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2021年10月30日土曜日

柳家の一日

朝、トースト、ペンネ、スクランブルエッグ、紅茶。

BSで「おかえりモネ」の最終週を見て床屋に行く。



9時頃帰る。妻は仕事。子どもたちは図書館に行く。

私はだらだらしながら、この間買って来た五代目柳家小さんのCDを聴く。『笠碁』『粗忽の使者』『親子酒』の3本が入っている。小さんの噺には登場人物に対する愛がある。いいなあ。

昼は子どもたちがインスタントラーメンを作る。旨し。

妻が出勤前に干して行った布団を取り込む。日差しがたっぷり。気持ちいい。

午後はNHKの柳家小三治追悼番組を観た。

『お好み演芸会』の大喜利「はなしか横丁」の映像もあった。私が初めて鈴本演芸場に行った時、ちょうどこの番組の収録をやっていたのだ。忘れられない思い出である。

落語は東京落語会での『初天神』。マクラで往年の名人上手の物真似をやっていた。六代目春風亭柳橋、三代目三遊亭金馬、八代目三笑亭可楽、六代目三遊亭圓生、五代目古今亭志ん生、どれも達者だな。小三治の『初天神』もよく聴いたけど、何度聴いても楽しいよ。

妻と夕方ビール。

夕食はホットプレートでたこ焼きを焼きながら、燗酒を飲む。これまた旨し。

寝しなにアイリッシュウィスキー。


 

2021年10月26日火曜日

25ばんめの秋

  山は赤く赤く色づいて ススキが風に風に揺れている

  朝はとても冷たい もうすぐ冬が来るね

  朝はとても冷たい もうすぐ冬が来るね


岡林信康の名曲『26ばんめの秋』の一節である。

私たち夫婦も今年「25ばんめの秋」を迎えた。いわゆる銀婚式である。

この前の日曜日には家族で、ばんどう太郎に行き会食。久々の外飲みをした。帰りは息子が運転をしてくれた。

今日の夕食はチーズフォンデュで赤ワイン。食後は妻は白ワイン、私はアイリッシュウィスキーを飲んだ。


25年前、結婚式の翌日、私たちは車で2泊3日の伊豆旅行に出かけた。

湯ヶ島と松崎に泊まった。松崎プリンスホテルのレストランのブイヤベースが旨かった。

戸田岬から駿河湾越しに見える富士がきれいだったな。


 

内親王の結婚が発表された。一連の騒動を見ると、皇室がからんだ際の熱量の高さに圧倒される。私はとてもついて行けない。ただただ若い二人のこれからの幸せを祈る。結婚は色々大変だけど、いいものですよ。

2021年10月23日土曜日

秋晴れ、石岡散歩

朝、トースト、目玉焼き、ウィンナーソーセージ、コーンスープ。

土曜授業の次男を駅まで送る。空気はひんやりしているが、秋晴れ、気持ちいい。

妻は仕事。長男と留守番。コーヒーを淹れて飲む。コルトレーンを久々に聴く。

せっかくのいい天気なので、長男を連れ出して石岡を散歩する。


午前中は道のこっち側に日が当たるんだね。



国分寺にお参り。


都々逸坊扇歌堂。


昼は中町の紫苑。ここでのお気に入りはドライカレー。旨し。


帰って、散歩の途中で買った『封印漫画』(坂茂樹・鉄人文庫)を読む。

夕方、長男はアルバイトに行く。一日フリーだったのは私だけか。


夕食はチキン南蛮で燗酒。食後に妻と、甥からもらったヨーグルトの酒を飲む。

寝しなにアイリッシュウィスキー。


 

