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2016年3月31日木曜日

笠間散歩


この間、笠間の日動美術館に広重の「東海道五十三次」展を観に行った。
絵を見た後は、例のごとくお稲荷様にお参りをし、笠間の街を散歩。
今回は荒町通りから、参道の1本向こうの通りを歩く。

ではまず荒町通りから。
昭和館が崩壊しているのを確認する。

この並びもけっこうシブイ建物が多い。




看板建築もある。

素敵なフォントですなあ。



この辺りで脇道に入る。

こういう所でちょい飲みをしてみたかったねえ。


「松緑」醸造元、笹目宗兵衛商店の裏門。


芸妓組合事務所があった。



稲荷神社の仲見世にあった、きれいどころの古写真。

その昔、笠間の芸者は有名だった。
小川の祇園祭に、笠間の芸者さんを乗せた屋台が出ていた記憶がある。
組合事務所があるということは、今も健在なんだろうな。
こちとら芸者を揚げるほど稼ぎがないから、縁はないんだけどね。でもまあ、こういうのは風情があっていい。


1時間ぐらい歩いて、カフェに入りコーヒーを飲む。
やっぱり古い街を歩くのは面白いねえ。

2016年3月25日金曜日

珍来美野里店 炒飯と餃子

茨城県を中心に「珍来」という中華屋のチェーン店がある。
一応手打ラーメンが看板だが、定食も充実していて旨い。
チェーン店には2種類ある。どこへ行っても同じメニュー、同じサービスという、がちがちのチェーン(例えばマクドナルドやワタミのような)と、店によって味もメニューもそれぞれ違う、ゆるいチェーン(例えば王将や養老乃瀧のような)だ。
そして珍来は間違いなく後者である。だから、我々が珍来を語る場合、必ず「どこの」珍来かが問題になる。

この間、小美玉市の旧美野里町地区にある珍来に行った。「美野里の珍来」で通称「みのちん」という。
通はこのように地名を冠した略称を使う。行方市の旧玉造町の珍来は「たまちん」、同じく行方市の手賀にあるのは「てがちん」といった具合。もし鉾田にあれば「ほこちん」か。思わず半濁点を付けて呼んでしまいそうになるが・・・、すみません。
まあいい。さて、この「みのちん」だが、実はここ、餃子が旨いというので有名なのだ。
行ったのは1時ごろ。でも、ちょっと待ったされる。テーブル席しかないのだが、相席をやらないのだ。6人掛けのテーブルにおじさん一人で座っているのを見ると、いいじゃん相席で、とも思うのだが、店の方針でもあるのだろう。郷に入れば郷に従え、我慢我慢と自分に言い聞かせる。
見てみると、ほとんどの客が餃子を注文している。さすが“餃子のみのちん”だねえ。
ほどなく座敷に通される。ここも6枚の座布団があるが、客は私一人だ。
迷わず餃子と炒飯を頼む。珍来は炒飯も旨いのよ。
まずは炒飯が到着。具は、卵、叉焼、葱、ナルト。まさに王道ですな。(王将の炒飯はナルトが入ってないのよ。)おたまの形の半球形、しかも大分飯がはみ出ている。盛りがいい。これに冷奴、たくあん、中華スープが付く。間違いない。旨し。
餃子は大ぶり。皮は薄目。あんがぎっしりと入っている。旨いねえ。少なくとも20年以上はこの店の看板を張ってきた味だ。間違いようがない。
炒飯が620円、餃子が350円、しめて970円。満腹満腹、大満足で店を出る。
茨城に来たら、どこの珍来を食うべきか、ぜひ地元の人に訊いてみてくださいな。







