人臭い印象を与える。(私が歳を取ったからそう感じるのかもしれない。)
仲入りではトリのしん平がメガホンを取った映画、「落語物語」(私はつい「落窪物語」と読んでしまう)の宣伝を、柳家わさびと春風亭ぽっぽが務める。
クイツキはニューマリオネットの操り人形。以前は夫婦でやっていたのだが、現在は旦那のみ。寄席で観ることの出来る唯一の操り人形だ。「獅子舞」と「会津磐梯山」をバックに酔っぱらいを巧みに操る。ピンになったので、「闘牛士」を観ることが出来なくなったのがちょっと寂しい。
柳家喜多八、「替わり目」。本格派。この人が出ると高座が締まるな。
若手のエースの一人、古今亭菊之丞は「町内の若い衆」。ちょいとシモがかった噺だが、品がある。外見に似合わぬ骨格の太い芸。大きくなってほしい人だ。
膝代わりは和楽社中の大神楽。私が若い頃は大神楽といえば海老一染之助・染太郎とか柳家(だったかな)とし松・小志んだった。いつの間にか時代は移っているのだなあ。
トリは林家しん平。映画の宣伝を少しして、大人はもう少し怒らなきゃいけないという枕をふってから「かんしゃく」に入る。声がはっきりして聴きやすい。この噺は、ややもすると客席が怒られている雰囲気になって引いてしまうことがあるが、しん平の明るさでノリのいい高座となった。(その分、中盤の父親が娘を諭す場面は、しっとりとした感じにはならなかったが。)
私が20代の頃、三遊亭圓丈を筆頭に、夢月亭歌麿、柳家小ゑんといった人たちが新作落語で売り出した。その中にこのしん平がいた。リーゼントに革ジャンを羽織って暴走族落語などを演っていた。アイドルの桂木文と結婚もしたりしたな。(桂木文の幸薄い感じが私は好きでした。)あの頃のとんがった感じから、少し太って丸くなった。
最後は全身タイツになって「ガイコツかっぽれ」を踊った。馬鹿馬鹿しくっていいぞ。
いい気分で追い出しの太鼓を背中で聞いて駅に向かう。

お土産に船和の芋ようかんを買って帰った。ありがとう、奥さん、楽しかったよ。

2010年11月4日木曜日

川崎を歩く


休み。本当なら妻とデートなのだが、次男の幼稚園の遠足と重なり、一人でのお出掛けとなった。
久々に川崎に行く。
川崎駅西口から南武線尻手駅へと歩く。私が大学の4年間住んでいた所だ。
それにしても西口、劇的に変わったなあ。
私の大学時代はひっそりとした佇まいだったが、現在は、東芝の工場跡に大規模な商業施設ができ、マンションが立ち並んでいる。すっかりお洒落な街になってしまった。
私が住んでいた幸和荘という木造2階のアパートも既になく、その場所には小ぎれいなマンションが建っていた。
よく食べに行った角屋食堂や中華料理ちづるも、友川かずき御用達の三玉酒店もない。無理もない。あれから30年も経っているのだ。
いつものように写真を撮りながらぶらぶら歩いていたのだが、突然、愛機ライカC2の主電源スイッチが利かなくなった。仕方がなくケータイのカメラで、アパートがあった路地を撮影する。
30分ほど歩いて尻手駅に着いた。この辺はほとんど変わらない。
登戸までの切符を買い、ホームに出る。浜川崎線の電車が止まっていて、80周年記念のヘッドマークがついていた。
南武線に乗って登戸へ。これが私の通学路だった。登戸駅が新しくなっいて、ちょっと驚いたな。
そこから歩いて向ヶ丘遊園へ。
インドールというカレー屋で昼食をとる。この店は大学2年の頃にできた。インドールカレーとビール。パンチの効いた辛さと、煮込んで溶けた野菜の甘味が旨い。昔のままの味。
いい気持ちになって小田急線で新宿に出て、山手線で上野に戻る。
鈴本演芸場で昼の部を観て帰る。
家に着いたのは7時頃。上野で買った「味噌カツひつまぶし弁当」で夕食。味噌カツ部分でビール、ひつまぶし部分で酒を飲む。

2010年11月3日水曜日

ポークベーコン焼き


出張で沖縄に行って来た。
初日の晩飯は、牧志公設市場の二階で食べた。
エスカレーターを上って、裏側の店。7年前にも来たような気がする。
「ポークベーコン焼き」。ポークランチョンミートとベーコンを焼いたのとキャベツとポテトサラダ。ご飯と味噌汁が付いて感動の550円。旨し。テーブルにあった油味噌がまた旨い。飯に合う合う。
6時半過ぎには閉店。客はほとんど地元の人とのこと。
やはり地元の人が贔屓にしている店はいいねえ。

2010年10月27日水曜日

桂文楽の芸

文楽には、お笑い芸人として致命的な欠点がある。
ひとつはアドリブが利かないこと、もうひとつはすぐにテンションがあがってしまい、長い噺が出来ないことだ。
文楽の芸は、この欠点を出発点にしていると私は思う。
アドリブが利かないから台詞を固める。稽古を重ね、台詞を肉体化する。
長い噺が出来ないから、噺のサイズを自分に合わせる。そのために無駄を省き、言葉を磨く。
そうして、精緻な工芸品のような噺が出来上がった。噺はほとんどが20分程度に刈り込まれ、それは(意図的であったかどうかは分からないが)、寄席の持ち時間にぴったりだった。つまり、文楽は寄席の高座で最高の芸を披露することが出来たのだ。(三遊亭圓生はその実力を発揮するのに、寄席の持ち時間では足りなかった。だから、彼の場合、真価を発揮するためには、独演会やホール落語といった舞台が必要だった。)
文楽を完璧主義と評する人は多い。寸分変わらぬ台詞、時間、精密機械の如しであった。
普通、そうなると芸はいわゆる「箱に入った」ものになる。形式に凝り固まり生命感を失う。
ところが、文楽の噺はそうはならなかった。確かに台詞も時間もいつも変わらない。しかし、その空間は躍動していた。多分、それには彼の高いテンションが影響していたと思う。まるで登場人物が憑依したかのような熱演は、たとえ同じ噺でも、演じる度ごとに新鮮な感動をもたらした。同じ器だからこそ、中身のその時その時の違いが際立った。(柳家小三治は「文楽師匠ほど演る度に違う人はいないんじゃないでしょうか」と言っている。)
しかも、その高いテンションは、噺の中で見事な高低差となって表れた。文楽の噺はいずれも20分程度、その狭い敷地の中でその高低差は最大限の効果を生む。
以前、国立演芸場で入船亭扇橋の「心眼」を聴いたことがある。扇橋の「心眼」は滋味溢れるもので、それはそれで結構だったが、幾分単調で寝ている客が何人もいた。
帰宅して文楽の「心眼」をCDで聴いてみて驚いた。「心眼」がこれほどドラマチックでスリリングなものだとは。まさに怒濤のような18分41秒であった。
例えば、家は土地の形状、気候、文化などによってその形が決まる。芸も同じだ。本人の資質がベースとなってその人の芸が構築される。文楽の芸は、彼の資質の上に、粋を極めて(欠点と思われるものまで活かしきって)、建築されたものなのだ。その意味で、文楽の噺は彼以外の何者にもできない、文楽オリジナルとなり得たのである。

2010年10月25日月曜日

久々の外出


昨日は久々の終日フリー。
長男の絵が展示されているというので、霞ヶ浦ふれあいランドに行く。
皆上手だなあ。うちの子の造形の才能は今のところ発揮されていない様子。
タワーに上る。天気はあまりよろしくない。筑波山の頭の方だけがぼんやり見えた。
水の博物館で遊ぶ。ストーンペインティング、シャボン玉、ヨーヨー釣り、ザリガニ釣りをやって、最後は栞作り。
昼食はベイシアに行って、モスバーガーのオニポテセット。
次男がもっと遊びたいと言うので、またもや、ふれあいランドに戻る。ボートや滑り台で遊ぶ。
それから、霞ヶ浦大橋を渡り、かすみがうら市水族館へ行く。
暫く行かないうちに、亀が増えた。ここでもけっこう遊ぶ。
ここのところ仕事が忙しく、久し振りの親子4人のお出掛けだった。
夕食は、鰹の刺身、麻婆茄子、叉焼。刺身は私の、麻婆茄子は長男の、叉焼は妻のリクエスト。私と妻は各々の好物をつまみに菊正宗樽酒を飲む。旨し。
寝酒にウイスキー。いい休みだったな。また皆でどこか行こうねえ。

2010年10月21日木曜日

生家


私の昔の家。
全体の写真がなく、部分部分を補って描いた。
茅葺きの2階建てという珍しい造り。これは裁縫所をやっていた名残だ。
他の家と違って、何となく誇らしかったことを覚えている。
小学校の5、6年の時に今の家に建て替えた。
父は2階は不便だと言って平屋にしたが、2階建てで育った私は、ちょっと不満だった。
現在は母屋に隣接して我々夫婦が住む家がある。しっかり2階建てだ。

2010年10月18日月曜日

文楽と志ん生 昭和36年

昭和36年は文楽と志ん生にとって、ひとつの転換点とも言える年となった。
志ん生の場合は劇的だった。この年の12月15日、彼は読売巨人軍の優勝祝賀会の余興に呼ばれ、高座で脳内出血を起こして倒れた。
川上監督が交通渋滞のため遅刻、開宴が大幅に遅れた。立食形式のパーティーで、腹を空かせた選手は料理に殺到し、高座など見向きもしない。かあっと頭に血が上ったのがいけなかった。志ん生は前のめりに倒れ、そのまま病院に搬送された。
一時は重体となったが、志ん生は強靱な生命力で持ち直し、約1年かけて高座に復帰する。
右半身に麻痺は残ったものの、幸いなことに言語障害は起こさなかった。ただ、以前より呂律が回らなくなり、迫力が減じた。その代わり生じた間が、ファンにとっては何とも言えない味となった。とはいえ、全盛期の芸とは比較にはならない。長男の金原亭馬生は、「噺家として言えば、倒れた後の親父は親父じゃない」とまで言った。
文楽は11月に紫綬褒章を受章。落語家として初の受章であり、落語界こぞって喜びにわいた。芸術祭賞でも勲章でも、落語家初、文楽はまさに落語界の第一人者として自他共に認める存在となった。
このように、文楽と志ん生にとっての昭和36年は、大きく明暗を分けたかに見えた。
だが、小さな変化が文楽に起きている。この年、文楽は入れ歯を入れる。このため滑舌が悪くなった。
色川武宏は『名人文楽』の中でこう書いている。
「文楽が入れ歯を入れる以前の芸を、今の若い人に観せたかった。昭和36年以前の芸である。この前七、八年の桂文楽が最上の、すなわち最高の桂文楽であり、入れ歯以後の口跡によるものは、いたしかたないとはいえ、真生の文楽とは認めがたい。」
また、春風亭小朝の『苦悩する落語』の中には次のような話が出てくる。小朝が落語家の声の分析を、日本音響研究所に依頼した。そこの主任研究員が驚愕したのが文楽の声だった。話速の変化では、最初1分間に100音節、中程は50音節、後半は100音節といったように緩急を巧みに操る。そして、人間の耳に聞こえる最も感度のいい2000ヘルツ~4000ヘルツに声を集める。さらに、音声基本周波数の移動幅は120ヘルツ~320ヘルツ、音声の高低をかなり使ってメリハリを利かせる。まさに「1/fの揺らぎ」の持ち主だったという。ただ、欠点が二つあった。各音韻の区切りが曖昧なところとサ行の子音の発音。もし、これが入れ歯による影響だったとしたら、それ以前の文楽の芸は、音声上で言えば完璧だったということになる。
絶頂を迎えた文楽に、静かに老いが忍び寄っていた。

2010年10月13日水曜日

小月庵


小川の小月庵。新築前の旧店舗。私としてはこっちの方が好み。これぞ、町の正しい蕎麦屋。
カツ丼は私の中でナンバーワンだな。肉厚でやさしい味。肉丼もいいよお。
蕎麦はねえ、押しつけがましくない。安くて旨い。程がいい。
天もりはイカ天だが500円。天晴れだね。
親子南蛮も大好き。
ちょいと変則的なところでは、カレー南蛮と半ライス。(「はんらいす」で変換したら「半裸椅子」と出てきた。面白かったので、残しておく。)前にも書いたので詳細は省くが、試してみる価値はある。
職場が変わったのでこの頃ご無沙汰。今度、夕方からとろとろ酒でも飲んでみたいものであります。

2010年10月6日水曜日

笠間で手びねり


この間の日曜日、笠間で手びねりをやった。
次男がお皿を作りたいと言い出したのだ。
やきもの通りの桧佐陶芸に行く。
まずはお姉さんの丁寧なレクチャーを受け、作業を始める。
次男は気が変わったのか、コップを作るという。
妻はお皿、長男も魚の形の皿を作る。
私はコップのつもりで作り始めたが、いつの間にか小鉢になった。
写真は我々の力作。
昼食は「てっぺん」という蕎麦屋で食べる。
私はカツ丼ともり蕎麦のセット。妻は冷やしたぬき。子どもたちはざる蕎麦を完食。
小月庵と同様、正しい蕎麦屋である。

2010年9月30日木曜日

古今亭志ん五死去

古今亭志ん五死去。
私はそれを朝日新聞の記事で知った。
「享年61歳。死因は結腸癌。古今亭志ん朝の一番弟子。与太郎話を得意とした。」とあった。
志ん生最後の弟子でもあった。本人は志ん生に弟子入りするつもりで行ったのだが、美濃部家としては志ん朝の弟子としてとった。弟子入り後、志ん朝が忙しかったことから、志ん生に預けられ、身の回りの世話をした。前座名である高助という名前も志ん生がつけてくれた。
二つ目の志ん三時代、衝撃とも言える与太郎像を確立させ売り出した。
当時、私は大学生だったが、その破壊的な凶暴ですらある与太郎の登場はセンセーショナルだった。枕の「親子三人の馬鹿」の小咄の第一声、「ああーんちゃーん」からして凄かった。あれほどまでに突出したキャラクターを、私はそれまで知らなかった。(師匠志ん朝は「あれは確かに面白い。でも、あれなら俺にもできる。」と言ったらしい。)
真打ち昇進直前に志ん五と改名。これが無断だったことから志ん朝が激怒、破門寸前にまでいったという。
与太郎で売り出した志ん五だが、そのイメージに縛られたことは否めないだろう。飛び道具を武器にしているような印象を与えたが、実際は骨格の太い確かな腕を持つ落語家だった。男っぽいいい噺家だった。
志ん朝亡き後、一門の支柱として存在感を発揮していた。これから一回りも二回りも大きくなるはずだった。
師匠志ん朝も弟弟子右朝も、あっという間に神様は奪っていった。そして今志ん五もだ。どうして神様はここまで古今亭につらく当たるんだろう。
「お前ちょっと早く来すぎだよ。」と、あの世で志ん朝が言ってるような気がしてならない。
青春時代の若手が亡くなるのは、やっぱり寂しいなあ。田舎の片隅からだが、ご冥福を祈りたい。

2010年9月28日火曜日

文楽の「芝浜」

文楽の「芝浜」における有名な話がある。
文楽が黒門町の自宅に弟子たちを集め、稽古をしていた「芝浜」を聴かせた。
一席語り終え、感想を求めたところ、その中にいた後の三代目三木助が「師匠のは金を見つけた時の嬉しさが出ていない。」と言ってダメを出した。
三木助は「隼の七」と異名を取る博打打ちだった。一発逆転の、思わぬ大金が転がり込むという体験を彼もしていたのだろう。その三木助の目から見れば、文楽の表現は物足りなかった。
それを聞いた文楽は、そのまま「芝浜」をお蔵入りにしたという。文楽の完全主義を物語るエピソードだ。
だが、一方でこんな話もある。これは名古屋を拠点にしていた初代雷門五郎の証言である。
文楽が「芝浜」を演じると、弟子たちが感動して泣いた。
それを見て文楽は言った。「お前たちが泣くようじゃあ、私はこの噺は演らないよ。お客様は寄席に楽しみでお見えになるんだ。お客様を泣かしちゃいけない。」
戦後、三木助は「芝浜」で売り出す。三木助が名古屋に来た時、五郎が確認すると、三木助は「あれは黒門町の『芝浜』だよ。」と答えたという。
(三木助も五郎も文楽の弟子ではなかったが、可愛がられて、よく噺の稽古をしてもらっていた。五郎は文楽が二つ目時代に演っていた「出来心」や「天災」などを教えてもらったという。三木助や五郎が文楽の自宅で「芝浜」を聴いたとしても不自然ではない。)
事の真偽はともかく、「お客様を泣かしてはいけない」というのは、文楽のひとつの主義であった。文楽は人情噺を持ちネタにしていない。「景清」や「心眼」といった人情がかった噺はあるが、泣かせに走らずきちんと落語として演じている。
この文楽の主義を受け継いだ落語家がいる。文楽のライバル、古今亭志ん生の次男、古今亭志ん朝である。

