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2010年4月28日水曜日

井上靖『本覚坊遺文』

前にも書いたが、私は茶の湯を生んだこの国を誇りに思っている。
たかだかお茶を飲むだけで、何が作法だと思う人もいるだろうが、茶の湯は、総合芸術である。道具、調度、書画、果ては建築、造園に至るまでが鑑賞の対象になる。それは、空間を、時間を、プロデュースする作業だ。しかも、茶会は形に残らない。まさに「一期一会」である。私に茶の湯の心得はないが、その世界への憧れはある。
茶の湯の巨人、千利休。その弟子である三井寺の本覚坊が、師ゆかりの人々との対話を通し、利休の死の意味を探っていく。密やかで奇妙な小説だ。一つの章が、一人の人物と本覚坊との対話をもとに構成される。次の章では前章の人物は既に死んでいる。いわば、本覚坊との対話が終われば、その人物は役目を終えて死ぬ。そして、終章では、もはや死者である秀吉と利休が登場するのだ。
大分前、この作者の『利休の死』という短編を読んだことがある。それは、偉大な俗物秀吉とストイックな芸術家利休との対決が構図となっていたと思う。しかし、ここでは、前作の対決の構図は背後に潜み、「利休の茶」の本質の方に焦点が当てられているような気がする。
「利休の茶」は「戦国の茶」だ。戦国時代、武将たちは競って茶人を抱え、合戦の合間に茶会を開いた。いや、「合戦の合間」という言い方は正確ではない。彼らにとって、合戦も茶会も同じ重みを持っていた。彼らは、合戦の後の血まみれの心で茶を飲み、再び血まみれの戦場に赴いた。茶会を取り仕切る茶人にとっても、そこは戦場に等しかった。茶席において、彼らは静かに命のやりとりをしていたのである。
この小説に登場する、山上宗二、千利休、古田織部の3人の茶人は、いずれも切腹をして死んだ。利休、宗二は秀吉から、織部は家康から死を賜った。いずれも時の権力者の武将からだ。茶室で武将と切っ先を交え、美の力で屈服させてきた結末がこうだったのか。
本覚坊が幻想の中で聞いた、この3人の茶会での言葉が、「無ではなくならない。死ならなくなる!」というものだった。「無よりも無」である「死」を、この戦国の茶人は自らの美の到達点としたのだろうか。

2010年4月22日木曜日

落語協会分裂騒動とは何だったか③

圓生は、自分と同じ真打ち観を持つ古今亭志ん朝に新協会設立への参加を呼びかけ、承諾を得る。志ん朝は弟子たちに自らの決意を打ち明け、一門の結束を固めた。志ん朝はあくまで正攻法に誠実に事を進める。
圓生一門はそうではなかった。まず、圓生が協会離脱を宣言、弟子たちは圓楽門下となって協会に残るように言ったのだ。(後に圓楽は「敵を騙すのにはまず味方から」と言い、弟弟子たちの顰蹙を買うことになる。)要するに、圓生・圓楽は、一門の忠誠心を、そういう形で試したのだった。
ところで、先の大量真打ちで昇進した中に、さん生と好生という圓生の弟子が二人いた。さん生は、ソンブレロを被りギターを抱える破天荒な高座で人気があったが、圓生には「あれは色物でげす」と不興を買った。好生は人呼んで「圓生の影法師」。口調から仕草まで圓生そっくりで、それでいて華がない。彼も圓生から疎まれた。圓生は、春風亭柳枝没後に引き取った圓窓・圓弥の方を先に真打ちにし、さん生・好生の昇進披露には、大量真打ちへの反対を理由に口上にも出なかった。このような狭量さでは、一門の結束など望むべくもない。
改めて、圓生は弟子たちに自分と共に協会を離脱するように迫るが、さん生と好生はそれを拒んで破門となる。(圓丈も一度は断ったものの、圓生夫妻から激しく叱責され協会離脱を受け入れた。)
さん生は柳家小さん、好生は林家正蔵門下となり、それぞれ川柳川柳、春風亭一柳と改名した。結局、二人とも圓生の仇敵のもとに走ることとなったのである。
もう一つ、橘家圓蔵門下が新協会に参加した。圓蔵は、八代目桂文楽の大正時代からの弟子だが、しくじりを重ね破門となり、名古屋で幇間生活をしていた。戦後、帰り新参として落語家に復帰。やがて、月の家圓鏡で真打ちとなったが、当時、師匠文楽は預かり弟子の小三治を五代目小さんにするべく奔走中、ほったらかしにされた状態だった。そんな時、圓生が自らの前名である橘家圓蔵を譲ってくれた。つまり、圓蔵にとって圓生は恩人だった。新協会への誘いに、当然のごとく圓蔵は喜び勇んで参加を表明する。しかも、圓蔵の弟子には、当代の人気者、林家三平と月の家圓鏡(現圓蔵)がいた。新協会のためには大きな戦力となる筈だった。
しかし、三平は師匠と行動を共にしなかった。三平の芸を、圓生は認めていなかった。それだけではない。「あんなものは落語ではありません」と圓生は公言していた。自分が冷遇されると分かっている協会に進んで行くほど、三平はお人好しではなかった。
寄席という場は多様さが要求される。古典派が多い新協会のメンバーの中で、三平と圓鏡は貴重な存在だった。そのうちの三平が欠けた。ここでもまた、圓生の狭量さが災いしたのだ。

