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2010年1月27日水曜日

田山花袋『蒲団』

『蒲団』、田山花袋。日本の自然主義のパイオニアである。
作者の分身である中年の小説家の、若い女弟子への痴情が綿々と綴られる。
色々批判もあるだろうが、いちばん最初にやったってのが偉い。衝撃的だったろうな。そして、ああこの手があったか、と誰もが思ったに違いない。自分の心の恥部・暗部を赤裸々に綴れば衝撃の告白文学になるのだ。以後、日本の自然主義は、恥ずべき過去の告白合戦の様相を呈することになる。
まあいい。『蒲団』の話だ。
この男の呟きは、どれをとっても勝手なものだが、これが実にリアルなんだな。
惚れて一緒になった妻が、3人の子どもを産み、ただの母親に成り果てたことに対する不満。丸髷を結った古女房に飽き飽きし、今様の若い女に憧れる様。今時の女学生である弟子、芳子への想い。やがて、同志社の学生と恋に落ちた彼女への煩悶、懊悩。
芳子が恋人と体の関係を持っていたことを知ったときの凄まじさっていったらない。こんなことなら、彼女を神聖なものと祭り上げることなどせず、とっととやっときゃよかっただの、今からでも自分の恋情を切々と訴えれば、一回くらいやらせてくれるんじゃないかだの、本当に身も蓋もないのだ。(もちろん、もうちょっと古風に上品に書いてますよ。)
ただ、彼はこのような思いを決して表に出すことはない。表面は取り澄まし、いかにも誠実に振る舞う。(時にこらえきれなくなって昼間から酒を飲み、泥酔したりもするが…。)
でも、人は皆こんなものかもしれない。一皮むけば、醜くいじましい。けど、何とか頑張って、それを表に出さないようにする。そして、その醜くいじましい自分の心から目をそらさず、克明に綴る。そこが人の胸を打つのだ。
芳子は父に伴われ故郷に帰った。彼女の荷物が残る部屋に男は入る。押入を開け、彼女の蒲団に夜具に顔を押しつけ、女の匂いを嗅ぐ。蒲団を敷き、夜具を引っ被り、思う存分女の匂いを嗅ぎながら、男は一人泣く。あまりにも有名なラストシーンだ。
すべてはここから始まった。ここから藤村の『新生』が生まれ、太宰の諸作品が生まれた。もしかしたら、つげ義春や吾妻ひでおも生んだのかもしれない。
とはいっても、モデルとなった女性や奥さんはたまらなかったろう。芸術とやらのために、妻を売り、愛する人を売る。それを読者は娯楽として享受する。文士というのは、つくづくやくざな商売だな、と思わざるを得ないなあ。

2010年1月24日日曜日

旨いもの

食べ物で何が旨い、と聞かれても困る。
食べる、ということは状況も味わうという意味で、総合芸術だと思うからだ。
私は、今のところ、子どもを寝かしつけた後のウイスキーを、至福のものとしている。そりゃあ、そのウイスキーもレッドよりはタラモアデューの方が、タラモアデューよりもボウモアの方がいい。でも、それは一日に仕事を終え、子どもたちの寝顔を見て、という状況が何と言ってもその旨さを確固としたものにしてくれているんだな。
例えば、ラーメンの名店へ行って、すごく混み合ってて、すごく待たされて、やっと来たラーメンが、店員が間違えて、後から来た別の客の方へ行って、態度の悪い店員に言ってやっと来たラーメンを食す、という状況と、旅に出た田舎の古びた駅前食堂で、さして上等でもないカツ丼を食べながら、土地の人の世間話を聞くともなしに熱燗の酒を飲むという状況では、どちらが旨いと感じると思いますか。
それ程までに、味覚は状況に左右されるのです。
たかがお茶を飲むために、器、調度、書画、花、景色、心持ちにまでこだわることを発明した、千利休は偉い。しかも、豪華フランス料理のような贅を尽くしたものではなく、さりげない侘び寂びを尊ぶ。そのような価値観を生んだ日本に生まれたことを、誇りに思っていい。
私がこれまで旨いなあと思った体験も、状況がセットでついてくる。
仲間と釣った魚を鍋にするという極めてアバウトな計画でやった浜鍋。
猪苗代湖畔、哀愁の一人キャンプで、雨上がりの雲間に浮かぶ月を眺めながら、焼いた赤ウインナーをつまみに飲んだバーボン。
10年ぶりに訪れた蔵王の飲み屋で、覚えていてくれたおかみさんと話をしながら食べた、牛タンの塩焼き、冷やの住吉。
大洋海岸で寝ころんで、海を眺めながら、茹でた蛤をつまみに飲んだ缶ビール。
雪が積もった休日の昼、燗酒を飲みながらつつく湯豆腐。
伊豆の漁港の堤防に座って飲んだ青島ビール。
妻との新婚旅行で行ったシドニーのナイトクルーズ、きりっと冷えた白ワインで食べる生牡蠣。
そういう旨いと思う体験を積み重ねていくのが、多分、幸福なのだと、私は思うよ。

