ページビューの合計

2023年2月23日木曜日

圓馬を慰める会

三代目三遊亭圓馬。八代目桂文楽が「芸の師」として終生敬愛した名人である。

明治15年(1882年)大阪生まれ。月亭都勇という落語家の父を持ち、7歳で初高座。笑福亭木鶴の弟子となって都木松を名乗る。12歳で立花家橘之助の弟子になり東京に出て、立花家橘松と改名する。立花家左近と改名後、初代三遊亭圓左の薫陶を受け、落語研究会の準幹部に抜擢される。明治42年(1909年)七代目朝寝坊むらくを襲名して真打昇進。しかし大正4年(1915年)、四代目橘家圓蔵とトラブルを起こし、橋本川柳と改名して東京を去り、旅回りを経て大阪に帰った。大阪で三代目圓馬を襲名。東京弁、大阪弁、京都弁を自在に操るスケールの大きな話芸で東西の観客を魅了し、多くの落語家に大きな影響を与えたが、晩年中風に倒れ、落語を喋れなくなった。

正岡容は一時、作家を辞めて圓馬の下で噺家修業をしたことがある。彼は「三遊亭圓馬研究」という文章の中でこう書いている。(以下、引用は旧字を新字に置き換えてある)

 

私が文学を放棄し、はなしかの真似事をしてゐたときの「噺」の恩師である。この人に私は親しく「寿限無」を教はった。さうして、一と言一と言を世にもきびしく叱正された。どんなに「小説」の勉強の上にも役立ってゐるであらうことよ—

 

ちなみに永井荷風は一時、五代目むらくの弟子になって夢之助を名乗った。荷風、容という異能の作家二人が、五代目、六代目の朝寝坊むらくの弟子になったというのは興味深い。

正岡の「三遊亭圓馬研究」は、『随筆寄席囃子』という本に収められている。この本は、初め昭和19年(1944年)、私家版として刊行された。私が持っているのは昭和42年(1967年)に復刻された限定800部のものである。私はこれを浅草の古本屋で見つけ、大枚5000円を払って買い求めた(今ではとても手が出ない)。後に河出文庫『寄席囃子 正岡容寄席随筆集』の中に一部が収録されたが、「三遊亭圓馬研究」は、その中に入っていない。

「三遊亭圓馬研究」はこのようにして書き出される。

 

けふ昭和十七年三月十日、中風に倒れて久しい三遊亭圓馬を慰める『明治大正昭和三代名作落語集の夕』を、桂文楽と私主催にて今夕上野鈴本に催す。幸ひに文壇画壇趣味界の人々の絶対侠援を得て前売切符はのこらずもうはけてしまった。これから鈴本へでかけるまでの時間を利用して、かねての懸案だった『圓馬研究』を起草する(後略)

 

昭和17年(1942年)310日、上野鈴本において、正岡容、桂文楽共催の落語会が行われた。病床にある二人の師、三代目三遊亭圓馬を慰めるための会であることが、この文章から分かる。

そして、この会のことが『八代目正蔵戦中日記』にも書かれているのだ。以下に引用する。

 

三月十日(火)

 上鈴に円馬を慰める会を正岡君主催でやる。『大正の思ひ出』を一席漫談で演る。楽屋に今輔がゐたが実に不愉快きはまる存在だ。

 会、終ってのち、ぴん助夫婦と正岡君と、文楽師は欠席で酒宴を催す。

 

馬楽時代の正蔵も、この会で高座を務めた。落語ではなく『大正の思い出』という漫談を喋ったようだ。彼の「随談」とでも呼ぶべきこういう噺は、しみじみと味わい深い。どんなものか聴いてみたかったな。

「楽屋に今輔がゐたが実に不愉快きはまる存在だ」とある。随分手厳しい。正蔵と今輔は、かつて改革派を立ち上げて頓挫した経緯がある。両人とも頑固一徹で知られた人物。その時の確執が尾を引いていたものとみられる。

正蔵も打ち上げに参加しているところを見ると、この会の手伝いをしていたのだろう。この頃正蔵と正岡は仲良しだったからな。文楽は打ち上げに参加しなかったんだ。

会は盛況のうちに終ったようだ。「圓馬研究」の末尾で正岡は言う。

 

