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2010年12月29日水曜日

TDLからお台場


妻子を連れて、1泊旅行。
初日は東京ディズニーランド。
ゆっくり家を出て、途中妻の実家に寄り、義母を乗せて行く。
昼頃、舞浜着。エレクトリカルパレード、花火を見て浦安のホテルに泊まる。
翌日はお台場へ。観覧車に乗り、トヨタの展示場で遊び、ヴィーナスフォートでバイキングのランチ。妻子はデザートのチョコレートフォンデューで大喜びだった。
TDLにヴィーナスフォート。人工の美を味わい尽くす。
仕上げはお台場海浜公園。いい天気で気持ちいい。
私は魚座の生まれのせいか、水のある風景が好き。海はいいねえ。
TDLからお台場。確かに以前の私の趣味ではない。でも、そんなことはどうでもいい。
妻や子が喜ぶ顔を見るのがいちばん嬉しい。この歳になって、素直にそう言えるようになったかな。

2010年12月25日土曜日

出囃子補足

前回の補足。
「鞍馬」の紫雀さんは二代目。1学年上の三代目の紫雀さんは先代正蔵ファン、当然「あやめ浴衣」を使っていた。
私は当時もいちばん好きだったのは文楽だった。でも「野崎」は使っていない。
なぜなら、私がいた落研では、文楽の「野崎」、志ん生の「一丁入り」、圓生の「正札付」、それと技術顧問である七代目圓蔵師匠の「お江戸日本橋」は使用禁止だったからだ。素人なりに遠慮してのことだろう。好きなの使えばいいじゃんという考えもあろうが、むしろうちの落研のそういう部分が、私は好きだった。
ただ、「追ん出し寄席」(現役引退興行)は、その限りではなかった。1学年上の圓生大好き美恋さんは「正札付」を使った。かくいう私もその時ばかりは「野崎」で上がらせて頂きました。(余談だが、大福さんが口上を務めてくれた。)
卒業して10年ぐらい経ってから、一度落語を演る機会があった。出囃子のテープが見つからず、文楽のスタジオ録音の「野崎」を使ったのだが、その時の演目「もう半分」には合ってなかったような気がするなあ。

2010年12月21日火曜日

出囃子雑感

この前寄席に行った時、小円歌が出ていた。昔の名人の出囃子を弾いてくれたのだが、これがよかったねえ。
出囃子というのは、文字通り落語家が高座に出るときのテーマソング。邦楽からの選曲が一般的だが、その人の個性に合っていて下座さんが弾ければ何でもありだ。(春風亭昇太は「デイビークロケット」を使っている。)それだけに、出囃子はその落語家と密接に繋がっている。
華やかな「野崎」の後には「いっぱいのお運びでありがたく御礼申し上げます。」という抑えた調子の先代文楽の口上が聞こえるし、ちょっととぼけたような「一丁入り」の後には「昔は、ってえと、」と志ん生の甲高い声が聞こえる。
実際に自分が見た落語家の出囃子だともっとリアルだな。「本調子序の舞」では、まるで木刀を持つみたいに扇子を持った先代小さんが、のっしのっしと高座に現れる姿が見えるし、「祭囃子」では先代三平の賑やかな登場が目に浮かぶ。「老松」では志ん朝が現れたときの、客席がぱあっと明るくなるような感じ、「木賊刈り」では談志の現れる前の痺れるような緊張感が蘇る。まさに出囃子はシンボルだ。
そういえば、昔は出囃子に合わせて落語家の形態模写を演る人がいたものだ。前落語協会会長、鈴々舎馬風が寄席でよく演ったものだし、春風亭小朝も上手い。もっと昔は柳家小三治も演っていたらしい。演り手がいないのか、それとも需要がないのか、現在は見たことがないなあ。
落研時代も出囃子は決まっていた。やはり、素人なので好きな落語家や先輩に影響された。
先代馬生の熱狂的なファンだった紫雀さんはしっかりと「鞍馬」を使っていた。(口調は志ん朝そっくりだったけど。)私の同期では志ん朝命の弥っ太君は「老松」。先代可楽が好きだった(渋いなあ)八海君は「勧進帳」。世之助君は曲名が面白いと言って「のっと」。悟空君は、先輩の歌ん朝さんが使っていた「ぎっちょんちょん」(彼は真打ちになる時、歌ん朝を継いだ)。酒合丈君は「外記猿」だったかな、自信ないや、ごめん。夕姫さんは確か「梅は咲いたか」。楓さんは枝雀の「ひるまま」だったような…。
私は2年の時には「元禄花見踊り」だった。先輩に「お前にぴったりだ」と言われて、半ば無理矢理決められた。私は圓楽が嫌いだったので、嫌で嫌で仕方がなかった。3年になって、好きなのを使えるようになって迷わず決めたのが「木賊刈り」。何より談志が好きだったし、これで上がるとすんなり落語に入っていけるような感覚があった。
私が卒業した後は大福君が使ったのかなあ、「木賊刈り」。