2010年9月23日木曜日

土浦イオンで嘉門達夫を見た


土浦イオンで嘉門達夫が無料ライブをやっていた。
私は妻子を連れ帰り際だったので、ほんの少し眺めただけだった。
歌っていたのは、替え歌メドレー。けっこうウケていたな。
何を隠そう、私は嘉門達夫のデビュー作「お調子者でいこう」をLPレコードで持っている。CDも4、5枚持っているかなあ。
そう、実は私、コミックソングが好きなのだ。
私の中では(活躍時期、芸風ともに大分違うが)、東のなぎら健壱と西の嘉門達夫が双璧だ。
なぎら健壱の歌は、コミカルなものでもどこか哀愁があり、情緒がある。東京落語の佇まいを感じる。
嘉門の方はひたすら馬鹿馬鹿しい。(なんたって「バルセロナの5段活用、バロセロナ、ビロセロナ、ブロセロナ…」だもんね。)その分、爆発力は凄い。「小市民シリーズ」「替え歌シリーズ」などヒット作を持ち、「替え歌」では紅白歌合戦にも出場した。
ただ、コミックソングの旬は短い。多くの人は、1回聴けば充分、と思うだろう。でも、そこで勝負していく姿はいっそ清々しいと、私は思う。
紅白にまで出場した嘉門が、土浦イオンで買い物客相手に歌っている。見ようによっては哀れかもしれない。だけど、そんな湿っぽさを微塵も感じさせず、目の前の客をしっかり掴もうとする嘉門達夫、格好いいぞ。

2010年9月19日日曜日

石岡のおまつり


妻子を連れ、石岡のおまつりを見物する。
関東の三大祭り(あとの二つは知らない)。今年もいっぱいの人出だった。
二人の息子は、チョコバナナだ、綿菓子だ、クジだ、リンゴ飴だ、と盛んにねだる。落語の「初天神」みたい。
1時間ほど歩いて、山車、獅子を堪能。八間道路をぶらぶらしながら帰ることにする。
駅前で山車が集まっていて、すごい混雑。通り抜けようとすると、後ろから電車に乗ろうとしているらしい人たちが焦って押してくる。子ども二人をかばいながら何とか抜け出す。一人つまずいて転びでもしたら、将棋倒しになって大惨事になるところだ。
帰って、屋台で買った、たこ焼き、広島焼き、唐揚げ、揚げ餅でビール。冷たいビールが旨い。それにしても、屋台の食べ物って、買った時は旨そうなのに家で食べるとそれほどでもないのは何故なんだろう。

2010年9月18日土曜日

佐野へ行く


遅ればせながら、妻の厄払いに、妻子を連れ佐野へ行く。
茨城空港北ICから北関東自動車道に乗り、11時少し前に佐野に着く。
佐野厄除け大師にお参り。
昼は大師様近くのラーメン屋。佐野ラーメンをいただく。
麺は手打ちのちぢれ麺。あっさりとした醤油だし。二人の息子は完食でした。
ただ、以前食べた佐野ラーメンは、もっとスープが澄んでいたような気がするな。
自家製餃子も旨かったよ。
それから、アウトレットへ。
日差しが強く、暑い。結局何も買えず。
帰りに壬生のおもちゃのまちバンダイミュージアムに寄る。
入場料が大人1000円、子ども600円と少々高め。
でも、まあ古今東西色んなおもちゃの展示があって楽しかった。(ガンダムは世代じゃないので、燃えなかったが)
妻はファミコンの「スーパーマリオ」を懐かしがって、大喜びで長男と対戦しておりました。
帰りは友部ICで下りた。時間は大差ない。とすれば、こっちの方が高速代が幾らか安く済む。
帰宅は6時。子どもを風呂に入れ、明太子スパでビール、白ワイン。

2010年9月17日金曜日

文楽十八番

文楽の晩年の持ちネタは、「明烏」「よかちょろ」「船徳」「寝床」「素人鰻」「愛宕山」「鰻の幇間」「王子の幇間」「馬のす」「心眼」「景清」「しびん」「松山鏡」「締め込み」「やかん泥」「厩火事」「按摩の炬燵」「星野屋」「悋気の火の玉」「富久」「夢の酒」「大仏餅」「穴泥」「酢豆腐」「かんしゃく」「干物箱」「つるつる」の28演目しかなかった。
ただ、文楽の持ちネタがこれだけだったというわけではない。
戦後でも「小言幸兵衛」「野ざらし」「品川心中」「お若伊之助」「鶴満寺」を演じたことがあった。戦時中のものでは「子ほめ」の録音も残っている。
(ちなみに「小言幸兵衛」と「品川心中」は大学時代ワゴンセールで買ったテープに入っていた。「鶴満寺」はCD化されている。)
昭和18年刊の『風流寄席風俗』という正岡容の随筆集に収められた「名人文楽」の中には、「芝浜」「九州吹き戻し」を稽古中だと書いてある。自伝『あばらかべっそん』では「三味線栗毛」をものにしたいと書いているし、自分の女を鶴本の志ん生に取られた体験を「刀屋」に生かしたいとも書いている。その他にも『あばらかべっそん』の中には「代脈」や「道灌」を演じた記述もある。
文楽は弟子の柳家小満んに「あたしだって稽古した噺は300ぐらいあります。」と言ったという。そして、こう付け加えた。「富士山も裾があって高いんですよ。」
つまり、文楽の持ちネタは、志ん生や圓生に匹敵する可能性があったということだ。しかし、彼はそれを約10分の1にも絞り込んだのだ。
文楽がここまで持ちネタを絞り込んだのは、その完璧主義にあったのに間違いはなかろう。彼はよく「私のネタはすべてが十八番」と胸を張ったが、逆に言えば十八番しか演らなくなったのだ。いいものしか出さない。いや出せない。名人という称号は、そういう形で文楽を縛ったのかもしれない。
もうひとつ、色川武大が「名人文楽」(奇しくも正岡と同じタイトルだ)という文章で興味深いことを書いている。文楽の演目が少ない理由は「自分の命題に沿えない話は演じない」からだ、というのだ。
文楽のネタが偏っているというのは、誰もが指摘するところだと思う。わずか28演目の中に、盲人の噺、幇間の噺が占める割合は大きい。(春風亭小朝は、主人公が一方的に虐められる噺が多いと言っている。)自分の命題に沿う噺しかできないとなれば、自ずから似た傾向の噺が多くなるのは仕方がないだろう。文楽はその点で言えば、確かに不器用だった。
しかし、こうも言える。文楽は、自分が同化できる噺しか演らない、いわば「一人称の落語家」だったのだ。(三遊亭圓生は「三人称の落語家」だったと思う。登場人物から距離を置き、全ての人物を巧みに演じ、操って見せた。)だから、文楽の噺は、型は決まっていても、熱く躍動し、聴く者の心を揺さぶるのだ。

2010年9月8日水曜日

桂文楽 昭和30年代

昭和30年代、落語は黄金時代を迎える。その主な舞台となったのはホール落語だった。ホール落語を定義すれば、椅子席の大きな劇場(ホール)を用い、厳選された落語家の落語(主に古典)を鑑賞する、といったものになろうか。ホール落語は、寄席のほの暗い「悪所」というイメージを一新し、落語を鑑賞に耐える芸術にステップアップさせた。
さらに、このホール落語のブランドイメージを一挙に高めたのが、昭和31年にスタートした「東横落語会」だった。八代目桂文楽・五代目古今亭志ん生・六代目三遊亭圓生・三代目桂三木助・五代目柳家小さんの5人をレギュラーメンバーに固定。この5人が最も良質な古典落語を演じる者だということを強烈に印象づけた。(もちろん、それはプロデューサーの湯浅喜久治及びその師安藤鶴夫の価値観に他ならなかったが。)
人気者六代目春風亭柳橋・三代目三遊亭金馬は、この舞台では冷遇された。それは、第一次落語研究会における初代三遊亭圓遊の如きものだったのかもしれない。
そんな中、文楽と志ん生を双璧として、圓生がめきめき伸びてくるという図式が顕著になってくる。
文楽は若手真打ちの「睦四天王」の時からずっと売れっ子だったが、志ん生と圓生は長い低迷期を過ごしていた。志ん生は生来のずぼらから干され、圓生は気障なばかりで下手だと酷評されていた。二人は戦争末期満州に渡り、生死をかけた過酷な経験をする。その経験が芸に膨らみを持たせた。帰国後、志ん生人気が爆発、一挙に文楽と肩を並べる。(それ以前から、二人を東京落語界の最高峰と評価していた正岡容のような人はいた。)圓生は猛追してくる小さんを振り切るように自らの芸を伸ばしていく。オールドファンは以前の下手だった圓生のイメージに引きずられる感があったが、若い層は彼を熱狂をもって迎えた。
それに加えて、東大、早稲田といった一流大学で落語研究会が相次いで創立、落語はよりアカデミックなものになる。早稲田の教授、輝峻康隆と興津要は、桂文楽に昭和落語の最高峰という高い評価を下した。それは多分、文楽の一言一句を磨き抜く厳しさと文学性が大学のアカデミズムに合っていたのだろう。純文学の芥川賞を大衆文学の直木賞より重きを置く感覚に似ているのかもしれない。芸術祭を受賞したのは、文楽・志ん生・圓生の順だったが、それがそのまま大衆の人気を反映したものではなかった。後に圓生自身、「人気投票をすると、志ん生・圓生・文楽の順でした。」と言っている。それは現在においても同じかもしれない。
昭和20年代から30年代にかけて、文楽は昭和の名人としての評価を高めていった。そして、その過程の中で持ちネタを絞り込んでいった。もともとネタ数の少ない人だったが、自分で満足できるものしか演らなくなっていく。小心で臆病な文楽にとって、名人の称号は、いいものしか演じられないといったプレッシャーを与えるものだったのかもしれない。
志ん生の、セコな噺でも平気で高座にかけるような図太さは文楽にはなかった。確かに文楽の持ちネタは全てが十八番だったが、逆に言えば十八番しか演れなかったということだろう。エリートのひ弱さがそこに見えるような気がしないでもない。

2010年9月2日木曜日

桂文楽 昭和20年代

昭和21年、四代目柳家小さんが落語協会の会長に就任する。しかし、彼は翌年、愛弟子小三治(五代目小さん)の真打ち昇進披露で「鬼娘」を演じた後、上野鈴本演芸場の楽屋で急逝。後任の会長には八代目桂文治が就いた。(昭和26年の東京新聞社刊『藝談』では文楽を副会長と紹介している。)
昭和24年、安藤鶴夫『落語鑑賞』刊行。安藤の筆によって文楽の噺が活写され、その名人芸が賞賛された。
昭和26年以降、民放ラジオ局が相次いで創設される。この草創期のラジオで、落語は有力なコンテンツとなった。昭和28年、東京放送(TBS)は、桂文楽・古今亭志ん生・三遊亭圓生・柳家小さん・昔々亭桃太郎と専属契約を結ぶ。(これには演芸プロデューサー出口一雄の功績が大きい。)それを皮切りに民放各局の落語家争奪戦が起きたが、その契約金によって落語家の生活が向上したという。
文楽の出口に対する信頼は絶大で、TBSを「うちの会社」と呼び、背広(文楽は洋装を好んだ)には常にTBSの社員章を付けていたという。出口はTBSを退社後。出口プロダクションを設立。文楽を始め多くの落語家のマネジメントをした。
昭和29年、文楽は「素人鰻」の口演により、落語家初の芸術祭受賞を果たす。
翌昭和30年には八代目文治が没し、文楽が落語協会会長に就任。こうして文楽は名実共に東京落語界のトップに立った。
六代目春風亭柳橋・三代目三遊亭金馬に、人気という点では一歩も二歩も譲った文楽が、これほどまでに評価されたのは、正岡容と安藤鶴夫という二人の落語評論家の存在が大きい。
正岡は昭和18年刊の『随筆寄席風俗』に「名人文楽」という文章を載せている。恐らく彼が、最も早く文楽に名人の称号を与えた一人であろう。
安藤は『落語鑑賞』以後、文楽賞賛の文章を次々に書いた。そして、彼は芸術祭の選考委員になるなど、業界で大きな影響力を持つようになる。文楽が落語家初の受賞を果たした昭和29年の芸術祭で奨励賞に輝いたのは、やはり安藤が肩入れしていた三代目桂三木助。しかも受賞した演目の「芝浜」は、安藤と三木助が二人三脚で練り上げたものだったのである。その安藤が柳橋・金馬を無視し、文楽を手放しで賞賛したのだ。名人文楽という評価を定着させるのには、大きな追い風になったに違いない。
もちろんそれだけではない。昭和20年代は文楽の50代後半から60代前半にあたる。年齢的にも絶頂期にあった。端正で艶があり、しかも迫力のある文楽の噺は、聴く者を魅了せずにはおかなかっただろう。

2010年8月28日土曜日

草津旅行


両親、妻子を連れて、草津に1泊旅行に行く。
行きは、常磐・外環・関越のルート。
渋川市内で昼食。お母ちゃんが一人でやってる普通の食堂に入ったのだが、「いらいっしゃい」もなければ「お待ち遠様」もなし。ざるうどんは、まるでスーパーで買ってきたうどん玉。腰も何にもない。ここまで外れれば、かえって気持ちがいい。
ホテルは、「じゃらん」で見つけた。ネットの口コミでは「新しくないけど、掃除が行き届いていて感じがいい。料理は特筆すべきものはない。子どもを遊ばせる設備は充実している。」とあった。その通り。ネットの口コミ、恐るべし。
想定外だったのは、ちょうどこの日、天皇・皇后両陛下がこのホテルにお泊まりになったことだ。警備の警官は1800人だという。まあものものしかった。おかげで両親と長男のテンションは上がりまくり。妻は父に呼び出され、お出掛けになる両陛下のご尊顔を拝することになったという。長男は皇后陛下に手を振って頂き、「写真は撮れなかったけど、心のシャッターは押したよ」などと洒落たことを言っていた。
ホテルではプール、ビリヤード、迷路など思い切り遊ぶ。次男はビリヤードをやったのがよほど嬉しかったのか、一生懸命回らぬ舌で祖父母に説明していた。
夜は湯畑に行く。足湯が熱い熱い。ライトアップされた湯畑は幻想的でよかった。
2日目は、水沢うどんでうどんリベンジ。旨かった。水沢観音にお参りし、おもちゃ博物館を見物。北関東自動車道で帰路につく。
写真は草津のホテル。黒塗りの車が並ぶものものしい雰囲気。

2010年8月19日木曜日

向ヶ丘遊園


大学の最寄り駅は、小田急線の向ヶ丘遊園だった。

駅の南口から多摩丘陵の上にある校舎まで、徒歩で20分余り。最後は「心臓破り」と呼ばれる急坂があった。いやあこれには鍛えられた。「1年と4年では足の太さが違う」という俗説があったほどだ。

当時はまだ遊園地があったし、駅から遊園地を結ぶモノレールもあった。

写真は、そのモノレールの近くにあったマーケット。「戦後」の匂いがしますなあ。

2010年8月14日土曜日

吉川潮『戦後落語史』

著者は吉川潮。茨城県出身というのも親近感を感じたし、奥さんの柳家小菊は大好きな芸人さんだ。ファンとまでは言わないが、落語に関する物書きとしては気になる存在だった。
『突飛な芸人』『江戸前の男』『浮かれ三亀松』は好きだった。しかし、『芸能鑑定帖』辺りから違和感を持ち始めた。
立川談志及び立川流に対する手放しの賛美。そしてそれを自らが立川流の顧問である以上当然だと言う。確かに人間である以上、完全な客観性など持ち得まい。ただ、評論・批評を名乗るからには、常に自らの客観性を意識するというのが誠実な態度ではないか、と私は思う。それをハナからそう言われてしまうと、正直鼻白む。
そんなわけで、しばらく彼の著作からは遠ざかっていたが、『戦後落語史』というタイトルで「ちょっと読んでみるか」という気になった。まさか通史ともなれば、そうそう無茶もできないだろう。資料としても使えるかもしれない。そう思って遅ればせながら読んでみたのだ。
さらっと読む。いつもの調子だ。
あとがきにこうあった。担当からは吉川史観で書いてくれと言われた。だから「立川流史観」になっている。それは自分が談志シンパで立川流顧問だから。当然、談志一門についての記述が他の一門より多いのも仕方がない。
それなら『吉川流戦後落語史』というタイトルにして欲しかった。
芸術協会に関して言えば、十代目桂文治・三笑亭夢楽・二代目桂小南・四代目春風亭柳好・三遊亭小圓馬辺りの記述に乏しい。戦後の芸術協会を支えた彼らを、もうちょっと評価してもいいだろう。
現在の落語協会寄席派のエース、柳家さん喬・柳家権太楼については完全無視。当代きっての名人柳家小三治についても通り一遍のことしか書いていない。
金原亭馬治の十一代目馬生襲名の記事では、本来なら一番弟子の伯楽が継ぐべきだが、彼には人気も実力も人望もなかった、というようなことを書いている。あるブログにも書いてあったが、これは、伯楽が『落語協団騒動記』で談志を非難したことへの意趣返しだろう。こういう狭量さは著者の株を下げるだけなのに、残念だ。
八代目桂文楽や三代目桂三木助を賛美する一方で、初代柳家権太楼や三代目三遊亭金馬を露骨に嫌った安藤鶴夫を、立川談志は痛烈に批判している。その安藤鶴夫と著者が同じ轍を踏まないことを私は祈る。
著者の立ち位置は鮮明だし、歯に衣を着せぬ論調も痛快に感じる人には魅力的だろう。だが、私はもう少し距離を置かせてもらう。そして、そのように感じる人も私だけではあるまい。