2021年10月22日金曜日

秋深し

今週の月曜日は十三夜のお月見だった。

妻が栗おこわを炊いてけんちん汁を作った。父がさんまを買って来た。

秋の味覚で燗酒を飲んだ。旨かった。

月もきれいだったよ。



昨日、我が家は初おでん。燗酒がまた旨いのよ。

で、今日の夕食もおでんで燗酒。もつ焼きも旨し、だったね。


この前撮った霞ケ浦のコスモス。


通勤路、ススキ越しの涸沼。


 いつの間にか「秋深し」となりましたな。ついこの間まで夏日だったのにね。

2021年10月17日日曜日

雨の一日

朝、御飯、味噌汁、ハムステーキ、納豆。

風呂場のカビ取りにはまる。

冷たい雨が降る。


CDで加古隆のピアノソロを聴く。

昼はモスバーガーのお持ち帰り。私はモスバーガーとテリヤキチキンバーガー。ちょっとだけ外食の気分を味わう。 

NHK「日本の話芸」で柳家小三治の『千早振る』を観る。

長男のワクチン接種の送迎。次男が図書館に行くというので送迎。

夕方、妻とハートランドビールを飲む。

雨が上がり、夕焼けが見える。


夕食はホットプレートで色んなものを焼きながら燗酒を飲む。肉、イカ、フランクフルトソーセージなどを焼いたが、じゃこ天、チーズが秀逸だったな。

食後にアイリッシュウィスキー。


何もない一日だったけど、旨いもの食って旨い酒飲んで、のんびり過ごせた。楽しかったよ。

2021年10月16日土曜日

今日の日記

朝、マフィン、牛乳。

風呂場のカビ取り。

昼は、昨日の晩飯の鍋のスープでうどんにする。旨し。

石岡の街を散歩。小雨がぱらつく。











有楽のたこ焼きを買って帰る。おやつに皆で食べる。旨し。

夕食は春巻、卵豆腐で燗酒。食後に妻とワインを飲む。

寝しなにアイリッシュウィスキー。


どうやら眞子内親王と私たちの結婚記念日が同じ日になりそうな気配。

しかし何だな、この結婚に際しての騒ぎにおける一部の人たちの振舞はすごいな。「本人のためを思って」と言ってその人を傷つけるのをモラルハラスメントというのではないかね。そしてメディアもその片棒を担ぐ。まるでこの世の地獄を見るようだよ。

 

2021年10月14日木曜日

柳家小三治の思い出

柳家小三治の思い出を、思いつくまま書こうと思う。

 

私が柳家小三治を知ったのは中学生の時だった。ラジオで『湯屋番』を聴いたのである。若旦那の人を食った能天気さに私は腹を抱えて笑った。

後に大西信行の『落語無頼語録』を読んで、『湯屋番』にこんなエピソードがあることを知った。

永六輔が主宰した落語会に俳優の毒蝮三太夫が出演して『湯屋番』を演じた。三太夫に続いて高座に上がった小三治は、「私もやってみようか?」と言って、同じ『湯屋番』を演った。そして大受けを取ったという。

この時の高座を大西はこう分析している。

「小三治がふだんからギャグやくすぐりで客を笑わそうとせずに、そこに出て来る人間のオカシサを落語の生命と見きわめて、それへ自分の芸を集中して来たその心掛けが、あの夜の笑いとなったのだ」

私にとって『湯屋番』は小三治なのである。

 

小三治の『小言念仏』を初めて聴いたのは、高校の頃、テレビの「放送演芸大賞」でだった。大賞を受賞した小三治は、スタジオにしつらえた急ごしらえの高座で『小言念仏』を演った。面白かったなあ。そうは見えなかったが力が入ったのだろう。叩きすぎて扇子が壊れた。高座を終えた彼は「かぜがぼろぼろになっちゃったよお」と言って、はにかんだように笑った。

大学に入って寄席に行くようになると、小三治はそこでのべつ『小言念仏』を演っていた。何十回となく聞いたが、その度に笑った。

落研部員だった私は、聞き覚えの『小言念仏』を高座にかけた。結果は惨敗だった。この噺の難しさを思い知り、愕然とした。

 

