ページビューの合計

2015年5月29日金曜日

出口一雄と安藤鶴夫③

Suziさんは、「安藤は江戸っ子じゃねえ」についてこう語る。
「私の記憶では安鶴の生き方や人生の渡り方に関しては伯父にとっては第1の理由ではないと思います。
それは、彼ら(私の父や伯父出口一雄に言わせれば)から見れば(私は安鶴の出生地が東京の何処かは知りませんが)生まれた場所が純粋の江戸っ子の場所ではないのに、浅草の生まれ、と言うのが気に食わなかったからだと言う風に受け取っています。これは私の父も伯父に賛成でしたから、事実なのでしょう
『安鶴は偉そうに声高に平気で言いやがる、正直じゃねェ』、と言うことなのです。例えば神田とか浅草、根岸界隈ではなく、何処か違う所の生まれなのです。 それをいつも一番怒って言っていましたね。『アン畜生は言う資格なんかねェ、江戸っ子といえる所で生まれちゃいねェ』、良くそう言っていました。
『正直に生まれはホントの江戸っ子じゃないけど、私は江戸っ子気質が好きです。それで生きて行きます、って言やァいいのに、正直じゃねえよ。大衆をだますたァ。江戸っ子の風上にも置けねェ』ッて言ってましたね。
『正直で隠し事のねェ竹筒ッポが江戸っ子だよ。汚ねェ野郎だよ、あいつは』 と腹立てて言っていました。」 

ただ、Suziさんの「江戸っ子」観は、伯父とは若干違うようだ。彼女はこう続ける。
「でも私(Suziの個人的浅薄知識から洞察すると)江戸っ子なんて言われるようになったのは歴史から見ると江戸幕府が開かれても初期、中期頃になっても、ズーーーッとそんなことは無いんですよね。だって江戸は出稼ぎの寄り合い社会の、男が80%の都市だったんですから。裏長屋の住民で結婚しているのは2人がせいぜい。その他は皆独り者。江戸っ子なんて声高に言われだしたのは江戸の庶民社会が落ち着き、2代3代と江戸生まれが続いた後の事。江戸の後期から明治初期になって起こった感覚です。
だから江戸の人間はその頃までは決して田舎者や他県からの出身者に対して偏見や優越感なんて持っていないんですよ。落語が盛んになる頃から起こったのが江戸っ子感覚、と私は視ています。当時の女は自由がなく決められた相手と嫌でも結婚、なんて考える人が多いいようですが、とんでもないですよ。
男社会の女日照りですから、女はいくらでも結婚できた。亭主に死なれたって、別れたって直ぐ又結婚できたんですよ。女日照りだもん。記録では7回結婚が最多だそうです。といって結婚式なんてものは無い無い。近所や友人が寄って祝っただけ。見合いや親が決めた結婚は武士と金持ちの商人娘だけですよ。三行半だって男が書いた、なんてウソウソ!男が書かされた。がホントのところ。甲斐性なくて飲んだくれで仕方ないから、女が書かせたンです。杉浦日向子やその他の著書を読み漁れば身に付く知識ですよね。江戸時代の酒の飲まれた量も歴史上に於いてダントツ。でも下り酒を薄めて売っていたのでそのアルコール量は売り手の薄め方次第でさまざまです。これも読み漁ると面白い面白い!!スミマセン脱線しました!!」 

さて、Suziさんはこんなエピソードも紹介してくれた。
「安鶴は1年落第して父のクラスに来ました。そこで父は彼と友達になったんです。 ある日彼が赤ん坊の写真をじっと見てるので父は聞いたそうです。
『ナンダイその赤ん坊?お前どこかに作っちゃったのかよ?』
『違うよ、俺、伯父さんが生まれちゃったんだよ』
『何だ、伯父さんて?』
『祖父さんがよ、女中に手出しやがってよ。子供ができちゃったんだよ。祖父さんの子じゃ、俺の伯父さんだよ。俺この子どう呼ぼうか迷ってんだよ』
『そりゃ考えるよな』と言う可笑しな話です。
これは私が父から聞いたホントの話です。」 