2016年3月23日水曜日

三代目三遊亭小圓朝と出口一雄、そしてSuziさん②

Suziさんはさらに続ける。
「子供のいないご夫婦で家は古い家でしたが、いつもきれいできちんと掃除がされていて静かです。畳の目まできちんと掃除されている、という感じでした。でもきれい過ぎて冷たいんじゃないんです。暖かいお宅でした。谷中の、昼間でも静かなたたずまいの住宅地でした。私は隅田川の橋を撮りまくり、造形写真にのめりこんで落語家の顔写真撮影に気分を切り替えるのは大変でしたが、師匠のお宅に来るとホッとするんです。そんな気分にさせてくれるお宅でした。」 

明治生まれの芸人の家らしい、手入れの行き届いた様子を彷彿とさせる。
文楽の黒門町の家も、きれいに磨きぬかれていた。ある時弟子入り志願の若者が来て、文楽の居間に通され、そのあまりの掃除の行き届き具合に恐れをなし(弟子入りすればその掃除を自分がやることになる)、隙を見て逃げ出したという話がある。 

「小圓朝さんは派手さのある人ではなく、そういう点では落語家には全く向いてない人で、何か黙々と仕事に打ち込む無口な職人さんのような人でした。下町の伝統の小物細工の職人になったら良かったんじゃないのかなあ、なんて思ったくらいです。
文楽さんのような色男でも,金馬のような甲高い声でコマッシャクレた子供の声をやらせたらピカ一、って特徴もない。円生師匠のような、ちょっと神経質だけどスラッとした男前の着物が似合うという人では絶対にないタイプです。志ん生さんのような酔っ払って高座に上がるなんてハチャメチャなんかからは程遠い地味な地味な人です。
酒も飲まない人でした。一対一の座談ではおかしな事も言うし楽しい人なのですが、いつも笑っていて陽気な人、華のあるタイプではありません。絶対に目立たない人でした。だから彼の一番の当たりの噺は『あくび指南』。あのボーっとした、なんとはないモーッとした雰囲気が向いていたんです。
私はお弟子さん方が習いに来るその部屋で小圓朝さんをフラッシュをたかずに撮りまくりました。 タバコ好きな方でした。後方に唐紙の線の入るのがどうしても気になるのですが部屋の構造上どうにもならなくて取り除けず、写真選考5回の規定の4回目でやっとパスしました。」 