以上を十日の会の日から書き出して、十四日のけふまで、休んでは書き、休んでは書きして来た。十日の会は上野鈴本お正月以来の盛況で戸障子までみなはづしてしまった。四百二十円と云ふお金が圓馬あて、おくれた。

 

また、次のような文章からも、当日、今輔が楽屋にいたことが分かる。

 

それから春錦亭柳桜の「与三郎」や「ざんぎりお瀧」の圓馬に伝はったのは、大看板柳桜一ところ柳派全体と疎隔し、三遊派に加盟してゐたことがあると、このほど当代古今亭今輔から聞かされた。

 

この辺りのことを、今輔は楽屋で正岡相手に滔々と語っていたのだろうな。

また、この「圓馬研究」には、圓馬の芸について、八代目文楽・三代目金馬をからめて次のように書かれている。文楽・金馬、二人の芸についての優れた批評にもなっていて興味深い。

 

一と口に圓馬の「芸」とは—と訊かれるなら、共に圓馬の教へを仰いだ今日の文楽と金馬とを一しょにして、もっともっと豪放な線にしたものと答へたら、やや、適確にちかい表現であらうか。文楽は「馬のす」「しびん」も写してもらひ、最も圓馬写しの噺の多い今日では第一流の名人肌の落語家であるが、圓馬の豪放な点は少しもつたはってゐない。豪放の中に、一字一画をもゆるがせにしない圓馬。そのきびしく掘り下げてゐる「面」の方が文楽へやや神経質につたはってゐるとおもふ。此は団十郎の精神が、蒼白い近代調となって吉右衛門の上に跡を垂れてゐるがごときであらうか。豪放の点は、むしろ金馬にのこってゐる。しかし、金馬には、人として圓馬ほど俗気を離れたところがない。云ひ換へると、いいイミの「バカ」なところがない。もっとあの人の全人格が簡単に、文化的にしまってゐる。それが圓馬までゆけてゐない所以とおもふ。

 

結局、圓馬は回復しないまま昭和20年(1945年)1月13日に亡くなった。正蔵の日記に、このことについての記載はない。 

2023年2月19日日曜日

続七代目橘家圓太郎襲名に関するあれこれ(『正蔵一代』から)

前回載せた七代目橘家圓太郎について、『正蔵一代』の方にも書いてあった。

こちらの方が分かりやすいので、それを基にまとめておこう。

もともと圓太郎は橘ノ圓の弟子で百圓といっていたが、師匠が京都で水害に遭って亡くなり東京に戻って馬楽時代の正蔵の内輪になった。

百圓は「弟子にしてくれ」と言ったらしいが、正蔵が「おれは弟子はとらないから、兄弟でもっていこうじゃねえか」と答えて、「内輪」ということになったという。

一方百圓は、作家、正岡容と親しくなる。正蔵は圓太郎襲名のいきさつについて、「正岡さんは、だれでも弟子だ弟子だって言ってた人だけれど、これもおれンとこの弟子だって、そう言って、それでまァ圓太郎を継がせた」と書いている。

正岡は1941年(昭和16年)、「ラッパの圓太郎」と呼ばれた四代目圓太郎をモデルにした『圓太郎馬車』という小説を上梓している。これは古川ロッパの一座で芝居にもなったというから評判もとったのだろう。「橘家圓太郎」という名前を正岡が差配できたのは、そういうところからだったんだろうな。

圓太郎の文楽入門について、正蔵は次のように書いている。


 そんなわけで、あたしのとこの内輪みたいなかっこうでいたわけですが、いつだったか、

「文楽さんのところィ行きてえ」

 じゃァてんで、一ぺん文楽さんのところへ行きましたよ。そしたら、あんまりやかましいんで、彼奴ァノイローゼみたいになっちまいやがって、それからずゥッと変なままなんだけど・・・また、うちィ引きとることになって、今日に至ってるんです。


そうか、圓太郎が自分から「文楽の弟子になりたい」と言ったのか。

前回の日記を見ても、正蔵は、圓太郎が文楽の身内になれるよう、実に親身になって働いている。おかげで正岡容といさかいを起こすことになってしまってもだ。

そうまでしてやって文楽の所に行かせた圓太郎は、あっさりと正蔵のもとへ舞い戻った。そして、それを何のこだわりもなく迎え入れる。正蔵という人は、本当に懐が深いなあ。


付記。

正岡容の『寄席囃子 正岡容寄席随筆集』(河出文庫)を見たら、「圓太郎代々」という文章の中に、以下のような一節があった。


 私に

南瓜咲くや圓太郎いまだ病みしまま

 の句がある。去年昭和十七年の春、七代目橘家圓太郎を私たちが襲名させ、たった二へん高座から喇叭を吹かせたままでいまだ患いついてしまっている壮年の落語家を思っての詠である。