これまで出口一雄と安藤鶴夫について述べてきたが、現在の知名度で言えば、はるかに安藤の方が上だろう。それについて、Suziさんはこう語る。
「しかし真面目に安鶴の事を私から冷静な目で視て判断すると、伯父と安鶴がいくら仲が悪かろうと、安鶴に水を開けられた理由は、安鶴の『書く力』です。そして安鶴のマメさです。
『東京新聞の富田さん(記者)だってあんなに言ってるじゃないよ。口伝して書いてこそホントの勝負だよ伯父さん』と何度も何度も本当に口酸っぱくして言いました。
『わかってるよ!でもな、そんなこと俺はどうでも良い。こき下ろす会でしゃべってりゃそれで良い』。
 伯父はそういう人でした。江戸っ子の単純な世渡りです。伯父も父もそして私自身をも含めて、私達は良い意味でも悪い意味でも、江戸っ子の長所、短所を余りにも持ち過ぎています。(私は江戸っ子ではありません!駒込生まれです。そして東京郊外の育ちです)伯父は落語家に沿った商売をして、その時その時の人と人との心の通じあいがあればそれで良い。そういう人でした。年とともにそれが増して行き、酔いがまわってツーツーに腹が通うとしんみりし、ホロリとするときも多くなりました。
昔話をしていてイロイロ思い出したり懐かしい話になるとそれもホロリ、でした。
父が『兄貴も涙もろくなったなあ』とよく言っていたものです。文楽さんの亡き後は、黒門町、って言葉が出たらもう泣き、そんなでしたね。ガクーーッと来ていました。」 

確かに毀誉褒貶はあるものの、直木賞作家であり現在も多くの著作が残る安藤と、一介の芸能プロダクション代表で終わった出口とでは、知名度において大きな開きがあるのは事実だ。各所で散見される言説も安藤についての方が圧倒的に多い。
しかし、Suziさんを通してその人となりを知るにつれ、私はいっそう出口一雄という人に強く惹かれるようになった。無愛想で偏屈で、でも落語が芸人が黒門町桂文楽が好きで好きで、まっすぐに彼らのために尽くした出口一雄という人がいたことを、こんなネットの片隅にだが、私は書き残しておきたいと思うのだ。 

最後にもうひとつ。安藤も出口も八代目桂文楽の熱烈な支持者であったが、この二人には微妙な温度差がある。
五代目柳家小さんは、2002年に落語協会広報誌『落語の友』に掲載されたインタビューの中で、「安藤鶴夫先生はいろんな批評を書くだろ?あの先生も初めのうちはうちの師匠(四代目小さん)をね、本当に噺の神様みたいにやってた。師匠が死んじゃってから、今度は文楽師匠になって、文楽師匠も飽きちゃったら、今度は三木助…」と言っていた。
それに対し、出口は、老いていく文楽を細やかな心遣いで最期まで面倒を見た。どちらと一緒に酒が飲みたいかといえば、私は出口さんと答えるだろう。


安藤鶴夫の著作。
確かに彼の文章には「芸」があると思う。

『出口一雄と安藤鶴夫』の稿終わり。

2015年5月28日木曜日

出口一雄と安藤鶴夫②

安藤鶴夫は、好き嫌いを鮮明にするタイプの評論家だった。出口の親交のあった三代目三遊亭金馬や八代目林家正蔵なども、安藤には嫌われた。
安藤の著書『わたしの寄席』中、「神田の寄席」という文章がある。安藤が敬愛した七代目三笑亭可楽の『妾馬』の、さり気ない行き届いた演出に触れた後、彼は、ある別の落語家をネタにして、このように続ける。 

