ページビューの合計

2009年12月25日金曜日

雑感

文春ムック『今面白い落語家50』を買う。
落語好き523人に対するアンケートによるランキング。
第1位は柳家喬太郎。意外だがうなずける結果。
ちょっとマニア寄りかもしれないが、落語のライブを数多く観ている人たちの意見なんだなと思う。
柳家、林家の止め名の人は入っていない。ってゆうか、大きな名前の人は一人も入っていない。
最近読んだ、5代目柳家つばめ『落語の世界』の中で、つばめが、「現在のようにマスコミが発達すると襲名の必要がなくなり、一つ名前で通す人が多くなるかもしれない」というようなことを書いていたが、まさにそういう世の中になったと言えるだろう。
それと、スター春風亭小朝がベスト10に入っていない。
立川談笑、春風亭昇太、柳亭市馬、柳家三三が小朝の上に立っているのを見ると、堀井憲一郎が『落語論』で、「小朝の現在の評価は低すぎる」と言っているのが真実味を帯びてくる。
ただなあ、小朝、少々イタいのだ。今時、金髪のソフトモヒカンだし、ブログは絵文字が踊ってるし、彼のセンスに、まさに堀井の言ではないが、「80年代ファッションを見せられているような」気持ちになるのだ。
もちろん小朝は圧倒的に上手い。プロデューサーとしての才能も抜群、落語に対する問題意識も高い。東京の落語界にとって最も重要な人物と言っていいだろう。三遊亭圓朝襲名の噂も依然としてある。
それが実現すれば一発逆転だろうな。恐らく社会現象になるに違いない。それだけの仕掛けを、小朝のことだ、仕掛けてくるだろう。落語も押しも押されもせぬメジャーな存在になるんだろうな。それはこの上もなく喜ばしいことだ。
ただ、私はその熱狂からは、少し距離を置くと思う。それは単に趣味の問題なんだけどね、多分その時も、私は少々イタいと感じると思うな。
今回は徒然なるがままの、ものぐるほしけれな感想でした。

2009年12月18日金曜日

絵を見に行く

午後から休みが取れる。
ちょっと足をのばして、笠間日動美術館へ行く。
5年ぶりぐらいか。本当に久し振り。
企画は「輝ける女性像展」と「高橋由一と近代日本美術展」。
フランス館、日本館とゆっくり楽しむ。
作者は忘れたが「口紅ー明治の女」という小さい絵がよかった。
貧相でやせっぽちな女が、暗がりの中、緋縮緬の長襦袢をはおり、紅をさしている。
それが何とも哀れでいいな。
もちろん、ルノアール、ゴッホ、ピカソ、シャガールなど錚々たる名作が勢揃い。素晴らしい。
2時間ほどいて、コーヒーを飲んで帰る。
たまにはこんな日があってもいいよねえ。

2009年12月12日土曜日

私の原風景

久し振りに、カメラをぶら下げ、霞ヶ浦の堤防を散歩する。
鏡のような湖面に鴨が浮かぶ。
前日の雨で空気が澄み渡り、筑波山が近い。
ああ私の原風景はこれなのだ、そう思いながらシャッターを切ったのでした。

2009年12月9日水曜日

襲名考 その2

襲名に関する騒動で最も有名なのが五代目柳家小さんのものだろう。
四代目小さんの死から3年後、桂文楽が、進境著しい小三治を五代目小さんにしようとした。時に小三治、35歳。これには、四代目門下の兄弟子たちが猛反発した。中でも蝶花楼馬楽が強硬に「自分が小さんになる」と言って聞かない。
馬楽は三遊派で落語家としてのスタートを切りながら、紆余曲折を経て三代目小さん門下になった人だ。三代目引退の後は四代目門下となり、四代目の前名である馬楽を譲られた。三代目小さんを敬愛し、小さんという名前には強い憧憬があった。
この一件では、一時テキ屋の親分までが乗り出す騒ぎとなった。結局、五代目小さんは小三治が継ぎ、馬楽は「小さん」級の名前を襲名することで片が付く。
白羽の矢が立ったのは、「林家正蔵」という名跡だった。七代目が死に、彼の息子三平はまだ前座の身だった。そこで落語協会幹部が遺族と交渉し、「一代限りの借用」ということで八代目林家正蔵が誕生したのである。
この時の借用の証文が今も残っている。八代目正蔵の本名、岡本義名義で書かれた証文には、九代目正蔵は海老名家(七代目正蔵の遺族)へ返上すると明記されている。
八代目は三平が売り出すと、正蔵を返す旨を申し出たが、三平は、八代目存命中は正蔵で通して欲しいと言って辞退した。ところが、三平は八代目より早く死ぬ。そこで八代目は彦六と改名し、正蔵の名を海老名家に返した。
この時、七代目の未亡人は「ずいぶん遅くなりました」と言ったという。海老名家としては、三平の真打ち昇進時に返してもらうつもりだった。正蔵という名前はあくまで海老名家のものであるという意識だったのだ。
しかし、七代目正蔵襲名の経緯を知ると首をかしげたくなる。
大正15年、柳家三語楼が落語協会を脱退、師三代目小さんと袂を分かつ。三語楼門下の小三治も行動を共にしたのだが、小三治は柳家の出世名、小さん門下から流出させるわけにはいかない。昭和4年、落語協会は小三治の名前の返上を要求するが、三語楼側ではそれに応じない。業を煮やした落語協会は、後に落語協会の事務員になる高橋栄次郎に小三治を襲名させてしまう。そこでやむなく三語楼門下の小三治は、たまたま空いていた名跡、七代目林家正蔵を襲名するのだ。(ここでも柳家小三治という名前が絡む。何やら因縁めいたものを感じる。)
七代目正蔵は他の三語楼門下と同じく爆笑派で、三平の「どうもすみません」のギャグはこの人が元祖だという。怪談噺の始祖、林家正蔵の芸風ではない。
三平は正蔵になることを拒み、昭和の爆笑王として、三平の名前を落語史に残した。
五代目小さんは柳家本流の滑稽噺を見事に継承する。七代目三笑亭可楽経由で三代目小さんの芸を吸収し、その器の大きさで門弟に慕われ、今日の柳家隆盛を築いた。
八代目正蔵はもともと三遊派の人である。型から入る演出で、彼が小さんになったら、柳家の芸は変質してしまっただろう。三遊亭一朝に仕込まれた怪談噺や人情噺で、文字通り「正蔵らしい正蔵」となった。
こう考えると、神は絶妙な配材をしたのだと思う。
芸名はあくまで落語界のもので、家のものではない。その名前に合った芸風でしかるべき実力を持った者が襲名すべきではないか、と私は思うのだ。

2009年12月8日火曜日

襲名考 その1

文楽・志ん生・圓生が昭和の名人なら、平成の名人は志ん朝・談志・小三治の3人だと思うが、こう並べてみると、昭和と平成では際立った違いがある。
昭和の名人が、それぞれの亭号の最高位か、それに準じた名前を襲名しているのに対し、平成の名人の名前はいずれも小さい。
志ん朝を真打ちで名乗ったのはたった一人。談志は明治期の「寄席四天王」として売れた名前だが、名人が名乗る名前ではない。小三治は将来小さんを継ぐ有望株に与えられる名前で、あくまで大看板は小さんである。
つまり、彼らは彼らの芸に相応しい名前を継ぐことなく、若手の名前のままでいることを選んだのだ。
実力者ほど名前を変えない。志ん朝・談志・小三治の同世代では圓楽・圓弥・圓窓の圓生門下。彼らに続く世代でも、小朝・さん喬なども芸の格と名前とのギャップがあると思う。芸協では米丸・歌丸の師弟、小遊三あたりか。
確かに売れているのに名前を変えるのは大きなリスクを伴う。何せ圓歌・圓蔵がいまだに歌奴・圓鏡のイメージで見られがちなのだ。また、自分で名前を大きくしたいという気持ちもあるだろう。
古くは三遊亭圓朝が弟子に三遊亭の最高位圓生を継がせ、圓朝の名を不朽のものにした。(小朝も自分の弟子に五明楼玉の輔や橘家圓太郎など由緒ある名前を継がせている。)橘家圓喬は自らの至芸で、もともとの二つ目名を落語界の永久欠番のような名前にした。(志ん朝という名前も近々そうなるに違いない。)
それに、襲名には色々な事情が絡む。圓生一門は襲名どころではない状況だったろうし、適当な名前もなかったのかもしれない。小三治は、小さんが衰えたとき「さん翁」にでもなって譲ってくれれば六代目を継げただろうに、完全にタイミングを逸してしまった。先代の遺族との関係も複雑らしい。(最近世襲による襲名が目立つのも、原因は案外この辺にあるのではないか。)
もちろん、襲名は落語家の側の問題で、門外漢が口を出すべき問題ではない。現文楽襲名の際、囂々たる非難の中、襲名返上を小さんに申し出て慰められたエピソードなどを聞くと気の毒だと思う。
でも、歌舞伎で言えば、団十郎より海老蔵の方がいい、歌右衛門より福助の方がいいという状態は寂しいものだと思うのだが。

2009年11月29日日曜日

穏やかな週末

昨日は妻子を連れ、麻生温泉へ。
ゆっくり温まる。
小春日和。
霞ヶ浦に帆引き船が浮かぶ。絶景。
湯上がりのサイダーが旨い。

今日は妻子とつくばに出かける。
すっかりクリスマスの装い。
西武で古本市をやっている。
『藝談』(東京新聞社・昭和25年刊)、『野球の好きな少年少女へ、ぼくの野球コーチ』(川上哲治・昭和33年刊)、『長枕褥合戦』(風来山人・昭和27年刊)の3冊を買う。
どれも、まあすごいな。
子どもたちはメリーゴーランドに乗ってご満悦。
夕食は、ピザ、ミートローフ、サラダ、フランスパンで赤ワイン。
パンにタルタルソースを塗り、サラダのレタスとハムを挟んで食べる。旨し。

2009年11月20日金曜日

寒い日

昨日は平日の休み。
下の子がインフルエンザ。昨夜まで高熱でしくしく泣いていたのに、タミフル飲んだらもう元気になった。上の子は弟のおかげで出校停止。
1日、子どもと遊ぶ。将棋を3回もやっちゃった。
冷たい雨。
夕食はビザ、ナポリタン、パン、サラダでボジョレーヌーボー。
子どもを寝かしつけて、ボウモアを飲む。
寝酒にアイリッシュウイスキーを飲むのが、この頃のお気に入り。
氷は入れず、少量の水で割る。こうすると味の角が取れるのだ。
鼻腔に潮の香りが広がる。

   海にゐるのは、
   あれは、人魚ではないのです。
   海にゐるのは、
   あれは、浪ばかり。

中原中也の『北の海』が、思わず口をついて出てくるのでした。

2009年11月16日月曜日

田山花袋『田舎教師』

このところ昔読んだ本を読み返している。これもその一つ。
高校生の頃読んだときはつまんなかったなあ。でも、今読んでみると面白いのよ。
青雲の志を抱くものの、家の貧困のため、やむなく小学校の教員になった青年、林清三。
友人は東京の学校に進み、学問に恋愛に青春を謳歌している。それを羨望の眼差しで眺めつつ、自らも文学や音楽で世に出ようと試みるが、結局挫折してしまう。密かに想っていた女も親友に取られ、絶望の淵に落ちる。
一時女郎買いにはまり身を持ち崩しかけるが、やがてその女郎が身請けされ店からいなくなると、目が覚め立ち直る。平凡の尊さに気づき、日々の生活に向かうようになるのもつかの間、病魔が清三を襲う。肺病を病み衰弱し、日露戦争の遼陽陥落を祝う提灯行列賑わう中、息を引き取る。
切ないねえ。
皆、若いうちはひとかどの人物になりたいものだ。人間として生まれてきたからには、人の世にわずかでもいいから自分の名前を残したい。しかし、実は名も知られず死んでいく人の方が圧倒的に多いのだ。しかも、実際に世の中を支えているのは、一握りの名を残した人ではなく、名もない多くの人々なのである。
多くの人にとって人生とは、自分は特別な人間ではないということを知っていくことなのかもしれない。そして、自らの平凡と向き合い、自分と自分に関わる人たちの幸福への道を探っていくものなのだ。
清三は、恋に破れ、功名に挫折し、女の肉に溺れた。そうした体験をくぐり抜け、やっと平凡の尊さに気づいた直後、死病に冒された。日々衰弱していく清三が、路傍の草花を丹念に書きとめ(「じごくのかまのふた」「ままこのしりぬぐい」なんて名前の植物があるんだねえ)、元教え子との淡い恋に想いを寄せる。私は、この人は死ぬのだろうなと思いながら読み、死なないですむ終わり方はないものかと思いながら読んだ。
主人公は実在の人物をモデルにしている。実際にこういう人生を歩んだ人がいて、結核で死ぬ人が多かった時代、それがそんなに特異な人生であったわけでもないのだろう。
時折差し挟まれる「ラブ」や「ライフ」などの英語が何とも気恥ずかしいが、若者の稚気がよく出ていて微笑ましい。一度女の肉を知った後、それに溺れていくのも気持ちは分かる。元教え子との恋も応援したくなった。林清三は、至らぬところは多いが、側に行って手を差し伸べたくなるようないい奴だったな。
この小説の読み所をもうひとつ。片田舎の自然描写がすばらしい。清三の功名心や鬱屈とは関わりなく悠然と流れる四季の移ろいがいい。
ちなみに、この舞台となっている埼玉県の羽生・行田・熊谷にかけての辺りが、妻との交際時代よく通った所なんだよねえ。私事で申し訳ない。

