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2009年4月29日水曜日

宇野浩二『芥川龍之介(上・下)』

鬼才、宇野浩二が、生前親交のあった芥川龍之介について、思いつくまま書き綴る。
これが面白い。
冒頭の珍道中に、まずやられた。芥川との関西方面への旅行の話なのだが、これが少々際どい。二人で京都は宮川町のお茶屋で遊ぶのだが、途中、芥川は四つ目屋(大人のおもちゃ屋ですな)に寄り、張型を買う。それを遊女相手に使用するのだが、漬けた湯が熱すぎてしくじった。その張型も家に持って帰れず、宇野にやったという。端正なイメージをもつ芥川だが、その手の遊びは好きだったらしい。
もちろん、こんな話ばかりではなく、宇野と芥川の隔てのない交流が多く綴られる。物堅く優しくいきとどいた、それでいて茶目っ気のある芥川の人柄がにじみ出る。
芥川は小説『鼻』が夏目漱石に激賞され、大正の文壇に鮮烈なデビューを果たした。そして、『今昔物語』などの古典に取材し近代的な解釈を施した、いわゆる「王朝もの」といわれる作品を次々に発表し、時代の寵児となった。
しかし、宇野は、この時期の若いのに凝りに凝った小説を量産する芥川を、痛々しい思いがする、ともらす。そして、その凝りに凝った小説も、理に詰みすぎていると批判する。
芥川が持っているのは、元ネタを独自の解釈で自分の作品に仕立て上げる才能で、ストーリーテラーの才はなかった。宇野はそれを冷徹に見抜いている。芥川の作品世界は「王朝もの」にとどまらず、「切支丹もの」「江戸もの」「童話」と幅を広げるが、やがてネタが尽きると、たちまち創作に行き詰まる。それに加えて自身の健康の悪化、家庭問題などが重なり、芥川は精神を病んでいった。
ネタがなくなった芥川は自分をネタにし始める。それが晩年の私小説風の作品群である。芥川の病んだ精神は、彼を混濁させるのではなく、底光りする冴えをその文章に与えた。宇野もそれを「真に迫る」と認めている。ただ、健康の悪化から息が続かず、本格小説にはなり得ず小品に終わっているとも指摘している。
芥川が自殺した時、宇野自身も精神を病み入院中だった。親友の死を宇野は予想せず、深い衝撃を受けた。
死の前年、宇野が芥川を訪ねた時、二人はお互い「小説書けよ」と励まし合ったという。同じ時代を生き、同じように精神の病と闘った者同士に通じる思いがあふれ出る。宇野の芥川作品を見る目は、多分に批判的だ。だが、芥川龍之介の才能を愛し人柄を愛し、その死を痛切に惜しんだのは、他ならぬ宇野浩二その人である。
宇野浩二の長い作家生活の最後の仕事が、これであった。

2009年4月26日日曜日

桂小文治、芸術祭賞受賞パーティー

桂小文治さんの芸術祭賞受賞パーティーに出席する。
小文治さんは、大学の先輩。私の結婚式の司会もしていただいた。
丁寧な演出と所作の美しさには定評がある。
この度、独演会における『宮戸川(上・下)』の好演が認められた。
特に、下は小文治さんによる創作とのこと。
ご招待を受け、喜んで出席させていただくことと相成った。

同期のN君、F君と有楽町で待ち合わせ。
着いた時間が早かったので、ちょいと辺りを散歩。
皇居、二重橋まで歩く。鮮やかな新緑。気持ちがいい。
N君、F君とスタバへ。1時間ほどお喋りして会場へ向かう。
会場は東京會舘。大学の先輩方が多数お見えになっている。
どうやら、我々が、大学関係ではいちばん年下らしい。
小遊三副会長、講談の人間国宝・貞水、昇太など芸協のスターがずらり。
余興も盛りだくさん。平治・圓満の物真似(これがお見事)、北見伸・ステファニー・山上兄弟のマジック(豪華でしたねえ)と華やかなもんでした。
2時間半ほどでお開き。
広島まで帰らなければならないF君と会場を後にし、銀座へと行く。
プランタンで遅れていた妻への誕生日プレゼントを買う。
30分ほど銀ブラ。有楽町でF君と別れる。
上野で息子たちへのお土産を買って帰る。
旧交も温めることも出来、また、いい経験もさせていただきました。いい一日でした。