これは前回の正蔵の日記のこの部分を指してのものではないか。


一日から出番があるのに円太郎が出演しないので不思議に思ってゐると、正岡さんの打った電報の返電にアタマガオカシイ。としてあったそうだ。原因はなんだか。どんな様子だか目下のところ私の所では皆無わからない。(S1854


とすれば、圓太郎はその後1年ぐらい復帰できなかったことになる。ただ、これは昭和18年の記事だ。でも正岡は「去年昭和十七年」と書いている。正蔵の昭和17年の日記を読み返しても、それらしいことは書いていない。正岡さん、年号間違えたかな。(私もよく間違うけれど)

2023年2月16日木曜日

七代目橘家圓太郎襲名に関するあれこれ

七代目橘家圓太郎という音曲を得意とする噺家がいた。明治35年(1902年)生まれ、昭和52年(1977年)76歳で没。昭和52年というと私は高校生になっていて落語ファンではあったが、圓太郎は知らなかったなあ。

大正14年(1925年)、初代橘ノ圓(浮世節の大看板、立花家橘之助の夫である)に入門するも、昭和10年(1935年)師匠夫婦が京都の水害で死去。巡業に来ていた蝶花楼馬楽時代の八代目正蔵の内輪になった。

『古今東西落語家事典』には、「前職が代用教員という変わり種」「学芸肌のところもあり、創作が縁で作家正岡容との交流もあり、その尽力もあって、昭和十八年四月、七代目橘家圓太郎を襲名した。ひところ桂文楽の門に列したが、しつけの厳しさに耐えかね、居心地すこぶる悪しとノイローゼ気味、再び林家正蔵門に戻って自在な地位を確保した」という記述がある。この辺りのいきさつが、八代目正蔵戦中日記』に出てくるのだ。

まず、昭和18123日の記事。

 

夜、正岡氏の宅を訪ね円太郎の件を談合したが、彼は私の家へ来ないから弟子にはしないなんて事を云はずに、弟子は持たぬ主義だからと弁明したのは宜かったと思った。

昼間からいやきのうから気のふさいでゐたような気分がこれで一掃された。

 

この時点で早くも「円太郎」と呼んでいる。前年の記事では「百円」で登場していて、内輪として働いたり独演会に出演したりしているが、圓太郎襲名に関する記述はない。その年(昭和17年)、正蔵は9月半ばから12月まで南支慰問に参加しており、その間に正岡の尽力があったのかもしれない。

この記事は圓太郎襲名が決まった頃か。この記述から詳細は分からないが、推察するに、圓太郎襲名に際し、内輪という曖昧な処遇にしておくのではなく、正式に弟子にしてはどうか、と持ち掛けられた正蔵が、「私は弟子は持たぬ主義だから」と辞退したのではないかと私は解釈した。ただ、正岡容が圓太郎を自分の弟子にすることを辞退して、正蔵に預けたようにも読める。編者は「円太郎を弟子にする件」としてあるから、正岡が辞退したということにしている。この直前の何日かをカットしているので、その辺りに何かそれを裏付けることが書いてあったのかもしれない。

結局、「雑務の方面では百円の円太郎を文楽師内輪にしてやる話。(S1834)」とあるように、圓太郎を八代目桂文楽門下にする案が浮上する。

そして3月8日、正蔵は正岡容と文楽の家に赴く。

 

正岡君と御徒町駅で落合ひ、文楽師宅を訪ひ正式に百円改め円太郎を弟子にして貰ふ話をすゝめ承諾してもらった。

 

3月17日には圓太郎を連れて黒門町へ。

 

御徒町の駅で百円。正岡。私と三人で落合って文楽師の家へ行く。正式に百円を入門させる事に話を進めてあるので今日はその当日だ。文楽会なので連れ立って本郷の志久本へ皆で歩いて行った。のんびりと。

文楽会で寄席へ出抜けになるまで遊んで了った。対談会へワリ出したりなどして!