2010年12月18日土曜日

イルミネーションを見に行く


風が強く、寒い。
図書館でお話会があるというので、皆で出かける。
お話会の間、私は読書。『平家物語』。白拍子、祇王が清盛の寵愛を仏御前に取って代わられる場面。哀れを誘う。窓外、眼下には霞ヶ浦。
お話会終了後、家に帰って昼食。妻手製のいなり寿司、餃子、わかめスープ。
うつらうつらしながら、エルビス・コステロを聴く。コステロ、かっこいいなあ。
夕方、つくばのイルミネーションを見に行く。
子どもたちはメリーゴーランドがお気に入り。3回も乗る。西武デパートの前ではランタンアートをやっていた。
Q’tの眺めのいいレストランで夕食を、という予定で来たのだが、結婚式の二次会らしく貸し切り。残念。
子どもたちのリクエストで寿司にする。お子様セットと豊漁セット。妻には申し訳ないが、私は燗酒を2本。回転しない寿司は久し振り。旨し。白身魚にすだちを載せ、塩を振ってあったのが秀逸。子どもたちは、板前さんに生きた蛸を触らせてもらって大喜びしていた。
外に出て、歩きながらイルミネーションを見る。夜になって風は止んだ。ひんやりとした冷気が心地よい。妻の運転で帰る。
寝酒にタラモアデュー。
今日買った荒木経惟の写真集『チロ愛死』を見る。(チロとは荒木の愛猫。平成の初め頃、彼は『愛しのチロ』という写真集を出している。)あのチロが、老いさらばえ死に向かう姿を我々も目撃させられる。やがてチロの命の灯が消えると、荒木は、妻陽子が死んだ時と同じように、チロを納棺し、火葬の後の骨を自宅に持ち帰り、呆然と何日も自宅のベランダから空を撮影する。死の直前のチロの眼がいつまでも胸に焼き付いて離れなかった。

2010年12月16日木曜日

今日は寒かった


今日は休み。妻とつくばに行く。
楼外楼でランチ。妻は五目あんかけ焼きそばのセット、私は牡蠣と野菜のオイスターソース炒めラーメンのセット。サラダバーに杏仁豆腐、コーヒーが付く。お腹いっぱい。旨し。
お互いのクリスマスプレゼントを買う。
一日中雨模様。朝には雪がちらついた。
夕食はシチューの残りで作ったグラタン、サラダ、フランスパンで白ワイン。これもまた旨し。
写真は筑波山。山頂付近がうっすらと白いように見える。

