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2010年10月27日水曜日

桂文楽の芸

文楽には、お笑い芸人として致命的な欠点がある。
ひとつはアドリブが利かないこと、もうひとつはすぐにテンションがあがってしまい、長い噺が出来ないことだ。
文楽の芸は、この欠点を出発点にしていると私は思う。
アドリブが利かないから台詞を固める。稽古を重ね、台詞を肉体化する。
長い噺が出来ないから、噺のサイズを自分に合わせる。そのために無駄を省き、言葉を磨く。
そうして、精緻な工芸品のような噺が出来上がった。噺はほとんどが20分程度に刈り込まれ、それは(意図的であったかどうかは分からないが)、寄席の持ち時間にぴったりだった。つまり、文楽は寄席の高座で最高の芸を披露することが出来たのだ。(三遊亭圓生はその実力を発揮するのに、寄席の持ち時間では足りなかった。だから、彼の場合、真価を発揮するためには、独演会やホール落語といった舞台が必要だった。)
文楽を完璧主義と評する人は多い。寸分変わらぬ台詞、時間、精密機械の如しであった。
普通、そうなると芸はいわゆる「箱に入った」ものになる。形式に凝り固まり生命感を失う。
ところが、文楽の噺はそうはならなかった。確かに台詞も時間もいつも変わらない。しかし、その空間は躍動していた。多分、それには彼の高いテンションが影響していたと思う。まるで登場人物が憑依したかのような熱演は、たとえ同じ噺でも、演じる度ごとに新鮮な感動をもたらした。同じ器だからこそ、中身のその時その時の違いが際立った。(柳家小三治は「文楽師匠ほど演る度に違う人はいないんじゃないでしょうか」と言っている。)
しかも、その高いテンションは、噺の中で見事な高低差となって表れた。文楽の噺はいずれも20分程度、その狭い敷地の中でその高低差は最大限の効果を生む。
以前、国立演芸場で入船亭扇橋の「心眼」を聴いたことがある。扇橋の「心眼」は滋味溢れるもので、それはそれで結構だったが、幾分単調で寝ている客が何人もいた。
帰宅して文楽の「心眼」をCDで聴いてみて驚いた。「心眼」がこれほどドラマチックでスリリングなものだとは。まさに怒濤のような18分41秒であった。
例えば、家は土地の形状、気候、文化などによってその形が決まる。芸も同じだ。本人の資質がベースとなってその人の芸が構築される。文楽の芸は、彼の資質の上に、粋を極めて(欠点と思われるものまで活かしきって)、建築されたものなのだ。その意味で、文楽の噺は彼以外の何者にもできない、文楽オリジナルとなり得たのである。

2010年10月25日月曜日

久々の外出


昨日は久々の終日フリー。
長男の絵が展示されているというので、霞ヶ浦ふれあいランドに行く。
皆上手だなあ。うちの子の造形の才能は今のところ発揮されていない様子。
タワーに上る。天気はあまりよろしくない。筑波山の頭の方だけがぼんやり見えた。
水の博物館で遊ぶ。ストーンペインティング、シャボン玉、ヨーヨー釣り、ザリガニ釣りをやって、最後は栞作り。
昼食はベイシアに行って、モスバーガーのオニポテセット。
次男がもっと遊びたいと言うので、またもや、ふれあいランドに戻る。ボートや滑り台で遊ぶ。
それから、霞ヶ浦大橋を渡り、かすみがうら市水族館へ行く。
暫く行かないうちに、亀が増えた。ここでもけっこう遊ぶ。
ここのところ仕事が忙しく、久し振りの親子4人のお出掛けだった。
夕食は、鰹の刺身、麻婆茄子、叉焼。刺身は私の、麻婆茄子は長男の、叉焼は妻のリクエスト。私と妻は各々の好物をつまみに菊正宗樽酒を飲む。旨し。
寝酒にウイスキー。いい休みだったな。また皆でどこか行こうねえ。

2010年10月21日木曜日

生家


私の昔の家。
全体の写真がなく、部分部分を補って描いた。
茅葺きの2階建てという珍しい造り。これは裁縫所をやっていた名残だ。
他の家と違って、何となく誇らしかったことを覚えている。
小学校の5、6年の時に今の家に建て替えた。
父は2階は不便だと言って平屋にしたが、2階建てで育った私は、ちょっと不満だった。
現在は母屋に隣接して我々夫婦が住む家がある。しっかり2階建てだ。