2010年4月19日月曜日

落語協会分裂騒動とは何だったか②

三遊亭圓楽は晩年の著書『圓楽芸談しゃれ噺』の中で、真打ち問題について小さんに相談されて、「あたしの考え方が乱暴だったら意見して欲しいんだけど、例えば春十人、秋十人という風に昇進させていけば、四十人いても二年で解消できる。」と答えたと書いている。
つまり、小さんに十人真打ち昇進を進言したのは自分であると言っているのだ。
金原亭伯楽の『落語協団騒動記』では、立川談志(作中では横川禽吾)が、古株の二つ目を集め「お前たちを真打ちにしてやる」と宣言し、林家正蔵(作中では森家登喜蔵)に大量真打ち昇進を献策する場面が出てくる。
圓生を激怒させた大量真打ち誕生は、実は圓楽と談志の発案によるものだったというわけだ。
その二人が、新協会設立に動く。既成の落語協会、芸術協会に加え、新協会を立ち上げ、一ヶ月を3団体で回すことで、寄席を活性化させようというのが、そのねらいである。上野鈴本の社長もそれに賛同。大量真打ち問題で落語協会に不満を持つ、三遊亭圓生が二人の勧めに乗ったのだ。
この新協会設立を目指した、圓生と談志・圓楽の目的は、まるで違っていた。圓生は実力主義の理想の協会を夢見たが、談志・圓楽にとって理念は二の次で、ただ新しい協会が欲しいだけだった。
圓生が落語協会離脱に際し、協会に残る条件として会長小さんに突きつけた要求が二つあった。ひとつは大量真打ち昇進をやめること、もうひとつは常任理事、三遊亭圓歌・三遊亭金馬・春風亭柳朝の3人を罷免することだった。
圓歌・金馬・柳朝の3人は、談志・圓楽のすぐ上の世代。この3人が失脚すれば、協会の運営は談志・圓楽の意のままになる。
要求が通れば協会にとどまり、通らなければ新協会を設立する。いずれにしても、談志・圓楽は、思い通りに振る舞える環境が手に入ることになるわけだ。
確かに、この騒動は、理想と現実の対立に端を発したものである。しかし、協会分裂という事態にまで発展したのは、それを望む野心の存在があったからに他ならない。
不純な動機によって動き始めたものが、多くの人を動かすとは思えない。新協会も、次第に不協和音を奏で始めることになる。