2009年11月12日木曜日

桂文楽 落語研究会

昭和3年3月11日、第2次落語研究会の第1回が開催された。
ここに文楽は十八番の『明烏』で出演している。
トリは蝶花楼馬楽(四代目小さん)で『長屋の花見』。その他に、五代目三遊亭圓生『二番煎じ』、八代目桂文治『星野屋』、春風亭柳橋『子別れ』と錚々たるメンバーが、それぞれの得意ネタで競演した。若手では三遊亭圓楽(八代目林家正蔵)、橘家圓蔵(六代目圓生)が名を連ねている。
第1次落語研究会は明治38年発足した。
三遊亭圓朝の死後、東京の落語界を席巻したのはステテコの圓遊、ラッパの圓太郎、ヘラヘラ坊萬橘、釜掘りの談志という珍芸四天王だった。
中でも圓遊はそれまでの人情噺を大胆に滑稽噺に改作し、大人気を博した。それは現在演じられているほとんどの落語が、圓遊の影響を受けているといってもいいほどだった。
圓遊を中心とした珍芸は分かりやすく、大量に流入した地方出身者に圧倒的支持を受けた。
一方、そのため寄席ではまともな噺ができないような状況になる。
そのような現状を憂いた知識人や初代三遊亭圓左が中心となって立ち上げたのが、この落語研究会である。
色物なし。事前に演目が公表され、1席の噺をサゲまできちんとやる。後のホール落語の原型となる落語会であった。
この会で四代目橘家圓喬、初代三遊亭圓右、三代目柳家小さんは名人の名を不動のものにし、三代目蝶花楼馬楽(狂馬楽)、初代柳家小せん(盲の小せん)、四代目古今亭志ん生(鶴本の志ん生)、三代目三遊亭圓馬らが抜擢され、世に認められた。
第1次落語研究会は、結局、大正14年の関東大震災で中絶してしまう。それが、圓蔵の奔走で見事復活を遂げたのである。
自分が終生憧れた圓喬、芸の師圓馬らが出演した会に、しかも、その復活第1回に中心メンバーとして出演する。文楽もさぞ晴れがましかったにちがいない。

2009年11月8日日曜日

桂文楽 文楽と志ん生②

志ん生がどん底を味わったのは、ずぼらだったというだけではなかった。
彼は自分のやりたいようにやった。
浅い出番でも平気で大ネタをかけた。
四代目橘家圓喬に憧れ、きちっとした芸風だった。痩せて髪が薄く、多少反っ歯の気味がある。「死に神」とあだ名されるような陰気な顔立ちだった。後のふっくらした容貌からは想像もつかない。
志ん生の後に出る芸人はたまったものではなかった。彼は完全に寄席の流れを無視していた。自分のやりたいようにやる、それを最優先する。それも志ん生の居場所をなくしていく、大きな要因だった。
文楽は違う。文楽は周囲を味方につけることで、自分のやりやすい環境を作った。
初奉公で懸命に勤め主人に可愛がられた。三代目圓馬に食らいつき、五代目左楽に付き従い、圧倒的な信頼を得る。久保田万太郎、正岡容、安藤鶴夫などの評論家に気に入られたことで名人という評価を受けることになる。
決して器用な質ではない。計算尽くで取り入ったわけでもないだろう。文楽は必死だったのだ。必死で自分の周りの環境を整えたのだ。
多分それは、最愛の母から捨てられるように奉公に出されたという彼の少年期の体験によるのではないか。いきなり他人の中に放り出された文楽は、周囲を心地よくすることで味方にし、自分の有利になる方へもっていく、というやり方を必死で身に付けたのではないだろうか。
一方、志ん生は放蕩の末、自分から家族を捨てた。落語家になっても自分から飛び出す形で団体を転々とした。周囲に合わせて自分を曲げることより、リスクを負っても自分のやりたいようにやるということを、一貫してやってきた。
対照的に生きた二人だが、二人とも係累を持たない中で、それぞれのやり方でのし上がっていった。二人の友情は有名だが、それはどこか戦友に似た関係ではなかったか、と私は思う。

2009年11月3日火曜日

桂文楽 昭和初期の東京落語界

大正から昭和にかけての落語界は、様々な団体が生まれ離合集散を繰り返していた。
やがて、月給制をとった寄席演芸会社をルーツとする東京落語協会と、月給制に反抗し歩合制をとった落語睦会にほぼ二分されるが、さらに大正15年、東京落語協会から柳家三語楼の一門が離脱、落語協会(通称三語楼協会)を設立する。この三つ巴の状況で東京の落語界は昭和を迎えることになる。(講釈師を辞めた志ん生が、睦会に入れてもらおうと五代目左楽を訪ねて拒絶され、三語楼門下になったのはこの年のことだ。)
最近買った保田武宏の『志ん生の昭和』には、この辺りのことが整理されていて大変参考になる。
睦会は五代目左楽を中心に、六代目柳橋、八代目文楽、初代小文治、三代目柳好の睦四天王が売れ、勢いがあった。一方、東京落語協会は五代目三升家小勝、三代目柳家小さん、八代目桂文治などの大看板が揃う。他に蝶花楼馬楽(後の四代目小さん)、三代目金馬などがいた。三語楼協会は、柳家三語楼、金語楼、小三治(後の七代目林家正蔵、三平の父である)、権太楼、東三楼を名乗っていた志ん生といった面々。五代目三遊亭圓生は睦会から三語楼協会に移籍、再び睦会に戻り、さらには東京落語協会に加入するといった具合だった。
しばらくこの三派を中心に、多少の落語家の移動があったり提携したり離れたりしながら、微妙なバランスを保っていたのだが、やがて三語楼協会が分解する。金語楼の台頭が師三語楼との不仲を招いたのだ。
結局、三語楼は東京落語協会の軍門に下る。当時、志ん生は柳家甚語楼を名乗っていた。隅田川馬石に改名し、一旦フリーとなるも、にっちもさっちもいかなくなって師匠三語楼のいる協会に加入し、名前も柳家甚語楼に戻す。
金語楼は昭和5年、柳橋とともに日本芸術協会を設立。金語楼はやがて、落語の世界にとどまらず、映画、喜劇へと活動の場を広げていくことになる。
昭和7年、三語楼は協会を飛び出す。志ん生はそこで三語楼と別れ、鶴本の志ん生門下にいたときの名前、古今亭志ん馬に改名した。この辺りから志ん生にも日が当たり始める。上野鈴本の支配人に目をかけられ、寄席の出番が増える。その年の11月には、文楽に誘われ睦会の高座に上がった。翌昭和8年には正式に睦会に加入することになった。そして、昭和9年、「若手三十分会」で文楽・志ん生はついに同じ土俵で競演することになる。ここで志ん生は、後に彼の代名詞ともなる『火焔太鼓』を演じたのだった。

2009年11月1日日曜日

圓楽死す

三遊亭圓楽が亡くなった。
文楽・志ん生に圓生を加え昭和の名人とするなら、平成の名人は志ん朝・談志に小三治を加えた3人であろう。
そして、落語の大衆化に大きく貢献した者として、昭和の三代目金馬に匹敵するのが、この圓楽であると私は思う。
そういえば、二人とも声がいい、男っぽい、博識でもある。
功罪相半ばする人であるとは思うが、一時代を作った誰もが認めるスターであった。
晩年の著書、『圓楽 芸談 しゃれ噺』は面白かった。
晩節を汚すことなく引退し、次の圓楽を作った。重い腎臓病、再発した癌、覚悟の最期だったと思う。
立川談志のコメントがとても短いのが印象的だった。
冥福をお祈りします。

2009年10月25日日曜日

桂文楽 文楽と志ん生①

文楽が睦四天王として売れに売れていた頃、後年昭和落語の最高峰として並び称された五代目志ん生はどん底にいた。
文楽襲名の翌年の大正10年、志ん生も金原亭馬きんで真打ちに昇進、その翌年には結婚もした。大正12年には古今亭志ん馬に改名する。ところが、生来のずぼらがたたる。不義理を重ね、翌年には所属していた落語協会の大幹部三升家小勝に逆らい協会にいられなくなって、講釈師に転向してしまう。
それもやがては行き詰まる。大正15年4月古今亭馬生を名乗り、落語家に復帰する。ただ、この名前には問題があった。金原亭馬生という名跡があり、それが彼の師匠であった鶴本の志ん生が売り出した名前だったからだ。鶴本はその年の1月に死んでおり、師匠に遠慮して亭号を古今亭にしたとはいっても、周囲からの非難は大きかった。やむなく古今亭ぎん馬に改名する。
そんな状態では寄席も快く彼を迎えてくれるはずもない。方々で爪弾きにされ、どうしようもなくなって五代目左楽の睦会にすがった。前座でもいいから入れて欲しいと懇願したらしい。が、左楽はそれをはねつけた。
そして柳家三語楼門下で柳家東三楼となるのだが、そこで後に志ん生の才能が開花することになる。
文楽と志ん生にはいくつかの接点がある。
文楽の最初の師匠初代小南は、志ん生の最初の師匠二代目小圓朝が頭取をしていた三遊派に所属していた。志ん生入門の年に文楽は二つ目に昇進。翌年文楽が旅に出るまで、同じ寄席に出演した可能性もある。
前にも書いたように、文楽は志ん生の師匠鶴本の志ん生を尊敬し、可愛がってもらっていた。落語家復帰後、志ん生がすがったのは、文楽の師匠五代目左楽であった。
文楽と志ん生が親しくなったのは、大正5年、文楽が旅から東京に帰って以降と思われる。
多分、大正から昭和にかけての頃だと思うが、寄席を干されていた志ん生に、文楽が高座を譲ったという話がある。
その時、文楽は仲トリだったが、「孝ちゃん、あなたの『鰻の幇間』を、お席亭やお客に聴かせてやんなさい」と言い、志ん生を自分の出番に出演させ、自らはマスクをかけて客席から観ていた。
その時の高座を文楽は、後に弟子に「それがねえ、よ過ぎてかえってお客にはまらなかったんだよ」と語っている。野幇間のうらぶれた雰囲気が真に迫りすぎ、笑いを誘えなかったらしい。
昭和5年頃には、志ん生が次女の喜美子を5円で文楽に養女にやろうとする。この時には、志ん生が喜美子を黒門町の文楽の元に連れて行こうとする途中、喜美子が号泣し断念することになった。
ここまで両者の差は歴然としていた。二人が同じ土俵に立つのは昭和9年、柏枝、権太楼、圓蔵(六代目圓生)とともに「若手三十分会」というのを立ち上げた時であった。この年、志ん生は七代目金原亭馬生を襲名し、ようやく世に認められるようになる。時に志ん生44歳の秋であった。

2009年10月21日水曜日

幸田文『流れる』

芸者置屋で女中に雇われた梨花。彼女の目を通し、花柳界に生きる女たちを描く。
またしても、閉じた世界だ。天下国家など、これっぽっちも出てこない。見栄の張り合い、金銭にまつわるもめ事、痴情のもつれ、様々な事件が巻き起こる。
出てくるのは本当に女ばかり。
置屋の主人。娘の勝代。姪の米子。その娘不二子。主人の姉で米子の母、鬼子母神。芸者の蔦乃、なな子、染香、等々。事件の度に彼女たちの虚々実々の駆け引き、神経戦が繰り広げられ、それを梨花が冷徹に、時に愛おしげに眺める。
現在形を多用したスピード感あふれる文体、下町言葉を駆使した文章が魅力的だ。何より背筋がしゃんとしているところがいい。
それにしても女は恐い。女が描く女は恐い。『細雪』も女の小説だが、あれは男である谷崎が造形した女だ。ここに出てくるのは、正真正銘の女。その女たちが絡み合い、もつれ合う。ぴりぴりと火花を散らし、ぐずぐずとなれ合う。
その様を、私も楽しめるようになったのだなあ。若いうちだったら、絶対分からなかったろうし、色濃い女の匂いにむせかえったことだろう。青春の文学に出てくるのは女ではない。少女なのだ。この爛熟退廃の味は、やはり大人のものだ。
ここに幇間が出てくれば、まるで桂文楽の『つるつる』である。ちょいと理に詰むところはあるが、偉い人間なんざ一人も出てこないところが落語に通じている。
出会えてよかった一冊です。

2009年10月19日月曜日

町の正しい蕎麦屋

この前の日曜日、久し振りに小月庵に行く。
同僚のHさん曰く、町の正しい蕎麦屋。
子供達と妻は天もり。イカ天とはいえ、何と500円。
安いでしょう。
私はミニかつ丼ともりそば。
つゆは少し甘め。でも、これをかつ丼に使うと、すごくやさしい味になる。
カツは肉厚、卵がたっぷり。うまいのよ、これが。
この店のメニューの最上位は長い間「カツライス」が君臨していた。堂々の1000円。肉も分厚く立派なものです。
これを注文するのが、この店の客のステイタスであった。私も今年3月、転勤の記念にいただきました。
それが今回メニューを見ると、1200円の「ビーフシチュー」と「ポークソテー」が登場しているではありませんか。
政権交代、世代交代の波はこんなところまで来ていたのだなあ。
私がこの2つを注文するのはいつのことになるだろう。
しばし感慨にふけった日曜の昼でありました。