やはり大学の時、学習院大学が、小さんと小三治が出演する落語会を開いた。小さんが中入り前で『らくだ』、小三治がトリで『芝浜』という夢のような番組だった。この『芝浜』がよかった。何の説明もなく、「ちょいとお前さん、起きとくれよ」と始まる、クールな味付け。芝の浜での夜明けの場面の素晴らしさ。魚勝のひょいと見せるかわいらしさ。女房も、決して熱演しているわけではないが、しみじみと心にしみた。

 

小三治が長いマクラを振るようになったのはいつからだろう。『ま・く・ら』に入っている話で最も古いのは1982年だが、その多くは1990年代のものだ。

私が最初にああいうマクラを聴いたのも、やはり1990年代初頭だった。

筑波大の落研が小三治を呼んで落語会をやるというのを聞いて、仕事帰りに行ってみた。学生の「小三治の前でいい度胸してんな」という落語を聴きながら、辛抱強く小三治の出を待った。

そして、いよいよ待ちに待った登場。小三治は「二上がりかっこ」の出囃子に乗って高座に現れ、飄々とマクラを振り始めた。面白かったが、なかなか終わらない。「まさか、ここまで待って落語をやってくれないのではあるまいか」と不安になる。その話は、多分『ま・く・ら』の中に入っている「めりけん留学奮闘記」だったと思う。30分ほど喋った後、噺に入った。ネタは『出来心』。小三治はたっぷり演じた。私は満足したが、それでも「マクラ30分、噺25分はさすがにアンバランスだろう」と思った。しかし、やがてそれが小三治のスタイルとして認知されていく。

 

かつて色川武大は、三遊亭圓生を評して、「文楽・志ん生という高峰を知る自分は、圓生をどうしてもこの二人の下に置かざるを得ない」と言った。古今亭志ん朝も「文楽、志ん生、圓生と並べると、聞いて楽しいのは、文楽・志ん生だった」と言っている。これは多分に世代的なものだろう。文楽、志ん生が老い、圓生が全盛期を迎えた頃に落語を聴き始めた者は、圓生を最上位に置くことにためらいはないだろう。

私も同じように、志ん朝、談志、小三治を並べれば、どうしても小三治を一段低く置いてしまう。これはどうしようもない。

小三治には志ん朝のような華も談志のような凄みもない。だが、二人が持ち合わせていないフラがある。晩年の小三治はフラと間だけでも客を支配した。それはまるで古今亭志ん生のようだった。

 

そういえば、小三治の背後には色んなものが見えた。

もちろん、五代目小さんの影響は大きい。小さんの芸の継承し言語化させ発展させたのは小三治だと思う。

真打昇進時に立川談志が「小三治」という名前を欲しがったが、小さんはそれを許さず、後に小三治に襲名させた。「弟子の中では談志がいちばん上手い」と高く評価していたのにも関わらず、小さんは小三治を、柳家本流を継承する者に指名したのだ。今にして思うと、小さんの慧眼に恐れ入る。

ただ素人時代は三遊亭圓生にそっくりだったという。四、五十代の頃は圓生ばりに、大向こうをうならせる大ネタをよく演じていた。

『富久』では久蔵の造形に八代目三笑亭可楽の影響が見えた。

長いマクラから『一眼国』を演じる姿は、八代目林家正蔵を彷彿とさせた。

『船徳』『かんしゃく』『明烏』『厩火事』といった八代目桂文楽のネタもよく演じた。「私は後年文楽ファンになりました」と小三治は言っていた。『かんしゃく』を今につないでくれたのはありがたかった。

小三治のかくし芸に物真似があった。若い時分には、落語家の出の形態模写もやっていたという。また多趣味であり凝り性でもあった。様々なものを吸収する柔軟性が、小三治にはあったということだ。そして、それが彼の芸を豊かなものにしていったのだろう。

 

2000年代の前半、小三治は浅草演芸ホールの5月上席夜の部のトリを取っていた。私は何年かこの興行に通った。

ゴールデンウィークの浅草は観光客でいっぱいで、演芸ホールも混んでいた。しかし、時間が遅くなるにつれて客が減っていく。夕方に立ち見だったのが、夜の部の中入りには空席ができて座れてしまうのだ。「いいのか、小三治のトリだぞ」と、私は座れてラッキーなはずなのに、いささか憤慨したものだ。