 

「百円」と呼んでいるから、この時点ではまだ襲名前なのだろう。この日は「文楽会」の日で、正蔵は飛び入りで対談会に出演した。

順調に進むかと見えた百円の圓太郎襲名、文楽への入門に暗雲が立ち込める。どうやら協会に話を通す前に新聞にスクープされたらしい。3月15日の記事だ。

 

百円あらため円太郎のニュースが東京新聞へ出た。文楽さんが非常に気にしてゐるから根岸と貞山先生へ釈明して歩いた。

 

「根岸」は八代目桂文治、貞山は当時の落語協会の会長である。正蔵は文楽の意向もあり、この二人の所へ釈明に行く。ところが、これが正岡容の怒りを買ってしまう。

3月29日の記事。

 

二十八日、雨の中を新円太郎を連れて上鈴から予定順のとほり廻って歩く。

(中略)

正岡君から電話なので四谷の家を切り上げて娘を連れて訪れた。当人は病床に在って会はなかったが要件はメモになってゐて、文治さんの所へ強制的に容さんを連行しようとした事は怪しからんといふ意味ともう一ツは私独りが附いて廻った事は僭越と思ってゐるらしい。

 

「上鈴」とは上野鈴本のこと。正蔵はこの日、圓太郎とともに席亭への挨拶回りをしたものと思われる。

翌日、正岡に電話で呼び出され家に行くが、当人は病気で会えないという。その代わりにメモで、315日の行動についてなじられた。帰宅後、正蔵は正岡に当てて釈明の手紙を書いたが、この記事の末尾には「私を呼びつけての態度は病人とは謂へ愉快なものではなかったことは事実だ」と書いている。

3日後の41日、正蔵は圓太郎の挨拶回りのために正岡宅へ行き、当人に会うことができた。この日正蔵は「先方の云ふ事にも一理ある。殊に私に対する愛着は非常なものでこの点感謝する」と日記に書いた。

ところが2日後の4月3日はこんな調子だ。

 

正岡君の所へ行ってみたら、歌子さんは針しごとをしてゐるし、当人は三十八度二分の熱があるとかで会ってはくれなかった。

万事は明日うち合せをするとの事で帰ってきた。私は少なくも愉快ではない。

これが文楽さんならこんなにカルクは扱はないだろうと思ふと心外だ。

 

それまで、正蔵と正岡との仲は親密だった。『八代目正蔵戦中日記』の前半部分、二人はしょっちゅうお互いに行き来し、大いに飲み大いに語り合っている。しかし、圓太郎襲名の辺りで、どうもおかしな方向に向かっていく。

4月4日にはこんなふうに心情を吐露している。

 

正岡君、近頃の態度は、あまり親しすぎて却ってお互ひが敬愛出来ないのか。

私の方が崇敬しないのが悪いのか。

ほんとに暫く遠ざかった方がいゝのだと思ふ。

 

それでも圓太郎襲名披露の会の準備は進む。

 

二十二日、八王子に円太郎の会がある。

その打合せを文楽さんと相談して皆に通達した。(S18420

 

そして八王子の会は盛況に終った。

 

八王子の円太郎の会、晴天にて盛会裡に終る。扇遊さんと右女助君に口上を手伝って貰ったが旨く喋れなかった。こんな事にも修業が入る。

五打目の師匠左楽師のうまさが思ひ出された。(S18422

 

正蔵は口上を述べた。さぞ、ほっとしたことだろう(ちなみに五代目左楽は口上の名人として知られている)。しかし、そのまま順調にはいかない。

 

文楽さんの所でのはなし。

一日から出番があるのに円太郎が出演しないので不思議に思ってゐると、正岡さんの打った電報の返電にアタマガオカシイ。としてあったそうだ。原因はなんだか。どんな様子だか目下のところ私の所では皆無わからない。(S1854

 

今度は圓太郎本人がノイローゼになってしまったようだ。その原因は、この襲名にかかるごたごたにあったらしい。5月17日の日記に、正蔵は以下のように書いている。

 

文楽さんのお骨折で、新宿の高座済んだのち連れだって、正岡氏を訪ね、文治さんの宅同道云々の事に就いて謝罪してくる。

円太郎もこの事については一ト方ならず心痛して病気になって了った由だから、私が謝って正岡氏も快よくなり、円太郎も安心し。文楽会も無事に続けられゝばこんな結構なことはないのだ。(中略)但し私はどんなに偉くなっても決して他人は謝罪なんかさせないつもりだ。

