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2023年2月13日月曜日

正岡容の暴言

高校の時に買った、『柳家小さん 芸談・食談・粋談』(興津要編・大和書房・1975年刊)という本があって、その中で、五代目小さんがこんな話をしている。

 

そうそう志ん生さんでおもいだしたことがある。まあ、いまだからはなすけれども、まだ小きん時代で、ちょうど召集のくる日だったかな、なんかの落語会で志ん生さんのつごうがわるくて、うちの師匠がいった。そしたら、その会の世話をしていた正岡容さんが、「小さんがきても、志ん生のかわりにならねえ」って、そういったって。それを、師匠の親戚の入谷の鳶頭が聞いて、「こういうことをいった。とんでもねえ野郎だ!」ってんだね。「あ、そうですか。どうして小さんが、志ん生のかわりにならねえんだ。そういう野郎、おれが張り倒してくる!」(笑)っていうと、鳶頭がおだてやがってね、「そうだ、そうだ」「おれ、あした、市川までいって張りたおしてくる!」(笑)そしたら、その日に召集令状がきた。あしたのお昼までに習志野へはいれ、って秘密召集。よかったね。バカだから、ほんとに乗りこんだかもしれない。()

 

後に川戸貞吉が『対談落語芸談』(1984年刊)の中で、その鳶の頭、小林貞治に確認すると、彼はこのように答えている。

 

それつァね。盛ちゃん(五代目小さん)思い違いです。盛ちゃんはこれから伸びる人だから、正岡容と喧嘩しちゃァ損だからッて、とめたんです、あたしは。むこう(正岡容)が偉いからじゃァないですよ。もうその前に新石町のお婆さんが、「五代目ンなるのァ盛夫だ」ッていってたんですから。

 

いずれにせよ、「小さん(四代目)は志ん生の代わりにならない」というようなことを正岡容が言い、騒ぎになったことがあったのである。

実はこの一件のことではないかという記事が『八代目正蔵戦中日記』にあった。それは昭和18627日のものだ。

 

文楽の会御本尊は欠席のまゝ四代目に助演一席。右女助に代演一席。お神楽も代演させて開演と相談まとまる(二十五日)。

正岡容さんが挨拶に上った頃から私の気分は俄然重ッくらくなって、遂に憤懣の極致まで行って了った。

文楽さんは菊五郎だ。それの病気は吉右衛門の志ん生に『らくだ』か何か長く演らせたかったといふのが挨拶の主意だったのだ。

四代目に代演を頼んだ私の立場は実に情けないものになってしまったし、第一小さん師に対して申し訳がない。

この場合お神楽など提案して準備した事などさらに下らないものになって了った。

大体この場合、文楽さん休演を機会に、中止してしまへば問題はなかったかもしれない。併しいろんな事情もあってさう簡単には決定出来なかったのだ。

どうにも我慢出来なくなった私は甚だ大人気ない事だが、血が逆流して前后の見さかひを無くしてとうとう高座へ上ってこの激情をブチまけてしまった。

私は自分のこの態度を良しとするものでは毛頭ない。商売上の高座以外には特殊の会から一切身を退く覚悟である。偉い人との交遊など勿論やめる。

 

小さんの言う「なんかの落語会」というのは、昭和18627日に行われた八代目桂文楽の落語会。この会に文楽が休演し、その代演として四代目小さんが出演した。

文楽休演のいきさつも、正蔵は6月24日の記事で書いている。

 

文楽さんが昨夜花月の高座で喋れなくなったので休席すると云ひ出した。

で、私が代演する事になった。

文楽会も演れぬといふので黒門町の宅へ行って善后策を講じる。

結局四代目に一席スケてもらってあとは右女助と二人でおかぐらを演るといふ事に決定した。

 