小圓朝の人柄をよく伝えてくれる。小圓朝が、その実力を認められながら売れなかった理由、そして、多くの人に慕われた理由が、このSuziさんの話からよく分かる。 

「卒業写真は違う分野から2点、と決まっています。もう一つの卒業写真は勿論造形写真で清洲の当時開発途中のあのだだっ広い地面の水溜りが干上がり割れ目の入った地面を写し、フィルムの反転処理を何回かして作り上げて、ハイコントラストの反転写真(ネガ仕上がり)を焼き付け、それを真っ赤な染め粉で染め上げて作りました。教授は発想と色合いにびっくりし、これは1回でパスしました。
何とも現実は皮肉なことです。少し説明しますと当時の東雲、清洲なんてところは今とは全く違います。行けども行けどもだだっ広い平地があるだけ。陽の光がまぶしく、人っ子一人いない、なんてことがよくありました。『東京の地の果て』みたいな広い広い場所でした。空は高く、東京にいてこんな開放感に浸れる場所はなかったですね。そんな記憶しか私にはありません。
今の清洲も東雲も私は知りません。帰国しても浦島花子。友人達は改札口で会うのではなく。車両の何処に乗り、下りたところで待て、と指示される私になっています。
ロスは広いです。でもだだっ広くて田舎です。東京はロスより狭いかもしれません。でも東京は上にも下にも広がり巨大な大都会なのです。そして美しく、清潔で治安は良く、世界一の町です。駅のスピーカーからこんな言葉が流れます。
『次の電車は予定より1分遅れて到着いたします。ご迷惑をおかけして申し訳ありません』
そんな国が世界中の何処にあるでしょうか?ありませんよ。
『タクシーに***百万円忘れた!』と青い顔して交番に飛び込む酔っ払った客。でも、すぐ運ちゃんが届けてくれる国。
夜遅く駅を降りて女が一人で家まで歩いて帰れる国。そんな国は何処にもありません。
日本は世界一の国です。私は日本に生まれ日本人として育ち、江戸っ子気質の親父と、山の手の軍人の娘として育った品良い母を持ったことを誇りに思います。そしてその運の良さに感謝します。私が米国市民権を取ったとき主人は本当に喜んでくれました。しかしこうも言われたのです。
『ミドルネームに出口と言う苗字を入れてくれたことに感謝するよ(主人は私のラストネームが妙に気に入っていました)。でもなあ、市民権を取ってアメリカンになったってSuzi はSuziなんだ。日本人の誇りは一生涯持ち続けていてほしい。俺にとってお前さんがナニ人だってそんなことはいいんだ。ただ俺が惚れた女、それで十分。それに義母さんは大好きな人だしね』
そういってアメリカンになったことの祝いの夕食をしました。今こんな事を書いているとあっちの上のほうから見ていてきっとこう言うでしょう。
『ずいぶん昔の話だなあ』
この間ふっと思い出して自分の年を考え、そして驚き、駄作川柳が浮かびました。
   気が付けば亡夫の年より上になり
私は今73才です。主人は19年前71歳で向こうの岸に逝きました。
また、こんな句も作りました。
   早く来い此処は静かで良いところ(亡夫)
私は答えます。
   まだ行かぬ土産話がちと足りぬ 
そのうちいつか向こう岸へ行けたなら、主人に、両親に、義両親に、伯父に、そして小圓朝さんにも奥さんにも会えることでしょう。そしたらこう言いたいですね。 『デジタルカメラの時代になりました。あの後ろに在った、消すのに困った唐紙の線も簡単に取り除き、あの時よりもっとマシな写真を作りますからね』ってね。」 

小圓朝のことを知る人も、今は少なくなった。今回は貴重なお話を伺う機会を持てて嬉しかった。Suziさんに改めて感謝申し上げたい。ありがとうございます。
前述のとおり、小圓朝は昭和42年、脳溢血で倒れた。青蛙房から『三遊亭小圓朝集』が出たのは、昭和44年。そこにSuziさん撮影の写真も掲載された。
小圓朝は、昭和48年7月11日、高座に復帰することなく没した。「小圓朝を撮って残しておいてやってくれ」と言った出口さん。撮影したSuziさん。お二人とも本当にいい仕事をしてくれたと思う。




「三代目三遊亭小圓朝と出口一雄、そしてSuziさん」の稿、終わり


2016年3月22日火曜日

三代目三遊亭小圓朝と出口一雄、そしてSuziさん①

以前、Suziさんが送ってくださった資料の中に、三遊亭小圓朝の写真があった。これは、青蛙房の『三遊亭小圓朝集』の口絵に掲載されたもので、Suziさんが撮影したものだという。 

三代目三遊亭小圓朝、本名芳村幸太郎。三遊派の頭取だった二代目小圓朝を父に持つ。祖父は名人三遊亭圓朝の兄弟子だった。三代の落語家である。明治25年生まれとあるから、八代目桂文楽と同い年だ。(文楽も同じ三遊派だったが、こちらは大阪から呼ばれた初代桂小南の弟子だから、落語家のスタートとしては、天と地との開きがあった。)
子どもの頃、名人圓朝から「この子は噺家に向いているね」と言われ、四代目橘家圓喬の未亡人からは「圓喬の名前をあげるよ」と言われたという逸話を持っている。『後生鰻』や『千早振る』などの音源を聞くと、なるほど、SPレコードに残された圓喬の語り口に似ている。
大正6年、橘家圓之助で真打昇進。大正11年には、三遊派でも由緒ある名跡、三遊亭圓橘の四代目を襲名、昭和2年には父の跡をついで三代目三遊亭小圓朝を襲名した。
本格派で、江戸前で、将来を嘱望されたが、売れなかった。多分、文楽・志ん生のような「新しさ」が小圓朝にはなかったのだろう。昭和42年に脳溢血で倒れ、以後高座に復帰することなく昭和48年に亡くなった。 東大落語研究会の技術顧問を長く務め、谷中初音町に住んだことから「初音町の師匠」と慕われた。 