2010年4月17日土曜日

なごり雪、といっていいのか


朝、起きたら、雪。4月も中旬だぜ、どうなっているのだ、と暫し呆然とする。

やがて雨となる。

土浦イオンで買い物。

夕食は、空豆、湯豆腐、筍の煮物、酒盗で、神亀純米吟醸ひこ孫。

酒は、誕生日に妻に買ってもらったもの。

湯豆腐だけが季節に合わない。本当なら、鰹の刺身といきたいが、雪が降ったということで、湯豆腐にする。

神亀純米吟醸ひこ孫、飲み口いい。するすると喉をすべってゆく。その後、鼻腔に立ち上る米の香り。上質の和菓子のような透明な甘さ。絶品だな。

豆腐もカスミで67円だが、湯豆腐にすると豆の甘味がよく分かる。

酒盗は、かねき寿司で妻がもらってきた。これも絶品。

空豆、筍は初物。旨いねえ。

子どもを寝かしつけて、ボウモア。またもや至福の一時。


2010年4月10日土曜日

お花見

暖かく穏やかな一日。
桜は満開。妻子を車に乗せてお出掛け。
小川のトーホーランドの桜並木を抜け、鹿島鉄道桃浦駅跡へ行く。
駅舎とホームが残っているが、すっかり荒れ果ててしまった。
子どもたちは、走り回ったり、土筆を摘んだりして遊ぶ。
モスバーガーを買って、霞ヶ浦の堤防に車を止め、昼食にする。
カスミで買い物をして帰る。
夕飯は、刺身、冷や奴、納豆の油揚げ包み、焼き椎茸、パリパリサラダ、海苔巻きでビール、酒。
刺身は盛り合わせと鰹をサクで買った。鰹の刺身をニンニクで食べる。旨し。初鰹から戻り鰹まで、十分に堪能するつもり。パリパリサラダは、野菜に皿うどんの麺を載せたもの。土浦の居酒屋、佐伴治でよく食べた。
子どもを寝かしつけて、ボウモアを飲む。まさに至福の一時。

2010年4月9日金曜日

落語協会分裂騒動とは何だったか①

この間、物置で三遊亭圓丈の『御乱心』を見つけてきて、久し振りに読んだ。面白かった。さすが圓丈は男だねえ。

ここで改めて、あの落語協会分裂騒動とは何だったのだろう、ということを考えてみたい。
昭和53年、三遊亭圓生が、橘家圓蔵、古今亭志ん朝らとともに新協会設立を企てたのがそれだ。そして、その事件は、後の東京落語界に大きな影響を与えることとなる。いや、その後の東京落語界の行方を決定づけたと言ってもいい。
発端となったのは、大量真打ち問題。端的に言えば、現実主義の柳家小さんと理想主義の三遊亭圓生との対立が原因である。
昭和30年代、東京落語界は黄金期を迎える。それにつれて、入門志願者は急激に増えた。特に、文楽・志ん生・圓生・正蔵・小さん等、ブームを支えた本格派を抱える落語協会は、みるみるうちに大所帯になっていく。その結果、今までの真打ち昇進のやり方では、遣り繰りがつかない状況になってしまった。その打開策として、現実派である柳家小さんや人情家の林家正蔵は、10人をいっぺんに真打ちに昇進させ、飛躍のチャンスを与えようとした。
一方、真打ちを文字通り、真を打つ、つまり、客を納得させるだけの芸の持ち主でなければならない、と考える者にとって、それはあまりに安易な方法に映った。三遊亭圓生、古今亭志ん朝は、そんな風潮に異を唱える。
もちろん、理想と現実がせめぎ合うのは世の常だ。本来であれば、その理想と現実のせめぎ合いを経て、よりよい方向を探っていくべきであろう。
ところが、圓生は協会離脱を決意する。
圓生は子どもの頃からの芸人で、芸人子どものような気質があった。政治力があったとは思えない。加えて、言わないでもいいようなことを言ってしまい不興を買う、といった傾向があったらしく、人望もそれほどなかった。彼自身に協会を離脱し、新協会を立ち上げるだけの器量はなかっただろう。
ただ、圓生には圧倒的な芸の力があった。文楽・志ん生は既に亡く、昭和の名人として、圓生は誰もが認める存在だった。
これを利用しようとしたのが、立川談志と三遊亭圓楽だ。二人はもともと現実主義者で、小さんに大量真打ちを献策したのも実は彼らだった。では、なぜ彼らは、自分たちの考えと対極にある圓生を担いだのだろうか。(次回へつづく)