2009年10月12日月曜日

翌朝のご飯

晩飯の残りを翌朝食う、というのは、しみじみと旨い。
カレー、シチュー、ハヤシなんかは言うまでもないな。むしろ翌日の方が味がしみて旨い。
カレーは3日はいける。初日はそのまま、2日目は納豆、3日目は生卵をトッピングする。納豆はCOCO一番でもメニューの中にある。妻に教えてもらったが、なかなかいけます。生卵はテレビの「ケンミンSHOW」で大阪の人の定番だと言うことを知った。やってみると、これが味がまろやかになっていいのよ。さすが大阪の人は味にうるさいだけあって、旨い食べ方を知っているなあ。
すき焼きはあのくたくたになった葱が旨い。ごはんに載っけて卵を落とし、わしわしいく。
天ぷらは煮て天丼に。とろとろになったコロモが飯によく合うんだな。
コロッケは冷たくなったのを味噌汁に入れる。脂がしみ出し、ジャガイモが溶ける。蕎麦屋の裏メニュー「天抜き」に通じる旨さだ。こっちの方が気取りがなくていい。この食い方は祖母に教えてもらった。肉屋のコロッケがいちばんいいと思う。
鰻はねえ、うちの方は白焼きを煮て食べるの。その残ったつゆを翌朝あったかいご飯にかけて食うのがたまらない。こんな貧乏くさい食べ方は我が家だけかと思っていたら、『深夜食堂④』の巻頭が、鰻のタレかけ飯の話だった。『深夜食堂』の方は老舗の鰻屋のタレだから、そりゃあ旨いに違いない。しかも限定とくりゃあ、私だって食いに行きますよ。この辺のリアリティーが、このマンガの凄いところだと思います。

2009年10月11日日曜日

谷崎潤一郎『細雪』

日本人なら一度は読んでみなきゃと思い、大谷崎の『細雪』に挑戦した。
上中下巻と本当は3冊のところを、中公文庫は太っ腹だ。1冊にまとめてくれた。
没落した旧家、蒔岡家の四姉妹のうち、次女幸子、三女雪子、四女妙子を中心に、幸子の視点で描いた一大絵巻。花見、蛍狩り、芝居見物等々、関西文化が色濃く匂い立つ。東夷の野蛮さをつくづく思い知らされました。
それにしても閉じた世界だな。世の中は第二次世界大戦にひた走る中だってのに、最大の関心事は縁談だの、顔のしみだの、菊五郎の芝居だのといった具合。
でも、それがあの時局での谷崎の見識だったのだな。天下国家を語る男の視点ではなく、ひたすら目の前の美しいものへ向かう女の視点をとったのだ。
とはいえ、そこは谷崎、この本格小説の中に、ほのかに妖しいところも十分にある。
幸子は出血を見ながら、無理して雪子の見合いに同席し流産してしまう。
妙子は赤痢に罹り、酷い下痢のため、おまるに跨ったままもだえ苦しむ。後には未婚のまま妊娠し、胎児の毒素を吐きながら死産する。
雪子にしても、縁談がまとまり東京へ旅立つ途上、下痢に悩まされる。
美しい三姉妹が、血に糞便に汚される。すげえなあ。
文庫本で930ページ余り、大河の流れに身を任せればよい。雪子の縁談、外国人家族との交流、水害、本家との確執、妙子の奔放な恋愛など、様々な事件が起こり全然退屈しなかった。いつまでも読んでいたい小説だったな。

2009年10月9日金曜日

浜鍋はうまい

 野外料理といえばまずバーベキューが頭に浮かぶ人が多いと思う。しかし、あれは途中で必ず飽きがくる。たれの味が画一的過ぎるのだ。そこで私はこの秋、野外料理のイチオシとして鍋を強く推したいと思う。
 以前、私は職場の仲間と那珂湊の堤防で、浜鍋をやったことがある。この時は、その場で魚を釣り、釣れた魚をそのまま鍋にぶちこんで食っちゃおうという、いささか無謀な計画を立てた。
 SさんとMさんとKさんが魚を釣り、私とOさんは鍋を担当することになった。早速二人で水を汲み、流木を集め、お湯を沸かした。野菜も刻み、準備は万端整った。ところが、肝心の魚が一向に釣れない。釣り担当主任のSさんは「今日は潮が悪いなあ。」などと不吉なことをつぶやいた。
 仕方がないので、私達は市場へ行って牡蠣と鱈を買ってきて、鍋を作り始めることにした。Sさん達はそれでもしばらくの間釣りをしていたが、やがて竿を畳んでこう言った。「我々にも釣り師のプライドがある。魚代は我々がもつ。」 Sさんが市場で買ってきたのは、サワラを丸ごと一本と、わたり蟹だった。彼は以前スーパーの鮮魚部にいたので、魚をさばくことなどお手の物だ。あっという間にサワラを三枚に下ろして刺身にし、頭や骨は鍋にぶちこんだ。「これがいい出汁になるんだよ。」と言って、Sさんはにやりと笑った。蟹はそのまま鍋に入れる。味付けは醤油と日本酒だった。
 これがうまかった。それぞれの具の味が渾然一体となって、我々の舌を襲った。村上龍の言葉を借りればまさに「海そのものを食べている」気がした。
 周りにいた釣り人達も匂いにつられてやって来た。私達は気軽に彼らを招き入れ、鍋をふるまった。それでも私達は一様に、あんまり遠慮なしにばくばく食うなよな、という顔をしていたらしい。彼らは、スープでいいよ、スープで、うまいなあ、何で出汁とったの? などと口々に言っては、釣り師は皆友達だもんな、と言って笑った。
 とっぷりと日が暮れるまで饗宴は続いた。私は味付けに使った日本酒をワンカップ5本も飲んでしまい、へろへろになってしまったのであった。

2009年10月2日金曜日

菊正宗樽酒

カスミストアで「菊正宗樽酒」を買ってきた。
この頃、この酒をよく飲む。五代目古今亭志ん生、十代目金原亭馬生の親子が愛飲した酒だ。私が買うのも、この「古今亭の酒」であることが大きな理由である。
もちろん、味も好き。樽の木の香りがほんのりして旨い。燗をして、蕎麦とか鰻とかおでんとかによく合う。
この酒を飲んでいると、なじみの寿司屋のカウンターで、自宅で夫人を前にして、馬生が旨そうにちびちびやっている光景が目に浮かぶ。
それにしても、この馬生という人ほど、割に合わない生き方をした人はあるまい。
生まれたのは父志ん生のどん底時代。噺家になった時は戦時下で人手が足りず、いきなり二つ目にさせられるが、年寄りの前座にいびられる。そのうち志ん生は空襲が恐くなって、満州に行ってしまう。その留守中、志ん生を快く思わない連中からいじめ抜かれた。戦後、弟志ん朝が入門。順調に屈託なく伸びてゆく志ん朝と比較され、大西信行には「志ん朝の幸福は志ん生の子として生まれたこと、馬生の不幸は志ん生の子として生まれたことだ」とさえ言われた。志ん生は志ん朝を溺愛し、馬生は志ん生の名跡を志ん朝に譲ることを約束する。三遊亭圓生の三遊協会設立に伴う落語協会分裂騒動で落語協会副会長に就任。圓生、正蔵亡き後、五代目柳家小さんに続く名人への道を歩み始めるも、喉頭癌のために昭和57年、55歳で惜しまれつつこの世を去った。と略歴を書いているだけで泣けてくる。
しかし、死後、その評価は高い。CDも多く発売され、よく売れているようだ。不遇時代が長く、そのためネタが多い。志ん生や圓生もそうだが、そういう人はCDがよく売れる。
寄席では『しわいや』ばかり演っていた。出来不出来が激しく、酷いときに当たった日にゃあ目も当てられない。「引き」の芸で、派手さはなかった。
でもねえ、いいんですよ。しみじみと癖になります。
私にとっては、録音の方に名演が多い。(名演をあまり実体験できなかったのは、その高座に触れる回数が、残念なことに、やはり足りなかったのだと思う。)
CDの『もう半分』『干物箱』、爛漫ラジオ寄席の『うどん屋』、中学の時テレビで観た『たがや』…。ひとつひとつが愛おしい。
若い頃から老成していた。40代で既に白髪だった。書画骨董を愛し、一年中着物で通した。仕事の合間、少しでも時間があれば自宅に戻り、夫人の前で酒を飲んだ。がつがつしたところなんかこれっぽちもなく、飄々と生きた。多分にポーズもあったろうが、無理をしてでも力を抜く、そんな生き方に、今私は憧れる。
馬生が好きだった酒肴に、夫人手製の梅肉の叩きがある。梅肉と紫蘇、鰹節なんかを叩いて和えたものだ。そいつをつまみに「菊正宗樽酒」。この秋の夜長に、馬生を聴きながら飲むのも悪くない。

2009年9月22日火曜日

桂文楽 鶴本の志ん生

文楽が馬之助時代の話である。当時から彼は売れに売れていた。楽屋に寿司は届く。女にはもてる。お座敷はかかる。言うことなしの筈だった。
しかし、彼の心は沈んでいた。自分の噺がまずく思えて仕方がなかった。スランプだった。
ある時、四代目古今亭志ん生、人呼んで「鶴本の志ん生」が文楽に声を掛けた。
「お前さん、たいそうな売れっぷりだってのに、何だってそんなうかねえ顔をしてるんだい?」
「へえ、実は…。」と文楽は、自分の心情を志ん生に打ち明けた。すると志ん生は優しくこう言ってくれた。
「そうか、その時期が来たか。大丈夫だ。それは上手くなるトバクチだよ。ここを辛抱すれば、お前さん、きっといい噺家になれるぜ。」
「鶴本の志ん生」は若いうち「狂馬楽」こと三代目蝶花楼馬楽、「盲の小せん」こと初代柳家小せんとともに放蕩無頼の生活を送っていた。が、三人とも芸は確かだった。馬楽と小せんは先に認められたが、二人はやがて業病に倒れる。「鶴本」は金原亭馬生を襲名し、花開く。その歌い調子の江戸前の芸は多くのファンを魅了した。人間はずぼらだったが、懐は深く、誰からももてあまされた後の五代目志ん生を弟子にしてやり、面倒を見ていた。文楽もこの「鶴本」が好きだった。その志ん生にそう言われて嬉しかったのだろう。当時付き合っていた芸者に、志ん生の素晴らしさを熱心に語った。
そんな折り、文楽が寄席の高座から客席を見ると、件の芸者が来ている。これから彼女とどこへ行こうかと楽しみにしながら文楽が楽屋に戻ると、志ん生が「晩飯に付き合ってくれ」と言う。普段、尊敬している志ん生に誘われて、いつもは嬉しいところだが、この日ばかりはいささか迷惑だった。しかし、断るわけにもいかず、指定された鳥料理の「玉ひで」に行く。すると、座敷では志ん生と彼女が飲んでいた。怪訝な顔をしている文楽に志ん生は言った。「まあ、早い話が、お前さんに七両二分やらなきゃならねえってこった。」
江戸時代、間男は死罪となったが、亭主に七両二分払えば命は助かった。つまり、その芸者と志ん生はできてしまったのだ。逢うたびに文楽から志ん生礼賛を聞かされた彼女は、いつの間にか志ん生に憧れを抱くようになった。文楽にせがんで志ん生と一席設ける。それがきっかけでこのようなことになったのだという。
口惜しかったが、最早どうしようもない。文楽はこの口惜しさを噺に生かそうと考える。この気持ちは『刀屋』そのものじゃないか。
『刀屋』は『おせつ徳三郎』の後半部分。おせつが婿を取ると聞いた徳三郎が、無理心中をしてやろうと刀を買いに行き、刀屋の主人に諭される噺だ。
『刀屋』は文楽の得意ネタにはならなかったが、彼の芸に対する姿勢を、このエピソードはよく示している。
文楽は、あらゆる経験を、貪欲に自分の芸に取り入れようとした。贔屓のひーさんとの交流は幇間ものに、『酢豆腐』の若旦那のモデルを奇人三遊亭圓盛に求め、キレやすい自分自身を『かんしゃく』に投影させることさえした。
柳家小満んは食事の時、文楽からおかずをもらった時、「うまいかい。」と訊かれたという。「はい。」と答えると文楽は言った。「うまいと思ったら、それが芸ですよ。」
日常生活のひとつひとつの心の動きを、文楽は噺に取り入れていた。つまり、生きることは、文楽にとって芸そのものだったのだ。

2009年9月17日木曜日

さん喬と権太楼

今、東京の寄席で双璧と言えば、柳家さん喬と柳家権太楼だな。
落語界では、春風亭小朝、立川志の輔といったスターはいるが、寄席を主戦場にしている点では先に挙げた二人にとどめを刺すと思う。
私は、実は寄席派の噺家が好きなのだ。
立川談志や彼に影響を受けた人たちは、寄席をぬるま湯だといって批判する。
しかし、と私は思う。独演会の客は自ら選んで来ている。つまり、観客に自分の芸を受け容れてくれる下地がある。
それに対し寄席の客は多様だ。ただの暇つぶしから落語マニアまで、芸に対する関心度の幅はおそろしく広い。しかも毎日だ。その日によって客の傾向も全く違うだろう。勝負しようと思えばけっこう奥が深い場所なのではないか。
さん喬の二つ目時代を、私は旧池袋演芸場でよく観た。きちっとした楷書の芸で折り目正しく、いかにも本格派といった雰囲気があった。しかし、それを立川談志は著書『あなたも落語家になれる』の中で、「あまりに古い」といって名指しで批判した。同じ五代目柳家小さん門下のカリスマの批判に、さん喬もショックを受けたと思う。
今、さん喬の芸を古いと感じる人はいないだろう。さん喬の噺は、年月を経て大きく柔らかに膨らんできた。そして、現代を生きる我々に、確かに響いてくる。彼の『文七元結』はいい。左官の長兵衛が、吾妻橋で身を投げようとしている文七に、娘が身を売って作った金を遣る場面。談志は迷いに迷う、その葛藤を見せ場にしている。しかし、さん喬の長兵衛は小さくこう呟く。「おれも運のねえ男だなあ。」そして、あっさりと文七に金を遣ってしまうのだ。談志が葛藤なら、さん喬は諦念だ。どちらも分かっていながら自分に損な方を選んでしまう。その意味では両方とも「人間の業の肯定」に変わりない。さん喬は談志と違うやり方で現代に迫ったのだと思う。
談志の影響をストレートに受けたのは権太楼の方だろう。『らくだ』の紙屑屋の感情の吐露などは、まさにそれを感じさせる。一方で桂枝雀の影響も顕著だ。特にそれは『代書屋』『金明竹』などの滑稽噺に色濃く表れている。しかし、権太楼の偉いのは二人の影響を感じさせながら、出来上がった落語は紛れもなく権太楼のものになっているということである。むしろ、権太楼節として強烈な個性を放っていると言った方がいいかもしれない。
さん喬と権太楼の芸は対照的と言っていい。端正で色気のあるさん喬と豪放で男っぽい権太楼。この二人が「鈴本夏祭り」などでしのぎを削る様を観ることができるのは、この時代に立ち会える幸福を感じずにはいられない。新たな「文楽・志ん生」を、「志ん朝・談志」を、我々は目の前にしているのかもしれないのだ。