2010年12月14日火曜日

渋谷から南青山、そして表参道


この前の週末は知人の結婚パーティーで東京に行っていた。
渋谷のハチ公前で待ち合わせ。待ち合わせの王道ですな。
ちょっと早めに着いたので、少し渋谷を散歩する。
渋谷は全く縁がない。学生の頃、NHKで大学落研小咄大会に出場した時に来て以来だ。あの時私は決勝に出るはずだったが、我が校は準決勝で敗れたため出番はなかった。後ろの雛壇に着物を着て座っていたのを、たまたま昼休み役場の人がテレビで見ていて、わざわざ実家の両親に電話をかけ、「息子が出てるぞ」と教えてくれたという。
さて、どこへ行こうか見当も付かない。まあとりあえず109だな。荒木経惟がよく撮っているもんな。今日のお供は、昨年職場の忘年会で当たったデジカメ。ちゃんと109を撮りました。
そこから何となく道玄坂を上る。路地に入ったりしているうちに、いつの間にか待ち合わせの時間が迫る。焦って戻るが、全然土地勘がない。やっとのことでハチ公前にたどり着く。
メンバーも揃ったので、タクシーで南青山へ。パーティー会場は地下にあるライブハウス。ジャズの生演奏もあったりして洒落た雰囲気。懐かしい顔が10人ほど。ひとつテーブルでワインを飲む。新郎新婦の人柄そのままのいいパーティーでした。
お開きの後は表参道に出て知人同士で飲み直す。韓国風さきイカで生ビール。どの辺が韓国風なのかよく分からない。
再会を約し、帰途に就く。家に着いたのは8時過ぎ。子どもたちが寝る前に帰ることが出来た。
上野で買った鯖寿司で酒。鯖は八戸産。これが肉厚で柔らかい。〆加減もちょうどいい。1杯だけのつもりが2杯も飲んじゃった。旨し。
もちろん、奥さんにもお土産にロールケーキ買ってきましたよ。
南青山から表参道か、お前には似合わない所だと言われそうだな。

2010年12月13日月曜日

大福さんのブログへ行ってみた

読者になってくれた大福さんがブログをやっているようなので行ってみた。
やっぱり落研の1年後輩、夢三亭大福さんであったか。
早速読者にさせていただきました。
ブログ、夢中で読んでしまったよ。おまけにキリ番100をゲットしてしまったぜ。
大福さんのブログを読んでいると、「あの頃」が蘇る。無頼派を気取った、自意識過剰だった私がいる「あの頃」だ。自分のことしか考えられなくて、色々な人に迷惑をかけていた「あの頃」だ。ちりちりと胸が痛い。鼻の奥がつんとする。まるでタイムスリップしたようで、今日は一日中、現実との距離感が上手く取れなかった。
「あの頃」よりは、ちょっとは丸くなったし、ちょっとは世間との折り合いを付けることができるようになったと思う。でも、それが何なのだろう。
どうしようもないわたしがあるいている、おそらく今でもそれは変わらない。
大福さん、これからもよろしく。いいブログです。更新、楽しみにしています。

2010年12月8日水曜日

あれから30年が経った


ジョン・レノンが死んで、今日で30年。
あの日、私は大学の落研の仕事があり、どこかで落語を演っていた。
帰りは、武蔵小杉まで東横線に乗り、そこで南武線に乗り換えた。
寒い夜だった。人気のない南武線のホームで、なかなかやって来ない電車を待った。
何だかとても疲れていたような気がする。
ぐったりして川崎のアパートに帰り、炬燵に入ってラジオをつけた。
すると、いきなりジョンの曲がかかった。
その年、ジョンは5年間の沈黙を破り、音楽活動を再開していたので、私はてっきりそのための選曲だと思っていた。
しかし、曲が終わるとDJはこう言ったのだ。
「今日亡くなったジョン・レノンさんの…」
とっさに私は聞き間違いだと思った。だが、事実を確かめるのが怖く、そのままラジオのスイッチを切って蒲団に入った。
次の日、落研の部室で後輩が読んでいた新聞を見せてもらった。社会面にジョンが死んだことが載っていた。
「本当だったんだ。」と私が呟くと、後輩は「信じてなかったんですね。」と言った。
その日はまっすぐアパートに帰った。コンビニでたったひとつ残っていたスポーツ新聞を買った。「ロックの帝王レノン死す」という青い見出しが踊っていた。
あれから30年が経った。私はジョンの歳をとっくに追い越した。思えば遠くへ来たもんだ、今では女房子ども持ち、か。
かつてジョンは「想像してごらん、国境などないって」と歌った。そして今、世界は市場経済のグローバル化によって画一化されようとしている。だけど、ジョンはこのような形で国境がなくなることを、果たして望んでいただろうか。