2010年4月8日木曜日

ご先祖様

長塚節の『土』の中に、勘次の娘、おつぎが裁縫所に通うという場面がある。明治時代、農村では、この裁縫所が女子に裁縫技術に加え、礼儀作法も教えた。いわば女子向けの教育機関の役割を果たしていた。
私の家が、今の土地に根付いたのも、実はこの裁縫所がもとだった。
うちの初代は、霞ヶ浦の対岸の村の出身だったが、夫と別れこの土地へやって来て、裁縫所を開いた。そこで稼いだ金を貯め、田地田畑を少しずつ買い増やしたのだ。
初代のおばあさんは、偉い人だったらしい。うちの墓は裁縫所の教え子たちが建ててくれた。今も彼女たちの名前が刻まれた石碑が残っているが、その住所は広範囲に及び、地名を見ると20㎞も離れた集落もあった。墓は周囲より一段高く作られた。当時、新参者の分際で他を見下ろす墓を建てたというので不興を買い、一部を破壊され、訴訟騒ぎにもなったという。
初代の養子が私の祖父である。最初の妻を亡くし、後妻に入ったのが、私の知る祖母だ。祖父には1男2女がいたが、娘の一人は早世し、跡取り息子は戦争で死んだ。そこで自分の生家から養子をもらう。これが私の父である。
養子、養子でつないで、やっとこの家で生まれ育った男が私だ。まるで、森鴎外か中原中也だな。片や孝行息子、片や放蕩息子だが、私はどっちなんだろう。
最近、父が物置を片づけていて、掛け軸が2本出てきた。2本とも初代のおばあさんの絵だ。1本はおばあさんの座像。1本はおばあさん夫婦を描いたもの。どちらも教え子たちが、どこやらの絵師に頼んで描いてもらったものらしい。
この間、父と母屋で酒を飲んだ時、見せてもらった。
座像の方が、おばあさんは若い。髪は銀杏返しかな。着物の上に、黒の割烹着みたいなやつを来ている。傍らには針箱。座布団の周りには裁縫道具が描かれている。少し開いた口から、お歯黒が覗いている。顔立ちは面長で、どことなく品がある。
夫婦で描かれているものは、おばあさんにいくらか白髪が交じっている。それ以外は座像の方と同じような感じ。夫の方は白髪交じりの総髪だ。父の話では、この人が天狗党の残党だという。私は、それまで最初の夫の方を天狗党だと思い込んでいた。てことは、ご先祖様はあの争乱を生き延びたのだ。すごいな。この人はおばあさんの死後、家に残らず相続を放棄したという。(この辺はあやふやだ。ただ、うちの墓に彼の名前は残っていない。)
掛け軸は虫が食っていたが、父は表装に出してみると言っていた。
「縁あってこの家に養子に来て、これを見つけたのもひとつの縁だ。出来るだけのことをしてみるべ。」父はそう呟くように言った。

2010年4月2日金曜日

森光子『吉原花魁日記―光明に芽ぐむ日』

江戸文化に吉原は不可欠のものだ。現在の風俗営業とイコールではない。もちろん、そういう側面もあるが、それだけではない。大人の社交場であり、最新文化の発信地でもあった。そこからファッションが生まれ、文学が生まれ、アートが生まれた。花魁もただの売春婦ではない。落語「紺屋高尾」に見られるように、アイドルでありスターであった。とはいえ、それが性の搾取を前提にしている以上、対象となる女性にとって、そこは地獄そのものであったということは紛れもない事実である。
その事実を改めて突きつけるのが本書だ。
時は大正の末。著者は、父親が死に家が困窮したため、周旋屋の甘言に騙され、吉原がどういう所かも知らずに19歳で吉原に売られる。初めて取らされた客に強姦同然に処女を奪われ、悔し涙にくれながら、復讐のために日記を書き続けることを誓う。
彼女の目を通し、花魁の悲惨な生活や店の過酷なシステムが露わになる。それにしても酷い。玉代の7割5分を店に取られ、食事や着物代は自分持ち、借金を引かれて、手元に来る金は稼ぎの1割にも満たない。その上、客が少なければ、何かと理屈を付けて罰金を取られる。競争心を煽り、一人でも多くの客を取らせようとする。生理中でも休ませない。子宮が傷つき、腹痛に苦しもうが客を取らされる。

「文七元結」「柳田角之進」「もう半分」「鼠穴」など、借金のカタに娘を吉原に売る噺は多い。これを読むと、その痛切さが実感を持って迫ってくる。落語では悪女に描かれる、「品川心中」のおそめ、「三枚起請」の喜瀬川すら愛おしく思える。「明烏」の浦里、「紺屋高尾」の高尾太夫だって哀しい。落語はあくまで男の視線からのものだが、遊女の哀しさを、優れた芸はしっかりと伝えてくれる。

人間というのは、環境に適応しようとするものだ。花魁のように過酷な状況にあるものは、そうすることで自分を守ろうとする。進んで客を取り、花魁としての生活に埋没しようとするのだ。それは、人間としての正気を失うことだと言ってもいい。しかし、著者は日記を綴ることで正気を保ったのだと思う。(ただ、それは著者に何倍もの苦しみを与えることになったが。)
著者は花魁として2年間、地獄の日々を過ごした後、逃亡。社会活動家である柳原白蓮のもとに身を寄せ、自由廃業することができた。結婚をしたということまでは分かっているが、その後の人生については詳しく知られていない。市井の人として、平凡な、だからこそ幸せな人生を送ってくれたものと、私は信じたい。