2010年8月3日火曜日

池袋演芸場8月上席昼の部


池袋演芸場、8月上席昼の部。柳家小三治主任。超満員。
前座、市也、「牛ほめ」。柳亭市馬の弟子か。
二つ目、柳家ろべえ。喜多八の弟子。師匠譲りのダルな雰囲気。ネタは何やったかまるで覚えていない。何でかな、達者な印象があったのに。
ホームランの漫才。馬鹿ウケ。球児好児、のいるこいるなど漫才の重鎮をネタにする。特に、あした順子ひろしが出色。「馬鹿にしてるだろ」とのツッコミは入るが、何となくリスペクトを感じる。いいぞ、ホームラン。
柳家禽太夫は「替わり目」を丁寧に演じる。
柳家福治、「町内の若い衆」。一頃、その容貌から「たぬき」ばかり演っていた。その当時は正直、あまり好きなタイプではなかった。あの頃から、少し痩せたかな。いい出来だったと思う。
花島世津子の手品。若くはないが、かわいらしい。客席がなごむ。
柳家喜多八、「へっつい幽霊」。トリネタでもおかしくない。ダルな雰囲気とは裏腹に攻めてきたなあ。いいよお。情けない幽霊がいい。
続いて柳家小里んが「碁泥」。これもいい。柳家本流の味。容貌が五代目小さんに似てきたなあ。
ここで鏡味仙三郎社中の大神楽。よく見えないのがつらい。
仲トリは林家正蔵、「子猫」。鳴り物をちょっと入れてしっとりと演じる。襲名当時は水増し感がしたものだが、精進していると思う。枕で真打ち昇進試験の話をしていた。正蔵がこぶ平で受けた試験では、こぶ平・きん歌(現三遊亭歌之介)が合格、古典の本格派である志ん八(故古今亭右朝)が落ちて物議をかもし出した。正蔵は「小三治師匠が推してくれた」と言っていたが、彼は色々な人に引き立てられていたんだなあ。
くいつきは柳家三三。またしても「高砂や」。この中に出てくる「あっしは西洋料理がでえ好きなんですよ。特にハムカツ。」「もっと上等な料理が出るよ。」「じゃあヒレカツ?」「カツから離れなよ。」というくすぐりが好き。思わず、帰りにハムカツ買っちゃったよ。
柳家さん喬が「棒鱈」を出してくる。得意ネタだ。これを私は旧池袋でよく聴いた。二つ目当時から上手かった。昔からかちっとした楷書の芸だったが、今は風格が漂っている。枕で「私のトリの時はこの三分の一ですよ。」と言っていたが、何の何の、寄席派の第一人者だ。今が聴き時の一人だと思う。
膝代わりは林家正楽の紙切り。「相合い傘―ミッキーミニーバージョン」という難物を見事に切った。
そしてお待ちかね、柳家小三治。枕では冷房に関する不満をひとくさり。その後、エチオピアの日焼けの話へとつながってゆく。いつものことだが、行きつ戻りつしながら、ひたすら脇道に入っていくが如き随談がいい。司馬遼太郎の随筆に通じる。やがて浅草奥山の話題、若い頃、古着屋で扇子の紋の紋付きを値切って買った思い出から、見せ物小屋へとつなぎ、「一眼国」へと入っていく。ネタとしては、あまり力を入れたものではない。体調も万全とは言えなさそう。でも、何と言っても小三治だ。現在生で聴ける、(もちろん好みは人それぞれだが)最も良質な東京落語を演じる落語家だと私は思う。今はそれを聴くことが出来る喜びをかみしめよう。
ただなあ、随分敷居が高くなっちゃったなあ。寄席に行くといつも「小言念仏」を演っていた30年前が懐かしいよ。小三治の責任じゃないのは十分、分かっているけどね。

2010年8月1日日曜日

そうだ、池袋へ行こう


1日フリー。柳家小三治が池袋でトリをとることが分かっていたので、決意する。そうだ、池袋へ行こう。小三治を聴きに行こう。
今日は町歩きはなし。まっつぐ池袋に向かう。
柳家小袁治のHPのよると、柳家小三治がトリを務める寄席が連日超満員なのだそうだ。
NHKの特集番組への出演、その後のドキュメンタリー映画の公開以後、市場における小三治株は高騰している。古今亭志ん朝が死に、立川談志が老いた今、最も良質な東京落語を聴かせてくれるのが、小三治なのだ。無理もない。
富士そばで冷やしたぬきそばをかっ込み、行列に並ぶ。帽子を被り、水を用意し、タオルを首に巻く。熱中症対策は万全だ。1時間前なのに、結構な行列。しばらく並んでいると、席亭さんが「ここは立ち見です。かなりぎゅうぎゅう詰めですよ。」言う。そうなのか。でも連れはいないし、今日を逃したら、いつ小三治が聴けるか分からない。入れればよしということにする。今日の最重点目標は小三治を聴くことにあるのだ。
列に並びながら辺りを見渡す。私は30年前、大学時代、旧池袋演芸場によく行った。角にあるケンタッキーフライドチキンは、当時、吉野家で、よくそこで腹ごしらえをしたものだ。旧演芸場は現在の向かいにあった。雑居ビルの2階だか3階だかにあり、当時としても珍しい畳敷きの席だった。その頃は並んだことなどなかったなあ、と感慨にふける。
そうこうするうちにチケットを購入。その際も「立ち見ですけどいいですね。」と念を押された。
客席にはいると、本当にぎゅうぎゅう詰め。私は真ん中のいちばん後ろに立っていた人の前の床に座る。正座をしないと高座は見えない。まあいい。覚悟は出来ている。
小三治は随談風のまくらをふった後、「一眼国」を演った。まくらは相変わらず面白かったが、自分の思いと口から出る表現にギャップがあったらしい。猛暑で体調も万全とはいかなかったようだ。でも、私にとっては至福の30分間でしたな。
10年ほど前、同じ池袋演芸場で小三治の「一眼国」を聴いた。その時は開演と同時ぐらいに着いたのだが、混んではいたものの十分に座ることが出来た。志ん朝のトリの時もそうだったし、30年前の談志がトリの時などは、前座が上がる頃に行けば好きな所に座ることが出来たものだ。
10年前と同じ演者、同じ演目でこうも状況が違うものかねえ。需要が高ければ、市場での価値はとてつもなく上がる。資本主義の典型を見る感じでした。
こういう一点集中主義的傾向は、これからも続くんでしょうねえ、きっと。
― 寄席の感想は後日書くことにします。

2010年7月28日水曜日

土用の丑の日

この間、土用の丑の日、家族で鰻を食べました。
鰻屋の二階で、中串が焼けるのを待ちながら、お新香をつまみに酒を飲み、最後はうな茶で締めるといった小洒落た食い方は、茨城の田舎者(私のことです)はやりません。
霞ヶ浦名産の、佃煮だのわかさぎの煮干しだのを売っている店で、鰻の白焼きを買ってきて、醤油と砂糖で煮るんですな。野暮な食い方かもしれないが、柔らかくて味がしみて、これはこれでいいもんです。
以前、浜名湖の北岸に住む友人が鰻を送ってくれたことがありました。やはりこれが白焼きで、説明書に「一緒に入っているタレで煮ること」と書いてあった。もしかしたら、鰻の産地ではこういう食べ方が一般的なのかもしれません。
もし、「勝負飯」というものがあるとしたら、私の場合、鰻でしょうな。
非日常のイメージがあり、何と言っても「精がつく」。滋養強壮。力が漲ってくる感じが嬉しいじゃないですか。
ただねえ、ここんところ鰻を食うと胸が焼けるんですよ。
年齢的に鰻の脂がきつくなった? 
そうかもしれない。切ないなあ、好物なのに。これからは、なるべくいいコンディションで鰻が食べられるようにしようと思いますよ。

2010年7月25日日曜日

ご先祖様


ご先祖様の掛け軸の修繕が出来上がったというので、見せてもらう。

虫食いの後は分かるものの、きれいに仕上がった。

「良く描けた絵ですよ」と言われたという。

私もそう思う。

これが私の家の始祖となった女傑の像である。

2010年7月18日日曜日

鈴本7月中席昼の部

さて、鈴本7月中席昼の部の話だ。
入ったのは1時頃。平日の昼にしては、そこそこの入り。
後ろの方に座ると、林家彦いちが出てきて「権助魚」を始める。新作派のイメージがあるが、噺の骨格がしっかりしてきたように思う。
お次は古今亭志ん輔。志ん朝門下の中では華がある。ネタは「ガマの油」。私はこの人の酔っぱらいが好き。軽くてデフォルメがきいていて、いい。
柳家喬之助は「宮戸川」。噺家臭さがない。悪く言えば素人口調だが、この現代的な演出にはよく合っている。
大空遊平・かほりの漫才。しっかり者の妻と頼りない夫との掛け合いが売り物。ライトグリーンのワンピースとネクタイがお揃いだ。本当は仲が良さそうなところがいいな。
柳家喜多八、「いかけ屋」。ダルな雰囲気を売りにしているが、噺に入ると威勢がいい。悪童どもに取り巻かれ、パニックになっていく商人たちが楽しい。
ギター漫談のペペ桜井は自らを「絶滅危惧種」と呼ぶ。貴重な存在。面白いよ。寄席でこの人が出てると得した気分になる。
仲トリは柳亭小燕枝。演目は知らない。登場人物が全て強情者で、金を借りるとか返すとかで、もめるお話。この人の古風な佇まいが好き。「待ってました」の声がかかる。根強いファンがいそう。もっと脚光を浴びてもいい人だと思う。
くいつきはレッドカーペットでブレイクしたロケット団の漫才。三浦のボケに磨きがかかってきた。ナイツといい、こういう東京の若手の漫才が注目されてくるのは嬉しい。いつまでも寄席の高座を大切にしてほしい。
売れっ子、柳家三三登場。次代の名人候補だ。「高砂や」をさらりと演じる。風格が出てきたな。自分は上手いという自覚がある。
橘家文左衛門は「手紙無筆」。落語家には寄席でずっと同じネタをかけ続けるタイプがいる。先代馬生なんか「しわいや」ばっかり演っていた。文左衛門もここのところこれしか聴いていない。でも、噺が動いている。噺と遊んでいる感じ。スケールの大きさを感じるな。
膝代わりはダーク広和の手品。微妙なネタを好んでやる人だ。おやおやと思っているうちにするすると引きつけられていく。
そして、トリは柳亭燕路、「夜鷹そば屋」。先代古今亭今輔の十八番、「ラーメン屋」を古典の舞台に焼き直したもの。もともと軽妙で明るい口調が持ち味の人だが、人情噺風のネタをしっかり笑いを取りながら、手堅く進めていく。涙ぐんでいる人もいた。聴き応え充分。来てよかったという気持ちになった。
別にしんみりした噺でなくてもいいけど、トリには「来てよかったなあ」と思わせてくれるような噺を演ってほしいよね。

2010年7月17日土曜日

日暮里を歩く


先日、平日に休みをもらえた。
妻が「たまには寄席にでも行っておいでよ」と言ってくれたので、お言葉に甘えることにする。
10時40分、日暮里駅で下車。ここのところ谷中を歩くことが多いが、気分を変えて日暮里側へ出る。
駅前の太田道灌像を暫し鑑賞し、ぶらぶらと歩き始めた。
特にあてはない。1時間ほど歩いて上野にたどり着けばいい。
日暮里の繊維街を横目に根岸へ向かう。時折、横道にそれ、面白い家並みがあれば、愛機ライカC2のシャッターを切る。
根岸の何てことない蕎麦屋のウインドーに、九代目正蔵・二代目三平兄弟の高座扇が飾ってあった。根岸は林家の街なのだな。
下谷から竜泉に入った辺りで、上野に進路を取る。
年のせいかな、1時間以上歩くと足裏が痛くなる。休憩がてら、適当なところで昼飯を食いたい。
上野駅の下谷口と浅草口との間辺りか、目についたトンカツ屋に入る。ほぼ満席。小さなカウンターに座る。夜は居酒屋になるらしい。
ランチメニューにあるカツカレーを注文。すかさずビールも頼む。きりっと冷えたキリンのラガー。旨いねえ。カツカレーも結構。カツもたくさん載ってるし、ルーに一晩経ったようなコクがある。サラダ、冷や奴、味噌汁が付いて800円という値段も嬉しい。すっかり元気になりました。
それから、上野駅の構内で本を買い、鈴本の昼の部を観る。
4時30分終演。上野駅構内でお土産にロールケーキを買って帰る。
奥さんありがとう、いい休みだったよ。

2010年7月7日水曜日

終戦後の桂文楽

昭和20年8月15日、戦争は終わった。
当時の落語協会で、文楽より上にいた落語家は、四代目柳家小さんと八代目桂文治の 2人だけだった。
一世を風靡した柳家三語楼も、名人と誉れ高い五代目三遊亭圓生も既に亡かった。
三語楼は、向かいに住んでいた志ん生の次男に「強次」という名前を付け、それを置き土産にするように、間もなく死んだ。(強次は長じて古今亭志ん朝となる。)
五代目圓生、人呼んでデブの圓生。でっぷりとした外見に似合わず色気のある高座だったという。「三年目」「二番煎じ」「三十石」「文七元結」などを得意とした。戦後、人形町末広の席亭が、文楽が「松山鏡」を演っているのを聴いて、「今は他に人がいないから、この人を名人とか言っているが、圓生さんのこの噺を聴いたら、とても聴いていられないよ」と言っていたと、立川談志が証言している。
小さんは名人ではあったが、地味な芸風で爆発的な人気はない。文治はもはや盛りを過ぎていた。
ライバル志ん生と六代目圓生は、満州に行ったまま行方不明。
柳橋と金馬は戦時中、時流に乗った新作で売れ、どこか本格派とは言いにくい。
つまり、そのような状況に文楽はいたのだ。
大正の頃から売れっ子で、本格派の実力者として着実に地歩を固めたものの、戦時下の言論統制で不遇を託つ。これは褒めやすいわなあ。
もちろん、それだけではない。文楽の噺には、華があり艶があり品があった。明治大正の匂いを色濃く感じさせる、近代文学のような佇まいがあった。大衆の人気は圧倒的でないものの、言論界をリードする批評家、識者にとっては魅力的な存在だった。
しかも、昭和20年当時、文楽は53歳。体力的にも経験的にも円熟期に入る時期である。迫力もあり、豊かなふくらみもある。絶好の状況で、絶好の年齢を迎えていたのだ。
昭和20年代、文楽は東京落語界の頂点に駆け上る。それはまさに文楽の力と時運が絶妙にマッチした結果だったのである。

2010年6月27日日曜日

川崎市・南武線尻手駅


大学へ行くには、南武線を利用していた。

最寄り駅は尻手。アパートから徒歩で10分ほどだった。

ホームが高い所にあり、眺めがいいので、好きな場所だった。

天気がいいと富士山が見えた。

写真はホームから見える、風呂屋の煙突。尻に手と書く名前の風呂屋というのも、なかなかスリリングでいいのではないだろうか。

2010年6月26日土曜日

川崎駅西口付近


大学時代、川崎に住んでいた。

川崎駅の西口から20分ほど歩いた所にある、当時でも古い木造の四畳半のアパートだった。

路地を一本隔てた、やはり古いアパートに、知る人ぞ知るフォークシンガーの友川かずきが住んでいて、これが密かな自慢だった。

東口の方は繁華街だが、西口は東芝の工場があったり、住宅が密集していたりして、わりといい具合にひっそりした所だった。

現在は東芝の工場も撤退し、跡地には大型の商業施設なんぞも出来たりして、当時の面影はないという。

この写真は、10年以上も前のもの。この頃はまだ往時のままだったなあ。

2010年6月22日火曜日

休日

休み。妻とデート。つくばの西武へ行く。
古本市で『写真で見る浅草芸能伝』、リブロで『十代目金原亭馬生』を購入。
昼食は、エルベ。土浦に本店があるドイツ料理の店。肉料理のランチ。スパイシーチキン。
午後はQ‘tの方へ行く。ビル・エバンスのCDを買う。ミスドでドーナツとアイスコーヒー。やまやでタラモアデューを買って帰る。
夕食は、ぶっかけ蕎麦。オクラ、ちくわ、めかぶ、納豆、揚げ玉、温泉卵を蕎麦の上に載せ、つゆをかけて食う。旨し。発泡酒、父の日にもらった霧筑波純米。旨し。
子どもを寝かしつけ、タラモアデューを飲む。

