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2010年4月22日木曜日

落語協会分裂騒動とは何だったか③

圓生は、自分と同じ真打ち観を持つ古今亭志ん朝に新協会設立への参加を呼びかけ、承諾を得る。志ん朝は弟子たちに自らの決意を打ち明け、一門の結束を固めた。志ん朝はあくまで正攻法に誠実に事を進める。
圓生一門はそうではなかった。まず、圓生が協会離脱を宣言、弟子たちは圓楽門下となって協会に残るように言ったのだ。(後に圓楽は「敵を騙すのにはまず味方から」と言い、弟弟子たちの顰蹙を買うことになる。)要するに、圓生・圓楽は、一門の忠誠心を、そういう形で試したのだった。
ところで、先の大量真打ちで昇進した中に、さん生と好生という圓生の弟子が二人いた。さん生は、ソンブレロを被りギターを抱える破天荒な高座で人気があったが、圓生には「あれは色物でげす」と不興を買った。好生は人呼んで「圓生の影法師」。口調から仕草まで圓生そっくりで、それでいて華がない。彼も圓生から疎まれた。圓生は、春風亭柳枝没後に引き取った圓窓・圓弥の方を先に真打ちにし、さん生・好生の昇進披露には、大量真打ちへの反対を理由に口上にも出なかった。このような狭量さでは、一門の結束など望むべくもない。
改めて、圓生は弟子たちに自分と共に協会を離脱するように迫るが、さん生と好生はそれを拒んで破門となる。(圓丈も一度は断ったものの、圓生夫妻から激しく叱責され協会離脱を受け入れた。)
さん生は柳家小さん、好生は林家正蔵門下となり、それぞれ川柳川柳、春風亭一柳と改名した。結局、二人とも圓生の仇敵のもとに走ることとなったのである。
もう一つ、橘家圓蔵門下が新協会に参加した。圓蔵は、八代目桂文楽の大正時代からの弟子だが、しくじりを重ね破門となり、名古屋で幇間生活をしていた。戦後、帰り新参として落語家に復帰。やがて、月の家圓鏡で真打ちとなったが、当時、師匠文楽は預かり弟子の小三治を五代目小さんにするべく奔走中、ほったらかしにされた状態だった。そんな時、圓生が自らの前名である橘家圓蔵を譲ってくれた。つまり、圓蔵にとって圓生は恩人だった。新協会への誘いに、当然のごとく圓蔵は喜び勇んで参加を表明する。しかも、圓蔵の弟子には、当代の人気者、林家三平と月の家圓鏡(現圓蔵)がいた。新協会のためには大きな戦力となる筈だった。
しかし、三平は師匠と行動を共にしなかった。三平の芸を、圓生は認めていなかった。それだけではない。「あんなものは落語ではありません」と圓生は公言していた。自分が冷遇されると分かっている協会に進んで行くほど、三平はお人好しではなかった。
寄席という場は多様さが要求される。古典派が多い新協会のメンバーの中で、三平と圓鏡は貴重な存在だった。そのうちの三平が欠けた。ここでもまた、圓生の狭量さが災いしたのだ。

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