Suziさんが撮影した小圓朝の写真は2枚。煙草を手に持って笑顔を見せているものと、小圓朝夫婦が自宅の縁側に腰を掛けているところ。いかにも明治生まれの芸人らしい、いい顔をしている。
 彼女は、これが大学の卒業制作だと言っていた。どのような経緯で撮影となったのか、興味深いところだ。(もしかしたら、彼女の伯父出口一雄も一枚噛んでいるかもしれない) 

Suziさんは次のように語ってくれた。
「伯父からある日話が来ました。
『お前なあ落語家の写真を撮る気はないか?』
いい案なのは百も承知。自分の置かれている素晴らしい環境もわかる。でもあまり乗り気ではなかったんです。理由は簡単、私はポートレートが苦手なんです。特に若い女性のなんて授業でやらされるけど大嫌いでした。
一方で落語家さんはやってみたいな、という気はありました。しかし当時の私は造形写真に凝っていて、夢中でした。これぞ写真アート!なんて夢中でしたので、これに時間を割いてしまって。今考えると、宝の山をみすみす捨てていたようなものです。だから撮っていないんです。馬鹿な事をしました。若かったんですねえ。
それでも卒業作品制作時期になり、俄かに撮ってみたくなりました。円生さんをちょっと考えたけど、何となく好きになれないムードの人で。そこで伯父に相談しました。
『お前なあ、小圓朝がいいぞ。売れてはいない地味な落語家だけど、あの顔はいいぞ。それになあ、撮って残してやってくれ』と言われました。」 

やはり出口一雄が絡んでいたか。それにしても小圓朝を「撮って残してやってくれ」というのはいい。いかにも芸人に寄り添う出口らしいもの言いだ。しかも小圓朝。選択に間違いがない。改めて出口一雄という人の眼の確かさに感じ入る。 

こうしてSuziさんは谷中初音町の小圓朝宅を訪れた。
「谷中の細い路地を入って行き、格子戸を開けると玄関。右側が縁側で小さな庭がありました。 小圓朝さんは小柄な目立たない本当に地味な人でした。いつも着物の人で、洋服を着たのを見たことはありません。奥さん手作りの巾着に扇子や手ぬぐいを入れて、飄々と谷中の路地を歩いていました。
奥さんも着物ばっかり。静かな声の太いしゃべり方で、その辺にいるおかみさん。人柄が本当にいいお二人なんです。なんだかホッとする雰囲気の、まさにお人好し夫婦でした。伺うと、お菓子とお茶を出して下さって。
でも、師匠は結構忙しいんです。ひっきりなしに次から次へと若手の落語家連中が来るんです。落語を習いに来るんです。小圓朝さんという方は、当時落語界では右に出る人がいない、というネタ持ちの人でした。あらゆる師匠の弟子さんが自分の師匠に言われて小圓朝さんのところに来る、そんな人でした。縁側に面した6畳か8畳間の部屋に入り習っている声が聞こえます。その間は撮影が出来ないので、奥さんとお菓子をいただきながら、お茶飲んで話します。話をしていてホッとする人でした。」 

平凡社から出た『古今東西落語家事典』の中に、小圓朝について次のような記述がある。
「骨格がしっかりしているだけに稽古台としてうってつけであり、多くの噺家が稽古に来たばかりでなく、東大落語研究会の学生の実技指導を長年行なって、プロよりも優先して稽古をつけてもらった東大生は百人にもなる。」
Suziさんの描くそのままである。