「その“めか馬”をやった落語家の名前を書くと、すぐ、ああ、あれかとわかる落語家だが、わざと書かない。
   (中略)
 その、講釈師かなんかのように、太い、だみ声で、そのくせ、女だとか、小僧なんかだと、歯を食いしばったような、へんに、ぎんぎんとした、高い調子を出す、その落語家は、“めか馬”の、この前、書いた、わたしがびっくりした、すばらしい可楽の演出のところで、こんなことをしてみせた。
八五郎が、殿様の前で、おずおずと、すこしずつ頭を上へ上げていって、妹のおつるの方様をみる。
 みると、ちょっとわからなかったが、すぐにわかって、わかると、こんどはにやッとひとつ笑って、 『なんでえ、妹のおつるじゃアねえか、立派ンなれアがったじゃねえか、ええ、こう・・・』といった。
 そういって、すぐ、こんどは、鼻のさきがつんとしたとみえて、右手の甲で、鼻のさきを、一、二ど、こう左右にこすってみせた。それで、やめればまだしものことだったが、すぐ、そのあと、その手を目のところへ持っていって、こんどは、ひとさし指だけを、ぴいーんとのばした手つきで、そのひとさし指とおや指の横ッぱらできゅうーッと、目を、左から右へ、少しゆっくりとこすった。
 つまり、そこで、妹だな、おつるだな、ああ、立派ンなったものじゃアねえか、という八五郎を、その落語家は、口でもちゃんと、そういっておいて、あげくに、さらにまた、そんな手つきや表情で、八五郎の感情を表現してみせたのである。
   (中略)
 そんなところで、そんなことをして、客をほろッとさせるなどは、芸として、下の下だと思ったのである。その考えは、それから三十なん年経ったこんにち、ただいまも、まったく同じである。そして、そんなのが巧いなどとほめられて、その反対のいき方をしている可楽は、まったく、世の中からみとめられずに、まるで、不遇が、黒光りをしているような存在になっていることに腹が立ったのである。
 落語だから、なにも、そんなにいわないでもいいではないか、というかもしれないが、落語だから、なお、許せないと思った。」 

「その落語家」というのが三代目三遊亭金馬だということは明白だろう。多分、金馬の「臭さ」が、安藤には我慢できなかったのだろう。しかし、しっかり「臭く」演じるのも相当な腕がないとできないものだし、そうすることで金馬は落語を大衆のものにした。事実、同じ落語家仲間の間では金馬の評価は高かった。後に古今亭志ん朝も金馬の芸を「すばらしい口調、本当にお手本にすべきは金馬師匠だ」と言っている。
安藤は自分の美意識にそぐわないものは容赦しなかった。まさに「好き嫌い」で仕事をした人である。しかも彼は小説家であり、評論家であり、芸術祭の審査委員でもあった。自作の小説では、作中に「こんかめ先生」として登場し、いい役どころを演じたがった。
一方、出口は「好き嫌い」は激しかったが、「好き嫌い」で仕事はしなかった。裏方に徹し、自分が芸人の前に出ることを嫌った。 Suziさんによると、出口が安藤を嫌った理由を、「あいつは江戸っ子じゃねえ」と言ったというが、安藤の権威を身にまとった姿は、権力嫌いの出口にとってはまさに「江戸っ子の風上にも置けない」ものだったのだろう。

安藤鶴夫著、『わたしの寄席』(雪華社)