2010年6月21日月曜日

梅雨空


梅雨空。
庭の紫陽花が色づいてきた。
うちのは見事に青く染まる。
土が酸性なんだと、以前言われたことがあった。

2010年6月19日土曜日

桂文楽と安藤鶴夫

戦後の文楽を語る上で、安藤鶴夫の存在を無視するわけにはいかないだろう。
安藤は明治41年、義太夫語りの竹本都太夫の子として生まれた。文楽の16歳下である。
法政大学在学時代から文学を志していたが、30歳の時、都新聞で文楽評や落語評を始め、翌年には都新聞に入社した。(昭和17年に都新聞は国民新聞と合併し東京新聞となる。)
昭和21年、久保田万太郎の推挙で、雑誌「苦楽」に桂文楽の落語を中心とした聞き書き「落語鑑賞」を連載。評判を取る。
落語は元来気取りのない演芸で、寄席は悪所ともされた。評論に値する存在ではなかった。それを大真面目に論じることは、ある意味衝撃であったろう。(私にとってはマンガ評論を始めた頃の橋本治がそうだった。)
安藤と文楽との交流は、戦前にさかのぼる。文楽が「富久」を落語研究会で初演すると予告するのだが、その時になると文楽は決まって休演する、ということが二、三度続いた。それを安藤は都新聞に「今日も文楽は“富休”であった」と書いたという。安藤が都新聞に落語評を書き始めたのが昭和13年、文楽が「富久」を三代目圓馬に稽古してもらったのが、昭和10年であった。
戦後、「落語鑑賞」で落語評論家として独り立ちした安藤は、積極的に文楽を取り上げる。「カンドウスルオ」と異名を取った程の安藤は、自らの評論の中で文楽を激賞した。「名人文楽」という呼称は、安藤が言い始めたものらしい。
その後、安藤は芸術祭を初めとした各賞の審査委員となり、演芸界において発言力を増していく。彼に惚れられた文楽も、昭和落語の最高峰へと評価を上げていった。
ただ、安藤という人は好き嫌いが激しい人であった。好きな芸人は手放しに褒めちぎり、嫌いな芸人は徹底的に黙殺した。
安藤は東横落語会の出演者を、桂文楽、古今亭志ん生、三遊亭圓生、桂三木助、柳家小さんという5人のレギュラー制とした。文楽が「なぜ金馬を入れないんですか?」と疑問を呈したところ、安藤は「文楽さんともあろう人が、金馬のような乞食芸を買ってはいけない!」と語気を荒げたという。
また、安藤は、三木助も贔屓にした。三木助自身も好き嫌いの激しい人で、仲間内の評判はあまりよくなかった。安藤に気に入られたことで、三木助は「名人」となった。
三木助が死んだ時、安藤主催の「三木助を偲ぶ会」が催された。その同じ日、アンチ安藤・三木助派が「偲ばず会」というのを不忍池近くの料理屋で開いた。狭い世界だ。両方から招待が来た人もいた。どちらに出ても角が立つ。そんな人は、両方を欠席したという。だが、その中、敢然と二つの会を掛け持ちした人がいる。我らが桂文楽である。(実は、私はこのエピソードが大好きだ。)
文楽は、正岡容と安藤鶴夫を評して、弟子にこう言ったという。「正岡は落語家もやったこともあり、落語のことをよく分かっている。それに比べてアンツルはなあ…。」
文楽は安藤を敵に回すことはしなかった。いや、むしろ「先生」として立てていた。自分を褒めてくれることに感謝もしていただろう。ただ、心理的には幾分の距離があったように思われるのである。

2010年6月14日月曜日

落語協会分裂騒動とは何だったか⑦

真打ち問題はもう暫く迷走が続く。
落語協会は、真打ち試験を導入。大量真打ちへの批判をかわそうとしたが、話芸の巧拙に明確な基準など設けられるはずもない。「下手でも面白い、だから、売れる」というタイプの落語家もいる。結局、昇進の根拠は曖昧なまま。試験に落ちた者は、納得などできるものではない。弟子を落とされた立川談志は、昭和58年、協会を脱会し立川流を旗上げする。
現在は抜擢真打ちと年功真打ちとの併用の形をとっているが、これが最もバランスがとれたやり方だろう。紆余曲折、試行錯誤を経て、やっとあるべき形になったような気がする。
協会全体を見れば、分裂騒動は、三遊本流の崩壊により、柳家の隆盛を生んだ。現在の、小三治を筆頭に、さん喬、権太楼、市馬、花禄、喬太郎、三三と連なるラインナップは壮観ですらある。
さて、この騒動のキーマンとなった二人、古今亭志ん朝と立川談志についてである。
志ん朝は、落語三遊協会が寄席に出られなくなったことを受けて、落語協会に復帰した。戦いに敗れ、無条件降伏したようなものである。それまで順調に伸びてきた志ん朝にとって、初めての挫折だった。しかも、北村銀太郎の鶴の一声で、ペナルティーを課されることもなかった。これは志ん朝のプライドを酷く傷つけた。
彼は絞り出すように「これからは落語で勝負します」コメントした。
それから、若旦那の甘さは消え、芸に対し、よりストイックになった。若手の育成に努め、落語界を背負う覚悟を決めた。志ん生の血と文楽の品格、圓生の幅を融合させたような大輪の芸の華を咲かせた。
平成13年、その大輪の華を癌が奪っていった。以後10年の月日が流れたが、私たちは今もその傷から癒えていない。
談志は、落語三遊協会設立直前に逃亡した。落語協会にも柳家一門にも居場所はなく、弟子の真打ち試験落第を理由に協会を辞め、立川流を設立する。上納金制度や有名人を弟子に取るなどで、話題を呼んだ。
一方、弟子の真打ち昇進には厳しい条件を設け、極端な実力主義を貫いた。(圓楽の年数真打ちとは対照的だ。もしかしたら、圓生の遺志を継いだのは、この談志だったのかもしれない。)談志が認めなければ真打ちにしない、という意味では明解な基準だった。志の輔、志らく、談春といった立川流のスターは、このシステムの中で育っていった。
談志は寄席を捨てたことで、自分を目当てに来た客だけを相手に、思う存分己の落語を演じることができた。そして、多くの信者を集め、カリスマとなった。多分、談志は伝説の名人としてその名を残すだろう。しかし、なぜだろう、今なお彼は満たされていないように思えてならない。
落語協会分裂騒動に関わった者は、皆、大なり小なり傷を負った。その傷を最後まで引きずった者もいれば、その痛みをバネに大きく飛躍した者もいた。騒動自体はあっさり片が付いたが、その影響は大きく、その後の落語界を決定づけたと言っていい。
そして、現在、七代目圓生襲名騒動が起きている。それを思うと、30年を経過してなお、騒動は依然として終わっていないのである。

2010年5月31日月曜日

落語協会分裂騒動とは何だったか⑥

こうして、三遊亭圓生一門は東京の寄席を締め出され、ジプシー集団となった。
圓生は弟子たちを養うため、全国を飛び回る。その超過密スケジュールは、78歳の圓生の体を徐々に蝕んでゆく。
昭和54年9月3日、六代目三遊亭圓生は、千葉県習志野で「桜鯛」を口演した後、突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。死因は心筋梗塞。奇しくも、その日、圓生は満79歳の誕生日を迎えていた。
三遊協会設立以来の強引なやり方から、圓楽とその他の圓生一門の弟子との間に確執が生まれていた。圓生亡き後、彼らが行動を共にできるはずもない。
圓楽一門を除いた圓生の弟子たちは、圓生未亡人の口利きで落語協会に復帰する。
そして、圓楽は、未亡人から「落語三遊協会」を名乗ることを禁じられた。圓楽の傲慢さに、実は圓生夫妻も辟易していたのだ。
やむなく、圓楽は自らの団体を「大日本すみれ会」(最終的には「圓楽党」という名前に落ち着くことになる)と称し、ジプシー生活を継続してゆく。圓楽一門もこの機会に、落語協会に戻るという選択肢があったが、プライドの高い彼はそれをよしとしなかった。
落語協会に復帰した、圓弥・圓窓・圓丈らは香盤を下げられた上、各々が協会預かりという身分になった。三遊亭一門として、一門を形成することすら、許してはもらえなかったのだ。
こうして、三遊亭圓朝以来、落語界の主流であり続けた三遊亭本流は崩壊する。
後に、圓楽は「弟子の修業の場を作るため」と言って、私費を投じ「若竹」という寄席を作った。しかし、あの、圓生・志ん朝・圓楽・圓鏡を擁した三遊協会でさえ無理と言われた寄席の興行を、さらに薄いメンバーでできるはずがない。程なく、莫大な借金を残して若竹は潰れる。
その上、圓楽は自分の弟子に対し、前座3年、二つ目5年を経た者は一律真打ちに昇進させると決め、実行した。落語協会分裂騒動が、大量真打ち反対に端を発したことを考えれば、これは暴挙に近い。圓生の遺志を裏切り、真打ちの粗製濫造を始めたというと言い過ぎだろうか。
一方、三遊亭圓生という名跡も問題になった。三遊亭一門が、このような事態になった以上、圓生の名前を巡って、将来、揉め事が起きるであろう事は容易に想像できた。そこで、圓生の遺族、一番弟子圓楽、元法相稲葉修らが立会人となり、全員署名の上、三遊亭圓生の名跡を止め名(永久欠番)とした。落語界の財産である、圓生の名をあっさりと封印するのもどうかと思うし、それが根本的な解決にはなるまい。案の定、30年後の現在、圓楽の一番弟子鳳楽と圓丈、それに圓窓を加え、泥沼の七代目圓生襲名争いが起きている。
そもそも、圓生襲名問題のきっかけは、圓楽が作った。彼は自らが圓生封印の立会人の一人であるにもかかわらず、弟子の鳳楽を圓生にするべく画策したのだ。晩年は、それを公言しさえした。
落語三遊協会設立、その後の三遊亭一門分裂、年数による一律の真打ち昇進、圓生名跡問題、それぞれの場面で、圓楽は信念に基づき行動したのだとは思う。しかし、それが彼を取り巻く人々にとってプラスになったかというと、疑問に感じずにはいられない。そのことに圓楽は、あまりに無自覚だったのではないだろうか。

2010年5月25日火曜日

落語協会分裂騒動とは何だったか⑤

昭和53年5月24日、赤坂プリンスホテルで「落語三遊協会」設立の記者会見が行われた。会長三遊亭圓生、副会長橘家圓蔵、古今亭志ん朝、三遊亭圓楽、月の家圓鏡といった面々が雛壇に並んだ。ここで圓生は、小さんの協会運営を厳しく批判した。とりわけ、大量真打ち問題については激烈を極める。今回真打ち昇進を決めた林家正蔵の弟子照蔵を、名指しで下手だと言い切った。
三遊亭圓丈によると、圓生はあれだけの発言をしたにもかかわらず、照蔵の落語を聴いたことがなかったという。それどころか、圓丈は「落語三遊協会」という新協会の名称すら知らされていなかったというのだ。そんな団体が成功するはずがないと今にして思う。
意気揚々と新団体は船出したはずだった。しかし、翌25日には決定的な打撃を受けることになる。席亭会議で、三遊協会の寄席出演は認められないということになったのだ。
もともとこの話は、談志・圓楽の誘いに鈴本の社長が乗って現実化したものだ。だが、実際メンバーが発表されてみると、致命的な欠陥があった。確かにメンバーは豪華だった。ただ、いかんせん層が薄かった。「毎日休みなし」の寄席で興行を打つには無理があった。
これは新宿末廣亭の北村銀太郎が喝破した。彼は『〔聞き書き〕寄席末広亭』という本の中で、こう言っている。「なかなかいいメンバーだったから、私もやらしてみたいという気にもなったんだけど、いかにも浅いんだ、メンバーの底が。一人欠けたら、ぐんと落ちてしまうようじゃ困るわけだよ。」
つまり、北村は商売になるならやってみようという気があったのだ。しかし、冷静に判断して無理があるという結論に達したのだ。北村が三遊協会の寄席出演を認めなかったのは、落語協会に肩入れしたわけではない。冷徹なプロの目がそうさせたのである。
この決定を受け、古今亭志ん朝は落語協会復帰を決意する。弟子たちのために、寄席に出られなくなるという事態は、何としても避けたかったのだ。志ん朝は圓鏡とともに、圓生も協会に戻るよう説得した。「師匠、落語には寄席が必要です。師匠は落語と面子とどちらが大切ですか?」と迫ったが、圓生は「今は面子です。」と答えて、復帰を拒否した。
橘家圓蔵一門も協会復帰を決める。
復帰組に落語協会はペナルティーを課すつもりだったが、北村銀太郎の「小さん会長にも責任の一端はある。元のままで戻してやりなさい。」の一言で、結局、不問に帰すことになった。
北村は圓生・小さんの調停の場を設けるも、圓生はそれに無断欠席。
圓生一門だけが落語協会を脱退することで、この騒動は一応の終結をむかえることとなったのである。

2010年5月18日火曜日

落語協会分裂騒動とは何だったか④

いささかの不協和音を奏でながらも、新協会は形を整えていく。色物は手品の伊藤一葉、漫才の春日三球照代をメンバーに加えた。いずれも売れっ子だった。
ある日、圓生のマンションに、志ん朝・談志・圓楽が集結し、今後のことを話し合う機会があった。その時、談志が突然、圓生に向かって「師匠、ここで師匠の次の会長を決めておきましょう」と言った。圓生は「今決めることではないでしょう」といなしたが、談志はなおも、「こういうことは早いうちに決めておかないと禍根を残すことになります。師匠はご自分の後継を誰にとお考えですか?」と詰め寄る。新協会設立の発案者であり、新協会設立に向け奔走した自分が次期会長である、と談志はここで決めておきたかったのだ。

実は、この新協会設立に動く前、談志は柳家一門で総スカンを食らっていた。事の起こりは、柳家一門の大宴会の席上(圓丈の『御乱心』では正月の小さんの誕生会、伯楽の『落語協団騒動記』では忘年会だったと言っている)。そこで談志は酒に酔い、小さんに「協会の会長を俺に譲れ」と迫ったのだ。それまでにも、談志が小さんに対して不遜な態度をとることは度々あったが、談志を可愛がっていた小さんは特に問題にするわけでもなく、二人は深い信頼関係を築いていた。しかし、この時は周囲が黙っていなかった。小さん自身も談志に不信感を抱いた。談志はやりすぎたのだ。
それにしても、なぜこの時期、談志はこれほどまでに会長になりたがったのだろう。何をそんなに焦っていたのだろう。

圓生は、「談志さんがそこまで言うなら」と前置きして言った。「あたくしは志ん朝さんを、と考えています」
その瞬間、談志の顔色が変わったという。

談志は志ん朝に二度負けた。最初は真打ち昇進の時。志ん朝は入門して5年で真打ちに上り詰めた。柳朝、談志、圓楽といった錚々たる人たちでさえ、軽々と抜かれた。志ん生の息子ということも、もちろんそこには影響しただろう。だが、無理を通してまで真打ちにさせるだけの魅力が、志ん朝にあったことにちがいはない。
談志はこの時、激怒した。当時、彼は小ゑんを名乗り、売れっ子だった。実力も高く評価されていたし、彼自身もそれを自認していた。志ん朝に抜かれるとことなど、到底許し難いことだった。彼は志ん朝に「真打ちを辞退せよ」と詰め寄る。結局、談志は真打ち昇進レースでは圓楽にも抜かれた。ちなみに、落語家の社会では、真打ち昇進順(香盤順と呼ばれる)が、そのままこの社会での序列となる。談志にとって、志ん朝・圓楽・談志という昇進順は大きなトラウマとなった。

二度目がこれだ。自分が発案し、奔走したにもかかわらず、圓生は自らの後継に志ん朝を選んだ。またしても志ん朝か、という思いだっただろう。
談志は、圓生の志ん朝への後継指名を聞くと、そのまま席を立った。そして、その直後、電話で新協会離脱を圓生に伝えたのだった。