2010年1月20日水曜日

桂文楽 睦会解散

昭和5年、春風亭柳橋、日本芸術協会創立。時に柳橋、31歳。これは凄いな。当時の平均寿命を考慮しても、今なら春風亭小朝が20年前に落語協会を離脱して新団体を立ち上げた、というくらいの衝撃だったろう。
この辺りから、東京落語界で一方の雄であった睦会の凋落が始まる。
翌年、睦四天王の一人、桂小文治が睦会を脱退。2年後に芸術協会に合流する。
昭和7年には、これも睦四天王の一人三代目春風亭柳好が脱退。翌年には落語家を辞め、幇間になってしまう。(後に柳好は芸術協会に参加する。)
こうして、睦会躍進の原動力となった睦四天王のうち、会に残っているのは桂文楽ただ一人となってしまった。
層が薄くなった睦会は芸術協会との連携を目指すが、それに反対した五代目三遊亭圓生一門の脱退を招いてしまう。
こうなると、後は坂道を転がるように会は落ち目になっていく。一人減り、二人減り、やがて残ったのは、文楽、会長の五代目柳亭左楽、神田山陽、七代目春風亭柳枝だけ。そのうちに柳枝も芸術協会へ行ってしまう。
昭和12年11月、ついに睦会解散。
文楽の自伝『あばらかべっそん』によると、この時、左楽は文楽に「お前はもう向こうの会(落語協会)に行け。俺もどこかへ行くようにするから。」と言った。それに対し、文楽は「待ってください師匠、私も弟子の始末をつけるまで休んで、それから出かけますから。」と答えたという。
左楽は芸術協会へ。文楽は、「ふりい倶楽部」を経て東宝名人会に参加した後、翌昭和13年、落語協会に加入した。師匠と別れ、独立する形となる。時に文楽、46歳であった。