2009年4月24日金曜日

おれ「猫の災難」が好き

立川談志考は一回お休み。ちょっと古い文章を載せておきます。

「猫の災難」という噺が好きだ。 
友達が二人で飲もうといって買って来た酒を、熊さん一人が全部飲んじゃう噺である。(同じように、友達と二人で飲もうと思った酒を、一人で飲んでしまう噺には、「一人酒盛り」があるが、あっちは目の前に飲みたくてうずうずしている人がいるのに全部飲んじゃうんだから、タチが悪い) 
この噺の聴かせ所は、何といっても5合の酒を、熊さんが何だかんだ言いながら、全部飲んでしまう所であり、その酔っていく過程を描く所にあると思う。
酒飲みを描くのに、演者自身が下戸の場合と上戸の場合とがある。前者は、酒席などで観察できるから、客観的な描写をするのにいい。後者は自分でその気分になれるという利点がある。どちらがいいとは一概に言えない。しかし、私個人的には、この噺は、酒好きな人にやってもらいたいと思う。 
朝から飲みたくてしょうがなかった熊さんの前に酒がある。友達は、熊さんの言い訳を真に受けて、鯛を買いに行った。
「そういえば、あいつ酒屋で味見したって言ってたな。一杯ぐらいならいいだろう。」
何だかんだ言いながら、一杯が二杯・・・・・。 
飲みたくってしょうがなかった酒だ。しかも、友達を気にしながらの、いわば盗み酒。禁断の味だ。うまくないわけがない。 
熊さん、それでも人がいい。友達のために燗徳利に酒を取って置いてやろうとする。が、入れすぎてこぼしてしまう。そこは酒飲みの意地汚さ、畳にこぼれた酒をすっかり啜ってしまう。
こんなに入れたら燗が付けられないと、吸っているうちに徳利の酒を全部飲んでしまう。
気が付いたら、5合の酒をあらかた飲んでしまった。さあどうしよう。そうだ、また隣の猫のせいにしてしまおう。そうと決めたら、ぜんぶ飲んでしまえ。 
この、開き直ってからの熊さんがいい。友達が鯛を買いに行っているのすら忘れ、ただただ酒を楽しんでいる。思わず出る、「今日はいい休みだったなあ」という言葉がいい。 
こういう様を、酒が好きな人なら、自ら楽しみながら演じられるのではないか。そして、その、高座で演者が気持ちよく酔う様を、客席で楽しみたい。多分、私も喉を鳴らしながら、帰りにはどこかで酒を飲みたいなあと思いながらいるにちがいない。

2009年4月15日水曜日

立川談志考 その2

前回、立川談志の芸は客との特別な関係を求める、と書いた。それを私が意識したのは、談志が落語協会を脱退した後である。
立川流創設後の「ひとり会」を収めたビデオを観て、私はちょっとした違和感を覚えた。そこにはまさしく談志と客との特別な関係があった。客は談志を求めて集まる。談志はその支持者を前に、思う存分持論を披露し、苦悩や迷いをさらけ出す。踏み込んだ表現を使えば、客も談志も、お互いに媚びているような印象を受けたのだ。
談志が落語協会を脱退したのは、弟子の真打ち昇進問題が発端だった。弟子が真打ち昇進試験に落ちたのに腹を立て、落語家の狭い世界にほとほと嫌気がさしたのだという。そして、他の芸能や娯楽と真っ向勝負をすべく、あえて寄席を捨てたのだ。多くの人が、この出来事をそのようにとらえているが、私の見方は少々異なる。
談志の協会脱退は昭和58年。それに先立つ昭和53年、協会の分裂騒動があった。六代目三遊亭圓生が、五代目柳家小さんの協会運営、とりわけ大量真打ち昇進に反対し、一門始め古今亭志ん朝、七代目橘家圓蔵一門を引き連れて落語協会を脱退し、新協会を設立するというものだった。この事件に談志が深く関わったことは有名な話だ。談志自身が新協会設立のプランを圓生に進言し計画を推進したが、圓生が後継者に志ん朝を指名するやいなや、その話から抜けてしまう。圓生らは新協会設立を発表するも、席亭の支持を得られず、志ん朝と圓蔵一門は落語協会へ戻ることになる。
談志が暗躍したことは周知の事実だった。師匠小さんを裏切った上、圓生を支えきることもせず、あっさりと寝返った。その行動は、周囲の顰蹙を買うに充分だったろう。加えて、正式に反旗を翻した志ん朝らに対し、落語協会はペナルティーを課さなかった。弟子のために寄席の高座を失いたくない一心で、どんな罰をも受けるつもりで戻った志ん朝は、神妙に「これからは芸で勝負します」と誓い、かえって男を上げた。以後、柳家一門にも協会内部にも、談志に対し冷ややかな空気が流れたことは想像に難くない。
談志は強面で強いイメージがあるが、その実、繊細で臆病な人だと思う。針の筵のような協会にいるのが嫌だった。それよりも、圧倒的支持を得られる環境が欲しかった。案外、落語協会脱退の直接の動機は、そんなものだったのかもしれない。
熱狂的なファンを持つ談志に、もはや寄席は必要なかった。独演会を開けば、たちまち切符は売り切れた。談志は立川流を創設し、自らを家元と称した。そして、著名人を弟子にし、そのブランドイメージを高めた。多くの著書をものし、自分の価値観に反する者には激烈な批判を展開した。こうして、談志は、彼を取り巻く人々と濃密で特別な関係を結んでいく。誰もが彼を尊敬し、畏怖し、支持した。それは談志の望むべき環境だったに違いない。