2009年9月9日水曜日

三遊亭圓丈『ろんだいえん』

三遊亭圓丈。言わずと知れた新作落語の旗手である。
闘う男だ。圓丈の言葉はいつも熱い。
その圓丈が遺言のつもりで書いたのが、本書である。
落語論、落語台本論、落語演技論が、圓丈によって思う存分語られる。そして、そこには新作落語を数多の偏見をはね返し牽引してきたこと、六代目圓生の弟子として三遊亭の本流を受け継いでいることへの強烈な自負がにじむ。
圓丈の怒りは古典の伝統に胡座をかき、何の工夫もない落語家に向かう。古典落語を信奉し、落語の大衆演芸としての生命を細らせる落語愛好家へ向かう。
圓丈は客にウケるためにのたうち回る。高座の上ではベテランも若手もない。勝負は客の反応だ。それが潔い。

圓丈は1980年頃、「グリコ少年」で、スポットライトを浴びた。
私が圓丈を知ったのもこの頃だ。「グリコ少年」はもちろん、「悲しみは埼玉に向けて」「夢地獄」「パニックイン落語界‘80」等々に私たちは大きなショックを受けた。ぶっとんだ面白さだった。そして伝説の池袋演芸場三題噺。圓丈は時代の先端を疾走していた。
ただ、圓丈にはテレビの人気者として定着するには、知的で毒があり、ちょっとばかりマイナーな匂いがした。程なく圓丈はテレビの表舞台からは去る。
しかし、圓丈は自ら切り開いた新作落語の道を突き進む。彼の先鋭的な噺は、時に理解を得られないこともあったが、やがて時代が彼に追いついてくる。
立川志の輔や春風亭昇太が自作の新作落語を引っさげ、華々しく登場し、それに続いて柳家喬太郎、三遊亭白鳥、林家彦いちなどの「圓丈チルドレン」が表舞台に立ってきた。
彼らには圓丈の影響が色濃く見られたし、この新作落語の隆盛を圓丈の功績と認めない者はいないと思う。さらに圓丈の凄いのは、「新作落語の大御所」として君臨するのではなく、彼らとムキになって競うところなのだ。

圓丈を男だなあと思ったのは、「御乱心」の刊行であった。
圓生一門による三遊協会設立騒動を描いたこの本で、圓丈は痛烈な三遊亭圓楽批判を展開した。そこには三遊本流をずたずたにした圓楽への激しい怒りがあった。そして、それは私憤ではなく、正しく義憤と言われるものであったと私は思う。
この一件で圓丈もダメージを受けた。「御乱心」刊行後、圓丈はおろか彼の弟子も、1度として「笑点」に出演していない。

どれもよかったが、私としては落語演技論が面白かったな。
型から入って内面に迫る三遊亭の演出が、つぶさに語られている。圓丈は、まぎれもなく三遊本流を受け継ぐ落語家なのだ。
ただ残念だったのは、誤植が多いこと。せっかく圓丈が渾身の力を込めて書いた本だ。出版社ももう少し努力してもいいだろう。

2009年9月6日日曜日

桂文楽 ひーさん

大正14年、文楽は寿江と結婚式を挙げた。
当時、落語家で結婚式を挙げる例は少なく、後年まで文楽はこれを自慢した。
その式で仲人を務めたのが、樋口由恵。長年文楽のお旦であり、「つるつる」の旦那ひーさんのモデルとしても有名な人物である。
文楽と樋口との出会いは、関東大震災(大正12年)から間もなくであった。
向島の待合いから寄席に電話が来て文楽が呼ばれた。
何でも客が文楽を呼べと言って聞かず、とにかく来てもらいたい、来てくれないと困る、とのことだった。
それが樋口だった。文楽が呼べないのか、と言って芸者に暴力さえふるっていたらしい。
恐る恐る文楽が座敷に出ると、樋口は「文楽が来た」といって大喜び。それ以降、樋口は文楽を大の贔屓とすることになった。
文楽は樋口のお供の際は、必ず幇間を呼んでもらった。そして、座敷での幇間の立ち居振る舞い、客とのやりとりを観察する。
やがて、それは「鰻の幇間」「つるつる」「富久」「王子の幇間」など幇間ものの十八番となって結実した。
樋口が呼ぶのは一流の幇間だった。だから、文楽の演じる幇間は、野幇間であっても、どこかしら気品があった。
樋口は暴君だった。無理も言えば、女も殴った。
しかし、文楽は樋口に付き従うことで、暴君の孤独も知る。
噺の中で、一八が旦那に振り回されながら、それでいてどこかで許しているような気配があるのは、その辺に所以があるような気がする。
もちろん芸人とお旦である。そこには絶対的な服従関係があるのは間違いない。けれども、一八と旦那には、それだけではない心の交流がある。
文楽と樋口もそんな心の繋がりがあったのだと思う。
文楽は、三代目圓馬に、五代目左楽に、本気で付き従うことで多くのものを吸収した。多分、樋口もその意味では、文楽にとって師の一人といっていいのかもしれない。

2009年9月1日火曜日

日本酒の夜

「しらたまの歯にしみとほる秋の夜酒は静かに飲むべかりけり」(若山牧水) 
秋である。秋にはやはり日本酒である。あぢいあぢい、うぐうぐぷはーっ、うめーっというような、ビールとともに過ごした日々ともそろそろ別れを告げ、しみじみと日本酒に親しむ季節なのである。 
日本酒と言うと、どこか居住まいを正す感じがする。芳香鮮美、清澄淡白。そんな酒をコップに注ぐ。思わず正座をしてしまう。こういう時にポテトチップなんぞをつまみにしちゃあいけない。塩辛、佃煮なんてのをすこしずつ、つまみたい。 
そして、何と言っても灯火親しむ秋、活字をつまみに飲むのがいい。意外にいいのが漢詩である。陶淵明の「菊を採る東リの下 悠然として南山を見る」とか、李白の「頭を挙げて山月を望み 頭を低れて故郷を想ふ」などを読みながらの酒は、また一段とうまいものである。陶淵明にしろ李白にしろ酒豪として知られるが、中国の人であるから日本酒を飲みながらこれらの詩を作ったわけではあるまい。それでいて、これらに合うのは、紹興酒よりもむしろ日本酒であろう。不思議なものである。 
ま、いくらいいってったってずっとじゃ飽きる。「やっぱり口語文は漱石だよな」なんて言って漱石の文庫本を取り出す。そのうち志賀直哉もいいな、という気持ちになって「小僧の神様」なんかをとろとろと読み出す。しっかし、この志賀ってのは嫌味なおやじだよな、とつぶやくようになってくると、だいぶ酔いは回っている。
そうなると、もう太宰である。「桜桃」、「トカトントン」、「如是我聞」までいくと歯止めは利かない。しまいには安吾の「堕落論」を片手に「生きよ、堕ちよ、ばかやろめ」と口走りながら寝てしまうのである。 
「酒飲みは奴豆腐にさも似たりはじめ四角で後はぐずぐず」 お後がよろしいようで・・・。

2009年8月25日火曜日

筑波山に登る

この前の日曜日、妻子を連れ、久し振りに筑波山に登った。
筑波神社前の土産物屋で昼食。冷やしたぬきうどん。
まあ予想通りの味。
境内でガマの油売りの口上をやっている。
長男が食い入るように見る。いい客だ。
三代目柳好の名調子を、今度聴かせてやろう。
ケーブルカーで宮脇駅から筑波山頂駅へ。
気温は22度。肌寒いくらい。
御幸ヶ原、コマ展望台に上る。円形のゆっくりと回る展望台。
西に男体山、東に女体山、南東に霞ヶ浦を望む。屋上の眺望、素晴らしい。
宮脇駅に下り、売店で休憩。梨のソフトクリームとところてん。
次男はところてんを大喜びで食べる。
日曜日でけっこうな賑わい。次はロープウエイに乗せてやろう。

2009年8月21日金曜日

夏目漱石『草枕』

『草枕』。漱石初期の名作である。
非人情を志向する画工が山中の温泉宿に滞在し、そこで一人の美しい女と知り合う。
女は宿の出戻り娘、那美。彼女と画工との交流を中心に話は進む。
しかし、この小説、ストーリーはさほど重要ではない。
それは単に設定に過ぎず、漱石の東西の比較文化論・芸術論が、画工の口を通し存分に展開される。
西洋の芸術が、あくまで関係性・愛憎といった人と人の情との関わりの中で生まれるのに対し、中国に代表される東洋の芸術は、人の世にありながら人の情を超越したところに生命がある。それが画工の憧れる非人情の境地である。
それにしても絢爛たる文章だな。漱石は『草枕』執筆に際し、『楚辞』を読み返したというが、そこで駆使される漢語の美しさといったらない。
初めて読んだのは高校の時だが、当時は何だか分からなかったなあ。
この文章の凄さが分かったような気がしたのは、30歳を過ぎてからだった。
今読み返すと、けっこう色っぽい場面が多い。
画工と那美との混浴シーンは有名だ。その他にも、夜中に那美が就寝中の画工の部屋に入ってくる出会いの場面。那美が振り袖を着て画工の目前を行き来する場面。那美と元夫とのやりとりを画工が盗み見る場面。どれも色っぽい。
確かに、妖艶ではある。だが、そこに性的な匂いはない。
二人の会話も、お互いに好意は認められるものの、恋情に向かう気配はない。
画工にとって那美は肉体を持った生身の女というより、一個の美術品・鑑賞物であるかのようだ。
山中の温泉宿で美女と知り合うという点では、川端康成の『雪国』も同じ作りだ。
ということは、『雪国』は『草枕』のオマージュであったか。
『雪国』の島村は、駒子と肉の交わりは持つが情の交わりを持とうとはしない。もしかしたら、これも川端なりの非人情なのかもしれない。

2009年8月12日水曜日

桂文楽 黒門町へ

鵜飼富貴から逃げた文楽は、横浜の芸者しんと3度目の結婚をする。しんは文楽より10も年上だった。
このしんという女は大変な浮気者で、東西を問わず多くの芸人と関係を持っていた。言うまでもなく、この結婚に対して楽屋の評判は最悪だった。
弟子の文雀がこのことを注進に及ぶと、文楽は腹を立て、文雀を破門してしまう。
でも、この破門はそれだけが理由ではない。文雀はしばしば師匠が主任の時に持ってくるワリ(寄席の出演者のギャラ)をくすねていた。寄席芸人として最もやってはいけないことである。
こののち文雀は吉原の牛太郎となったが、それもしくじり、名古屋に落ちて幇間となる。結局、東京に戻って文楽に再入門するのだが、その時文雀は40歳を過ぎていた。
この結婚で文楽は西黒門町に居を構える。木造2階建ての小粋な家だった。
建坪は10坪ほど。庭もない小さな家だったが、家具が全てはめ込みとなっていた。そのため、畳の上には何一つ載っていない。ただ一つ、師匠五代目左楽から文楽襲名の祝いに贈られた長火鉢が、でんと鎮座していた。
後年、文楽は「黒門町の師匠」と呼ばれたが、その家がこれだった。
現在家は取り壊され、空き地となっている。落語協会事務所の広小路側から少し奥、右側の小さな空き地がそれである。
果たして、この結婚は瞬く間に破綻した。
しんと別れた直後、文楽は4度目の結婚をする。神田明神で式を挙げ、講武所の「花屋」という料亭で披露宴をした。
この相手が「長屋の淀君」と呼ばれ、長年の間君臨した寿江夫人である。

2009年8月10日月曜日

家族旅行

先日、一家で那須・塩原に行く。
初日は那須・南が丘牧場で遊ぶ。
ソフトクリーム、濃厚。旨し。
その後、塩原・化石博物館。けっこう子どもが喜ぶ。
塩原・梅川荘に宿泊。山の上。いいお湯。感じのいい接客。
長男は夕食時、座敷の舞台で「寿限無」をやる。
翌日はりんどう湖。
息子二人、汗だくで遊ぶ。
楽しかった。また行こうね。息子二人が繰り返し言う。
子どもたちの喜んでくれたのが、何より嬉しい。