函カバー裏。
人形町末廣で、「文楽」のめくりを前にして客席に座る安藤。


2015年5月27日水曜日

出口一雄と安藤鶴夫①

出口一雄と同世代で、八代目桂文楽と縁の深い人物といえば、安藤鶴夫が挙げられる。
安藤は1908年(明治41年)、浅草生まれ。1946年(昭和21年)、久保田万太郎の推挙で雑誌『苦楽』で聞書き「落語鑑賞」を連載、活字によって桂文楽の話芸を活写し評判を呼ぶ。その後、三越落語会や東横落語会などでホール落語という興行形態を確立させ、古典落語のステイタスの向上に寄与した。一方文部省芸術祭執行委員審査委員を務め、斯界で絶大な発言力を持つに至る。文楽が昭和20年代に昭和の名人の座に駆け上がるのに、安藤の文筆が大きな力になったことは否定できないと思う。
以前にも書いたように、安藤はペンによって、出口は放送業界と公私にわたる細やかなマネジメントによって、文楽を支えた。それはあたかも車の両輪のようであったかもしれない。 出口一雄と安藤鶴夫の両者にも、また浅からぬ縁があった。
出口と安藤は1歳違い(出口の方が1つ年上)、生まれも共に浅草である。それだけではない。二人とも東京中学の出身であった。
安藤の年譜によると、彼は1921年(大正10年)、13歳で東京中学に入学している。そして、1923年(大正12年)2年生の時に、数学の成績不振により落第、留年した。そのために、同じ東京中学に進んだ出口の2歳下の弟、利雄(Suziさんの父親)と同級生となった。
安藤はその後法政大学に、出口一雄は立教大学に進む。 卒業後、安藤は新聞記者として演劇や落語に関わり、出口はレコード会社に就職、落語のSPレコード制作に従事する。共に落語や演芸に関わる仕事をしており、顔を合わせる機会もあったのかもしれない。
二人の道が交差する機会がもう一度ある。1951年(昭和26年)、ラジオ東京開局時に、安藤は同局の編成局制作参与に就任する。(ちなみにこの年、安藤は日本演劇協会理事、文部省芸術祭執行委員会企画委員にも就任している。)そして、その2年後、出口がプロデューサーとしてラジオ東京に入社してくるのである。この関係は1955年(昭和30年)、安藤が参与を辞めるまで続いた。

 TBSで出口の後輩プロデューサーだった川戸貞吉は、『対談落語芸談2』の中で次のように語っている。
「私どもの先輩出口一雄という人は、おなじ学校を卒業しながら、アンツルさんと犬猿の仲。 それでねェ誰か間ィ入る人が立ちまして『仲直りをさせよう』と。つまり“出口一雄と安藤鶴夫を握手させる会”ッていうのをやったんだそうです。会がつつがなく終わって、散会したとたんに『あの野郎』ッてもう出口さんがいってたっていう話が伝わってるくらいですからね。」 

三代目桂三木助は安藤が贔屓にしていた落語家だが、彼の没後安藤が音頭を取って「三木助を偲ぶ会」というのをやった。
その時、それに対抗し、アンチ安藤派が集まって、同日同時刻に「しのばず会」というのをぶつけてきた。所も不忍池に近い本牧亭の下でやっていた料理屋を使ったというのだから念が入っている。
 本牧亭の席亭、石井英子によると、その日「しのばず会」に集ったのは、総勢十数名。メンバーは作家玉川一郎を始め、新聞記者の富田宏、先代の貞丈、都家かつ江、そして黒門町桂文楽などがいたという。
文楽がアンチ安藤派の集まりに列席したというのは意外に思われる。しかし、実は「偲ぶ会」「しのばず会」両方に招待された者が少なくなかったのである。それらのほとんどは、どちらにも行きかねて両方に欠席の返事を出しのだが、われらが桂文楽は平然とかけもちをしたのだ。単に「八方美人」では済まされない、文楽の面目躍如たるものがあり、私の最も好きなエピソードの一つである。
もちろん出口一雄もその中にいた。Suziさんが言っていた「アンツルをこきおろす会」というのは、これだったかもしれない。

大正10年1月に撮られた出口家の家族写真。(Suziさん提供)
詰襟姿が出口一雄。向かって左前方で椅子に座っているのが、弟利雄(Suziさんの父)。
この年の4月、安藤鶴夫が出口と同じ東京中学に入学してくる。