2009年4月10日金曜日

立川談志考 その1

立川談志は青春の芸である。私も大学の頃、熱にうかされるように談志を聴いた。談志を語ることは、その頃の自分を語ることでもある。対象との距離がうまくとれない、難しい作業だが、やってみる。

談志の芸は観客との濃密な関係を強いる。
談志の高座は拒絶から始まる。不機嫌な出。聞こえるか聞こえないかの声でぼそぼそと話し出す。枕では現状に対する否定的な言葉が並ぶ。観客が歩み寄らなければ、談志の芸は楽しめない。談志を受け入れることで、我々はまず談志との特別な関係を結ぶ。(もちろん、受け入れられない人も中にはいる。事実、落語協会在籍当時、「早く落語やれ」と野次る客と談志はしばしば喧嘩をした。)
噺に入れば、世界は一変する。斬新な解釈、優れた人物描写、迫力ある語り口、感情の奔流が観客を飲み込む。我々は談志の世界に引きずり込まれ翻弄される。そして、時折見せる談志自身の苦悩、迷い。これがまるで彼の弱さを自分だけに見せてくれているかのように思わせるのだ。こうして、観客は談志との1対1の濃密な関係を結ぶことになる。そして、そこに感動が生まれる。(立川談春は「談志には感動がある」と言って談志へ入門した。)

私は大学1年の時、旧池袋演芸場で『鼠穴』を聴き、以来談志のとりこになった。私が落研部員だったことは以前にも書いたが、私の落語はやがて談志の口調に強い影響を受けた。2年の冬合宿、十代目桂文治のテープで覚えた『二十四孝』を聞いて、技術顧問の三笑亭夢楽師匠は「談志さんのテープで覚えたよね」と言った。合宿の打ち上げコンパでは談志の物真似をやって、夢楽師が連れてきた弟子の小夢さん(現・桂扇生)にうけたほどだ。私だけじゃない、談志門下のほとんどはあの口調である。それ程の強い影響力が、立川談志にはある。

既成の権威に独自の価値観で切り込む。落語に対する真摯な愛情。自分の芸への強い自負。自分の弱さをさらけ出す。傲岸と含羞。純粋と露悪。無頼と繊細。多面的で複雑な魅力が立川談志にある。いずれも、あくまで自分に忠実であろうとする、強烈な自我意識が根底にある。これはまさに、青春そのものではないか。
「選ばれし者の恍惚と不安、我にあり」。これは太宰治がその処女作に冠した言葉だが、立川談志をも言い表しているように、私には思えるのである。

立川談志については、まだまだ語り尽くせない。これからも、もう少しお付き合いいただくことになると思います。では。

2009年4月8日水曜日

桂文楽 東京復帰

大正5年、小莚は東京に帰った。彼はまだ二つ目。寄席に出るためには、誰かの身内にならなければならない。
当時、大阪から帰って来て売れに売れていたのが翁家さん馬、後の八代目桂文治であった。小莚はさん馬の弟子になり、翁家さん生の名前を貰う。(さん生という名前はもともと三遊亭の名前。四代目橘家圓蔵が前座時代名乗っていた。近年では川柳川柳の圓生門下時代の芸名であり、現在は文楽の弟子だった柳家小満んの弟子が柳家さん生を名乗っている。スケールの大きいいい噺家だ。)
こうして、さん生は東京の落語界に復帰した。大阪で寄席のお茶子をしていた、おえんという5、6歳年上の女と所帯を持ち、御徒町に住んだ。この頃、親友、春風亭梅枝らと「幸先組」というのを結成する。「幸先組ってのはどういうものなんだい?」と四代目志ん生(当時は金原亭馬生)に聞かれた梅枝は、「強気を助け、弱きをくじくんです。」と言って煙に巻いた。
梅枝の奇人ぶりを示すエピソードは多い。そのひとつ。行水をしていたさん生の女房を、切符を売って仲間に覗かせた。さん生も切符を買わされ、自分の女房の裸を仲間と一緒に覗いたという。
やがて梅枝は東京を去り、放浪の挙げ句、大阪で不遇のうちに死ぬ。臨終の際、女房に向かって「俺が死んだら四天王寺のどこそこを掘り返してくれ。壺の中にお前に残した金がある」と言った。葬式を済ませた後、女房が言われたとおり掘り返すが、何も出てきはしなかった。(一説に言う、女房が言われたとおり掘り返すと、果たして壺が出てきた。中を見ると一枚の紙切れがあり、そこには「これが嘘のつき納め」と書いてあった。)
翌年、さん生はさん馬から「真打ちになれ。」と言われる。自信が持てず一度は断るが、ついには承諾し、馬之助と名前まで決めて、昇進の準備を進めた。しかし、その頃、東京落語界は月給制を敷いた演芸会社とそれに反対した睦会とに分裂する。さん馬は睦会に参加すると言って血判まで押したにもかかわらず、三代目柳家小さんへの義理を果たすため、演芸会社へ寝返った。若いさん生はそれが我慢できず、睦会のリーダー五代目柳亭左楽のもとへ走る。
下谷黒門町の左楽の妾宅を訪ねたさん生に対し、左楽は「それは公用だからここでは聞かない。明日本宅の方へおいで。」と言った。そして、翌日左楽はさん生にこう言った。「よろしい、引き受けた。亭号なんぞはそのままでいいから、うちへおいでなさい。」左楽の人柄を偲ばせるエピソードだと思う。
八代目桂文楽が、人生の師と終生仰いだのが、この五代目柳亭左楽であった。