2009年8月9日日曜日

初めての寄席

寄席に初めて行ったのは、中学を卒業した年の春休みだった。
高校の合格祝いも兼ねて、父親が上野の鈴本へ連れて行ってくれたのだ。
芸術協会の興行(現在は鈴本で芸術協会の興行はない)で、NHKの「お好み演芸会」の収録がある日だった。
今でもその日の様子は覚えている。
柳好『道具屋』。圓馬『三人癖』。助六『あやつり』。いずれも先代である。
色物も充実していた。獅子てんや・瀬戸わんやの漫才。やなぎ女楽の曲独楽。
ひっくり返って笑い、目を凝らして見つめた。夢のような一時だった。
主任は六代目春風亭柳橋。ここから、TVの収録が入る。
ネタは『山号寺号』。子どもの私にとっては、全く面白くはなかったが、この人は偉い人なんだな、ということは分かった。
この後に、「針すなおの似顔絵コーナー」というのがあった。
針すなおが、赤い達磨にゲスト(この日は春風亭柳橋である)の似顔絵を描き、客にプレゼントをするという趣向である。
司会の桂米丸が「欲しい人は手を挙げてください」と言うと、一斉に客が手を挙げる。
私は学帽を振り回したが、結局、柳橋は他の人を指名した。
米丸は「そこの学生さんが帽子を振ってくれたんですがね」とすまなそうに言ってくれた。
最後は大喜利「はなしか横町」。
司会は若き日の柳家小三治。メンバーは、柳家さん八、桂文朝、三遊亭歌奴、三遊亭圓弥、三笑亭夢二(現夢太郎)といった面々。文朝、歌奴、圓弥は既に鬼籍に入った。皆あの頃はまだ若手だった。小朝が、笑点の山田君のような役割で出ていた。
NHKだけに「笑点」のようなはじけ方はなかったが、それでも私にとっては十分に面白かった。
この日のことは、私にとって大切な思い出となった。
いつか我が子も寄席に連れて行ってあげたいと思う。かつての私のように、喜んでくれるとは限らないのだが。

2009年7月29日水曜日

連日の宴会

先週の金曜は、水戸で宴会。
今回も大洗鹿島線に乗る。
山には百合の花。
高架を真っ直ぐに走る。気持ちがいい。
店は駅南のM水産。
どーんとまぐろの兜焼き。
刺身、天ぷら、手羽先といった充実のつまみで、きりっと冷えた生ビール。
もう言うことありませんな。
冷酒だと飲み過ぎるので、燗酒をちびちび飲む。
この季節、これがなくっちゃあ、と鰹の刺身を追加。
二次会は駅ビル。楽しい宴会でありました。

翌日、家で軽く一杯やっていると携帯が鳴る。
先輩に近所の中華料理屋に呼び出される。
肉野菜炒めと秋刀魚の刺身できりっと冷えた生ビール。
何も言うことありません。
二軒目は神立。いやあ盛り上がった。

もう若くないんだから無理しちゃいけないんだけど、飲み始めると調子に乗っちゃうんだよなあ。
わかっちゃいるけどやめられない。
まだまだ修業が足りません。

2009年7月22日水曜日

桂文楽 関東大震災

大正12年9月1日、正午前、東京をマグニチュード7.9の大地震が襲った。震度は7に達し、多くの家屋が倒壊した。昼食前で炊事をしていた家が多かったためか、各所から火の手が上がり、やがてそれは東京の街を焼き尽くした。
その時、文楽は2度目の妻、鵜飼富貴との別れ話の真っ最中だった。
5年前、文楽は糟糠の妻、おえんを捨て、日本橋の丸勘という旅館の入り婿になった。文楽襲名の前年のことで、丸勘の経済力が魅力だったことは間違いのないところであろう。
当時の楽屋雀は「1年ともつまい」と噂し合ったが、大方の予想に反し、その結婚は5年続いた。しかし、もう限界だった。
丸勘の一室で愁嘆場が繰り広げられそうになった刹那、突然、ぐらぐらっときた。この非常事態に別れ話も一時休戦。丸勘もこの時の火災で焼け落ちた。文楽は一家を率いて、富貴の親類を頼り、中野に避難する。
寄席も当分の間、再開は無理。そこで富貴の勧めもあり、文楽は1月前に弟子になったばかりの文雀(後の七代目橘家圓蔵)を伴って、水団を売り歩くことになる。
そのような状況に我慢できなくなった文楽は、富貴を捨て、北海道に旅巡業へ出てしまう。しかもその旅費は、かつて捨てた最初の妻おえんから借りたものだった。文楽を明るく如才のない、円満で機嫌のいい人とばかり見てはいけない。彼は(多くの優れた芸術家がそうであったように)稀代のエゴイストでもあった。
同じ震災の日。志ん生は田端にいた。2年前に金原亭馬きんで真打ちに昇進。翌年には高田の馬場の下宿屋の娘、清水りんと結婚し所帯を持っていた。この年、師匠六代目金原亭馬生の前名、古今亭志ん馬と改名していたが、生来のずぼらがたたり、方々で不義理を重ねて、赤貧洗うが如き生活を送っていた。
地震が起こると志ん生は、りんから財布を引ったくり、酒屋に駆け込んだ。酒屋の主人もこの最中にこのような客が来ることに面食らい、代金を取らずに逃げ出す。地震で激しく物が落ちる中、志ん生は心ゆくまで酒をあおった。
志ん生は「東京中の酒がなくなっちまうと思ったから」と言ったというが、酒でも飲まなければ恐くてしょうがなかったのではないか、と私は思う。何しろ彼は戦争中、空襲が恐くて家族を置いて満州に逃げた男だ。この時も、地震の混乱の中、新妻りんをほっぽり出して酒屋へ走っている。
稀代のエゴイストがここにもいる。

2009年7月20日月曜日

三笑亭夢楽師匠のこと その2

大学を卒業してから、1度、落研の発表会に行った時、楽屋で夢楽師匠と少し話をした。
師匠は神社のお守りを買って中身を見るのが好きだと言った。
「バチが当たるの、恐くないですか?」と私が訊くと、「ただの紙切れじゃないか。」と師匠は笑って答えた。師匠は合理主義者である。
私が茨城出身だと知ると、「じゃあ鹿島神宮のお守りを買ってきてよ。ああいう古い神社のが面白いんだ。」と師匠は言った。
その後、私は東京から遠ざかり、師匠とお会いするのもそれっきりとなってしまった。
師匠を最後に観たのは、浅草演芸ホールの高座だった。
師匠はひどく年老いていた。無理もない。あれから20年近く経っていたのだ。
師匠が高座に上がったのは、仲トリのひとつ前。
ネタは『妾馬』。大ネタだ。この位置で演じる噺ではない。ここで師匠は45分間、みっちりと熱演した。
客席は静まりかえっていた。熱演だったが、とちりは多く、噺も平板だった。
師匠が高座から下りると、入れ違いに十代目桂文治が上がった。文治の顔には苦笑いがあった。前で、長々と大ネタを演って、客席をしんとさせた師匠に対する非難の気持ちが、そこにはあった。文治は得意の『あわてもの』で客席を爆笑の渦に巻き込んだ。
師匠より1つ年上なのにも関わらず、文治の噺は若々しく勢いがあった。それが一層私を寂しくさせた。
師匠が衰えたのは、愛弟子の夢三四を亡くしてからだったという。
夢三四の噺をナマで聴いたことはない。誰かに『蒟蒻問答』を稽古している録音を聴いたことがあるだけだが、男っぽい歯切れのいい口調が印象的だった。確実に未来の落語界を背負って立つ逸材だったと思う。
その後、落研時代の同輩と電話で話したことがあった。「そういえば夢楽師匠、随分衰えたらしいな」と言われた私は、浅草でのことを話した。そして、暫しあの若々しかった師匠に思いをはせた。
間もなく師匠は寄席を引退した。それを私は桂平治のHPで知った。
2005年、師匠は亡くなった。80歳だった。
今にして思えば、あの『妾馬』を聴いておいてよかった。
あれは、後に控える、長年ライバルとしてしのぎを削った文治に対しての、意地のようなものだったと私は思う。あるいは、単に文治の楽屋入りが遅れたために、つないでいたのかもしれない。
いずれにせよ、あの『妾馬』は、私にとって忘れられない一席となった。その巡り合わせに感謝したい。

2009年7月15日水曜日

昼の池袋

平日の休み。
妻が「たまには寄席にでも行っておいでよ」と言ってくれたので、ありがたく出かけることにする。
日暮里で下りて、久々に谷中を歩く。谷中銀座を抜け、よみせ通りから西日暮里駅。
山手線で池袋へ。
池袋で昼食。梅しそロースカツ定食でビール2本。
池袋演芸場、昼の部を観る。
市江『転失気』、八朝『幇間腹』。うーん。
圓太郎『粗忽の釘』、口調がいいなあ。ビールが効いて意識が遠ざかる。
さん生『巌流島』、いいねえ。侍に威厳がある。
小菊姉さん、いい女です。
伯楽『猫の皿』で仲入り。志ん生・文楽のエピソードから上手く骨董の話につなげる。若い頃は、この人の独特の口調が苦手だったが、年を取っていい具合になってきたと思う。
くいつきは、ひな太郎『三方一両損』。もと志ん朝門下だけに、志ん朝の型通り。
権太楼は『金明竹』。上方弁の部分だけだが、爆笑を誘う。さすが。
トリは文楽『天災』。『三方一両損』とネタがつかないか。それはともかく、この人はこういう長屋ものがいいな。先代とは芸風が違うが、寄席には欠かせない存在だ。
九代目襲名の当時は、私も釈然としない思いだったが、すさまじい批判を受け、五代目小さんに名前を返しに行ったエピソードを知ると、さすがに気の毒に思う。
先代は先代。九代目は九代目なりに、自分だけの芸を確立してきたんだな。
先代小さんが決め、志ん朝が応援した襲名だ。私如きが文句を言う筋合いはない。
大学時代夢に見た「桂文楽」の一枚看板を見つめ、暫し感慨にふける。
東武デパートのkihachiでお土産を買って帰る。
強い日差しの、とても暑い一日でした。

2009年7月8日水曜日

谷口ジロー『冬の動物園』

年を取ると、新しいものを開拓する意欲がなくなってくる。
信用のおける作家の作品を追っていくだけで、けっこう手一杯になってくるものだ。
マンガ家の谷口ジローは、私にとってそんな信用のおける作り手の一人である。
元々絵の上手い人だったが、『犬を飼う』『坊ちゃんの時代』辺りから名人の域に達したような気がする。絵に山っ気が抜けて、枯淡の趣が出てきた。それでいて、細部まで一切おろそかにしない描写力がある。一つ一つのエピソードを丹念に積み上げ、人の心を打つストーリーも健在だ。『遙かな町へ』といった大作はもちろん、『歩く人』、『孤独のグルメ』などの小品も素晴らしい。
そして最新作、『冬の動物園』。谷口ジローの自伝的連作である。
時は昭和40年代。京都の織物問屋に勤めていた若者が、東京に出てマンガ家のアシスタントになり、デビュー作を書き上げるまでの話だ。何者かになろうとしてもがく主人公、浜口の姿が、甘酸っぱく胸に迫る。
脇役陣も多彩だ。織物問屋の社長の娘、綾子。故郷鳥取の友人、田村。マンガ家、近藤。アシスタントの森脇、藤田。(古株のアシスタント森脇の屈折具合が、また切ない。)編集の東野。浜口の10歳年上の兄。近藤の友人で無頼のイラストレーター、菊地。浜口とデビュー作のストーリーを考える病気の美少女、茉莉子。
特に浜口と茉莉子のラブストーリーはいい。茉莉子の可憐で、それでいて大人びた佇まい。茉莉子のためにひたむきにマンガに立ち向かう浜口。二人だけにしか出来ない物語が紡ぎ出される。思わず鼻がつんとなる。
私はこの本を宮脇書店で買った後、ドドールでコーヒーを飲みながら読んだのだが、涙がこみ上げてきて困った、困った。
多分、この後も話は続くんじゃないかな。続くといいなと思います。

2009年7月3日金曜日

常陸太田を歩く

出張で常陸太田へ行く。
会議終了後、太田の街を歩く。
太田の旧市街は、鯨ヶ岡といわれる小高い丘の上にある。
中央駐車場に車を止め、街をぶらつく。
生憎の雨。だが、雨の古い町並みもしっとりとしていいな。
土蔵をそのまま使ったスポーツ用品店、書店。3階建ての煉瓦造りの倉庫。瀟洒な洋館。
何たって徳川以前、常陸の国を治めた佐竹氏の本拠地なのだ。歴史が違う。
また坂がいい。岡から下る坂道の1本1本に風情がある。
あれよあれよという間にフィルム1本撮りきってしまう。
ところが、商店街のどの店を覗いても、フィルムを売っている店がない。
コンビニにさえ売っていないのだ。
私はそんなに無理な注文をしているのだろうか、と途方に暮れる。
仕方がないので、駐車場に戻り、車に乗って岡を下り、新市街にフィルムを買いに行った。
スーパーに入っている写真屋で、やっとのことで手に入れる。
再度、駐車場に戻り、心ゆくまで歩く。
最後に名物「鯨焼き」を土産に買う。簡単に言えば、鯛焼きの鯨版。地元の高校生も食べていた。
カスタードクリームと小倉を2個ずつ。1個100円。家で食べたら、鯛焼きよりも皮がしっかりと厚く、ホットケーキみたい。形もキュート。妻も子供たちも、大喜びで食べておりました。