2015年5月25日月曜日

2011年の上野

2011年に上野をぶらついた時の写真を見つけたので載せてみる。


西郷さんの銅像前。
学生の頃、ここで「兄ちゃん、いい仕事あるよ」と声を掛けられたことがあった。

下から見た西郷さん。
堂々としているなあ。

まだまだ昭和の匂いがしていた。


震災の年だと分かるのは、この写真ぐらいだねえ。

この後、鈴本に入った。金馬がトリで『唐茄子屋政談』を演ってた。いい出来だったよ。

2015年5月24日日曜日

昨日の日記

昨日の日記。
朝食を食べて床屋へ行く。
近所の床屋は朝8時からやっているのだ。
運動も兼ねてぶらぶら歩く。
田植えもすんで田圃には早苗が風に揺れている。


帰って、三上寛と友川かずきのライブアルバムを聴く。
昼はざる中華。
車のオイル交換に土浦へ行く。
真鍋をちょっとだけ歩く。いい天気。暑い。


ここへ来ると、どうしてもこの藤本蚕業の建物を撮らずにはいられない。





明るいうちに風呂に入って、湯上りにビール。
夕食は、餃子、手羽先、玉子豆腐でビール、酒。

2015年5月21日木曜日

1993年の尾道

これも昔の写真。
1993年(ついこの間かと思ったら20年以上前ですなあ)に大学の時の友人、高山T君と尾道に行った時のものです。


鹿島灘ではまずお目にかかれない風景です。

尾道は坂の街。
山のてっぺんで飲むビールは旨かった。

大林宣彦の映画『転校生』で、主人公の男の子の家に使われた建物。
この2階の窓から、尾美としのりは8ミリカメラで尾道の風景を撮っていたのだ。

尾道には2泊した。文化の香り高いいい街だった。
晩飯は商店街の寿司屋に入ったのだが、さすが瀬戸内、白身が旨かった。

2015年5月18日月曜日

1980年代の北海道

1980年代の北海道の写真。
まずは八海君の結婚式で行った時のもの。
多分、釧路の辺りだと思う。

釧路港です。 
昔からこんな建物好きだったのね。

お次はその2、3年ほど後。一人で八海君を訪ねた時のもの。
道東の風景。
夏なのに寒かった。 


根室本線のどこかの駅。

2015年5月14日木曜日

妻とデート


平日の休み。妻とデート。笠間へ行く。
向山窯でマグカップを買う。
向山窯のお向かいにパン屋さんができた。妻はクロワッサンショコラ、私はフランスパンのミルククリームを買ってみる。店の外ですぐ食べてみたのだが、これが旨い。笠間へ行く楽しみが増えた。
笠間稲荷にお参り。佐白山の新緑が美しい。
内原イオンに移動。鎌倉パスタでランチ。厚切りベーコンのカルボナーラ。生卵をからめて食べる。旨し。
ボブ・ディラン『ラヴ・アンド・セフト』を買う。
3時過ぎ帰る。買って来たマグカップで紅茶を飲む。

ちょっと前にも載せたけど、笠間稲荷神社の写真です。
さざれ石。
 
仲見世。
お狐様がいっぱい。

参道にも味のある店がけっこうあるんだよね。
幸せだんご。いい名前だねえ。

お饅頭屋さん。
看板も面白いし、貼り紙もいい。

よく見ると、震災で屋根瓦が大分やられてる。

買って来たマグカップ。いいねえ。

2015年5月13日水曜日

牛久の公園


牛久の公園。満開の藤の花がきれい。
入り口の立て看板には、「除染をしたので安心してご利用ください」というようなことが書いてある。
あの時のことを、えらい人たちは「なかったこと」にしたいみたいだけど、私は忘れないよ。

2015年5月10日日曜日

牛久大仏


GW中、1日ぐらいは妻子を連れて外出しなきゃなと思い、牛久大仏へ行く。
私は平成元年当時、牛久の職場に勤めており、この大仏が建造される様をリアルタイムで見ていた。足元からみるみる積み上がり、やがて出来上がった途方もない巨大な姿に、「とんでもないもの作っちゃったなあ」と思ったものだ。(何たって、掌に奈良の大仏が載るサイズ。夜、間近でみたら赤ん坊が泣くという威容だ。)
牛久市内は言うに及ばず、筑波山頂やあそう温泉白帆の湯辺りからも、そのお姿を望むことができる。今や牛久のシンボルと言っていい。
10年ぐらい前、長男を連れて行ったことがあるのだが、覚えていないと言う。では、連休前にテレ東の『アド街ック天国』で牛久特集をやったこともあり(牛久の農家のお母ちゃんは「GWっつったって混まねえべ」と言っていたし)、連れてってやろうではないの、という話になったのである。
着いたのは10時頃。その時点で駐車場は、ほぼ満車状態であった。入場口には、大仏内部へ上るエレベーターが1時間待ちの表示がある。
それでも中に入れば、敷地は広大であり、身動きとれないという訳ではない。GW中ということもあり、特設ステージでは猿の曲芸やものまねショーといったイベントをやっている。出店も多く、裏手には小動物園もあり、なかなかに楽しめる。
それでも2時間もいれば十分だ。妻の実家にも顔を出すので、昼頃には出た。
車で牛久市街方面へ向かうと、大仏へ向かう反対車線で大渋滞が起きていた。まるで映画『フィールド・オブ・ドリームス』のラストシーン、主人公がトウモロコシ畑をつぶして作った、シューレス・ジョー・ジャクソンが現れるという野球場に向かって車が長蛇の列をなしているのを、再現しているようであった。
まさにGW恐るべし、「アド街」恐るべし、である。