2010年1月14日木曜日

文楽と柳橋

文楽の終生のライバルは志ん生である、というのは衆目の一致するところである。
ただ、文楽は大正6年に真打ちに昇進した頃からずっと売れっ子であり、志ん生が世に認められ出したのは、昭和9年の金原亭馬生を襲名した辺りから。いわば、志ん生は文楽にとっては遅れてきたライバルだった。
大正から昭和にかけて、文楽の最大のライバルは、六代目春風亭柳橋だ。
六代目春風亭柳橋。明治32年生まれ(文楽より7歳下)。明治42年、四代目春風亭柳枝に入門して柳童。枝雀を経て、大正6年、文楽と同年に柏枝を襲名して真打ち昇進。大正10年、小柳枝を襲名。さらに大正15年、春風亭柳橋を襲名した。もともと柳橋は麗々亭の止め名だったのを、師匠柳枝と同じ春風亭に改めた。
文楽とともに睦四天王として売り出す。いや、正確に言うなら、四天王の筆頭はこの柳橋だった。後に六代目三遊亭圓生は柳橋を評し、「うまい上に大胆で芸度胸があり、末恐ろしい。文楽などよりもずっと大物になると思った」と言い、「一時は本気であの人の弟子になろうかと思った」とさえ言った。柏枝を名乗っていた頃、大阪で「子別れ」を演じたが、その時大阪の落語ファンは「江戸っ子の腕で打ったる鎹は浪速の空に柏枝喝采」という歌を詠んで讃えたという。どのエピソードも柳橋の大器振りを物語っている。
初代圓右・三代目小さん亡き後、名人と言えるのは、五代目圓生、四代目小さん、八代目文治といった人たちだった。(五代目小さんは彼らを昭和の名人に挙げていた。)それに続く存在が、柳橋、文楽だったのだろう。昭和15年の落語家番付では、柳橋が東の大関に座り、文楽が西の大関となっている。ちなみに三代目金馬が文楽と同じ西の大関、五代目志ん生が西の小結、六代目圓生は東の前頭筆頭だった。
昭和初期、文楽は三代目圓馬のもとに通い、後の十八番となるネタと不器用に格闘する。
一方、柳橋はスターの道を駆け上った。昭和5年には金語楼とともに日本芸術協会を設立。30歳そこそこで団体の会長となる。金語楼の新作に刺激を受け、「うどん屋」を「支那そば屋」に、「掛け取り万歳」を「掛け取り早慶戦」にと大胆に改作し、ラジオやレコードで売れに売れた。「支那そば屋」では軍歌を歌ったように、戦時中も時流に合わせる器用さを見せた。
文楽の方は戦時中、得意の幇間ものや廓噺を封印され、不遇の時代を送った。戦時中の「子ほめ」の録音が残っているが、必死に軍事色を加えようとしてはいるものの、まるでニンに合わない無惨なものである。文楽が名人の称号を手にするのは戦後を待たなければならない。戦前、最も輝いていたのは柳橋であった。文楽もずっと売れていたし、名人への階段を着実に上りつつあったが、柳橋の勢いは圧倒的なものであり、文楽といえども太刀打ちできるものではなかった。