2009年6月30日火曜日

三笑亭夢楽師匠のこと

私が師匠と呼ぶ噺家は二人いる。七代目橘家圓蔵師匠と三笑亭夢楽師匠である。
どちらも、大学の落研の技術顧問だった。
圓蔵師匠は私が2年の時亡くなった。その後任が夢楽師匠だった。
圓蔵師匠が亡くなったのが5月。6月には我が落研は「みな好き会」という定例の対外発表会を開いていた。私はその年、『牛ほめ』で初高座を踏んだ。
対外発表会には技術顧問が補導出演する。この時は圓蔵師匠に代わって月の家圓鏡師(現八代目圓蔵)に出て頂いた。慌ただしく楽屋入りした圓鏡師は、『猫と金魚』で客席を沸かせ、あっという間に帰っていった。圓鏡師には売れっ子の輝くばかりのオーラがあった。高座のそでから観るプロの芸は、客席から観るそれより数倍凄かった。
夏には夢楽師匠の技術顧問就任が決まった。OBの方々の尽力によるものだったと聞いた。
夢楽師匠になって、我々の合宿は劇的に変わった。
それまで、合宿の発表会では真打ちが上がるまで部員は正座で噺を聴かなければならなかった。時にそれは1時間以上に及び、発表会は部員にとって地獄の時間に他ならなかった。
圓蔵師匠は発表会で全員の噺を聴くことはなく、選抜された二人ほどが師匠の前で噺を披露した。
しかし、夢楽師匠は発表会に進んで参加し、全員の噺を聴いてくださった。そして、正座をやめさせた。噺を聴くということを最優先させるということが目的だった。
噺が終わると、一人一人に丁寧な批評をしてくださった。その教えはとても論理的で分かりやすかった。私たちは、職人が歩くときはやぞうを組むということや天秤の担ぎ方といったもの、上下や目線といった基本的なことを丁寧に教えられた。
当然のことながら、夢楽師匠は圓蔵師匠より若く、その分、フラットな立場で私たちに接してくださったのだろう。
私たちは幸福だったと思う。圓蔵師匠のように遙かに仰ぎ見る存在と、私たちの地平まで下りてきて温かく手を取ってくれる夢楽師匠と、どちらも経験することができたのだから。
合宿の夜、夢楽師匠は一緒に風呂に入ろうと我々を誘った。師匠は10代から70代までの男女を問わず相手にし、ある時は、立川談志に「一回だけ、お願いだから」とパンツ一丁で迫って、「兄さん、洒落にならねえ」と言われたという逸話を持つ性豪として知られる。我々は、悲壮な決意を持って風呂に入った、というと大袈裟か。もちろん、そんなことは杞憂にすぎず、楽しい一時を過ごしたし、いい思い出をいただいた。ロセンは確かに見事だったが。…どうもすみません。
とにかく、夢楽師匠には、スケールの大きな、人を引きつける魅力があった。談志も志ん朝も師匠を慕っていたという。私も、ほんのささやかな交流しかなく甚だおこがましいが、何となくその気持ちが分かるような気がする。夢楽師匠の側にいると、太陽の光を浴びているように、温かい穏やかな気持ちになれた。それは師匠に接した誰もが感じることだと思う。

この話はつづきます。

2009年6月29日月曜日

憧れの鰻屋

暑いねえ。こう暑いと鰻でも食べて精をつけたいという気分になる。
落語に「鰻の幇間」というのがある。この中に出てくる、鰻屋の二階で飲み食いする場面がいい。
本当は、ここで食べる鰻はおそろしく不味いという設定なのだが、八代目桂文楽がやると、何だかすごく旨そうに思えてしまう。厳密に言えば困ったことだが、私は文楽のこの場面が本当に好きなのだ。この人の演出は、うらぶれた芸人が本寸法のちゃんとした芸人に描かれていたりして、リアリズムの点から言えば大いに問題があるのだが、そのために噺の格調・美しさは抜群のものになっている。
まあいい。鰻の話だ。私が憧れる鰻屋での飲み食いは、およそ次のようなものである。
夏の気だるい午後。店は古い方がいい。二階の座敷。冷房はなくていい。開け放した窓の、簾を通ってくる風を感じたい。最初はビールといきたいが、ここは日本酒でいこう。冷酒などではなく、常温の冷や、あるいはぬる燗がいい。新香をつまみに鰻が焼けて来るのを待つ。そして白焼きをわさび醤油であっさりといただき、最後は鰻重で締めて、ほろ酔い加減で店を出る。鰻屋の酒は、あくまで食が主で酒が従。べろべろになるまで飲むのはみっともない。
とまあこんな具合だが、実はこれに似たことをやったことがある。それは職場の宴会で、石岡駅前の古い鰻屋を使ったのだ。
そこは昔は旅館だったらしい。建物はおそろしく古い。私たちは奥の座敷に通されたのだが、畳がぼかりと沈んだり、ほんのりと猫の匂いがしたりして、まるで「鰻の幇間」のうらぶれた鰻屋のようだった。
店は母娘らしい二人が切り盛りしていた。二人とも誠心誠意サービスしてくれた。刺身、白焼き、新香、蒲焼きと、料理も質量共に申し分なかった。
少し暑くなってきたので、中庭に面した障子を開けた。庭の緑が鮮やかに見える。猫の匂いも消えた。ひとしきり雷雨が来て、部屋に快い涼気を招いた。風情のある、楽しい宴会だった。
…ただ、私の場合、酒が出てくるとがぶがぶ飲んでしまい、粋に切り上げることができないんだよねえ…。

2009年6月23日火曜日

結婚式

先日、いとこの娘の結婚式に呼ばれ、横浜に行った。
いい式だった。
皆、よく笑い、よく泣いた。
M子は皆に愛されているんだなあ、おじちゃんは嬉しいぞ。

帰りに親父と妹夫婦と上野で飲む。
旨い酒を飲んだよ。

2009年6月18日木曜日

森鴎外『阿部一族・舞姫』

森鴎外『阿部一族・舞姫』を読む。高校時代に買った、新潮文庫版である。
凄い文章だな。
『舞姫』の華麗な文章に、まず心を奪われた。文語文だけに敷居は高いが、これは原文で読まなきゃ駄目だ。口語訳をしたがる人がいるけど、やはり「石炭をば、はや積み果てつ。」だよな。「石炭はもう積んだ」じゃなあ。
そして、『阿部一族』の厳しさ。鴎外の描写には人名が多い。若い頃は、それが煩わしかったが、それは間違いだった。鴎外は、その一人一人の人生を、死を看取ったのだ。そして、その漢語表現の素晴らしさ。漢籍が身体に染み付いていればこそのものだと思う。それにしても、『阿部一族』『堺事件』『じいさんばあさん』に登場する武士の、凛とした美しさはどうだ。義のために死ぬということに惹かれることが、危険であると自覚しながらも、どうしても心の奥底に響いてくるのを押さえることが出来ない。
大正の人たちの文章は巧みだが、鴎外を読むと(仕方のないことだが)軽く感じる。さすがに国造りに参加した明治人は、骨が太い。
『舞姫』にしろ非道い話だが、国家草創期のエリートとしては、やはり帰らなければなるまい。国を背負う悲壮な自負がそこには存在する。それを抜きに太田豊太郎の苦悩は語れない。
鴎外は、敷居は高いが、でも、読み物として充分面白い。文章にやられ、登場人物の美しさに心を奪われ、展開に引き込まれる。芥川も太宰も荷風も、鴎外に憧れた。私もその仲間に入れてもらえないだろうか。

2009年6月17日水曜日

桂文楽 芸の師

文楽には、もう一人「芸の師」というべき人がいた。三代目三遊亭圓馬である。
前座の頃、みっちりと基礎をたたき込まれた。仕草では手が腫れ上がるほど物差しで叩かれた。「ええ」という口癖を矯正するのに何十個のものおはじきをぶつけられた。ある時、ぼんやりと庭の池を眺めていると、いきなり後ろから背中を押された。「あっ」と叫んで池に落ちて、ずぶ濡れになって振り返ると圓馬がいた。「いきなり何をするんですか?」と文楽が抗議すると、「さっきの『あっ』と言った間はよかったなあ。あの間を忘れるなよ」と言われた。
「どうしてあたしにだけ、あんなに厳しいんだろうと思いました」と文楽は言う。
文楽が二つ目に昇進して間もなく、師匠桂小南が東京を捨て、文楽はやむなく旅に出る。4年経って旅から帰ると、圓馬は四代目橘家圓蔵との確執で文楽と入れ替わるように旅に出ていた。
文楽は翁家さん馬の弟子になった後、五代目柳亭左楽の門に入り、翁家馬之助で真打ち、やがて八代目桂文楽を襲名する。一方圓馬は生まれ故郷大阪に帰り、二代目圓馬から譲り受け三代目三遊亭圓馬を襲名する。
文楽が後に十八番と言われた数々の噺を圓馬に稽古して貰うのは、実はこの文楽襲名以後においてである。
文楽は年に2回吉本に呼ばれ、上方の寄席に出演したが、定宿、初勢旅館から、萩の茶屋の圓馬の家へ行く道しか、文楽は大阪の地理を知らなかった。それ程熱心に圓馬の元へ通い詰めたのだ。
圓馬から授けられた噺は、『愛宕山』『景清』『素人鰻』『馬のす』『富久』等々、いずれも珠玉の名作と言っていい。稽古の後、文楽はその台詞を旅館で原稿用紙に書き写した。尋常小学校を10歳で中退した文楽にとって、それは苦しい作業だったに違いない。そして、その噺に独自の刈り込みを施し、徹底的に磨く。こうして、所謂文楽十八番は完成する。このため、圓馬の噺より文楽のそれは、いささか神経質的にはなったが、精緻な工芸品の如き輝きを持った。人は「圓馬の豪放な部分を三代目金馬が、繊細な部分を文楽が受け継いだ」と言った。つまり、それ程、圓馬の芸には幅があり、大きなものだったということだ。
晩年、圓馬は中風を患い、言語障害となる。それでも文楽は、大阪へ行くと圓馬の家へ通った。文楽の顔を見るといつも圓馬は喜び、稽古をやろうと言った。しかし、舌がもつれて噺にならず、やがて圓馬は悔し泣きに泣く。文楽もやはり、泣かずにはいられなかった。帰りには文楽を送っていくと言って聞かなかったという。鞄を持つとさえ言ってくれたという。いい話だが、身を切られるように辛い話である。
とにかく、文楽は圓馬に惚れ、徹底的に食らいついた。無我夢中で圓馬の芸を吸収しようとした。そして、迷うことなく、圓馬を目ざし精進を重ねた。
有名な話だが、常に文楽はこう言っていた。「汚いたとえですが、もし圓馬師匠に俺のげろを舐めろと言われたら、あたしは舐めます。」

2009年6月11日木曜日

桂文楽 人生の師

文楽には3人の師匠がいた。
初代桂小南、七代目翁家さん馬(後の八代目桂文治)、そして、五代目柳亭左楽である。
現在はあまり師匠を変えるといったことはないが、この時代はそう珍しいことではなかった。五代目古今亭志ん生にも、二代目三遊亭小圓朝、六代目金原亭馬生(後の四代目古今亭志ん生、人呼んで鶴本の志ん生)、初代柳家三語楼と、3人の師匠がいる。
さて、五代目左楽である。文楽は、この人を終生「人生の師」と呼んだ。
長い間、五代目といえば左楽のことを指した。それは歌舞伎界において、六代目といえば尾上菊五郎を指すが如くであった。
左楽は明治5年生まれ。文楽より20歳年長であった。春風亭柳勢、伊藤痴遊、四代目左楽と、彼も3人師匠を変えている。日露戦争に従軍し、その体験談を語り大いに売れた。落語家としてよりも、政治的手腕に長け人望厚く、リーダーとしての評価が高い。
文楽が左楽の門に入ったのは、東京落語界が演芸会社派と睦会に分裂したことがきっかけだった。当時の師、さん馬が血判まで交わしたにもかかわらず、演芸会社に寝返ったことが我慢できず、左楽の元へ走ったのである。
左楽は、当時翁家さん生を名乗っていた文楽を「亭号などそのままでいいから、うちでよければおいでなさい。」と暖かく迎えた。そして、その言葉通り、翁家馬之助として真打ちに昇進させた。その際の高座では「この馬之助、実はこれこれの事情でうちにおりますが、どうかお客様、お立ちになるのならあたしが喋っているうちにお立ち頂いて、あれが上がりましたら、どうぞ最後まで聞いてやってくださいまし。これは左楽のお願いでございます。」と言って、毎回客を泣かしたという。
その後、以前にも書いた通り、強引な形で八代目桂文楽を襲名させる。この時も「噺は小味ですが、どうぞ聞いてやってください」と心のこもった口上を述べた。
文楽は、左楽について「恐くって恐くって、実に恐くって、それでいて別れられない人でした。情があってね。」と言っている。
実際に左楽の人間の大きさは相当のものだった。三代目小さん、二代目燕枝、初代圓右といった名人に伍して、左楽がいなければ顔付けがまとまらないと言われたほどだ。
睦会においても、文楽、柳橋、柳好、小文治を「睦の四天王」として売り出したり、落語家の高座への登場に出囃子を使ったりするなど、プロデューサーとしての手腕も発揮した。(それまで落語家は「しゃぎり」という太鼓で高座に上がっていた。)
そして、睦会のリーダーとして君臨する左楽に付き従いながら、文楽はそのリーダーシップを存分に吸収する。
昭和12年、睦会は解散。六代目春風亭柳橋の芸術協会に合流した。天下の五代目が、20歳以上も年下の柳橋の軍門に下ったのだ。この時から左楽は長い余生に入ったのだと思う。
昭和28年、左楽は引退興行を目前にして82歳で死ぬ。その葬列は、清水町の自宅を出発し池之端から鈴本演芸場の前を通り稲荷町の菩提寺へと進んでいったが、長さ200メートルに及んだという。落語家の葬儀としては、まさに空前にして絶後であった。
文楽はこの時、親族と共に笠を被り人力車に乗った。文楽が左楽の門に入って30年余、中途の弟子ではあったが、その間に、それ程の信頼と権威を、文楽は自らのものとしたのだった。