 

この日、正蔵は文楽の仲立ちで正岡に謝罪し、一応和解した。とはいえ、彼の心の中のわだかまりは消えていない。それが、前回の記事にある文楽会での正岡の暴言で爆発することになるのである。

 

結局、正蔵と正岡の和解は昭和20年を待たねばならなかった。1月26日の日記から。

 

林伯猿氏の骨折りで、正岡氏と仲直りの会を若よしさんで催す。お立合に四代目と文楽さん。どっちも先輩だから私が東道の役(主)をつとめる。(中略)たいして言葉も交へずに、もうお互ひの気持ちはうちとけて一緒の路を帰り乍ら、旧友の二人になれてゐたうれしさは感謝していゝ事だった。林伯猿氏に御礼を申し上げる。

 

一方圓太郎はその後、「(文楽の)しつけの厳しさに耐えかね、居心地すこぶる悪しとノイローゼ気味、再び林家正蔵門に戻って自在な地位を確保した」という。

七代目橘家圓太郎について『古今東西落語家事典』はこう結んでいる。

 

賢人林家正蔵の懐ろの大きさにはつねに敬服しており、「正蔵トンガリ座」の主軸として柳家小半治、土橋亭里う馬という錚々たる野武士集団の一翼を担って、つねに楽しい噺家であった。人柄は至って温厚、「八王子の師匠」と若手にも人気があり、懇切丁寧なることこの上なかった。

 

デグチプロの出口一雄は、圓太郎に10万円の仕事を世話した時、本来はマネジメント料1割の1万円を取るところを、「圓太郎から1万取れるか」と言って、10万そのまま圓太郎にやったという。しかも、ギャラの支払いは銀行振り込みだったため、ポケットマネーから現金で手渡した。そういうことをさせる魅力が圓太郎にもあったのだと思う。

 

それにしても、稲荷町の人間の大きさはどうだ。落語協会分裂騒動の際、師匠圓生に捨てられた三遊亭好生に手を差し伸べたのも、八代目林家正蔵であった。

2023年2月13日月曜日

正岡容の暴言

高校の時に買った、『柳家小さん 芸談・食談・粋談』(興津要編・大和書房・1975年刊)という本があって、その中で、五代目小さんがこんな話をしている。

 

そうそう志ん生さんでおもいだしたことがある。まあ、いまだからはなすけれども、まだ小きん時代で、ちょうど召集のくる日だったかな、なんかの落語会で志ん生さんのつごうがわるくて、うちの師匠がいった。そしたら、その会の世話をしていた正岡容さんが、「小さんがきても、志ん生のかわりにならねえ」って、そういったって。それを、師匠の親戚の入谷の鳶頭が聞いて、「こういうことをいった。とんでもねえ野郎だ!」ってんだね。「あ、そうですか。どうして小さんが、志ん生のかわりにならねえんだ。そういう野郎、おれが張り倒してくる!」(笑)っていうと、鳶頭がおだてやがってね、「そうだ、そうだ」「おれ、あした、市川までいって張りたおしてくる!」(笑)そしたら、その日に召集令状がきた。あしたのお昼までに習志野へはいれ、って秘密召集。よかったね。バカだから、ほんとに乗りこんだかもしれない。()

 

後に川戸貞吉が『対談落語芸談』(1984年刊)の中で、その鳶の頭、小林貞治に確認すると、彼はこのように答えている。

 

それつァね。盛ちゃん(五代目小さん)思い違いです。盛ちゃんはこれから伸びる人だから、正岡容と喧嘩しちゃァ損だからッて、とめたんです、あたしは。むこう(正岡容)が偉いからじゃァないですよ。もうその前に新石町のお婆さんが、「五代目ンなるのァ盛夫だ」ッていってたんですから。

 

いずれにせよ、「小さん(四代目)は志ん生の代わりにならない」というようなことを正岡容が言い、騒ぎになったことがあったのである。

実はこの一件のことではないかという記事が『八代目正蔵戦中日記』にあった。それは昭和18627日のものだ。

 