三代目小圓朝の実父、二代目小圓朝。
八代目桂文楽が初代桂小南に入門した当時、三遊派の頭取だった。
五代目古今亭志ん生の最初の師匠でもある。


2016年3月21日月曜日

上野に行って来た


この3連休は、長男の部活も休みだったので、1日ぐらい遠出しようと、東京に行って来た。
いい機会なので、私は子どもたちを連れて国立科学博物館へ、妻は大学時代の友だちと会うというプランを立てた。
3連休の中日ということもあり、上野はいっぱいの人出。
4時前に上野駅で待ち合わせることにして、我々は上野公園に入る。後で聞くと、この日は動物園が入場無料とのこと。確かに人は多かった。
国立科学博物館では特別展の「恐竜博」始まったばかり。特別展の入場は70分待ちとなっていた。
私たちは常設展に入る。子どもたちも2回目ということで、手慣れた様子で体験を楽しむ。うちの子たちは、生物・地学より、物理・化学の方が好きみたい。純度の高い理系なんだな。

純度の高い理系兄弟。

お昼過ぎ、いったん博物館を出てお昼を食べに行く。
常磐線で上野に来て、親子で昼食となると、やはり「じゅらく」ですか。少し並んだものの、それほど待つこともなく、2階席に案内された。
長男は好物のデミグラスハンバーグオムライス。次男はとんかつセット。私はナポリタンでビールを飲む。みんなお腹いっぱい。美味しかった。
もう一度上野公園に戻って、博物館に再入場。今度は自分たちの好きな階を重点的に攻める。
時間ぎりぎりまで粘って、待ち合わせの上野駅中央改札口へ。妻のお友達とも久し振りに顔を合わせた。何しろ前に会ったのは、長男が赤ん坊の頃だったからね。それが来年は高校受験だもの、月日の経つのは速いもんだねえ。
家に着いたのは7時頃。帰りにスーパーで買って来た干瓢巻と鯵のたたきをつまみに、ビール、酒を飲む。
いい陽気になってきましたな。またどっか行きましょう。

国立科学博物館。重厚な造りだ。


上野駅にある啄木の歌碑。



2016年3月15日火曜日

友川カズキは元気だった

先日、録画しておいた「フォークソング出張ゼミナール」というBS・NHKの番組を観た。
なぎら健壱と坂崎幸之助が講師で、日本のフォークの歴史を辿るといった内容。蒲田にある日本工学院専門学校の教室を使って、まるで大学の授業のように進行する。プロジェクターを使って映像を流し、時折二人がギターを弾きながら歌う。お客というか生徒というか、聴衆は見事に中高年がずらりと並んでいる。(たまにとんがった若いお姉ちゃんの姿が見える)
ゲストは友川カズキ。久し振りのテレビだが、相変わらずの自然体だ。ジャケットの胸ポケットには赤ペンが差してある。たぶん競輪の予想に使うんだろうけど、赤ペン差してテレビに出る人はあまりいない。出番まで、蒲田の駅前で飲んでいたらしい。飲んでる所で声を掛けられて、ふらっと立ち寄った感じだ。(友川のホームグランドは多摩川の向こうっ側の川崎だし)
前にも書いたが、私が学生時代に住んでいたアパートは、友川が住んでいたアパートと番地が1つしか違わなかった。私は友川が普段酒を買っていた三玉酒店で酒を買い、銭湯では一緒の湯船に浸かったこともある。(だからといって交流はなかった。私は彼の熱烈なファンではあったが、声を掛ける勇気はなかったのである)
あの頃は、友川も鋭い目をしていて、生き急いでいる印象があった。モーニングビールに始まり、夜まで飲み続けるような生活をしていると何かで読んだ覚えがある。破滅的天才詩人のような彼の生活に、私は憧れた。
そんな友川も今年で66歳。もうじいさんだ。初対面のなぎらに首を絞められた話をして、爆笑を誘う。変に馬鹿丁寧な秋田弁で、けっこう辛辣なことを言うのが可笑しい。飄々としていい味を出している。
で、その後、代表曲『生きてるって言ってみろ』を歌うんだけど、これがまあ凄い。ただならぬ雰囲気は昔のまま。ギターの弦を3本ぐらい切っちゃって、コードも意味をなさない有様。坂崎幸之助がいかにもやりづらそうにバックを務めていた(なぎらは最初から逃げた)。友川の方で合わそうなんて気はさらさらないんだもんな。(この間亡くなった橘家圓蔵が、正月番組で今の三平相手に大暴れしてたのを思い出したよ)
友川には、「死」や「孤独」「絶望」を歌いながら、それに飲み込まれない強靭さがある。私は昔友川について、「死なない太宰を見てみたい」と書いたことがあるが、まさにそんな風に齢を取ってくれた。学生時代のようにのめり込むことはないと思うけど、これからも長く聴きつづけると思う。取りあえず、友川カズキが元気で嬉しかった。
番組自体も、なぎらと坂崎の薀蓄バトルが楽しいし、紹介される曲も幅広い。これからもチェックしていきたい番組だ。今度は三上寛も見てみたいなあ。NHKさん、ひとつよろしくお願いします。