2009年6月9日火曜日

二代目桂小文治

桂小文治さんからDVDを頂いた。
小文治さんは、私の大学時代の先輩である。大学の落研で、私が1年生の時の4年生だった。
落研時代の名前は、夢三亭艶雀。昭和54年の大学落研名人選手権に出場。『もぐら泥』を演じ、本選に残る。ちなみにその時の優勝は、東海大学2年生の頭下位亭切奴、現在の春風亭昇太である。
大学在学中の昭和54年、十代目桂文治に入門し桂亭治の名前を貰う。昭和59年、亭治のまま二つ目昇進。平成5年には二代目桂小文治を襲名し、真打ちに昇進している。
二つ目昇進の時は、浅草演芸ホールに伺う。確かヨシカミでご飯をご馳走になった。真打ち昇進の時には、新宿末広亭の披露目を観た。春錦亭柳櫻と同時昇進だった。口上などで芸協幹部の期待がひしひしと感じられ、自分のことのように嬉しかった。この時、小文治さんは主任で『大工調べ』を熱演した。
小文治さんは高校時代、体操をやっていた。トンボが切れることから、踊りを売り物にした。故古今亭志ん朝が座長を務めた「住吉踊り」のメンバーでもある。
踊りは小文治さんに美しい所作を与えた。十八番『虱茶屋』の面白さは、まさに踊りの賜である。『殿様団子』の仕草もいい。
収まった口調で爆発的なフラはない。でも、演出は丁寧で、はっきりと人物を描き分ける。堅実な芸風だ。50代を迎え、落語家としては脂が乗り切る時期にさしかかってきた。風格が出、端正な芸にふくらみが出てきたように思う。
DVDには『船徳』と『芝浜』が収められている。『船徳』は仕草の多い噺で、まさに小文治さんのニンに合っている。オリジナルのくすぐりも入っていて、楽しい一席に仕上がった。『芝浜』は適度に笑いがあり、変に湿っぽくなっていない。人情噺ではなくきちんと落語になっている。小文治さんの見識がうかがわれる。程がいい。
この度、小文治さんは『宮戸川(上・下)』で芸術祭賞を受賞した。特に「下」は小文治さんの創作という。第1集で「上」(多分)の方が収録されているが、通しで是非DVD化してもらいたい。
この受賞が、小文治さんを一回りも二回りも大きくしてくれると思う。層が薄いと言われている芸協にとっても、小文治さんは貴重な戦力だ。どうか健康に注意されて、息の長い落語家になって頂きたい。文楽も志ん生も圓生も、小文治さんの師匠十代目文治も、丈夫で長生きしたからこそ、芸の華を咲かせることができたのだから。(HPの日記を拝見すると、心配は無用のようですね。)

2009年6月2日火曜日

芥川龍之介と志賀直哉

ここのところ、芥川龍之介と志賀直哉を読んでいる。改めて読むと、それぞれに面白い。
『暗夜行路』の解説を阿川弘之が書いているのだが、その中にこんなエピソードがあった。
ある時、芥川が夏目漱石に「志賀さんのような文章を、私はとても書けない。ああいう文章はどうやったら書けるのですか。」と訊いたという。漱石はそれに対しこう答えた。「あれは文章を書こうとしているのではなく、自分の思ったままを書こうとしているのだろう。私にもああいうのは書けない。」
こうして見ると、芥川と志賀というのは、対照的な二人だなと思う。
芥川は、あくまで意識的だ。細部にまで神経を張り巡らせ、ひとつひとつの小道具に意味を持たせる。様々な意匠を凝らした絢爛たる文章を積み上げる。構築された作品世界は、もはや一点一画をも揺るがせにできない完成されたものになる。
志賀は、漱石の言を借りれば、思うがままに書く。と言っても気楽に、というわけではない。自分が思うままに忠実にということだ。そのためには、調子から何から何まで、文章はすべて自分のものになっていなければならない。その自分へのこだわりのためには、辻褄合わせも読む者への説明も不要になる。
だからだろうか、私は芥川に多少の息苦しさを覚え、志賀に多少の傲慢さを感じる。
落語家に例えれば、細部にまで完璧を期す芥川は桂文楽であろうし、あくまで自己にこだわる志賀は古今亭志ん生であろう。そういえば、彼らは同時代を生きた人たちでもある。ちなみに、志賀は明治16年で、八代目桂文治・初代柳家小せんと同年の生まれ。志ん生が明治23年、芥川と文楽は共に明治25年生まれである。(ただし芥川も志賀も、文楽志ん生のような明るさはない。当たり前か。)

そう、私は明治・大正・昭和初期ぐらいまでの風俗や雰囲気が好きなのだ。桂文楽の噺(『つるつる』や『船徳』『明烏』、『かんしゃく』に『厩火事』等々)に、私は明治大正の近代文学の香りを感じる。そんな所も、私が桂文楽に惹かれる所以なのかもしれない。

2009年5月29日金曜日

サンキュー・ベイベー

TVブロスの『忌野清志郎・追悼特集号』を読む。
皆、清志郎が好きだったんだなあ。ほんとそう思う。
私は、それ程熱心なファンではなかったけど、でも、『初期のRCサクセション』、『ラプソディー』、『カバーズ』、『タイマーズ』、『冬の十字架』など要所要所のアルバムはちゃんと聴いている。それくらい無視できない存在だった。
声が圧倒的にいい。心にまっすぐ突き刺さってくる。(もし、後継者がいるとすれば、甲本ヒロトなのではないかと私は思う。)
何年か前、水戸のライブハウスで清志郎を観た。彼は放送禁止となった『君が代』を「こけの~む~す~ま~で~」と歌いながら、ムースを頭に塗りたくっていた。都会人のシャイであるが故に、ふざけてしまう様が、何とも格好良かった。観ておいてよかった。本当にそう思う。
そうなのだ。清志郎はシャイだが、言うべきことはきちんと言ってきた。たとえ、それが業界内でタブーとされていることでもだ。それがこの上もなく格好いい。
清志郎のメッセージは、いつでもシンプルでまっすぐに心に届く。
清志郎、大丈夫、僕たちはちゃんと愛し合っている。だから、君もそこからちゃんと見ていてくれ。
清志郎、ありがとう。

2009年5月28日木曜日

桂文楽 文楽襲名

大正9年、馬之助は八代目桂文楽を襲名する。この襲名は、もちろん五代目左楽の意志で行われたのだが、かなり強引なものであった。なぜなら、この時、桂文楽を名乗る落語家がいたからである。それを無理矢理「桂やまと」と改名させての襲名だ。当然、批判はあったろう。しかし、それを押さえるだけの力が、左楽にはあったのだ。

初代文楽は、三代目桂文治が名乗った。彼は文治を名乗った後、文楽、楽翁を経て桂大和大掾となる。文治が桂の止め名であることを考えると、いわば隠居名として作られたものだ。最初の師匠、三笑亭可楽の「楽」の字をもらったのだという。
二代目、三代目はそれぞれ五代目、六代目の文治となった。この辺りは、桂の出世名としての役割を与えられている。
文楽の名を不動のものにしたのが、四代目、「でこでこの文楽」と言われた人である。このあだ名は、噺の合間に度々「でこでこ」という言葉を入れることから付けられた。(ちなみに、八代目の『締め込み』の中に、「長火鉢にでこでこに火をおこして…」という台詞が出てくる。)江戸前の芸風で、廓を舞台とした『雪の瀬川』などの人情噺を得意とした。(左楽は、この文楽に憧れて落語家になった。拳を軽く握って膝に置く高座姿は、この文楽を真似たものだという。つまり、その名前を愛弟子にやろうとして、左楽は無理を通したのである。)
五代目は、その顔立ちから「あんぱんの文楽」と呼ばれた。地味だが軽妙洒脱な江戸前の噺家だったという。文楽の後「やまと」となり、その後実父の名前、桂才賀を継いだが、既に病床にあり、間もなく死んでいる。

こうして、八代目桂文楽は誕生した。五代目から引き継いだわけだから本来は六代目のはずだが、末広がりで縁起がいいとのことから八代目となった。もうこうなると、筋から言えば滅茶苦茶である。前述もしたが、左楽にそれほどの力があったのだろうし、文楽自身にそれほどまでにさせる魅力と可能性があったのだろう。しかし、文楽は左楽にとって途中からの弟子、当時はいわば新参者である。そう考えると、改めてこの襲名は異例ずくめだったことが分かる。
時に文楽28歳。後50年余り、死ぬまでこの名前を名乗り続けることになる。

2009年5月22日金曜日

石岡散歩

久し振りに平日の休み。
妻と外出しようと計画していたが、妻の用事が入りキャンセル。
加えて、下の息子の咳がひどく幼稚園を休ませた。
午前中は妻が用事を済ませている間、息子と遊ぶ。色んなおもちゃを出してくる。
昼は三人で焼きうどんを食べる。
午後は妻が「どこかに行って来なよ」と言ってくれたので、石岡に散歩に出かける。
いつもの中町の駐車場に車を止め歩き始めるが、今日は商店街の定休日だった。いつにも増してシャッター率が高い。
お気に入りの十七屋も東京庵もお休み。いつもはあまり行かない方へ向かう。
市民会館から国分寺辺りから駅前通と、1時間ばかりうろつく。
中町の紫園でアイスコーヒー。ビッグコミックスピリッツを読む。
妻と息子に、お土産に煎餅と団子を買って帰る。
今年初の真夏日。暑かった。

2009年5月15日金曜日

桂文楽 真打ち昇進

大正6年、さん生は五代目柳亭左楽のもとで、翁家馬之助を襲名し、真打ちに昇進した。
左楽の睦会は、東京演芸会社に対抗して結成された。三代目小さん、四代目圓蔵などの当時の大看板はこぞって演芸会社に参加した。したがって、睦会は若手を売り出すしか手はなかった。左楽は有望な若手を重用する。
その中に、馬之助もいた。彼の端正で明るく艶やかな芸は人気を呼んだ。中でも、三遊亭志う雀から教えて貰った『明烏』は強力な売り物になった。
『明烏』という噺は、新内『明烏夢泡雪』のパロディー『明烏後正夢』の発端の部分、稀代の堅物、日向屋時次郎の、吉原での初体験を描く。初午の日、遊び人の源兵衛と多助に「お稲荷さんのお籠もり」と騙されて、時次郎は吉原に行くことになった。(そこには息子の堅物さを心配した父親の意志も大いに反映されていた。)疑うこともなく登楼するが、やがて、そこが女郎屋であることに気づき大騒ぎする時次郎に、二人は「今一人で帰れば不審に思われ、門番に大門で拘束されるのが吉原の決まりだ」と脅す。やむなく時次郎は泊まることに同意する。そこで彼の敵娼で出たのが、絶世の美女、浦里。さて翌朝、二人が部屋を訪ねると、時次郎は昨夜至福の時を過ごしたらしい。二人は帰ろうとせかすが、時次郎は同衾している浦里と離れようとしない。業を煮やして自分たちだけで帰ろうとする二人に、時次郎はこう言う。「あなた方、帰れるもんなら帰ってご覧なさい。大門で止められる。」
当時は際どい描写もあったというこの噺を、馬之助は、品良く、さわやかな色気あふれる一遍に仕立て上げた。しかも、翌朝の場面で、多助がぼやきながら食う甘納豆の仕草が評判を呼ぶ。(この仕草は三代目三遊亭圓馬に厳しく仕込まれた賜であろう。)馬之助が『明烏』を演じた後は、売店の甘納豆が飛ぶように売れた。
こうして、馬之助は新進気鋭の若手真打ちとして認められるようになった。
大正8年、馬之助は最初の妻おえんと別れ、日本橋にある「丸勘」という旅館に婿に入る。桂文楽を襲名するのはその翌年。要は金のためである。
前に書いたが、おえんは大阪でお茶子をしていた。馬之助とともに東京に出て所帯を持った。おえんは、年下の馬之助に懸命に尽くした。売れっ子の若手真打ち、男っぷりもいい、素人玄人問わず、女にもてた馬之助に捨てられまいと必死だったのだろう。馬之助が足を挫いたときは、彼を背負って医者に連れて行ったという。私は『厩火事』のお崎さんは、このおえんがモデルではないかと見ている。
その糟糠の妻を、馬之助は(手切れ金は払ったというが)、いとも簡単に捨てた。当時のゴシップ紙には「馬之助のイロになると尻の毛まで抜かれる」と書かれる始末だった。

馬之助がめきめきと売れ出したのと同時期、古典の世界に近代的な解釈を施した短編小説を次々に発表し文壇の寵児となった青年がいた。馬之助と同じ明治25年生まれの、芥川龍之介である。

2009年5月13日水曜日

大洗鹿島線に乗る

水戸での宴会があるため、初めて大洗鹿島線に乗る。
私は別に鉄道ファンというわけではないのですが、いやあ、いいですねえ。
この鉄道には新しいというイメージがあるのだが、開通してもう20年以上か。
いい具合に味が出てるなあ。
田園風景の中を進むディーゼルカー。
山は目も痛いほどの新緑。所々で藤の花がぶら下がる。
眼下には田植えを終えたばかりの田圃が広がる。
基本的に高架を走っているので、本当に見晴らしがいい。
大洗駅手前では停泊中のフェリーが見えた。
景色もバリエーションがあって楽しめました。
ローカルの私鉄ということで経営は決して楽ではないだろうが、是非とも頑張って欲しいものです。