2010年5月12日水曜日

戦時下の桂文楽

文楽が落語協会に入ったのは、昭和13年。日本は戦争への道をひた走っていた。この年の4月には国家総動員法が公布され、言論統制も始まっていた。
文楽は自署『あばらかべっそん』の中で、戦時中、ラジオに出演した時のエピソードを語っている。この時は『富久』を口演する予定だったが、郵政省の若い役人に「太神宮様が出てくるのはいけない。他の神様でやってくれ」と言われ、演目を『松山鏡』に変更したのだという。「いやでしたね、まったくあの時分は」と、文楽は述懐する。
昭和16年には「はなし塚」が建立され、禁演落語53種が指定された。これは、別に当局からの要請ではない。協会の幹部や席亭が、顧問の野村無名庵と協議を重ね、自粛という形をとったものだ。いわば、落語家側から当局に取り入ったのである。(事実、この一覧表を見た当局は「改訂して適当にやれるものはやってよろしい」と言ったそうだ。)
文楽のネタで、禁演落語53種に入っているのは、『明烏』『つるつる』『よかちょろ』『星野屋』の4つ。しかし、これに類する噺にも、前述の『富久』のように、内容の変更を求められることはあっただろう。持ちネタが少なく、不器用な文楽にとって、まさに受難の時代だった。
昭和17年には、正岡容とともに三代目圓馬を慰める落語会を鈴本で開催。売り上げを病床にあった圓馬に贈っている。正岡は、この日の朝、『三代目圓馬研究』を書く。圓馬の芸を今日に伝える名文である。この中には文楽を高く評価する内容も含まれていた。
正岡は翌18年には『当代志ん生の味』というのも書いている。この中で彼はこう言う、「当代の噺家の中では、私は文楽と志ん生を躊躇なく最高位におきたい」と。多分、文楽・志ん生を、昭和の名人として並び称した、最も早いものだろう。五代目を襲名して3年、志ん生がついに文楽と肩を並べた瞬間だった。
文楽にしても、戦時下で自分のやりたい噺をやりたいようにできない状況の中、古典落語の旗手として評価されたことは大きい。時流に乗って売れに売れた柳橋・金馬に対し、文楽は当時不遇ではあったが、識者は文楽の実力を認めていたし、そんな彼を同情的な目で見ていたのである。
戦争が終わると、文楽の芸は大輪の花を咲かせる。戦後落語の最高峰として、賞賛を一身に浴びた。もちろん、文楽自身の精進の賜だが、そこには正岡容、安藤鶴夫などの演芸評論家が大きく寄与していたのも事実だった。

2010年5月5日水曜日

緑屋食堂 半ちゃんラーメンセット


鉾田市、緑屋食堂。半ちゃんラーメンセット。900円。

通勤途中に、ずっと昔からある。潰れない店に外れはない。ずっと気になっていたが、初めて入った。

貧乏性のためか、セットメニューに目がない。中でも、半ちゃんラーメンセットにはそそられる。ただ、あまり満足した例はない。特にチャーハンが、どこもいまいちなのだ。

ここのはいい。ほのかに生姜の風味が効いた醤油味のラーメン。おそらく、出汁は鶏ガラでとったのであろうスープ。その上に、ナルト、チャーシュー、メンマ、ほうれん草といった定番の具がのっている。チャーハンが、またいい。卵のやさしさと紅生姜が絶妙なバランスを保っている。何の文句もない、基本的なチャーハンだ。しかも、餃子付き。これがいけるのよ。

こだわりの味、といった大上段に振りかぶった感じはない。あくまで普通の、長年、愛され続けた味がする。

ご飯もののメニューも多い。まっとうな食堂だな。今度は定食に挑戦したい。

2010年4月28日水曜日

井上靖『本覚坊遺文』

前にも書いたが、私は茶の湯を生んだこの国を誇りに思っている。
たかだかお茶を飲むだけで、何が作法だと思う人もいるだろうが、茶の湯は、総合芸術である。道具、調度、書画、果ては建築、造園に至るまでが鑑賞の対象になる。それは、空間を、時間を、プロデュースする作業だ。しかも、茶会は形に残らない。まさに「一期一会」である。私に茶の湯の心得はないが、その世界への憧れはある。
茶の湯の巨人、千利休。その弟子である三井寺の本覚坊が、師ゆかりの人々との対話を通し、利休の死の意味を探っていく。密やかで奇妙な小説だ。一つの章が、一人の人物と本覚坊との対話をもとに構成される。次の章では前章の人物は既に死んでいる。いわば、本覚坊との対話が終われば、その人物は役目を終えて死ぬ。そして、終章では、もはや死者である秀吉と利休が登場するのだ。
大分前、この作者の『利休の死』という短編を読んだことがある。それは、偉大な俗物秀吉とストイックな芸術家利休との対決が構図となっていたと思う。しかし、ここでは、前作の対決の構図は背後に潜み、「利休の茶」の本質の方に焦点が当てられているような気がする。
「利休の茶」は「戦国の茶」だ。戦国時代、武将たちは競って茶人を抱え、合戦の合間に茶会を開いた。いや、「合戦の合間」という言い方は正確ではない。彼らにとって、合戦も茶会も同じ重みを持っていた。彼らは、合戦の後の血まみれの心で茶を飲み、再び血まみれの戦場に赴いた。茶会を取り仕切る茶人にとっても、そこは戦場に等しかった。茶席において、彼らは静かに命のやりとりをしていたのである。
この小説に登場する、山上宗二、千利休、古田織部の3人の茶人は、いずれも切腹をして死んだ。利休、宗二は秀吉から、織部は家康から死を賜った。いずれも時の権力者の武将からだ。茶室で武将と切っ先を交え、美の力で屈服させてきた結末がこうだったのか。
本覚坊が幻想の中で聞いた、この3人の茶会での言葉が、「無ではなくならない。死ならなくなる!」というものだった。「無よりも無」である「死」を、この戦国の茶人は自らの美の到達点としたのだろうか。

2010年4月22日木曜日

落語協会分裂騒動とは何だったか③

圓生は、自分と同じ真打ち観を持つ古今亭志ん朝に新協会設立への参加を呼びかけ、承諾を得る。志ん朝は弟子たちに自らの決意を打ち明け、一門の結束を固めた。志ん朝はあくまで正攻法に誠実に事を進める。
圓生一門はそうではなかった。まず、圓生が協会離脱を宣言、弟子たちは圓楽門下となって協会に残るように言ったのだ。(後に圓楽は「敵を騙すのにはまず味方から」と言い、弟弟子たちの顰蹙を買うことになる。)要するに、圓生・圓楽は、一門の忠誠心を、そういう形で試したのだった。
ところで、先の大量真打ちで昇進した中に、さん生と好生という圓生の弟子が二人いた。さん生は、ソンブレロを被りギターを抱える破天荒な高座で人気があったが、圓生には「あれは色物でげす」と不興を買った。好生は人呼んで「圓生の影法師」。口調から仕草まで圓生そっくりで、それでいて華がない。彼も圓生から疎まれた。圓生は、春風亭柳枝没後に引き取った圓窓・圓弥の方を先に真打ちにし、さん生・好生の昇進披露には、大量真打ちへの反対を理由に口上にも出なかった。このような狭量さでは、一門の結束など望むべくもない。
改めて、圓生は弟子たちに自分と共に協会を離脱するように迫るが、さん生と好生はそれを拒んで破門となる。(圓丈も一度は断ったものの、圓生夫妻から激しく叱責され協会離脱を受け入れた。)
さん生は柳家小さん、好生は林家正蔵門下となり、それぞれ川柳川柳、春風亭一柳と改名した。結局、二人とも圓生の仇敵のもとに走ることとなったのである。
もう一つ、橘家圓蔵門下が新協会に参加した。圓蔵は、八代目桂文楽の大正時代からの弟子だが、しくじりを重ね破門となり、名古屋で幇間生活をしていた。戦後、帰り新参として落語家に復帰。やがて、月の家圓鏡で真打ちとなったが、当時、師匠文楽は預かり弟子の小三治を五代目小さんにするべく奔走中、ほったらかしにされた状態だった。そんな時、圓生が自らの前名である橘家圓蔵を譲ってくれた。つまり、圓蔵にとって圓生は恩人だった。新協会への誘いに、当然のごとく圓蔵は喜び勇んで参加を表明する。しかも、圓蔵の弟子には、当代の人気者、林家三平と月の家圓鏡(現圓蔵)がいた。新協会のためには大きな戦力となる筈だった。
しかし、三平は師匠と行動を共にしなかった。三平の芸を、圓生は認めていなかった。それだけではない。「あんなものは落語ではありません」と圓生は公言していた。自分が冷遇されると分かっている協会に進んで行くほど、三平はお人好しではなかった。
寄席という場は多様さが要求される。古典派が多い新協会のメンバーの中で、三平と圓鏡は貴重な存在だった。そのうちの三平が欠けた。ここでもまた、圓生の狭量さが災いしたのだ。

2010年4月19日月曜日

落語協会分裂騒動とは何だったか②

三遊亭圓楽は晩年の著書『圓楽芸談しゃれ噺』の中で、真打ち問題について小さんに相談されて、「あたしの考え方が乱暴だったら意見して欲しいんだけど、例えば春十人、秋十人という風に昇進させていけば、四十人いても二年で解消できる。」と答えたと書いている。
つまり、小さんに十人真打ち昇進を進言したのは自分であると言っているのだ。
金原亭伯楽の『落語協団騒動記』では、立川談志(作中では横川禽吾)が、古株の二つ目を集め「お前たちを真打ちにしてやる」と宣言し、林家正蔵(作中では森家登喜蔵)に大量真打ち昇進を献策する場面が出てくる。
圓生を激怒させた大量真打ち誕生は、実は圓楽と談志の発案によるものだったというわけだ。
その二人が、新協会設立に動く。既成の落語協会、芸術協会に加え、新協会を立ち上げ、一ヶ月を3団体で回すことで、寄席を活性化させようというのが、そのねらいである。上野鈴本の社長もそれに賛同。大量真打ち問題で落語協会に不満を持つ、三遊亭圓生が二人の勧めに乗ったのだ。
この新協会設立を目指した、圓生と談志・圓楽の目的は、まるで違っていた。圓生は実力主義の理想の協会を夢見たが、談志・圓楽にとって理念は二の次で、ただ新しい協会が欲しいだけだった。
圓生が落語協会離脱に際し、協会に残る条件として会長小さんに突きつけた要求が二つあった。ひとつは大量真打ち昇進をやめること、もうひとつは常任理事、三遊亭圓歌・三遊亭金馬・春風亭柳朝の3人を罷免することだった。
圓歌・金馬・柳朝の3人は、談志・圓楽のすぐ上の世代。この3人が失脚すれば、協会の運営は談志・圓楽の意のままになる。
要求が通れば協会にとどまり、通らなければ新協会を設立する。いずれにしても、談志・圓楽は、思い通りに振る舞える環境が手に入ることになるわけだ。
確かに、この騒動は、理想と現実の対立に端を発したものである。しかし、協会分裂という事態にまで発展したのは、それを望む野心の存在があったからに他ならない。
不純な動機によって動き始めたものが、多くの人を動かすとは思えない。新協会も、次第に不協和音を奏で始めることになる。

2010年4月17日土曜日

なごり雪、といっていいのか


朝、起きたら、雪。4月も中旬だぜ、どうなっているのだ、と暫し呆然とする。

やがて雨となる。

土浦イオンで買い物。

夕食は、空豆、湯豆腐、筍の煮物、酒盗で、神亀純米吟醸ひこ孫。

酒は、誕生日に妻に買ってもらったもの。

湯豆腐だけが季節に合わない。本当なら、鰹の刺身といきたいが、雪が降ったということで、湯豆腐にする。

神亀純米吟醸ひこ孫、飲み口いい。するすると喉をすべってゆく。その後、鼻腔に立ち上る米の香り。上質の和菓子のような透明な甘さ。絶品だな。

豆腐もカスミで67円だが、湯豆腐にすると豆の甘味がよく分かる。

酒盗は、かねき寿司で妻がもらってきた。これも絶品。

空豆、筍は初物。旨いねえ。

子どもを寝かしつけて、ボウモア。またもや至福の一時。


2010年4月10日土曜日

お花見

暖かく穏やかな一日。
桜は満開。妻子を車に乗せてお出掛け。
小川のトーホーランドの桜並木を抜け、鹿島鉄道桃浦駅跡へ行く。
駅舎とホームが残っているが、すっかり荒れ果ててしまった。
子どもたちは、走り回ったり、土筆を摘んだりして遊ぶ。
モスバーガーを買って、霞ヶ浦の堤防に車を止め、昼食にする。
カスミで買い物をして帰る。
夕飯は、刺身、冷や奴、納豆の油揚げ包み、焼き椎茸、パリパリサラダ、海苔巻きでビール、酒。
刺身は盛り合わせと鰹をサクで買った。鰹の刺身をニンニクで食べる。旨し。初鰹から戻り鰹まで、十分に堪能するつもり。パリパリサラダは、野菜に皿うどんの麺を載せたもの。土浦の居酒屋、佐伴治でよく食べた。
子どもを寝かしつけて、ボウモアを飲む。まさに至福の一時。

2010年4月9日金曜日

落語協会分裂騒動とは何だったか①

この間、物置で三遊亭圓丈の『御乱心』を見つけてきて、久し振りに読んだ。面白かった。さすが圓丈は男だねえ。

ここで改めて、あの落語協会分裂騒動とは何だったのだろう、ということを考えてみたい。
昭和53年、三遊亭圓生が、橘家圓蔵、古今亭志ん朝らとともに新協会設立を企てたのがそれだ。そして、その事件は、後の東京落語界に大きな影響を与えることとなる。いや、その後の東京落語界の行方を決定づけたと言ってもいい。
発端となったのは、大量真打ち問題。端的に言えば、現実主義の柳家小さんと理想主義の三遊亭圓生との対立が原因である。
昭和30年代、東京落語界は黄金期を迎える。それにつれて、入門志願者は急激に増えた。特に、文楽・志ん生・圓生・正蔵・小さん等、ブームを支えた本格派を抱える落語協会は、みるみるうちに大所帯になっていく。その結果、今までの真打ち昇進のやり方では、遣り繰りがつかない状況になってしまった。その打開策として、現実派である柳家小さんや人情家の林家正蔵は、10人をいっぺんに真打ちに昇進させ、飛躍のチャンスを与えようとした。
一方、真打ちを文字通り、真を打つ、つまり、客を納得させるだけの芸の持ち主でなければならない、と考える者にとって、それはあまりに安易な方法に映った。三遊亭圓生、古今亭志ん朝は、そんな風潮に異を唱える。
もちろん、理想と現実がせめぎ合うのは世の常だ。本来であれば、その理想と現実のせめぎ合いを経て、よりよい方向を探っていくべきであろう。
ところが、圓生は協会離脱を決意する。
圓生は子どもの頃からの芸人で、芸人子どものような気質があった。政治力があったとは思えない。加えて、言わないでもいいようなことを言ってしまい不興を買う、といった傾向があったらしく、人望もそれほどなかった。彼自身に協会を離脱し、新協会を立ち上げるだけの器量はなかっただろう。
ただ、圓生には圧倒的な芸の力があった。文楽・志ん生は既に亡く、昭和の名人として、圓生は誰もが認める存在だった。
これを利用しようとしたのが、立川談志と三遊亭圓楽だ。二人はもともと現実主義者で、小さんに大量真打ちを献策したのも実は彼らだった。では、なぜ彼らは、自分たちの考えと対極にある圓生を担いだのだろうか。(次回へつづく)

2010年4月8日木曜日

ご先祖様

長塚節の『土』の中に、勘次の娘、おつぎが裁縫所に通うという場面がある。明治時代、農村では、この裁縫所が女子に裁縫技術に加え、礼儀作法も教えた。いわば女子向けの教育機関の役割を果たしていた。
私の家が、今の土地に根付いたのも、実はこの裁縫所がもとだった。
うちの初代は、霞ヶ浦の対岸の村の出身だったが、夫と別れこの土地へやって来て、裁縫所を開いた。そこで稼いだ金を貯め、田地田畑を少しずつ買い増やしたのだ。
初代のおばあさんは、偉い人だったらしい。うちの墓は裁縫所の教え子たちが建ててくれた。今も彼女たちの名前が刻まれた石碑が残っているが、その住所は広範囲に及び、地名を見ると20㎞も離れた集落もあった。墓は周囲より一段高く作られた。当時、新参者の分際で他を見下ろす墓を建てたというので不興を買い、一部を破壊され、訴訟騒ぎにもなったという。
初代の養子が私の祖父である。最初の妻を亡くし、後妻に入ったのが、私の知る祖母だ。祖父には1男2女がいたが、娘の一人は早世し、跡取り息子は戦争で死んだ。そこで自分の生家から養子をもらう。これが私の父である。
養子、養子でつないで、やっとこの家で生まれ育った男が私だ。まるで、森鴎外か中原中也だな。片や孝行息子、片や放蕩息子だが、私はどっちなんだろう。
最近、父が物置を片づけていて、掛け軸が2本出てきた。2本とも初代のおばあさんの絵だ。1本はおばあさんの座像。1本はおばあさん夫婦を描いたもの。どちらも教え子たちが、どこやらの絵師に頼んで描いてもらったものらしい。
この間、父と母屋で酒を飲んだ時、見せてもらった。
座像の方が、おばあさんは若い。髪は銀杏返しかな。着物の上に、黒の割烹着みたいなやつを来ている。傍らには針箱。座布団の周りには裁縫道具が描かれている。少し開いた口から、お歯黒が覗いている。顔立ちは面長で、どことなく品がある。
夫婦で描かれているものは、おばあさんにいくらか白髪が交じっている。それ以外は座像の方と同じような感じ。夫の方は白髪交じりの総髪だ。父の話では、この人が天狗党の残党だという。私は、それまで最初の夫の方を天狗党だと思い込んでいた。てことは、ご先祖様はあの争乱を生き延びたのだ。すごいな。この人はおばあさんの死後、家に残らず相続を放棄したという。(この辺はあやふやだ。ただ、うちの墓に彼の名前は残っていない。)
掛け軸は虫が食っていたが、父は表装に出してみると言っていた。
「縁あってこの家に養子に来て、これを見つけたのもひとつの縁だ。出来るだけのことをしてみるべ。」父はそう呟くように言った。