胸ポケットにしっかり赤ペン差しております。

歌ってる時は枯れてない。全開だ。

必死で合わせる坂崎幸之助。
合わせる気なんて全然ない友川カズキ。



2016年3月12日土曜日

「あの日」のこと

今年は、うるう年のせいで、3月からの曜日の巡りが「あの年」と同じになった。

「あの時」、私は職場のパソコンに向かっていた。
突然、誰かに両肩をつかまれ揺すぶられるような、強烈な横揺れを感じた。揺れはいつまでも止まらなかった。パソコンの電源が切れ、部屋の蛍光灯が消えた。
その日は、5時半ごろ職場を出て、いつもは30分の道を1時間半かけて帰った。
家族は家の中にいるのが怖いと言って、車の中にいた。そこで私は夕食のおにぎりを食べた。
9時過ぎ、皆で真っ暗な家に入り、蒲団にくるまって寝た。余震が何度も起こり、上空をヘリコプターが引っ切り無しに飛ぶ音が聞こえた。怖かった。

昨日はそんなことを思い出しながら、2時46分には一人黙祷を捧げた。
帰りは5時半ごろ職場を出たのだが、すぐに車のタイヤがパンクして、JAFを呼んでタイヤを買い換えて、というようなことをしていたら、家に着いたのは8時近くになっていた。
偶然にも、「あの日」と同じような時間帯に、同じような道を通って、帰って来たことになる。
「あの日」のように、信号も消え、街灯も消え、家々の灯も消えた真っ暗な中を帰って来たわけではない。所々ひび割れ、盛り上がり、段差ができた道を走って来たわけでもない。道端に液状化でできた水たまりがあったわけでもない。それでも、私はあの時の感覚をひりひりと感じながら、車を走らせていた。
家に帰り、妻が用意してくれた夕食を一人で食べながら酒を飲み、ふとテレビをつけると、震災関係の番組をやっていた。見ていると泣けてきて、消してしまった。今でも震災の記事を読んだり、映像を見たりすると、私は泣いてしまう。なぜ泣いてしまうんだ。私はそれほどひどい目に遭ったわけではないのに。

職場の建物から避難し、外で待機している時に、震度6弱の大きな余震が来た。建物がひどく震えるのがはっきりと見え、誰かが悲鳴を上げた。
余震は何度も何度もやって来た。地面が絶えず揺れているような気がした。
世界が大きく歪んだのを感じた。その歪みのために世界は何度も何度も揺すぶられ続けるのだと思った。
電気が復旧して情報が入るようになると、東北の惨状が明らかになった。その光景は余りにも理不尽で無慈悲だった。圧倒的な暴力の跡が、そこにあった。
そして原発があっけなく爆発した。世界はこうしてあっけなく終わるのだと思った。