2010年1月6日水曜日

広小路亭初席

前回の続き。
初席に行こうとは思ったものの、ネットで調べた限りで鈴本はまず無理ということが分かった。検討の結果、上野広小路亭の芸術協会を観ることにする。
ここはこぢんまりとした畳敷きの寄席。定席は芸術協会のみだが、圓楽一門会や立川流も興行を打っている。
入ったのは5時少し前。2部の最後の方だった。正月の寄席の例に漏れず結構な入りだが、壁際のスペースにうまく座ることが出来た。
2部のトリは昔々亭桃太郎。しょうもない駄洒落の連発が癖になる不思議な落語家だ。この日は「長短」をみっちり演じた。サゲ間際で、大声でネタばらしをするおじさんがいる。おれは落語に詳しいんだぞ、というところを見せたいのだろうが、迷惑以外何ものでもない。寄席は気楽でいいが、気楽をはき違えてはいけないよな。
2部終了。入れ替えはなし。かなりの客が帰るが、新たな客が次々に入ってくる。どうやらネタばらしおじさんは帰ってくれたようだ。
すぐ一番・二番の太鼓が入り、3部が始まる。
前座のメクリは「前座」としてある。多分、春風亭昇太の弟子。前座さんらしい「子ほめ」。
二つ目は三笑亭夢吉、「味噌豆」。明るくていい。有望株と見た。
柳亭小痴楽は、小咄をひとつ演っただけで慌ただしく高座を下りる。
桂歌助、「金明竹」。高校の先輩Hさんが、子どもを連れて、やはりこの広小路亭に来た時、出ていたそうで、「歌助面白かった」というメールを頂いた。なるほどいい。言い立ての回数は減らしていたが、しっかりと演じてくれた。
三遊亭笑遊、「不動坊」。熱演だがクサいな。
ここで色物。東京ボーイズ。脱力系だが、これが面白い。のいるこいるの漫才みたいな味がある。
仲トリは古今亭寿輔。大看板の風格が出てきたね。皮肉で屈折した感じがたまらない。「親子酒」。塩辛をつまみに酒を飲むくだりを存分に見せる。今は亡き十代目桂文治の型か。
仲入りで客が減る。仕方のないことかもしれないが、もったいない。寄席はトリまでの流れを考慮に入れて構成されている。トリを聴いてこそ、その流れをきちんと味わうことが出来るのだ。
くいつきは桂枝太郎。懐かしい名前が復活した。当代は、温水洋一を髪の毛を増やして若くしたような好青年。ネタは「動物園」。
そして、桂小文治さん登場。「粗忽の釘」を手堅く演じる。口調は端正だが、軽妙な可笑しさがあって、よく受けていた。
柳亭楽輔、「鰻屋」。実力派だねえ。サゲ際が少しくどかったかな。
膝代わりは松旭斎小天華の手品。程がよい。
トリは三遊亭圓雀。かなり前のことだが、地元の文化センターに小遊三・昇太・山陽などが来た時、この人の「長屋の花見」を聴いて上手いなと思った。その時より痩せて年取ったなという印象。「浮世床」を夢の所まで演じる。結構なものだったが、もうちょっと勝負してもよかったんじゃないかなあ。持ち時間も結構あるし、腕もあるんだから、無理に笑いを取らず、「いいなあ」と客に思わせて帰すというチョイスもあった。その方が、かえって存在をアピールできたと思う。
広小路亭は噺をじっくり聴くのにいい空間だ。初見の噺家さんが割といて、楽しめた。初席の顔見世興行とは違って、しっかり落語を聴くことが出来た。鈴本で小三治が最高かもしれないが、私は満足です。

2010年1月5日火曜日

平成22年 新春東京散歩

妻が「お正月だし、寄席にでも行って来たら」言ってくれたので、ありがたく東京に出かける。
日暮里で下車。
いつものようにカメラをぶら下げ、谷中を歩く。
志ん生・馬生・志ん朝のグッズを売っている店があったので、覗いてみる。 ここは古今亭の街なのだ。
谷中銀座を抜け、不忍通りに出て、団子坂を上る。
当てずっぽうに根津に向かって歩く。
途中、夏目漱石旧居跡の石碑を見つける。川端康成筆。近くの塀の上には猫の石像が載っている。
この辺りは漱石・鴎外・一葉など明治の文豪が多く住んだ。今も閑静な住宅街。新しい家が多く、歩いていて余り面白くはない。
やがて、東大に行き着く。付近には古い洋館なんかあって、俄然写欲がわく。
テニスコート脇の坂道をたらたらっと下りると、根津神社があった。
早速お参り。境内のお稲荷さんに、立川談志の千社札が張ってあった。側には里う馬・ぜん馬・談幸・志の輔など立川流の面々の札がずらり。さすが家元のお膝元である。
それから、言問通りを通って、再び上野の山へ。
美術館にも入りたいが、この後の寄席を考えると、いささか時間が足りない。
それに、大分歩いて草臥れた。そこで、東照宮の鳥居脇の茶店に入る。
ここがしぶい。メニューを見ると、カレーそうめんなんてのがある。甘酒を飲んでしばし休憩。
不忍池の周りに出ている骨董屋を横目に通り過ぎ、蓮玉庵に入る。
冬の定番、鳥南蛮蕎麦と燗酒を注文。ごまめをつまみにお銚子を1本飲んだところで、蕎麦が来る。
お銚子1本追加。まずは蕎麦をつーっとたぐる。そして、つゆと鶏肉、葱をつまみにもう1本の酒をとろとろと飲む。いやあ体の芯からあったまりますなあ。蕎麦湯で締め。
外は寒風吹きすさぶが、ほかほかのまま上野広小路亭に向かうのでありました。
寄席の内容は、次回お話し致します。