2010年4月2日金曜日

森光子『吉原花魁日記―光明に芽ぐむ日』

江戸文化に吉原は不可欠のものだ。現在の風俗営業とイコールではない。もちろん、そういう側面もあるが、それだけではない。大人の社交場であり、最新文化の発信地でもあった。そこからファッションが生まれ、文学が生まれ、アートが生まれた。花魁もただの売春婦ではない。落語「紺屋高尾」に見られるように、アイドルでありスターであった。とはいえ、それが性の搾取を前提にしている以上、対象となる女性にとって、そこは地獄そのものであったということは紛れもない事実である。
その事実を改めて突きつけるのが本書だ。
時は大正の末。著者は、父親が死に家が困窮したため、周旋屋の甘言に騙され、吉原がどういう所かも知らずに19歳で吉原に売られる。初めて取らされた客に強姦同然に処女を奪われ、悔し涙にくれながら、復讐のために日記を書き続けることを誓う。
彼女の目を通し、花魁の悲惨な生活や店の過酷なシステムが露わになる。それにしても酷い。玉代の7割5分を店に取られ、食事や着物代は自分持ち、借金を引かれて、手元に来る金は稼ぎの1割にも満たない。その上、客が少なければ、何かと理屈を付けて罰金を取られる。競争心を煽り、一人でも多くの客を取らせようとする。生理中でも休ませない。子宮が傷つき、腹痛に苦しもうが客を取らされる。

「文七元結」「柳田角之進」「もう半分」「鼠穴」など、借金のカタに娘を吉原に売る噺は多い。これを読むと、その痛切さが実感を持って迫ってくる。落語では悪女に描かれる、「品川心中」のおそめ、「三枚起請」の喜瀬川すら愛おしく思える。「明烏」の浦里、「紺屋高尾」の高尾太夫だって哀しい。落語はあくまで男の視線からのものだが、遊女の哀しさを、優れた芸はしっかりと伝えてくれる。

人間というのは、環境に適応しようとするものだ。花魁のように過酷な状況にあるものは、そうすることで自分を守ろうとする。進んで客を取り、花魁としての生活に埋没しようとするのだ。それは、人間としての正気を失うことだと言ってもいい。しかし、著者は日記を綴ることで正気を保ったのだと思う。(ただ、それは著者に何倍もの苦しみを与えることになったが。)
著者は花魁として2年間、地獄の日々を過ごした後、逃亡。社会活動家である柳原白蓮のもとに身を寄せ、自由廃業することができた。結婚をしたということまでは分かっているが、その後の人生については詳しく知られていない。市井の人として、平凡な、だからこそ幸せな人生を送ってくれたものと、私は信じたい。

2010年3月25日木曜日

泉鏡花『婦系図』

泉鏡花、最大のヒット作。初めて読んだ。いやあ面白い。
独逸語学者、早瀬主税は師に内緒で、元芸者のお蔦と所帯を持っていた。ある時、師の娘であるお妙に縁談が持ち上がる。相手は主税の友人、河野英吉。河野の家は静岡の名家だが、その傲慢な縁談の進め方に主税は憤慨。河野家との確執が生まれる。折悪しく、師、酒井にお蔦の存在が露見。師の怒りに触れ、主税はお蔦と別れさせられる。掏摸騒動に巻き込まれた主税は仕事も失い、静岡へと落ち延びる。これが前編。
後編は静岡が舞台。ひょんなことから主税は、既に人妻となっている河野の次女と知り合い、彼女の協力を得て、独逸語の塾を開く。主税は、これもまた人妻の長女とも昵懇になる。一方、主税と別れたお蔦は病に倒れ、酒井に看取られながら息絶える。お蔦の遺髪を携え、お妙は静岡の主税の元へ。河野家の面々、お妙が久能山で日蝕観測に集う中、主税は河野家当主、英臣と対決する。そこで迎える大団円。意外な結末で物語は終わる。
『婦系図』というと、新派の舞台が連想され、お蔦主税の悲恋の物語という印象があるが、全然違う。あの有名な「別れよ、切れよというのは、芸者の時にするものよ、云々」という台詞すら出てこない。
目くるめく展開、息もつかせぬ面白さ、まさにジェットコースタードラマである。根底に流れるのは、家のために、何も分からぬまま嫁に行き、好きでもない男に身を任せる当時の女性に寄せた、鏡花の強い想いだ。
それに文章がいい。くだけた調子だが、さすが鏡花先生、格調が高い。お蔦臨終の場面における酒井の情。河野当主に向かって切る、主税の啖呵。いいなあ。胸に迫る、小気味いい。それだけじゃない。魚屋、芸者、掏摸、裏店の住人など、ちっとも偉くない奴らが生き生きと躍動する。鏡花という人の優しさを、私はそんなところに感じるのだ。

2010年3月13日土曜日

七味焼き定食

鉾田市、たきの井食堂、七味焼き定食、900円。豚バラ肉を焼いたのに、七味唐辛子がたっぷりかかっている。こいつをキャベツと一緒に食べる。旨いが辛い、辛いが旨い。ご飯が進む進む。もう癖になる。他に辛肉ラーメン、肉煮込み定食(生卵つき)もお勧め。店もこぢんまりとして渋い。何から何まで、私好みです。

2010年3月12日金曜日

石岡の雛祭り

平磯から帰ったのは、昼近くだった。
妻子は妻の実家に行っている。昼飯を食いに行きたい。雪は心配だが、早いうちに帰ってくれば大丈夫だろう。とりあえず石岡に向かう。
ちょっとモスバーガーでも、と思ったが、せっかく石岡に行くのだ、私の愛する東京庵で食べることにする。
中町駐車場に車を止める。雪はもうほとんど雨に変わっている。街は雛祭りの真っ最中。古い商家の店先に、様々なお雛様が飾ってある。
東京庵に入る。昭和初期そのままの建物。薄暗い店内には、雛壇が二つも飾られている。芥川龍之介の世界みたい。何枚か写真を撮らせてもらう。
カレー南蛮蕎麦と半ライスを頼む。ちょいと野暮かもしれないが、あの古今亭志ん朝が好んだメニューだといえば何となくいいでしょ。
まずは蕎麦をたぐる。蕎麦を食べてしまったら、ライスをつゆの中に投入、カレー丼というかカレーおじやのようにして食べる。旨いのよ、これが。一粒で二度美味しい。体の中から温まる。
それから、丁字屋さんでコーヒーを飲むことにする。ここは「まちかど蔵」として古い商家を公開しており、座敷でお茶を飲めるのだ。ここでも見事なお雛様が飾っている。卓袱台の前に座りコーヒーをいただく。落ち着くなあ。
店先に長火鉢がある。これで燗をつけ、湯豆腐などやりながら飲みたいねえ。
石岡にいたのは、ほんの1時間ほど。それでも、随分ゆっくりした気分でしたな。

2010年3月9日火曜日

文楽と金馬

昭和15年の東京落語家番付が手元にある。
検査役に四代目小さん、八代目文治が座り、堂々東の大関を張るのは六代目春風亭柳橋。西の大関には三代目三遊亭金馬と八代目桂文楽が並ぶ。(志ん生は西の小結、圓生は東の前頭二枚目だった。)
戦前の最大のスターは、春風亭柳橋だった。しかし、一方の雄として、三代目金馬を挙げなくてはなるまい。
三代目三遊亭金馬。明治27年生まれ(文楽より2歳年下)。大正元年、講釈師として芸界に入るが、翌年初代三遊亭圓歌に入門、落語家に転向する。三代目三遊亭圓馬に傾倒し、圓馬の橋本川柳時代、師匠圓歌の世話を弟弟子の歌寿美(二代目円歌)に任せ、旅巡業に従う。大正9年、圓洲で真打。大正15年に三代目金馬を襲名する。昭和初期、『居酒屋』のレコードが売れに売れ、改作ものも次々に世に出した。私の父の年代は、落語家といえば柳橋、金馬だったという。
文楽と金馬は、ともに三代目圓馬のもとで修業し、ともに落語家としての才能を開花させた。文楽は圓馬の繊細さを、金馬は豪放さを受け継いだと言われた。
正岡容が二人を評してこう書いている。
「そのきびしく掘り下げてゐる『面』の方が文樂へやや神經質につたはつてゐるとおもふ。此は團十郎の精神が、蒼白い近代調となつて吉右衛門の上に垂れているごときであらうか。豪放の點は、むしろ金馬にのこつてゐる。しかし、金馬には、俗氣を離れたところがない。云ひ換えると、いいイミの『バカ』なところがない。もつとあの人の全人格が簡單に、文化的なつてしまつてゐる。それが圓馬までゆけてゐない所以とおもふ。」―「三遊亭圓馬研究」より(『随筆寄席囃子』昭和42年刊)
これは名文である。その話芸を高く評価されながら、「噺家魚見立て」で「金馬、秋刀魚、うまいが下卑ている。」と評された金馬の特質を余すことなく伝えている。
しかし、同業者の中では金馬の評価は絶大であった。後年、矢野誠一が「精選落語会」を企画した時、「東横落語会」の向こうを張って、文楽、圓生、小さん、可楽、正蔵の5人をレギュラーメンバーに固定した。(「東横」は文楽、志ん生、圓生、三木助、小さん。ちなみに「精選」の時、志ん生は病床にあった。)それを知った文楽は、矢野に「どうして金馬さんが入っていないんですか?」と疑問を呈したという。骨太で、それでいて大衆性を持つ、そんな金馬に、文楽は自分にないものを見、敬意を抱いていたに違いない。
文楽と金馬は、同じ圓馬の薫陶を受けた同志のような関係だったのだろう。(釣り仲間でもあった。)志ん生とともに親友といってもいいかもしれない。
そういえば、昭和12年、睦会解散の後、文楽は一時、東宝名人会に加入する。金馬はそれに先立つ昭和10年、東宝名人会の専属となっていた。もしかしたら、金馬と一緒に、という思いもあったのだろうか。
文楽はその後、落語協会に参加、昭和の名人への道を歩む。金馬は、東宝名人会の専属となった時の確執から、落語協会には戻らず、終生フリーの立場を貫く。ただ、正月の興行にはゲストとして落語協会の寄席に出た。昭和32年の新宿末廣亭のビラには、夜の部に志ん生、文楽、金馬の名前が並んでいる。

2010年3月7日日曜日

スタミナラーメン

T君のリクエストにお応えして。ひたちなか市「寅さんラーメン」のスタミナラーメン。レバー、キャベツ、かぼちゃを炒めた甘辛の餡が絶品。別メニューに、スタミナ冷やし、スタミナ焼きそば、スタミナ丼がある。T君、次回はぜひ。

2010年3月5日金曜日

長塚節『土』

郷土の名作、長塚節著『土』である。
郷土の名作ではあるが、この歳になるまで読んだことはなかった。実際、若い頃に読んでいたら、最後までたどり着けなかっただろう。
あの夏目漱石ですら激賞しながらも、読みづらいことを認めている。
方言による会話。(ネイティブである私でも、少々つらかった。)かなりの分量の自然描写。(写生派の歌人だった節にとっては省くことの出来ないものだったのだろう。)平板なストーリー。(寒村の農民の話だ。もともとドラマチックな話ではない。)確かに、読んで楽しい話ではない。しかし、100年残った小説なのである。この事実は重い。
舞台は明治の茨城県、鬼怒川のほとり。貧農の勘次一家の物語だ。
勘次の女房、お品は、この小説の冒頭、胎児を自分で掻爬した時の傷が元で破傷風に罹って死ぬ。残された勘次は男手ひとつで、おつぎと与吉の姉弟を育てる。苦労の末、何とか生活が出来るようになった頃、舅の卯吉が同居することになる。勘次と卯吉は折り合いが悪く、卯吉は庭に掘っ立て小屋を建てて別居するが、ある日与吉の火遊びで小屋が炎上、勘次の家はもちろん隣の主人の家も焼いてしまうという悲劇的な結末を迎える。
ここには、藤村や花袋が語る、ラブだのライフだのという小洒落た観念など出てこない。生きることだけで精一杯なのだ。生きるために、お品は胎児を殺し、勘次は盗みを働き年寄りを邪険にする。本能をむきだしにした人間の姿が淡々と描かれる。清く貧しく美しくなんてのは、どこにもない。
そして、この勘次という男が、本当に不器用で他人と上手くやっていくことが出来ないのだ。しかも盗癖があるものだから、周囲から浮きまくっている。娘おつぎを年頃になっても手元から手放さず、おつぎに近づく若い男をむきになって攻撃することから、近親相姦の疑いすらかけられてしまう。
救いは、最後になって勘次が酷い火傷を負った卯吉を哀れに思い、和解をするところだな。重たい曇天に、わずかに薄日が差した程度のものかもしれないが。
作者、長塚節は茨城県西部の豪農の家に生まれた。旧制水戸中学に進学したが、健康を害し中退。正岡子規に師事し歌人として世に出る。『土』を発表後、肺病を病み5年程療養生活を送り37歳で死んだ。明治の時代、旧制中学に進み、中退後は全国を旅行。上京し子規門下となる。となれば、かなりのお坊ちゃんだ。
それでも、『土』を読む限り、節は名もなき貧しい農民に寄り添っている。(そういえば、勘次の主人も勘次に対し、終始同情的だ。)恵まれた者が貧しい者を見下ろす感じが、ここにはない。その辺りが、この小説が今も生命を保っている所以かもしれない。
また、この巻末に載っている夏目漱石の文章がいいのよ。厳しくて優しい。大きい人だな。かなり偏屈な人だったというが、多くの門弟に慕われたのが分かるような気がします。

2010年3月3日水曜日

平磯の宴②

翌朝、7時半に起床。カーテンを開けると、どんよりとした曇り空。強風で目の前の街灯が揺れる。海は昨日と同じ大荒れだ。
朝食は昨夜と同じ大広間。ご飯、味噌汁、鯵の干物、ハムサラダ、納豆、焼き海苔、カニ足、ひじき、ほうれん草のおひたし。正しい日本の朝ご飯だ。普通に旨い。
窓の上に平磯の古写真が飾ってある。昭和初期の観光絵葉書だな。大漁の様子、海水浴の光景、いいなあ。この宿のもある。規模や造りは今と同じような感じ。海際の棟と高台の棟を通路で結んだ「工」の字型。ただ、昔は高台に矢場があって、それが売り物だったらしい。明治時代の創業だという。現在は老舗旅館という感じではないが、かえって渋く、私好みだ。
朝食の途中から雨が降り出した。けっこう強い。心なしか霙が混じっているような気がする。
1時間ほどのんびりして、部屋に戻る。テレビをつけると、チリの大地震のニュースをやっていた。M8.8で死者も多数出たという。実は昨日、部屋から目前の海を眺めながら、津波が来たらひとたまりもないな、と思っていたのだ。情報では、昼過ぎ、日本の太平洋沿岸に1mから2mの津波が到達するという予想だった。2mといったら堤防を越えるかもしれない。でも、予想は昼過ぎ、まだ時間はある。もう少しのんびりしたい。
すると、サイレンが鳴り、地区の防災無線で「津波警報が発令されました。住民の皆さんは高台に避難してください」とのアナウンス。長居をすると宿の人にも迷惑がかかる。大急ぎで荷物をまとめ、階下に降りる。ロビーではご主人がテレビのニュースを見ていた。
「大丈夫ですか?」と訊くと、「大丈夫ですよ」との返事。でも、用心はした方がいい。
来年の再会を約し、皆と別れる。
私は家族への土産だけ買っていこうと思い、那珂湊の魚市場に寄った。横殴りの雨。とてもゆっくり見て回ることは出来ない。
先日、岐阜から来たT君が買っていった、イカの一夜干しとみりん干しが美味しそうだったので、それを購入。店の人は「津波警報が出てるって貼り紙しといた方がいいかな」などと言い合っている。私はそそくさと車に戻った。
後から次々に買い物客の車が入ってくる。日曜日、かき入れ時なんだな。でも、1mの津波でも冠水しそう。商品は大変なことになるだろう。無理はしない方がいい。(翌日、新聞を見たら、昼で閉店にしたそうだ。)
この天気ではどこかに寄って散歩もできない。まっすぐ帰ることにする。
涸沼を過ぎた辺りで、雨は雪に変わった。みるみるうちに辺りが白くなっていく。強風、津波警報、横殴りの雨、最後は雪か。めまぐるしい展開だったなあ、そんなことを思いながら、私はひたすら家に向かうのだった。