それから5年か。
日常は今も続いている。
しかし世界は歪んだままだ。もう元には戻らない。

2016年3月8日火曜日

大洗磯前神社


大洗磯前(いそざき)神社、拝殿。
祭神は大己貴命(おおなむちのみこと:別名大国主命)と少彦名命(すくなひこなのみこと)。856年(斉衡3年)、この二柱の神が、大洗の海岸に降臨したのが、この神社の始まりという。その場所には現在鳥居が立ち、神磯の鳥居と呼ばれている。

翌朝撮った。朝日に映えて神々しい。

手前には謂れを刻んだ石碑が立つ。

永禄年間(16世紀半ば)に戦乱のため荒廃したが、元禄年間、水戸徳川家2代藩主光圀公が造営を始め、3代藩主綱條公の時代に現在の拝殿・本殿・随神門が完成した。これらは江戸時代初期の建築様式を今に伝え、県の指定文化財となっている。

随神門。

本殿。茅葺だ。

太平洋が眼下に広がる絶景の地にあり、正月には多くの人が初詣に訪れる。

どーんと太平洋が広がる。

大洗の観光スポットの中核をなすところでもある。

となると、やはり「ガルパン」ですか。

境内には、太平洋戦争時、トラック島で沈んだ巡洋艦那珂の忠魂碑があった。




長い石段を下りると、寒禊をするのであろう神池が、ひっそりとある。


お参りするのは約30年振り。大洗にはけっこう来るけど、いつもは下の道を素通りしてしまう。たまには歩いてみるもんだね。

2016年3月2日水曜日

大洗の街並み

大洗の古い町並みは、旧道沿いに磯前神社に向かって、大貫、髭釜、永町、曲松といった商店街が、だらだらと続いていく。
各商店街の名称を確認するためネットで検索してみたら、見事にアニメ『ガールズ・アンド・パンツァー』に関するものが、ずらりと出てきた。このアニメを見たことはないが、大洗を歩けば、否応なく情報は入ってくる。かわいい女子高生が戦車で戦う部活の話らしい。その舞台が、この大洗の街なのである。
「かわいい女子高生」「ミリタリー」など、オタクの心をぐっとつかんで放さないアイテムに加え、リアルな街の描写が密接に結びついて、この大洗「聖地巡礼」ブームを呼んでいる、といったところだろうか。しかも、アニメの登場人物のパネルが至る所に展示されているのである。マニアにはたまんないな、きっと。
考えてみれば、宮澤賢治が好きで花巻を訪れる(私もやりました)とか、太宰治ファンが津軽を旅する(これもやった)とか、大林宣彦の映画を観て尾道の街を歩く(ああこれもやった)とかと、結局は同じなのだ。そりゃ行きたくなるよ、無理もない。
時代から取り残されたような古い商店街にアニメファンが集い、買い物をし飲み食いしてくれる。この街で商売を営む人にとっては、ありがたいことだよなあ。これからも「聖地」として、末永く栄えてもらいたいと、県民の一人として願わずにいられない。

ただ、アニメファンの関心は、どうしてもあの「ガルパンパネル」に集中するんだよな。ネットの画像もあればっかりだ。でも、街並みもけっこうすごいポテンシャルなのよ。レトロ街並み愛好家でも、きっと唸ると思うんだ。
というわけで、先日大洗を歩いた時、撮った写真。例によって、シブい建物を中心に撮りました。






こういう八百屋さんも少なくなりましたな。

梶井基次郎『檸檬』のような店先。





お菓子屋さんだったみたい。
大洗ではいちばん好きな建物。


タクシー屋にはシブイのが多い。

この本屋さんに置いてあるのは、ほとんどが「ガルパン」関係の本です。

これもシブいなあ。


床屋さんもシブいのが多い。

月の井酒造。



人形町末廣みたい。



クリーニング屋さんもシブイのが多い。


商店街が尽きると、どーんと磯前神社の大鳥居がそびえ立つ。