売店に貼られていた「なめんなよ、いばらき県」ポスターのニューバージョン。
このGWは、テレビのニュース番組で「茨城に異変が」と特集が組まれるほどの人出だったという。
県挙げてのPRが功を奏したか。

2015年5月5日火曜日

千成亭 サッポロラーメン


千成亭、サッポロラーメン。
牛久の団地の中にある中華料理屋。麺類の種類も多く、定食や丼物もやっているのだが、ここへ来ると、どうしてもこの味噌ラーメンを頼んでしまう。
近くに実家のある妻はこの味噌ラーメンを食べて育ち、広島に嫁いだ義妹も里帰りの際は何をさしおいてもこの店にやって来る。この姉妹にとっては、まさにソウルフードなのだ。私も結婚前、当時交際中だった妻に勧められて食べ、いっぺんでファンになってしまった。
もやしと挽肉を炒めた具に、にんにくががつんと効いた味噌スープがたっぷり。これぞ味噌ラーメンの中の味噌ラーメン。これ以上何も足さなくていい。
牛久のラーメンといえば、先ごろ名店太昇亭が閉店、深い喪失感を味わったが、まだまだ私には千成亭がある。どうか末永く繁盛してもらいたい。

2015年5月4日月曜日

田植え



昨日は田植え。
いい天気。午前中は次男が田圃に来る。
中学校からは風に乗って、長男の部活で演奏している音が聞こえてくる。
今年も苗運びと手植えを担当。
田んぼの水が温かい。まさに水温む、といった感じ。
こういう仕事は身体的にはきついが、精神衛生上はすこぶるいい。
最近の、人間行動心理学やら何やらを駆使して、いかに人を支配し効率よく働かせるかを練り上げたマネジメント手法が、姑息でちっぽけなものに思えてくる。
昼はジャージャー麺。疲れた時は、こういうはっきりした味のものが旨い。
午後は長男が田圃に来る。
3時ごろ終わり。
夕食は明るいうちから庭でバーベキュー。



2015年5月2日土曜日

冷やし中華、始めました


朝食はトースト、スープ、ウインナーソーセージ、目玉焼き。
石岡イオンで買い物。府中誉、タラモアデューを買う。
昼は冷やし中華。今年初。

志賀直哉、『清兵衛と瓢箪・網走まで』(新潮文庫)から『濁った頭』『児を盗む話』を読む。
敬虔なキリスト教徒であるにもかかわらず性欲の制御に苦しむ男が、出戻りの遠縁の女と関係し、駆け落ちした挙句、精神に異常をきたし女を殺害する話。父との確執から東京を離れて瀬戸内の田舎町に逃げ、そこで幼女誘拐を犯す話。「小説の神様」志賀直哉も若いうちにはずいぶんクレイジーな話を書いていたんだなあ。

午後、用足しのついでに少しばかり車でぶらぶらする。
新緑の季節、山が見たくなって石岡の竜神山の周りを一回りする。

八郷側から見た竜神山。
柏原池からの竜神山。
昭和初期には絵葉書になった構図。
砕石のために見るも無残な山容になってしまった。

夕方ビール。
夕食は冷しゃぶ、餃子、冷奴、かまぼこで酒。