持ち時間の関係もあったのだろうか、ここで小三治は長いマクラを振ることもなく、彼を聴くために残った客を相手に落語を喋った。『千早振る』、『野ざらし』、『天災』、『出来心』、そして『猫の皿』などを、私は堪能した。大向こうをうならせるようなネタではない。が、人間の可笑しさ愛おしさが、ふわっと立ち上ってきた。『猫の皿』での、とうもろこし畑の描写がよかった。

 

ここ10年ぐらいは池袋演芸場の8月上席昼の部のトリが、寄席で小三治を観ることができる機会になっていた。

私は2回行ったが、どちらも『一眼国』だった。それよりも集客がすごかった。開場1時間前に行っても長蛇の列。客席は身動きもできなかった。2001年に池袋で志ん朝を観た時には開演後でも座れたことを考えると、隔世の感があった。

いつしか私は、その興業の夜の部、林家正雀の怪談噺を選ぶようになった。

ここまで寄席に客が押し寄せるようになったのは喜ばしいことだ。しかし、正直に言えば、ふらっと寄席に入って小三治を楽しむことができた昔が懐かしかった。

 

20211010日、柳家小三治の訃報が届く。あまりにも突然だった。

駄句が次々とできた。以下に掲載し追悼の言葉としたい。

 

コスモスが揺れて、小三治が逝った

人は皆死ぬか小三治逝きにけり

志ん朝談志小三治と十年ごとに逝きにけり

小三治のいない夜長や手酌酒

 

長い間、楽しませていただき、ありがとうございました。ご冥福をお祈り申し上げます。

2021年10月10日日曜日

コスモス満開、柳家小三治の訃報を知る

昨夜は父が買って来た魚屋の刺身。しかも戻り鰹と鮪の中トロ、これでいただきものの純米酒を飲む。しみじみと旨し。



今日は朝のうちは曇り空だったが、やがて晴れて暑くなる。

次男を図書館に送った後、霞ケ浦の堤防を歩く。コスモスが見頃を迎えた。



昼はサッポロ一番塩ラーメンを作って食べる。

妻は午後から仕事に出た。


柳家小三治の訃報を知る。今月の7日に亡くなっていた。81歳。

志ん朝が死んで20年、談志が死んで10年か。志ん朝・談志亡き後、小三治は名人として落語界を支えてきた。異論はあるだろうが、私にとっての最後の名人だったな。もちろん、これからも名人と呼ぶにふさわしい人は出てくるだろう。人は彼らを名人と呼び支持もするだろう。それは一向に構わない。ただ、私が名人と呼ぶのは、柳家小三治で最後だというだけのことだ。そこには世代的なものもあるし、好みもある。つまり、私の私的な感情の表出に他ならない。

柳家小三治師匠のご冥福を祈る。


夕食はピザを焼く。ビール、白ワイン。食後に妻と飲む。私はアイリッシュウィスキーを飲んだ。

 

2021年10月9日土曜日

行ってみなけりゃわっかない

2002年3月、職場の仲間で北海道稚内に行った。

「行ってみなけりゃわっかない」と銘打った、一泊二日の弾丸ツアー。11時に羽田を飛び立ち、午後に稚内着。翌日の昼食を食べ、夕方には羽田に降り立つという、書いているだけでも慌ただしい。稚内市がいくらか出資したツアーじゃなかったかな。楽しかったよ。

写真を発掘してきた。

まずは日本最北端の地宗谷の岬。





 街並みも味わい深い。

稚内はロシアが近い。



稚内駅。日本最北端の線路。

稚内駅近くの旅館。

さいはての海の風景。



夜はサハリン館という所で、ロシアのショーを観た。


その後は、居酒屋に入り、ほっけをつつきながら酒を飲んだ。


旅館の夕食に出た、たこしゃぶは旨かったな。

ここでお土産を買って帰ったんだな。


恒例の47都道府県「魅力度ランキング」、北海道は安定の第1位。そして最下位は・・・・、茨城県が返り咲きでした。だからいいよ。最下位は茨城県が引き受ける。おいしいポジションは手放さなくていい。