2009年4月5日日曜日

狼になりたい

時々、無性に食いたくなるものがある。私の場合、①ラーメン、②カツ丼、③カレーライス、というラインナップなのだが、別格として吉野家の牛丼を挙げておきたい。 
牛丼は、孤独な食い物である。それは、他のものと比較した時、歴然とする。 
例えば、ラーメンの場合、味噌にするか塩にするかスタミナにするか、それともここはシンプルに醤油ときめるか、注文する段階で楽しい逡巡がある。そして、出来上がりを待つ、気持ちの高まりがある。カツ丼にしろ、天丼や親子丼を勝ち抜いた威厳がある。 
ところが、牛丼の場合、注文する時は、並か大盛りかのどちらかしかない。そして、すぐに、湯気を立てた牛丼が目の前に供されるのである。ここには、我々が食い物と対峙する時の、間もない、対話もない。ただ、目の前の牛丼に紅ショウガを載せ、七味を振りかけて、わしわし食うしかないんである。そして、食い終わった後は余韻に浸る間もなく、茶を一口、口に含んで夜の街に出て行かなければならぬ。(こういう店は回転が勝負だからね)急いでい食ったもんだから、胃がしくしく痛む。寂寥感でいっぱいになる。 しかし、である。人間、これがたまんない時があるのである。 
牛丼は戦闘的な食い物である。かつて、中島みゆきが、自作「狼になりたい」の中で、吉野家の牛丼を歌ったように、人は狼になる時に牛丼を食うのである。カツ丼の、よーし、わしカツ丼食っちゃるもんね、という陽気な気分とは別の、暗く内にこもった戦闘意識が蓄積されるのである。 
いちばん印象に残っているのは、(現存はしないが)池袋駅西口付近にあった吉野家である。私は、立川談志が旧池袋演芸場に出ている時は、随分通ったものだ。この寄席は、盛り場の路地裏にあり、当時としても珍しい畳み敷きの席だった。まず、客は入らない。ここで、談志は年に二三回、十日間よほどの事がない限り休演せず、熱のこもった高座を務めた。それは、今思い出しても、とても濃密な空間だった。私は、ここに入る時、決まって腹ごしらえに牛丼を食った。そして、内なる戦闘意識をたぎらせて、しくしく痛む胃をおさえながら、思いつめた目で、立川談志の高座を見つめるのだった。

2009年4月4日土曜日

お花見

妻子を連れて、牛久のシャトー神谷へ花見に行く。
私と妻に言わせれば、旧名の牛久シャトーの方がしっくりくる。
花は八分咲きといったところ。
中では結婚式をやっていた。皆、晴れやかな笑顔。人が幸せそうにしているのを見るのはいいものです。
お腹が減ったので、栄町の千成亭へ。
私と妻は味噌ラーメン(正式名称は「サッポロラーメン」という)、息子二人には醤油ラーメンとチャーハンをとる。
味噌ラーメンは、具はもやしと挽肉のみ。にんにくと七味を効かせた濃厚なスープ。旨いのよ、これが。妻などは、ここを凌ぐ味噌ラーメンがなく、苦労している。
息子二人もばくばく食べる。チャーハンも食べさせて貰うが、うん、正しいチャーハンだな。いいねえ。
夕食はスーパーで買った鮪の切り落としと頂き物の鯵の干物、伊豆土産のわさび漬けでビール、燗酒。

4月1日から、12年勤めた職場から転勤した。全く違う環境で戸惑うことばかりだが、背伸びせず、出来ることを出来るようにやるつもり。