文楽の会御本尊は欠席のまゝ四代目に助演一席。右女助に代演一席。お神楽も代演させて開演と相談まとまる(二十五日)。

正岡容さんが挨拶に上った頃から私の気分は俄然重ッくらくなって、遂に憤懣の極致まで行って了った。

文楽さんは菊五郎だ。それの病気は吉右衛門の志ん生に『らくだ』か何か長く演らせたかったといふのが挨拶の主意だったのだ。

四代目に代演を頼んだ私の立場は実に情けないものになってしまったし、第一小さん師に対して申し訳がない。

この場合お神楽など提案して準備した事などさらに下らないものになって了った。

大体この場合、文楽さん休演を機会に、中止してしまへば問題はなかったかもしれない。併しいろんな事情もあってさう簡単には決定出来なかったのだ。

どうにも我慢出来なくなった私は甚だ大人気ない事だが、血が逆流して前后の見さかひを無くしてとうとう高座へ上ってこの激情をブチまけてしまった。

私は自分のこの態度を良しとするものでは毛頭ない。商売上の高座以外には特殊の会から一切身を退く覚悟である。偉い人との交遊など勿論やめる。

 

小さんの言う「なんかの落語会」というのは、昭和18627日に行われた八代目桂文楽の落語会。この会に文楽が休演し、その代演として四代目小さんが出演した。

文楽休演のいきさつも、正蔵は6月24日の記事で書いている。

 

文楽さんが昨夜花月の高座で喋れなくなったので休席すると云ひ出した。

で、私が代演する事になった。

文楽会も演れぬといふので黒門町の宅へ行って善后策を講じる。

結局四代目に一席スケてもらってあとは右女助と二人でおかぐらを演るといふ事に決定した。

 

文楽が「喋れなくなった」理由は書かれていない。喉の調子か、または精神的なものか。文楽は神経質な人だったから、こういうこともあったのだろう。

正蔵は、正岡とともにこの会の世話人をしていたようだ。

突然の文楽休演に正蔵は後処理に奔走し、四代目小さんに代演を頼んだ。前日に「相談がまとまった」というから、正岡もまるで知らなかったわけではあるまい。しかし、正岡は挨拶で、客を前にして「本当は志ん生に代演をさせたかった」と言ってしまったのである。それは正蔵の顔を潰し、四代目に恥をかかせることに等しかった。少なくとも正蔵はそう思った。

正蔵は憤慨し高座に上がって正岡に猛然と食って掛かった。そうして、会の世話人を辞め、正岡と絶交した。

 

五代目小さんは「小さん(四代目)は志ん生の代わりにならない」ということについて、「“価値がない”ッていうんじゃァないんだよ。“芸風が違うから代わりにならない”ッていったに違ェねえんだよ」と言っている。これは、興津要の「そういう意味(志ん生と四代目では芸風がちがう)なんでしょうね。悪意じゃないとおもうんです」というフォローを受けてのことだな。

でも、『八代目正蔵戦中日記』を読んだ印象だと大分違う。正岡さんの正直な気持ちかもしれないけど、ああいうことを、出演者を前にして、お客に言っちゃ駄目でしょ。四代目はそれを聞きながら、どんな気持ちでいたんだろう。

 

もうひとつ付け加えておけば、五代目はその日に召集されたのではない。正蔵の昭和18121日の日記に「小きんのところへ秘密召集の令状下る」と記してある。 

2023年2月12日日曜日

春の陽気、小川散歩

朝、御飯、味噌汁、チキンナゲット、スクランブルエッグ、納豆。

コーヒーを淹れて長男と飲む。布団を干す。

猫を膝に抱いて、ビーチボーイズの『ペット・サウンズ』を聴きながら本を読む。庄野潤三『せきれい』読了。随分時間がかかったが、この本、一気読みは無理。ゆっくりのんびり読むべきものだ。私が学生時代を過ごした川崎市生田付近が舞台で、馴染みのある地名がたくさん出て来てうれしい。