2021年10月7日木曜日

三遊亭圓生と出口一雄

三遊亭圓生の『寄席楽屋帳』という本の中に、出口一雄が関わった「放送専属」についての記述があるので、紹介したい。

 

戦前から放送局はNHKだけだったが、戦後になって民間放送局ができた。その先駆けのひとつが、出口が勤めたKR(ラジオ東京)だった。そこに落語家も出演することになるのだが、民放はスポンサーがつくので、NHKよりも放送料がよけい取れることになる。当時、落語一席四千円で多くの落語家が出演した。

しかし、圓生は「はじめに安い給金で出てしまえば、今にちゃんとしたことになっても、先ィ行ってなかなか、倍にしてくれったってそうはいかない」との考えから、しばらく出演は見合わせた。合理主義者、圓生の面目躍如といったところだ。同じように出なかったのが、黒門町、八代目桂文楽。後に文楽はTBSのことを「うちの会社」と言うことになるのだから面白い。

そのうちに民放がさかんになり、あちこちで局ができる。圓生もラジオ東京に出演するようになった。

 

 これはまァ、出口さんという人との、いろいろ相談づくで、

「放送料は、このくらいでいかがでしょう」

 というようなことで、ちゃんと話を決めて、出たわけでございます。

 

専属の話が出たのは昭和二十八年の六月ごろ。圓生はその理由を、「落語ではありませんが、なにかでNHKのほうが、だれそれを専属にしたというようなことがありまして、これと対抗上、KRでもって、落語家の専属ってことを考えたんでしょう」と推測している。

メンバーは桂文楽、古今亭志ん生、三遊亭圓生、柳家小さん、昔々亭桃太郎の五人。圓生が桃太郎を指して「妙なとりあわせですね」と言ったところ、出口は「桃太郎という人は、噺は新作だし、色あいが全く違うが、このなかで、司会者というような役目をさせる便宜上、この人も入れて、五人を専属にしたいから、あなたも是非なってくれろ」と答えたという。

そして、七月に契約を結ぶからそれまでは他局には秘密にしてもらいたいが、それまでは他の仕事を受けてもいい、ということになった。調印は「七月の、五、六日のころ」。華々しく発表をしたわけではない。これ以降、NHKなどで圓生や小さんから出演を断られ、五人の専属契約が発覚した。当然、NHKを始め他局には衝撃が走った。

 

 だけども、出口さんの言うには、当時はまだ、金馬という人があり、柳橋とか、圓歌という人もいた。ここいらは押さえなかったてえのは、そうまでして、詰めちまうと、ほかのところも困っちまって、気の毒だから、この五人だけにしたんだというわけで・・・。

 

 その後、NHKは春風亭柳橋、桂三木助、文化放送は三笑亭可楽、三遊亭百生などを専属にする。ニッポン放送は古今亭志ん生を引き抜いた。

出口はその補充に、春風亭柳好、林家正蔵、三枡家小勝を入れ、柳好の死後は三遊亭圓遊を入れた。

専属契約後も圓生にはNHKから何度も出演依頼が来た。圓生にもNHKに出たいという気持ちがある。そこで圓生は出口と専属契約について話をした。

圓生は解約を申し出たが、出口は「専属は続けてほしい」と言う。「専属のままでNHKにも出演してもいい」とまで言った。しかし、圓生は、他の契約者と不公平になってはいけないので、重ねて解約を主張した。結局、専属料を減額し、その代わりNHKだけは出てもいい、ということになった。そこで、圓生のみ、昭和三十四年六月から、NHKTBSと両方に出演することができるようになった。

 