写真は現在の尻手駅。あの日、私はこの道を、思い詰めたような表情でアパートに向かっていたのだな。

2010年12月7日火曜日

立川談志(聞き手・吉川潮)『人生、成り行き―談志一代記』

落語界の風雲児、立川談志の一代記。文庫化されているのを見つけて早速読む。
生い立ちから、落語家入門、政治家時代、協会分裂騒動、立川流設立と波瀾万丈の人生だ。面白くないわけがない。
しかも、聞き手は立川流顧問、吉川潮。ビートたけし・高田文夫と匹敵する絶妙な組み合わせだ。
またこの、吉川潮の見事な幇間振り。談志、さぞや気持ちよかったろうなあ。
一読してまず思う。立川談志、まさしく天才だ。本質をずばりと掴む勘の良さ。明晰な論理。狂気の香り。この希有の才能の持ち主と同時代に生まれたことは、やはり幸運なのだと思う。
談志特有の自己愛も随所に見られる。前座の時には桂文楽より巧いと思っていた、三遊亭圓生が新協会設立に失敗したのは自分を後継者に選ばなかったからだ、柳家小さんは俺だけを可愛がればよかったのだ、等々。人を褒めるのでも素直にはいかない、必ず自分を一段上に置く一言を忘れない。
もはや誰もツッコめない。激烈を極める反論が返ってくるのは目に見えているし、それに対抗するのも面倒くさい。談志師匠、恐いしな。
ただ、その屈折もひっくるめて談志の魅力なのだ。圧倒的に感動的な彼の落語をまずは聴け。彼の道案内に従って落語の世界に足を踏み入れよ。正しい審美眼があれば、一度は談志に狂うはずだ。
談志はその鋭さをもって落語の世界に穴を穿ち、我々を刮目させた。そして、きりきりとその世界を広げた。現代落語にとって談志の果たした功績は計り知れないものがある。
ただ、談志の示した世界観が落語の全てではない。ともすれば、若い談志ファンには立川流が全てで、その他は生温い二流に映るかもしれない。しかし、落語の世界はもっともっと豊かだ。分析や分解だけが解釈ではないし、鋭く意識的なものだけが優れているわけではない。談志を先達に落語の森に分け入ったとしても、大いに道に迷い彷徨っていい。
確かなことは、談志を通ってきた客は、落語家に野次を飛ばすこともないし、大声で次の展開を話すこともしないだろう。噺の途中で携帯電話を鳴らすこともすまい。立川談志という存在を体験することによって、落語家に対する畏敬の念を、彼らは既に身に付けているだろうから。

2010年12月5日日曜日

霞ヶ浦ランチ


この週末は、次男が水疱瘡に罹っていたので、ずっと家にいる。
やっとよくなってきたので、今日は少し車でお出掛け。
マクドナルドでテキサスバーガーとチキンフィレオ、ホットコーヒー、ハッピーセットを買って霞ヶ浦の湖岸へ。霞ヶ浦を見ながらランチ。
いい天気。暖かい。
子どもたちを堤防で遊ばせる。
夕方はピザ作り。夕食は手作りピザで赤ワイン。もちもち、旨し。
村上春樹のインタビュー集を読む。

2010年12月1日水曜日

ライカ蘇生


修理に出していたライカが戻ってきた。
もはや部品がなく「修理不能」とのこと。
がっかりして帰ってきて、ちょっといじっていたら、これが何と蘇生したのだ。
嬉しかったねえ。
まあ、電源が入らなくなったのは事実だし。無理はさせないように、大事に使うことにします。

写真は愛機ライカC2。