昼は妻が作ってくれたかき揚げうどん。旨し。

布団を取り込んでから散歩に行く。

小川の町を歩く。風はあるが寒くはない。目標の5000歩に達する。




幾久一酒造。










光線の具合は昨日の方がよかったな。セブンイレブンでビールを買って帰る。

妻と夕方ビール。

夕食はまぐろの山かけ、鶏のみぞれ煮、栃尾油揚げ、肉じゃが、おでんで酒。食後にラフロイグ。

昨日今日と春の陽気だった。明日からはまた寒くなるらしい。 

2023年2月11日土曜日

春の陽気、高浜散歩

朝、パン、コーンスープ、ウィンナーソーセージ入りスクランブルエッグ。

朝ドラを見ながらコーヒー。妻は仕事に行く。

豆ちゃんの蚤取りの薬をもらいに行く。

豆を膝に抱きながらビル・エバンスを2枚聴く。

昼はインスタントラーメンを作る。息子たちはマルちゃん正麵の味噌、私は明星チャルメラを食べる。

妻が帰って来たところで散歩に出かける。

恋瀬川の堤防に車を止め、高浜を歩く。

恋瀬川河口を望む。



爪書き阿弥陀堂。
かつては背後の高台に西光院というお寺があった。

高台に上ると、高浜の町が一望できる。


白菊酒造。





梅が随分咲いていた。

3時過ぎ帰ってカフェオレを飲む。

妻と夕方ビール。ローソンのクーポンで買って来たヱビスビール。濃厚、旨し。


夕食はおでんで燗酒。大根、しみしみ。紅しょうが天も旨し。

食後に妻と白ワイン。ラフロイグ、ボウモア。

春のような暖かい一日でした。

2023年2月10日金曜日

3年ぶりの東京散歩②

昼飯を食べてから御徒町の駅に向かう。




山手線外回りに乗って新宿へ。初めて高輪ゲートウェイ駅を見たよ。

新宿はまず西口へ出る。学生の頃は新宿まで小田急線だったからね。思い出横丁を歩き、近道のトンネルをくぐって東口へと回る。



そこから足が向かうのは三丁目方面。末広亭を見る。残念ながら、今回は中には入らない。




末広亭裏にある喫茶楽屋。

椎名誠や沢野ひとしが愛した店、池林房。

このポスターは沢野ひとしの手によるものだろうか。

花園神社の裏っ手、ゴールデン街に行ってみる。私はゴールデン街は初めて。風情はあるが、ここで飲みたいか、と言われても、ちょっと微妙。





くたびれた。駅の近くでコーヒーを飲もうと喫茶店を探す。


ふと目に入ったこの店にする。ブレンドコーヒー、700円。そういえば、10年ほど前、落研のOB会に参加した時、入った店だ。本を読みながら30分ほど休憩。

山手線で再び目白へ。駅を出て北へ歩くと、すぐ新宿区下落合に入る。



程のいい所で引き返し、駅近くの寛政堂でお土産を買った。

この日一日で2万5千歩。よく歩いたなあ。


2023年2月9日木曜日

3年ぶりの東京散歩①

先日、用事があって3年ぶりに東京に行った。

せっかくなので、思う存分歩き回りましたよ。

まずは目白からスタート。目白通りを南下する。

千登世橋を渡る。

下は道路だが、元は川が流れていたのかしら。

不忍通りとの交差点に、いい感じの酒屋さんがある。

脇の小道をのぞくと、こんな風情のある坂道がある。

不忍通りを歩いて行けば上野の方に行ける。そんなことをふと思いついて、たいして考えもせず不忍通りへ足を向ける。



護国寺の前に出る。このお寺は古今亭志ん朝の葬儀が行われた所だ。志ん朝を偲び、お参りする。





あの日はこの広い境内が参列者でいっぱいになったのだな、としばし感慨にふける。

大塚から千石へ。歩数はすでに1万歩を軽く超えている。




このまま上野までもつのか、と自問自答する。自問する時点でもう答えは出ている。都バスのバス停があったので、そこから「都バスでとばすぜえ」にすることにする。


上の松坂屋前までほぼ30分。歩いていたら、けっこうかかっただろうなあ。

湯島の天神様にお参り。


湯島の白梅。


もちろんここまで来たら黒門町へ。


八代目桂文楽の住居跡。

はす向かいの落語協会事務所には、五代目江戸家猫八襲名のポスターが貼ってあった。

ここらで昼飯を食いたい。気分は喫茶店のスパゲティー。付近に喫茶店はあるが、どこもパンが主流。これは上野駅前まで行って聚楽のナポリタンか、と思ったが、黒門小学校の1本上野側の通りにイタリアンレストランを見つけた。


ランチにナポリタンがあるではないか。否も応もなく店に入り、Aランチ、ナポリタンを注文。





コーヒーをつけて1000円ちょうど。胡椒のきいたナポリタン、旨かった。