 KRとのはじめの契約では、この契約は永久にずッと継続していくんだという約束でしたけれども、そんなこといったって、上の人がいなくなったりして、だんだん内容も変わってきまして、とうとう昭和四十三年六月には、TBSの専属というのも、なくなってしまいました。

 

昭和四十三年当時、出口一雄、六十一歳。すでに定年退職し、デグチプロ社長として芸人たちのマネジメントをしていた。圓生の言う「上の人がいなくなったりして」というのは出口のことを指すのだろう。あの専属契約はやはり出口とともにあったのだ。

 

圓生について、出口の姪、Suziさんはこう言っている。

 

「伯父は、圓生さんとは深く話す間柄だったのかなあ? って感じです。

伯父とは生き方の違う人だったし。

圓生さんは、背の高いすらりとした色男で、若い時はさぞ美男子だったと想像しますね。

背広の日は、靴はコードバンのピカピカに磨いたのを履いていて、

「コードバンだよ。¥***だよ。気を付けて扱ってよ」なんて弟子に言ってましたね。

金額までを言うので、「みみっちいよなあ」なんて伯父は笑って言ってました。

「圓生さんの長女は、美人だぞ~~、親父の圓生がいい男だからなあ」そんな言葉を思い出します。

圓生さんはきれい好きで、少々神経質。

常日頃から、高座で話をしていても、

襟をいつも気にして、片手でいつも何となく整える癖のあったのだけはよく覚えています。

残っている録画をよく見てください。

ま、とっさに気の付いたのはこれくらいです。

子供でしたからねえ、そう覚えちゃいません」

 

ちょっとした挿話だが、圓生という人が出ていて面白い。

 

2021年10月3日日曜日

台風一過

昨日の日記。

朝、パン、コーンスープ、ハムステーキ。

次男は土曜授業、妻は仕事。

午前中、志ん朝の『三枚起請』を聴く。志ん朝が死んですぐに出たCDシリーズのうちの一枚。2000年の録音だ。サゲが「勤めの身だもの、朝寝がしたいんだよ」になっている。言葉を足しているな、と思い、昔のカセットテープを引っ張り出してくる。こちらは1980年頃の音源。やはり「朝寝がしたいんだよ」でサゲていた。このサゲが分からないお客がいたんだろうな。サゲを言った後の、ちょっとした違和感が、志ん朝に言葉を加えさせたのかもしれない。

『三枚起請』は、私が初めて志ん朝を聴いた時のネタ。確かNHKラジオで、東京落語会での録音を流したのだと思う。中学2年の頃だった。

中学1年の時に、父親から興津要編の『古典落語』を買ってもらい、夢中になって読んだ。だから廓噺も知ってはいた。でも、そんな知識はなくても面白かったと思う。華麗なリズムとテンポに圧倒された。言葉の波に身を任せる快感を私は知った。私が落語にはまったのは、この古今亭志ん朝との出会いが大きかった。

昼は味噌ラーメンを作って食べる。

給油に出掛けたついでに、霞ケ浦の堤防を回って来る。台風一過、よく晴れて暑くなった。


夕食はお好み焼きでビール、酒。食後に妻と赤ワイン。

寝しなにアイリッシュウィスキー。


今日の日記。

朝、妹がくれた乃が美のパン、牛乳、卵とウィンナーソーセージの炒めもの。

布団を干す。稲荷町の師匠、八代目林家正蔵の自伝『正蔵一代』を読む。

昼はカルボナーラ焼きそばを作って食べる。

妻は午後から仕事。

買い物に出たついでに廃線になった鹿島鉄道鉾田線の駅に行ってみる。ここはけっこう廃墟感が強いな。

駅名になっていた高校も廃校となった。



夕食は芋煮鍋を作る。芋煮、イカの唐揚げでビール、酒。せっかくだから山形の銘酒「初孫」を買って来て飲んだ。旨し。食後にアイリッシュウィスキー。

昼間は暑いが、夜になるとめっきり涼しくなる。秋だねえ。

 