2010年10月18日月曜日

文楽と志ん生 昭和36年

昭和36年は文楽と志ん生にとって、ひとつの転換点とも言える年となった。
志ん生の場合は劇的だった。この年の12月15日、彼は読売巨人軍の優勝祝賀会の余興に呼ばれ、高座で脳内出血を起こして倒れた。
川上監督が交通渋滞のため遅刻、開宴が大幅に遅れた。立食形式のパーティーで、腹を空かせた選手は料理に殺到し、高座など見向きもしない。かあっと頭に血が上ったのがいけなかった。志ん生は前のめりに倒れ、そのまま病院に搬送された。
一時は重体となったが、志ん生は強靱な生命力で持ち直し、約1年かけて高座に復帰する。
右半身に麻痺は残ったものの、幸いなことに言語障害は起こさなかった。ただ、以前より呂律が回らなくなり、迫力が減じた。その代わり生じた間が、ファンにとっては何とも言えない味となった。とはいえ、全盛期の芸とは比較にはならない。長男の金原亭馬生は、「噺家として言えば、倒れた後の親父は親父じゃない」とまで言った。
文楽は11月に紫綬褒章を受章。落語家として初の受章であり、落語界こぞって喜びにわいた。芸術祭賞でも勲章でも、落語家初、文楽はまさに落語界の第一人者として自他共に認める存在となった。
このように、文楽と志ん生にとっての昭和36年は、大きく明暗を分けたかに見えた。
だが、小さな変化が文楽に起きている。この年、文楽は入れ歯を入れる。このため滑舌が悪くなった。
色川武宏は『名人文楽』の中でこう書いている。
「文楽が入れ歯を入れる以前の芸を、今の若い人に観せたかった。昭和36年以前の芸である。この前七、八年の桂文楽が最上の、すなわち最高の桂文楽であり、入れ歯以後の口跡によるものは、いたしかたないとはいえ、真生の文楽とは認めがたい。」
また、春風亭小朝の『苦悩する落語』の中には次のような話が出てくる。小朝が落語家の声の分析を、日本音響研究所に依頼した。そこの主任研究員が驚愕したのが文楽の声だった。話速の変化では、最初1分間に100音節、中程は50音節、後半は100音節といったように緩急を巧みに操る。そして、人間の耳に聞こえる最も感度のいい2000ヘルツ~4000ヘルツに声を集める。さらに、音声基本周波数の移動幅は120ヘルツ~320ヘルツ、音声の高低をかなり使ってメリハリを利かせる。まさに「1/fの揺らぎ」の持ち主だったという。ただ、欠点が二つあった。各音韻の区切りが曖昧なところとサ行の子音の発音。もし、これが入れ歯による影響だったとしたら、それ以前の文楽の芸は、音声上で言えば完璧だったということになる。
絶頂を迎えた文楽に、静かに老いが忍び寄っていた。

2010年10月13日水曜日

小月庵


小川の小月庵。新築前の旧店舗。私としてはこっちの方が好み。これぞ、町の正しい蕎麦屋。
カツ丼は私の中でナンバーワンだな。肉厚でやさしい味。肉丼もいいよお。
蕎麦はねえ、押しつけがましくない。安くて旨い。程がいい。
天もりはイカ天だが500円。天晴れだね。
親子南蛮も大好き。
ちょいと変則的なところでは、カレー南蛮と半ライス。(「はんらいす」で変換したら「半裸椅子」と出てきた。面白かったので、残しておく。)前にも書いたので詳細は省くが、試してみる価値はある。
職場が変わったのでこの頃ご無沙汰。今度、夕方からとろとろ酒でも飲んでみたいものであります。

2010年10月6日水曜日

笠間で手びねり


この間の日曜日、笠間で手びねりをやった。
次男がお皿を作りたいと言い出したのだ。
やきもの通りの桧佐陶芸に行く。
まずはお姉さんの丁寧なレクチャーを受け、作業を始める。
次男は気が変わったのか、コップを作るという。
妻はお皿、長男も魚の形の皿を作る。
私はコップのつもりで作り始めたが、いつの間にか小鉢になった。
写真は我々の力作。
昼食は「てっぺん」という蕎麦屋で食べる。
私はカツ丼ともり蕎麦のセット。妻は冷やしたぬき。子どもたちはざる蕎麦を完食。
小月庵と同様、正しい蕎麦屋である。