文楽が「喋れなくなった」理由は書かれていない。喉の調子か、または精神的なものか。文楽は神経質な人だったから、こういうこともあったのだろう。

正蔵は、正岡とともにこの会の世話人をしていたようだ。

突然の文楽休演に正蔵は後処理に奔走し、四代目小さんに代演を頼んだ。前日に「相談がまとまった」というから、正岡もまるで知らなかったわけではあるまい。しかし、正岡は挨拶で、客を前にして「本当は志ん生に代演をさせたかった」と言ってしまったのである。それは正蔵の顔を潰し、四代目に恥をかかせることに等しかった。少なくとも正蔵はそう思った。

正蔵は憤慨し高座に上がって正岡に猛然と食って掛かった。そうして、会の世話人を辞め、正岡と絶交した。

 

五代目小さんは「小さん(四代目)は志ん生の代わりにならない」ということについて、「“価値がない”ッていうんじゃァないんだよ。“芸風が違うから代わりにならない”ッていったに違ェねえんだよ」と言っている。これは、興津要の「そういう意味(志ん生と四代目では芸風がちがう)なんでしょうね。悪意じゃないとおもうんです」というフォローを受けてのことだな。

でも、『八代目正蔵戦中日記』を読んだ印象だと大分違う。正岡さんの正直な気持ちかもしれないけど、ああいうことを、出演者を前にして、お客に言っちゃ駄目でしょ。四代目はそれを聞きながら、どんな気持ちでいたんだろう。

 

もうひとつ付け加えておけば、五代目はその日に召集されたのではない。正蔵の昭和18121日の日記に「小きんのところへ秘密召集の令状下る」と記してある。 

2 件のコメント:

ゆう さんのコメント...

densukeさんお元気ですか?
最近とびっきり寒いですねぇ。春が待ち遠しいです。

この彦六師匠の日記、噺家が各々披露してきた得意のエピソードと事実・真相がカチッと
結びつく(逆もしかり)貴重な資料でもあると思っています。
日記なので当時のトイレ事情の話が結構な割合を占めますが、落語界の話、とりわけ師匠が
周りの芸人たちのためにどれほど骨を折ってきたかを感じます。
骨折り損になったことも沢山あったでしょうし、それによる気持ちの屈折もいくらかあったのかなと思いました。

本当にこれ読むと黒門町は「お殿様」だったんだなという事もわかります 笑
日記なので公にできない日の分もあるので編集が大変だとは思いますが、
この1つ前の年くらいのが一番読みたいですね。そして戦後と。
小さん襲名に関することもきっと書かれているでしょうし。
もう、全部読みたいです。
正岡容が何回激怒したか数えるゲーム的要素も含めて 笑

でも、日記の中で「〇〇師には深く感謝する処」みたいな事ってなかなか書けないよなぁと
彦六師匠の律儀さと情の厚さを感じる一冊だと思います。

densuke さんのコメント...

ゆうさん、こんにちは。私は何とか元気でやっております。寒いですが、日が長くなって春の近さを感じさせます。

本当にこの本は読めば読むほど色々なことが見えてくる貴重な資料ですね。
確かに黒門町、「お殿様」です。何しろ自分の会の休演を3日前になって言い出してしまうのですから。
それで稲荷町が、色々働くんですよね。幹部としてもよくやっています。その骨折りに見合う対応をされたかというと、そうでもなかったりして。そこをぐっとこらえて「平常心」を保つために、この日記があるのではないかと、私は思っています。

「この1つ前の年」というと六代目圓生襲名の頃でしょうか。圓生が正蔵に自分より香盤を上にしないでくれと頼みに来る辺り。この日記で正蔵は圓生のことを「円生君」と呼んでいるんですよね。対等だというか、同志的な心情の表れではないかと思います。ちなみに志ん生、円歌は呼び捨てですね。

五代目小さん襲名の辺りも是非読みたい。『正蔵一代』にも書かれてはいますが、日記となると当時の生の感情もうかがい知れるのではないかと興味深いです。

本当に「数十冊」全部読みたいですね。ここまで公表したんだから、戦前篇、戦後編、出してほしいです。