2010年3月1日月曜日

平磯の宴①

昔の職場の仲間で、年に1度泊まりの宴会をしている。今年はひたちなか市の平磯に宿を取った。
本当は常磐線から湊鉄道に乗りたかったのだが、朝から強風。一昨年、那珂湊に行った帰り、常磐線が不通になって大変だった苦い思い出があり、車で出かける。
ひたちなか市、寅さんラーメンで昼食。名物スタミナラーメンと餃子を食べる。キャベツ、かぼちゃ、レバーなどを炒め甘辛い餡に絡めて醤油ラーメンに載せる。結構辛いが、これが癖になるのよ。スタミナ冷やし、スタミナ焼きそば、スタミナ丼なんてメニューもあった。12時前に入ったのでうまく待たずに座れたが、あっという間に満席。さすがスタミナの本家寅さんラーメンであった。
満腹満足で那珂湊に向かう。市営駐車場に車を止め、カメラをぶら下げて町中を散策する。
舟運で栄えた古い町。私好みの街だ。古い小さな本屋に入る。なかなかの品揃え。侮れない。安部公房の短編集と泉鏡花『婦系図』を買う。
1時間ほど歩き回って、次は阿字ヶ浦に行く。湊鉄道の終点、阿字ヶ浦駅で写真を撮る。駅舎もいかにも終着駅らしい佇まい。地方のローカル私鉄の例に漏れず赤字に苦しんだが、支援を受け第3セクターとして存続した。鹿島鉄道、日立電鉄は廃線になったが、ここは頑張って欲しいな。
平磯へは少し那珂湊方面に戻ることになる。海沿いの道を行く。強風で海は大荒れ。
平磯駅に行ってみる。駅舎はない無人駅。つぶれたスーパーの建物の一部にひっそりと券売場がある。駐車場に車を置いて付近をぶらつく。湊鉄道は台地の上を走っており、坂を下れば海に出る。古い漁師町。いいねえ。
宿に着いたのは3時半過ぎ。2階の部屋に通される。オーシャンビューの素晴らしい眺め。左前方に海水浴場。「鯨の大ちゃん」が浮かんでいる。
Oさんが来たので、一緒に風呂に入る。天然の岩を使った装飾、山水画の如し。二つの峰の間に滝が落ち、釣り橋が架かる。風呂は海藻風呂。海藻のエキスをたっぷりと含んだ茶褐色のお湯。十分に温まる。
風呂上がりにビールを飲む。「生きててよかったグランプリ」3位には間違いなく入る一時だな。
そうこうしているうちにKさん、もう一人のOさんがやって来る。メンバーは13人いるが、今年の参加は私を含め4人。こぢんまりとした会となった。
宴会は大広間でやる。昼間は食堂になっているらしい。畳の上にテーブルと椅子。明治の元勲のような気分だ。テーブルの上には天ぷら、刺身、焼き魚などが並ぶ。鍋は何と鮟鱇鍋。泊まり客は我々だけなので、特別にサービスしてくれたのだという。ありがたい。存分に飲み、食い、語る。1年に1度、こういうことがあるのはいい。最後はご飯を鍋に投入、おじやにして食べる。
部屋に引き上げたのは9時。ご当地焼酎「阿字ヶ浦」を酌み交わしながら、夜は更けていくのであった。

2010年2月24日水曜日

悲劇のプリンス、四代目桂三木助

四代目桂三木助のことを少しばかり書いてみたい。
彼の真打ち昇進、四代目襲名は1985年。私が大学を卒業した後だった。
伝説の名人、三代目桂三木助の遺子。父の義兄弟、五代目柳家小さんの庇護も受け、またたく間に売れた。
見るからに御曹司、洒落たシティーボーイであった。厳しい下積みがなかったせいもあり、明るく屈託のないキャラクターは、落語家臭さを感じさせなかった。(ちゃらちゃらしていたという印象は否めないが。)
東京落語会の400回記念特別番組では、春風亭小朝とともに司会を務めた。当意即妙のやりとりは小朝に引けを取らず、才気に溢れていた。小朝に続くスター候補だった。
ただ、線は細かった。著名人を多数呼んだ豪華な結婚式の後、新婚旅行から帰るやいなや離婚。(「成田離婚」の嚆矢であった。)初の芸術祭参加興行の直前、謎の交通事故を起こす。重度の胃潰瘍を患い、胃の4分の3を切除する。様々なトラブルに見舞われ、偉大な父の名跡を継いだ重圧に苦しんだ。
同じように名人を父に持つ古今亭志ん朝は、三木助の死後、「父親の重圧と言えば、俺の方がよっぽどじゃないか」と悲憤したという。
志ん朝の見解は正しい。しかし、志ん朝と三木助とでは少しばかり状況が違う。志ん朝が父志ん生を亡くしたのは、彼が真打ちに昇進してからだった。志ん朝は落語家としての父の偉大さを体感しつつも、私人としてのしょうもなさを十分に見ていた。つまり、父を相対化するだけの余裕があった。三木助が父を亡くしたのは3歳の時。父の記憶はほとんどないだろう。父に関する情報は、父を知る人の思い出話によるものでしかなかった。その中には、例えば安藤鶴夫の著作のように、多分に神格化されたものも多かったに違いない。三木助が父を絶対化するのは自然な流れだったろうと思う。
三木助の高座で思い出すのは、「看板のピン」だ。GWの浅草演芸ホール。柳家小三治のトリの席だった。ここでの彼の分身は、博打の怖さを教える親分よりも、親分に憧れ失敗する若者の方だろう。父三代目三木助は、「隼の七」と異名を取った博打打ちだった。とすれば、あの親分は父。そうか、三木助は、父への思いをあの噺に込めたのか。父に憧れ、しくじる自分の姿を戯画化して見せたのか。小品ではあったが、あの噺は私の心に響いた。
最近、三木助の姉の著書を読んだが、彼は晩年、十代目金原亭馬生の芸を目指そうとしていたという。名人志ん生の長男に生まれ、その重圧に耐え、独自の芸を開花させた馬生。そのいぶし銀の、それでいて優しい芸は、死後25年を過ぎてもファンの心を捉えて放さない。あの派手に売れた、落語家臭さなど微塵も感じさせなかった三木助が最後に目指したものが、あのひそやかな馬生の芸だったことは興味深い事実だった。
しかし、悲しいかな、三木助には重圧に耐え才能を開花させるだけの体力が残っていなかった。2001年1月3日、初席の最中、失踪し無断休演をした翌朝、四代目桂三木助は自宅で首を吊って死んだ。その死に顔は、満面の笑みをたたえていたという。
その後、空前の落語ブームがやってくる。私は、今の柳家喬太郎、林家たい平、柳家三三などの上に立つ三木助を見たかった。その芸は、幾多の風雪に耐え、渋みと深みをたたえたものになっていただろう。

2010年2月14日日曜日

小林茂子『生きてみよ、ツマラナイと思うけど』

伝説の名人、三代目桂三木助の娘にして、悲劇のプリンス四代目三木助の姉である著者が、その波瀾万丈の半生を語る。一度本を開くと、もう目が離せない。一気読みしてしまった。
私は、著者を30年前から知っている。高校の頃、夢中で読んだ、安藤鶴夫の『三木助歳時記』に、彼女が登場するのだ。その中で彼女は、死に臨む父三木助にメロンを食わせ、ピアノを弾いて聴かせる。その可憐な幼女が、生身の女として自分を、父を、弟を語る。
ああ、それにしても壮絶な人生だな。幼くして父を亡くし、2度の結婚に失敗し、息子は高校でいじめの被害に遭い、息子の学校の法人部長からはセクハラを受け、様々なトラブルを共に格闘した弟はその最中に自殺を遂げる。弟の死後、働いていた派遣会社では不正を看過できず退職に追い込まれ、鬱病を抱え込む。
一方で五代目柳家小さんから溺愛され、立川談志と濃密な交流を持ち、古今亭志ん朝に細やかな気遣いをされる。
よくも悪くも運命に魅入られた人なのだな。銀行員時代。談志の弟子との最初の結婚。弟四代目三木助のマネージャー生活。誰も彼女を放っておかない。誰かがいつも彼女を過剰な渦に巻き込んでしまうのだ。
弟の自殺の経緯が語られる場面は、まさに圧巻だ。
精神的に追いつめられ体調を崩し、のたうちまわり逃げ回る弟。姉は息子の学校とのトラブルに翻弄され、弟の苦しみに向き合えない。弟は何日間か行方をくらまし、やっと自宅に戻った翌朝、首を吊った姿で発見される。
そうか、あの三代目夫人、仲子さんと著者の息子、現在の桂三木男が、四代目の心臓マッサージをしていたのか。
四代目桂三木助の死に顔は、満面の笑顔だったという。言葉がない。
この本のタイトル『生きてみよ、ツマラナイと思うけど』というのは、立川談志が著者に贈った言葉である。談志は優しく温かい人だな、こういう人だから、あんなに人を感動させることができるんだろうな、と私は素直に思ったよ。
奥付に小林茂子さんの写真がある。いささか陳腐な台詞になるが、凛として美しい。

2010年2月12日金曜日

鮟鱇鍋ツアー③

夕食後、私達は、I君の手製の蒟蒻をつまみに、これもI君が買ってきた四合瓶を飲んで寝た。
翌朝、I君は、地区の駅伝大会の応援に行かなければならないと言って、先に帰った。必ず昼には家に寄って、手打ちの蕎麦を食べていってくれ、と彼は強く言う。私達は、茨城のご当地ラーメンである、スタミナラーメンを食べるつもりだったが、せっかくなのでI君の勧めに従うことにした。
T君と私は宿を出ると、近くで見つけた鮟鱇のオブジェ「あんちゃん」の写真を撮り、那珂湊へ向かった。
途中、海門橋でT君が写真を撮りたいと言う。橋手前のロードパークに車を止め、橋の上を歩く。朝日に輝く太平洋が素晴らしい。
それから、魚市場へ行く。T君はそこで蛤、一夜干しの烏賊を買い込んだ。生牡蠣を売っていたので、ひとつずつ食べる。つるんと喉を過ぎ、磯の匂いが立ち上る。旨いが、けっこう磯臭さが口中に残る。本当なら、酒でそれを払拭すべきなのだが、運転があるからなあ。生ものには酒が必要だ、というのとを再認識したよ。
また、大洗に戻り、「常陽幕末と明治の博物館」を見る。個人的には明治以降の方の展示が面白かったかな。昭和天皇の子どもの頃の絵とか、大正天皇自筆の日記などに暫し見入る。戦時中の玩具で「箱入り娘ゲーム」や「空襲ゲーム」などという珍品もあった。
敷地はキャンプ場になっており、私も昔、ここでバーベキューをやったことがある。一角に水戸学のカリスマ、藤田東湖先生の銅像があった。銅像フェチのT君が見逃すはずがない。早速記念写真を撮ってあげる。
I君の家に行く途中、涸沼、ドライブイン「はにわの里」に寄る。「はにわの里」でT君は子どもの土産に納豆スナックを買った。ラベルの「うまかっぺ」に惹かれたらしい。
I君の家には昼近くに着いた。I君の長男は昨年結婚して独立、次男は仙台での就職が決まったという。今は夫婦水入らず。家に上がると、ふっくらと太った猫がいた。住み着いた野良猫がなついたとのこと。猫好きの奥さんの念願が叶ったことになる。
I君手打ちの蕎麦と、揚げたての天ぷら。「蕎麦粉が六分、つなぎに山芋を四分使ったんだ。十割よりもこっちのほうが旨いよ。」とI君は言う。確かに旨い。I君、作務衣が似合う男である。(作務衣を着ているわけではないが…)
T君は古河を見物して帰った。無事に岐阜に着いたというメールが、深夜0時を回った頃届いた。

2010年2月9日火曜日

鮟鱇鍋ツアー②

さて、鮟鱇フルコースである。
鍋、刺身、共酢、ソテー、唐揚げ、あん肝というラインナップ。
まずはビールで乾杯。
ビールには唐揚げだな。揚げたてにレモンを搾る。これは鶏の唐揚げと言われても分かんないと思う。べろべろしたところが鳥皮みたい。
刺身は早いうちに食べたい。でも、ビールじゃなあ、というので燗酒を注文。鮟鱇の刺身ってのは初めてだ。身は淡泊な白身といった風情。卵巣はこりこりぷちぷち。よっぽど新鮮なんだな。
ソテーはこの宿のオリジナルだそうだ。ソースはあん肝を混ぜたもの。身を箸でほぐし、ソースを絡めて食べる。こりゃ旨い。付け合わせの玉葱が甘くていいな。
茨城の冬の味といえば鮟鱇というイメージらしいが、家庭ではあまり食べない。唯一、小さい頃食べていたのが共酢である。茹でた鮟鱇を酢味噌で食べる。祖父が好物でよく食卓に上ったが、子どもが好むものではないわな。ただ、今食べてみるといいのよ。派手さはないが、酒によく合う。
鍋は何と言っても熱いのが値打ち。わしわしといく。あん肝仕立ての汁がしみた葱が、思いの外旨い。I君は「べろべろのところが旨いんだよ」と言う。
あん肝はもう絶品。燗酒の絶好のパートナーとして、大事につまむ。
全ての料理に言えることだが、鮟鱇というのは色んな食感が楽しめる。部位によって、ふわふわしたところ、とろっとしたところ、ねっとりしたところ、こりこりしたところ、べろべろしたところと本当に多彩だ。これがひとつの魚とは思えないくらい。
T君が「蛤を食いたい」と言うので、追加注文。一人前3個で2100円と少々高めだが、この際いっちゃおう。目の前で焼き上がった熱々を、タレをほんのちょっと落としてぺろっと口に入れる。旨いねえ。
シメは雑炊。卵を落として暫し蒸らす。もう旨くないはずがない。

途中トイレに立ったのだが、その時悲劇は起きた。
何の気なしに入り口のドアを閉め、用を済まし、ふと見ると内側のドアノブがとれていて、ない。棒みたいなやつを回そうとしたが、ちっとも回らない。脱出できそうな所もないし、携帯電話も持っていない。これは叩くしかないな、と腹を決めた。どんどんどんどん叩くうちに、ひょっとしたはずみで棒みたいなやつが回った。おお開いたよ。ほっとして出ると、I君の心配そうな顔が見えた。
トイレから生還し、「まいったよ」とか言いながら、暫く飲んだり食ったりしていると、突然トイレの方から切迫した戸を叩く音がしてきた。また、犠牲者が出たらしい。
I君はゆっくり立ち上がると、犠牲者救出に向かった。
I君の後ろ姿は神々しかった。