2021年10月2日土曜日

志ん朝忌

昨日は台風の影響で一日大荒れの天気だった。一応、定時まで職場にいたが、帰りに海を見るとすごい波だった。

そして、2021年10月1日は、古今亭志ん朝の20回目の命日。あれから20年経つんだなあ。

当時の手帳を見ると、あの年(2001年)の4月4日に、私は池袋演芸場で志ん朝を観ている。

記録を基にその日のことを振り返ってみる。


その日は平日だったが、休暇をもらっていた。古今亭志ん朝が池袋演芸場でトリを取ることが分かっていたので、それを見に行くつもりだった。

妻は翌週に出産のため実家に行くことになっていた。天気が良かったので、昼前に妻と出掛け、桜の花を見て回った。途中、杏子亭(今はない)というケーキ屋に寄ってお茶を飲み、ケーキを買って来た。

昼は高菜チャーハンを作って食べた。

テレビで春の選抜高校野球大会の決勝戦を観た。常総学院の優勝を見届け、妻と買って来たケーキを食べ、そして私は池袋演芸場へ向かったのだ。

5時半に入場。既に満席で補助の折りたたみ椅子が出ていた。何とか空席を見つけて座った。その時には、古今亭志ん馬(故人・2013年没)が『ん廻し』を演っていた。

志ん朝までの出演者と演目を次に記す。

林家たい平『紙屑屋』、アサダ二世「奇術」、古今亭志ん橋『花見酒』、古今亭志ん五(故人・2010年没)『鈴ヶ森』、太田家元九郎(故人・2014年没)「津軽三味線」、古今亭志ん駒(故人・2018年没)『杉良太郎の話』~中入り~三遊亭歌之介(現圓歌)「漫談」、柳家権太楼『悋気の独楽』、和楽社中(翁家和楽・故人・2014年没)「太神楽」。

たい平の『紙屑屋』が、噺の途中で『湯屋番』が混じってしまい、客席は大受けとなった。志ん五の芸が大きくなっていた。もう飛び道具のような与太郎を看板としなくてもよい、本格派としての風格が身に付いていた。

古今亭志ん朝はトリで『船徳』。メモを見ると「途中とちりそうになったがまずまず」と書いてある。数年来、志ん朝はげっそりと痩せていた。声量が落ち、さすがに全盛期の勢いは感じられなくなっていた。でも人物や物事のとらえ方には深い味わいがあった。圧倒的で華麗な志ん朝から、積み重ねてきた人生をしみじみと感じさせる志ん朝へ、モデルチェンジしているように、私には思えた。『船徳』でも、やんちゃな若旦那を見つめる、おかみや竹屋のおじさんや客の方に志ん朝がいた。

と、ここまで書いて思う。正直に言えば、私はこの時の志ん朝の高座に、衰えを感じていたのだ。そして、それは63歳という年齢にしては早過ぎるものだった。

帰りは12時近くになっていた。コンビニで買って来たねぎとろ巻きでビールを飲んでクールダウンして寝た。


6月末に長男が生まれた。8月には妻と息子が実家から帰って来た。そして、初めての子育てという奮闘が始まった。

志ん朝は、8月の浅草演芸ホール、恒例の「住吉踊り」に出演後、入院した。新聞記事によると「糖尿病の治療のため」とあった。「体もガタがきているので、これを機会にちゃんと治そうと思います」というような本人の談話も載っていた。

私もそのつもりでいた。いずれ元気になった志ん朝の高座を楽しむことができる、と素直に信じていた。

立川談志は、「志ん朝入院」の報を聞いて、「癌じゃねえだろうな」と言ったという。

悲しいことに、この談志の予感通りになってしまった。

10月1日、志ん朝の訃報が全国を駆け巡った。末期の肝臓がんだった。雨が降っていたような記憶があって、ネットで調べたら、やはりその日東京地方は一日中雨だった。最高気温19.4℃、最低気温16.8℃。ほとんど気温は上がらず、肌寒い一日だった。言いようのない喪失感が私を襲った。



そして、20年後の昨日も、一日中雨の肌寒い日だった。