2010年2月8日月曜日

鮟鱇鍋ツアー①

この前の週末、岐阜から片道6時間かけてT君がやって来た。
T君は大学の同級生、同じゼミだった。独身時代はよく二人で旅行に行ったものだが、お互い結婚して、子供が生まれてからは、おいそれとは遊べなくなった。
それが今年の正月、突然メールで、「長年冬の茨城で鮟鱇鍋が食いたいと思っていた。その念願を是非果たしたい。」と言ってきた。
そこで、早速大洗の民宿を予約し、地元に住む、やはり大学の同級生I君にも連絡して、久し振りに旧交を温めようということになったのだ。
昼過ぎにT君が到着。T君は「岐阜県一の茨城通」を自認している。家で一服した後、その辺を見て回りたいと言う。
まずはリクエストに応えて、霞ヶ浦湖畔に連れて行く。折からの強風で、霞ヶ浦は浪しぶきが立っている。立っているのもしんどいほどの風の中、T君は霞ヶ浦越しの筑波山を眺め、「ここから見る筑波山は、きれいな双峰形だなあ。」と言いながら、盛んにシャッターを切った。
次は石岡の「風土記の丘」。竹下首相時代の「ふるさと創生事業」で建てた「日本一の獅子頭展望台」を見せる。その名の通り、獅子頭の形をした展望台だ。ちょうど獅子の口の辺りから外を眺める案配になる。ただ、口だから、当然低い。眺望としては大したことはない。T君は獅子の金歯の上に横になってポーズを取る。私はロングとアップを1枚ずつ、T君のデジカメに収めてあげた。
それから、大洗へ。ちょっと足をのばして、海門橋を渡り那珂湊の日和山公園へ行く。ここは那珂川河口を望む高台にある。江戸時代には水戸藩2代藩主光圀の建てた「湊御殿」と呼ばれた別邸があった。幕末の天狗党の乱の際は、大洗側から渡河せんとする天狗軍と、日和山に陣を敷いた藩軍とで激戦が繰り広げられた。この戦闘で御殿は焼失。現在、建物の遺構は全くない。ただ戦火を免れた黒松が何本か、現在も見事な枝振りを見せている。
私のご先祖は天狗党に参加したと聞いている。もちろん名前が残っているわけではない。名もない下働きだったのだろう。この戦いに参加したかどうか分からないが、しばしご先祖に思いをはせる。
眼下には那珂湊の市街、太平洋、那珂川が広がる。夕焼けが美しい。西の果てにぽつんと筑波山が見える。天狗党は、あそこで挙兵し、ここまでやって来て藩軍と戦い、遙か敦賀の地で処刑された。ご先祖様はどこまで行ったのだろう。
地元の人が、犬を連れて何人か散歩に来ている。観光客はT君と私だけ。ひっそりとして、寒い。私達は背中を丸めて山を下りた。
5時少し前に宿に着く。I君は既に来ていた。
ひとっ風呂浴びて、いよいよ夕食。
T君が待ちに待った鮟鱇フルコースである。

2010年1月27日水曜日

田山花袋『蒲団』

『蒲団』、田山花袋。日本の自然主義のパイオニアである。
作者の分身である中年の小説家の、若い女弟子への痴情が綿々と綴られる。
色々批判もあるだろうが、いちばん最初にやったってのが偉い。衝撃的だったろうな。そして、ああこの手があったか、と誰もが思ったに違いない。自分の心の恥部・暗部を赤裸々に綴れば衝撃の告白文学になるのだ。以後、日本の自然主義は、恥ずべき過去の告白合戦の様相を呈することになる。
まあいい。『蒲団』の話だ。
この男の呟きは、どれをとっても勝手なものだが、これが実にリアルなんだな。
惚れて一緒になった妻が、3人の子どもを産み、ただの母親に成り果てたことに対する不満。丸髷を結った古女房に飽き飽きし、今様の若い女に憧れる様。今時の女学生である弟子、芳子への想い。やがて、同志社の学生と恋に落ちた彼女への煩悶、懊悩。
芳子が恋人と体の関係を持っていたことを知ったときの凄まじさっていったらない。こんなことなら、彼女を神聖なものと祭り上げることなどせず、とっととやっときゃよかっただの、今からでも自分の恋情を切々と訴えれば、一回くらいやらせてくれるんじゃないかだの、本当に身も蓋もないのだ。(もちろん、もうちょっと古風に上品に書いてますよ。)
ただ、彼はこのような思いを決して表に出すことはない。表面は取り澄まし、いかにも誠実に振る舞う。(時にこらえきれなくなって昼間から酒を飲み、泥酔したりもするが…。)
でも、人は皆こんなものかもしれない。一皮むけば、醜くいじましい。けど、何とか頑張って、それを表に出さないようにする。そして、その醜くいじましい自分の心から目をそらさず、克明に綴る。そこが人の胸を打つのだ。
芳子は父に伴われ故郷に帰った。彼女の荷物が残る部屋に男は入る。押入を開け、彼女の蒲団に夜具に顔を押しつけ、女の匂いを嗅ぐ。蒲団を敷き、夜具を引っ被り、思う存分女の匂いを嗅ぎながら、男は一人泣く。あまりにも有名なラストシーンだ。
すべてはここから始まった。ここから藤村の『新生』が生まれ、太宰の諸作品が生まれた。もしかしたら、つげ義春や吾妻ひでおも生んだのかもしれない。
とはいっても、モデルとなった女性や奥さんはたまらなかったろう。芸術とやらのために、妻を売り、愛する人を売る。それを読者は娯楽として享受する。文士というのは、つくづくやくざな商売だな、と思わざるを得ないなあ。

2010年1月24日日曜日

旨いもの

食べ物で何が旨い、と聞かれても困る。
食べる、ということは状況も味わうという意味で、総合芸術だと思うからだ。
私は、今のところ、子どもを寝かしつけた後のウイスキーを、至福のものとしている。そりゃあ、そのウイスキーもレッドよりはタラモアデューの方が、タラモアデューよりもボウモアの方がいい。でも、それは一日に仕事を終え、子どもたちの寝顔を見て、という状況が何と言ってもその旨さを確固としたものにしてくれているんだな。
例えば、ラーメンの名店へ行って、すごく混み合ってて、すごく待たされて、やっと来たラーメンが、店員が間違えて、後から来た別の客の方へ行って、態度の悪い店員に言ってやっと来たラーメンを食す、という状況と、旅に出た田舎の古びた駅前食堂で、さして上等でもないカツ丼を食べながら、土地の人の世間話を聞くともなしに熱燗の酒を飲むという状況では、どちらが旨いと感じると思いますか。
それ程までに、味覚は状況に左右されるのです。
たかがお茶を飲むために、器、調度、書画、花、景色、心持ちにまでこだわることを発明した、千利休は偉い。しかも、豪華フランス料理のような贅を尽くしたものではなく、さりげない侘び寂びを尊ぶ。そのような価値観を生んだ日本に生まれたことを、誇りに思っていい。
私がこれまで旨いなあと思った体験も、状況がセットでついてくる。
仲間と釣った魚を鍋にするという極めてアバウトな計画でやった浜鍋。
猪苗代湖畔、哀愁の一人キャンプで、雨上がりの雲間に浮かぶ月を眺めながら、焼いた赤ウインナーをつまみに飲んだバーボン。
10年ぶりに訪れた蔵王の飲み屋で、覚えていてくれたおかみさんと話をしながら食べた、牛タンの塩焼き、冷やの住吉。
大洋海岸で寝ころんで、海を眺めながら、茹でた蛤をつまみに飲んだ缶ビール。
雪が積もった休日の昼、燗酒を飲みながらつつく湯豆腐。
伊豆の漁港の堤防に座って飲んだ青島ビール。
妻との新婚旅行で行ったシドニーのナイトクルーズ、きりっと冷えた白ワインで食べる生牡蠣。
そういう旨いと思う体験を積み重ねていくのが、多分、幸福なのだと、私は思うよ。

2010年1月20日水曜日

桂文楽 睦会解散

昭和5年、春風亭柳橋、日本芸術協会創立。時に柳橋、31歳。これは凄いな。当時の平均寿命を考慮しても、今なら春風亭小朝が20年前に落語協会を離脱して新団体を立ち上げた、というくらいの衝撃だったろう。
この辺りから、東京落語界で一方の雄であった睦会の凋落が始まる。
翌年、睦四天王の一人、桂小文治が睦会を脱退。2年後に芸術協会に合流する。
昭和7年には、これも睦四天王の一人三代目春風亭柳好が脱退。翌年には落語家を辞め、幇間になってしまう。(後に柳好は芸術協会に参加する。)
こうして、睦会躍進の原動力となった睦四天王のうち、会に残っているのは桂文楽ただ一人となってしまった。
層が薄くなった睦会は芸術協会との連携を目指すが、それに反対した五代目三遊亭圓生一門の脱退を招いてしまう。
こうなると、後は坂道を転がるように会は落ち目になっていく。一人減り、二人減り、やがて残ったのは、文楽、会長の五代目柳亭左楽、神田山陽、七代目春風亭柳枝だけ。そのうちに柳枝も芸術協会へ行ってしまう。
昭和12年11月、ついに睦会解散。
文楽の自伝『あばらかべっそん』によると、この時、左楽は文楽に「お前はもう向こうの会(落語協会)に行け。俺もどこかへ行くようにするから。」と言った。それに対し、文楽は「待ってください師匠、私も弟子の始末をつけるまで休んで、それから出かけますから。」と答えたという。
左楽は芸術協会へ。文楽は、「ふりい倶楽部」を経て東宝名人会に参加した後、翌昭和13年、落語協会に加入した。師匠と別れ、独立する形となる。時に文楽、46歳であった。

2010年1月14日木曜日

文楽と柳橋

文楽の終生のライバルは志ん生である、というのは衆目の一致するところである。
ただ、文楽は大正6年に真打ちに昇進した頃からずっと売れっ子であり、志ん生が世に認められ出したのは、昭和9年の金原亭馬生を襲名した辺りから。いわば、志ん生は文楽にとっては遅れてきたライバルだった。
大正から昭和にかけて、文楽の最大のライバルは、六代目春風亭柳橋だ。
六代目春風亭柳橋。明治32年生まれ(文楽より7歳下)。明治42年、四代目春風亭柳枝に入門して柳童。枝雀を経て、大正6年、文楽と同年に柏枝を襲名して真打ち昇進。大正10年、小柳枝を襲名。さらに大正15年、春風亭柳橋を襲名した。もともと柳橋は麗々亭の止め名だったのを、師匠柳枝と同じ春風亭に改めた。
文楽とともに睦四天王として売り出す。いや、正確に言うなら、四天王の筆頭はこの柳橋だった。後に六代目三遊亭圓生は柳橋を評し、「うまい上に大胆で芸度胸があり、末恐ろしい。文楽などよりもずっと大物になると思った」と言い、「一時は本気であの人の弟子になろうかと思った」とさえ言った。柏枝を名乗っていた頃、大阪で「子別れ」を演じたが、その時大阪の落語ファンは「江戸っ子の腕で打ったる鎹は浪速の空に柏枝喝采」という歌を詠んで讃えたという。どのエピソードも柳橋の大器振りを物語っている。
初代圓右・三代目小さん亡き後、名人と言えるのは、五代目圓生、四代目小さん、八代目文治といった人たちだった。(五代目小さんは彼らを昭和の名人に挙げていた。)それに続く存在が、柳橋、文楽だったのだろう。昭和15年の落語家番付では、柳橋が東の大関に座り、文楽が西の大関となっている。ちなみに三代目金馬が文楽と同じ西の大関、五代目志ん生が西の小結、六代目圓生は東の前頭筆頭だった。
昭和初期、文楽は三代目圓馬のもとに通い、後の十八番となるネタと不器用に格闘する。
一方、柳橋はスターの道を駆け上った。昭和5年には金語楼とともに日本芸術協会を設立。30歳そこそこで団体の会長となる。金語楼の新作に刺激を受け、「うどん屋」を「支那そば屋」に、「掛け取り万歳」を「掛け取り早慶戦」にと大胆に改作し、ラジオやレコードで売れに売れた。「支那そば屋」では軍歌を歌ったように、戦時中も時流に合わせる器用さを見せた。
文楽の方は戦時中、得意の幇間ものや廓噺を封印され、不遇の時代を送った。戦時中の「子ほめ」の録音が残っているが、必死に軍事色を加えようとしてはいるものの、まるでニンに合わない無惨なものである。文楽が名人の称号を手にするのは戦後を待たなければならない。戦前、最も輝いていたのは柳橋であった。文楽もずっと売れていたし、名人への階段を着実に上りつつあったが、柳橋の勢いは圧倒的なものであり、文楽といえども太刀打ちできるものではなかった。

2010年1月6日水曜日

広小路亭初席

前回の続き。
初席に行こうとは思ったものの、ネットで調べた限りで鈴本はまず無理ということが分かった。検討の結果、上野広小路亭の芸術協会を観ることにする。
ここはこぢんまりとした畳敷きの寄席。定席は芸術協会のみだが、圓楽一門会や立川流も興行を打っている。
入ったのは5時少し前。2部の最後の方だった。正月の寄席の例に漏れず結構な入りだが、壁際のスペースにうまく座ることが出来た。
2部のトリは昔々亭桃太郎。しょうもない駄洒落の連発が癖になる不思議な落語家だ。この日は「長短」をみっちり演じた。サゲ間際で、大声でネタばらしをするおじさんがいる。おれは落語に詳しいんだぞ、というところを見せたいのだろうが、迷惑以外何ものでもない。寄席は気楽でいいが、気楽をはき違えてはいけないよな。
2部終了。入れ替えはなし。かなりの客が帰るが、新たな客が次々に入ってくる。どうやらネタばらしおじさんは帰ってくれたようだ。
すぐ一番・二番の太鼓が入り、3部が始まる。
前座のメクリは「前座」としてある。多分、春風亭昇太の弟子。前座さんらしい「子ほめ」。
二つ目は三笑亭夢吉、「味噌豆」。明るくていい。有望株と見た。
柳亭小痴楽は、小咄をひとつ演っただけで慌ただしく高座を下りる。
桂歌助、「金明竹」。高校の先輩Hさんが、子どもを連れて、やはりこの広小路亭に来た時、出ていたそうで、「歌助面白かった」というメールを頂いた。なるほどいい。言い立ての回数は減らしていたが、しっかりと演じてくれた。
三遊亭笑遊、「不動坊」。熱演だがクサいな。
ここで色物。東京ボーイズ。脱力系だが、これが面白い。のいるこいるの漫才みたいな味がある。
仲トリは古今亭寿輔。大看板の風格が出てきたね。皮肉で屈折した感じがたまらない。「親子酒」。塩辛をつまみに酒を飲むくだりを存分に見せる。今は亡き十代目桂文治の型か。
仲入りで客が減る。仕方のないことかもしれないが、もったいない。寄席はトリまでの流れを考慮に入れて構成されている。トリを聴いてこそ、その流れをきちんと味わうことが出来るのだ。
くいつきは桂枝太郎。懐かしい名前が復活した。当代は、温水洋一を髪の毛を増やして若くしたような好青年。ネタは「動物園」。
そして、桂小文治さん登場。「粗忽の釘」を手堅く演じる。口調は端正だが、軽妙な可笑しさがあって、よく受けていた。
柳亭楽輔、「鰻屋」。実力派だねえ。サゲ際が少しくどかったかな。
膝代わりは松旭斎小天華の手品。程がよい。
トリは三遊亭圓雀。かなり前のことだが、地元の文化センターに小遊三・昇太・山陽などが来た時、この人の「長屋の花見」を聴いて上手いなと思った。その時より痩せて年取ったなという印象。「浮世床」を夢の所まで演じる。結構なものだったが、もうちょっと勝負してもよかったんじゃないかなあ。持ち時間も結構あるし、腕もあるんだから、無理に笑いを取らず、「いいなあ」と客に思わせて帰すというチョイスもあった。その方が、かえって存在をアピールできたと思う。
広小路亭は噺をじっくり聴くのにいい空間だ。初見の噺家さんが割といて、楽しめた。初席の顔見世興行とは違って、しっかり落語を聴くことが出来た。鈴本で小三治が最高かもしれないが、私は満足です。

2010年1月5日火曜日

平成22年 新春東京散歩

妻が「お正月だし、寄席にでも行って来たら」言ってくれたので、ありがたく東京に出かける。
日暮里で下車。
いつものようにカメラをぶら下げ、谷中を歩く。
志ん生・馬生・志ん朝のグッズを売っている店があったので、覗いてみる。 ここは古今亭の街なのだ。
谷中銀座を抜け、不忍通りに出て、団子坂を上る。
当てずっぽうに根津に向かって歩く。
途中、夏目漱石旧居跡の石碑を見つける。川端康成筆。近くの塀の上には猫の石像が載っている。
この辺りは漱石・鴎外・一葉など明治の文豪が多く住んだ。今も閑静な住宅街。新しい家が多く、歩いていて余り面白くはない。
やがて、東大に行き着く。付近には古い洋館なんかあって、俄然写欲がわく。
テニスコート脇の坂道をたらたらっと下りると、根津神社があった。
早速お参り。境内のお稲荷さんに、立川談志の千社札が張ってあった。側には里う馬・ぜん馬・談幸・志の輔など立川流の面々の札がずらり。さすが家元のお膝元である。
それから、言問通りを通って、再び上野の山へ。
美術館にも入りたいが、この後の寄席を考えると、いささか時間が足りない。
それに、大分歩いて草臥れた。そこで、東照宮の鳥居脇の茶店に入る。
ここがしぶい。メニューを見ると、カレーそうめんなんてのがある。甘酒を飲んでしばし休憩。
不忍池の周りに出ている骨董屋を横目に通り過ぎ、蓮玉庵に入る。
冬の定番、鳥南蛮蕎麦と燗酒を注文。ごまめをつまみにお銚子を1本飲んだところで、蕎麦が来る。
お銚子1本追加。まずは蕎麦をつーっとたぐる。そして、つゆと鶏肉、葱をつまみにもう1本の酒をとろとろと飲む。いやあ体の芯からあったまりますなあ。蕎麦湯で締め。
外は寒風吹きすさぶが、ほかほかのまま上野広小路亭に向かうのでありました。
寄席の内容は、次回お話し致します。