そう考えると、鹿島鉄道鉾田線の廃線は、今もって悔しい。
すぐそこが霞ヶ浦という所を走る唯一の鉄道だったのだ。
霞ヶ浦、筑波山(しかもその形が最も美しい角度で見ることが出来る)、昭和初期製の車両という完璧な組み合わせが楽しめる、我々にとって、本当に貴重な財産だったのだ。
もったいないことをした。この思いは、ずっとずっと忘れられないと思う。

2009年5月9日土曜日

GWのお出かけ

GW、唯一のお出かけは、江戸崎のポティロンの森。
アンパンマンショーをやっているすきに乗り物に乗り、お弁当を食べる。
その後、「わんぱく広場」で子供たちを遊ばせた。30分500円なのだが、時間を計っている様子はない。大らかなもんです。二人とも汗だくで飛び回っておりました。
そして、長男お待ちかねのビンゴ。DSが欲しいと言ってやたら気合いを入れていました。
リーチは早かったが、結局ビンゴならず。
不況のせいか商品が少なくなっていたなあ。
途中から雨が降り出し、帰る頃には結構な降り。
でも、皆、楽しかったみたいで、よかったよかった。
新緑が鮮やかで、気持ちのいい一日でした。

2009年5月4日月曜日

立川談志考 その3

立川談志は優れた評論家でもある。その著書も多い。
ただ、気になるのは、人の芸を語りながら、度々自己評価が挿入されることだ。それも自画自賛といっていい程その評価は高い。
例えば、五代目古今亭志ん生の芸を賛美しながら「でも家元のほうが深い」と言ってみせたり、五代目柳家小さんを「女が描けない」と批判しながら「俺様は何でも出来る」と胸を張ったりする。かつては「文楽師匠の芸なら3日で出来る」と豪語したという。
もはや今、談志を名人と呼ぶのにためらいを持つ者はいないだろう。斬新で確かな解釈、迫真の描写力、その高座は多くの人を感動させている。著名人にも熱狂的なファンは多い。今更「俺は凄い」と強調する必要はあるまい。それが談志の売りだとしてもだ。
自己評価が高い人、それを周囲に主張する人というのは「自分を認めて欲しい」という欲求の強い人である。そして、多くの場合「自分は正当に認められていない」と思っている人である。当代一の名人と自他共に認める立川談志もその一人であるというのは、いささか奇異な感じがする。が、実は談志もその一人なのではないか、と私は思う。
立川談志にはトラウマがある。多分それは自身の真打ち昇進時の記憶である。
談志は、二つ目時代からその才能を認められ、将来を嘱望されていた。と同時にその特異なキャラクターは「生意気だ」という悪評も生んでいた。そんな中、真打ち昇進において、談志は後輩の古今亭志ん朝、三遊亭圓楽に後れをとる。自分の芸に絶対の自信を持つ談志は、志ん朝に対し「昇進を辞退せよ」と迫り、圓楽の昇進時には悔しさのあまり号泣したという。前回触れた落語協会分裂騒動は、談志が志ん朝の香盤順位を下げようとして起こした陰謀であるという説もある。いずれにしろ、この真打ち昇進にまつわる一件は、談志の心に大きな傷を残したに違いない。
もちろん談志はそんなものに負けなかった。闘志をむき出しに落語と格闘した。その結果、談志は既成の名人像に収まらない高みに上り詰めた。にもかかわらず、今なお「俺を正当に評価しろ」とのたうち回る。それを人間くさいととるか、更に高みを目指す志があるととるか、痛々しいととるか、人それぞれだと思う。
新宿末広亭の席亭、故北村銀太郎翁はかつて「談志なんかもあるところまではゆくだろうが、歪んだ感じで進んでゆくことは免れ得ないんじゃないかな。」と言った。
その「歪んだ感じ」の方へ談志を押しやった屈折のおかげで、談志はかつてない形の名人像を作り上げた。しかし、その「歪んだ感じ」を、今の私は受け容れがたいのだ。

3回にわたって立川談志のことを書いた。
「志ん朝・談志」は、私たちの世代にとって「文楽・志ん生」と並ぶ「僕らの名人」と言っていい。おそらく我々は「団菊爺」ならぬ「朝談爺」になるだろう。青春時代の多感な時期に、志ん朝・談志の鍔迫り合いを見ることが出来たのは、私にとって、大きな幸運である。立川談志が大切な落語家であることに、今も変わりはない。
しかし、新興宗教の教祖のような今の談志に、私は強い違和感を抱いている。その違和感がどういうものなのか、うだうだと書いてみた。煮え切らない文章で、結局何が言いたいんだというような内容だが、今の私にはこれが精一杯である。

2009年4月29日水曜日

宇野浩二『芥川龍之介(上・下)』

鬼才、宇野浩二が、生前親交のあった芥川龍之介について、思いつくまま書き綴る。
これが面白い。
冒頭の珍道中に、まずやられた。芥川との関西方面への旅行の話なのだが、これが少々際どい。二人で京都は宮川町のお茶屋で遊ぶのだが、途中、芥川は四つ目屋(大人のおもちゃ屋ですな)に寄り、張型を買う。それを遊女相手に使用するのだが、漬けた湯が熱すぎてしくじった。その張型も家に持って帰れず、宇野にやったという。端正なイメージをもつ芥川だが、その手の遊びは好きだったらしい。
もちろん、こんな話ばかりではなく、宇野と芥川の隔てのない交流が多く綴られる。物堅く優しくいきとどいた、それでいて茶目っ気のある芥川の人柄がにじみ出る。
芥川は小説『鼻』が夏目漱石に激賞され、大正の文壇に鮮烈なデビューを果たした。そして、『今昔物語』などの古典に取材し近代的な解釈を施した、いわゆる「王朝もの」といわれる作品を次々に発表し、時代の寵児となった。
しかし、宇野は、この時期の若いのに凝りに凝った小説を量産する芥川を、痛々しい思いがする、ともらす。そして、その凝りに凝った小説も、理に詰みすぎていると批判する。
芥川が持っているのは、元ネタを独自の解釈で自分の作品に仕立て上げる才能で、ストーリーテラーの才はなかった。宇野はそれを冷徹に見抜いている。芥川の作品世界は「王朝もの」にとどまらず、「切支丹もの」「江戸もの」「童話」と幅を広げるが、やがてネタが尽きると、たちまち創作に行き詰まる。それに加えて自身の健康の悪化、家庭問題などが重なり、芥川は精神を病んでいった。
ネタがなくなった芥川は自分をネタにし始める。それが晩年の私小説風の作品群である。芥川の病んだ精神は、彼を混濁させるのではなく、底光りする冴えをその文章に与えた。宇野もそれを「真に迫る」と認めている。ただ、健康の悪化から息が続かず、本格小説にはなり得ず小品に終わっているとも指摘している。
芥川が自殺した時、宇野自身も精神を病み入院中だった。親友の死を宇野は予想せず、深い衝撃を受けた。
死の前年、宇野が芥川を訪ねた時、二人はお互い「小説書けよ」と励まし合ったという。同じ時代を生き、同じように精神の病と闘った者同士に通じる思いがあふれ出る。宇野の芥川作品を見る目は、多分に批判的だ。だが、芥川龍之介の才能を愛し人柄を愛し、その死を痛切に惜しんだのは、他ならぬ宇野浩二その人である。
宇野浩二の長い作家生活の最後の仕事が、これであった。

2009年4月26日日曜日

桂小文治、芸術祭賞受賞パーティー

桂小文治さんの芸術祭賞受賞パーティーに出席する。
小文治さんは、大学の先輩。私の結婚式の司会もしていただいた。
丁寧な演出と所作の美しさには定評がある。
この度、独演会における『宮戸川(上・下)』の好演が認められた。
特に、下は小文治さんによる創作とのこと。
ご招待を受け、喜んで出席させていただくことと相成った。

同期のN君、F君と有楽町で待ち合わせ。
着いた時間が早かったので、ちょいと辺りを散歩。
皇居、二重橋まで歩く。鮮やかな新緑。気持ちがいい。
N君、F君とスタバへ。1時間ほどお喋りして会場へ向かう。
会場は東京會舘。大学の先輩方が多数お見えになっている。
どうやら、我々が、大学関係ではいちばん年下らしい。
小遊三副会長、講談の人間国宝・貞水、昇太など芸協のスターがずらり。
余興も盛りだくさん。平治・圓満の物真似(これがお見事)、北見伸・ステファニー・山上兄弟のマジック(豪華でしたねえ)と華やかなもんでした。
2時間半ほどでお開き。
広島まで帰らなければならないF君と会場を後にし、銀座へと行く。
プランタンで遅れていた妻への誕生日プレゼントを買う。
30分ほど銀ブラ。有楽町でF君と別れる。
上野で息子たちへのお土産を買って帰る。
旧交も温めることも出来、また、いい経験もさせていただきました。いい一日でした。

2009年4月24日金曜日

おれ「猫の災難」が好き

立川談志考は一回お休み。ちょっと古い文章を載せておきます。

「猫の災難」という噺が好きだ。 
友達が二人で飲もうといって買って来た酒を、熊さん一人が全部飲んじゃう噺である。(同じように、友達と二人で飲もうと思った酒を、一人で飲んでしまう噺には、「一人酒盛り」があるが、あっちは目の前に飲みたくてうずうずしている人がいるのに全部飲んじゃうんだから、タチが悪い) 
この噺の聴かせ所は、何といっても5合の酒を、熊さんが何だかんだ言いながら、全部飲んでしまう所であり、その酔っていく過程を描く所にあると思う。
酒飲みを描くのに、演者自身が下戸の場合と上戸の場合とがある。前者は、酒席などで観察できるから、客観的な描写をするのにいい。後者は自分でその気分になれるという利点がある。どちらがいいとは一概に言えない。しかし、私個人的には、この噺は、酒好きな人にやってもらいたいと思う。 
朝から飲みたくてしょうがなかった熊さんの前に酒がある。友達は、熊さんの言い訳を真に受けて、鯛を買いに行った。
「そういえば、あいつ酒屋で味見したって言ってたな。一杯ぐらいならいいだろう。」
何だかんだ言いながら、一杯が二杯・・・・・。 
飲みたくってしょうがなかった酒だ。しかも、友達を気にしながらの、いわば盗み酒。禁断の味だ。うまくないわけがない。 
熊さん、それでも人がいい。友達のために燗徳利に酒を取って置いてやろうとする。が、入れすぎてこぼしてしまう。そこは酒飲みの意地汚さ、畳にこぼれた酒をすっかり啜ってしまう。
こんなに入れたら燗が付けられないと、吸っているうちに徳利の酒を全部飲んでしまう。
気が付いたら、5合の酒をあらかた飲んでしまった。さあどうしよう。そうだ、また隣の猫のせいにしてしまおう。そうと決めたら、ぜんぶ飲んでしまえ。 
この、開き直ってからの熊さんがいい。友達が鯛を買いに行っているのすら忘れ、ただただ酒を楽しんでいる。思わず出る、「今日はいい休みだったなあ」という言葉がいい。 
こういう様を、酒が好きな人なら、自ら楽しみながら演じられるのではないか。そして、その、高座で演者が気持ちよく酔う様を、客席で楽しみたい。多分、私も喉を鳴らしながら、帰りにはどこかで酒を飲みたいなあと思いながらいるにちがいない。

2009年4月15日水曜日

立川談志考 その2

前回、立川談志の芸は客との特別な関係を求める、と書いた。それを私が意識したのは、談志が落語協会を脱退した後である。
立川流創設後の「ひとり会」を収めたビデオを観て、私はちょっとした違和感を覚えた。そこにはまさしく談志と客との特別な関係があった。客は談志を求めて集まる。談志はその支持者を前に、思う存分持論を披露し、苦悩や迷いをさらけ出す。踏み込んだ表現を使えば、客も談志も、お互いに媚びているような印象を受けたのだ。
談志が落語協会を脱退したのは、弟子の真打ち昇進問題が発端だった。弟子が真打ち昇進試験に落ちたのに腹を立て、落語家の狭い世界にほとほと嫌気がさしたのだという。そして、他の芸能や娯楽と真っ向勝負をすべく、あえて寄席を捨てたのだ。多くの人が、この出来事をそのようにとらえているが、私の見方は少々異なる。
談志の協会脱退は昭和58年。それに先立つ昭和53年、協会の分裂騒動があった。六代目三遊亭圓生が、五代目柳家小さんの協会運営、とりわけ大量真打ち昇進に反対し、一門始め古今亭志ん朝、七代目橘家圓蔵一門を引き連れて落語協会を脱退し、新協会を設立するというものだった。この事件に談志が深く関わったことは有名な話だ。談志自身が新協会設立のプランを圓生に進言し計画を推進したが、圓生が後継者に志ん朝を指名するやいなや、その話から抜けてしまう。圓生らは新協会設立を発表するも、席亭の支持を得られず、志ん朝と圓蔵一門は落語協会へ戻ることになる。
談志が暗躍したことは周知の事実だった。師匠小さんを裏切った上、圓生を支えきることもせず、あっさりと寝返った。その行動は、周囲の顰蹙を買うに充分だったろう。加えて、正式に反旗を翻した志ん朝らに対し、落語協会はペナルティーを課さなかった。弟子のために寄席の高座を失いたくない一心で、どんな罰をも受けるつもりで戻った志ん朝は、神妙に「これからは芸で勝負します」と誓い、かえって男を上げた。以後、柳家一門にも協会内部にも、談志に対し冷ややかな空気が流れたことは想像に難くない。
談志は強面で強いイメージがあるが、その実、繊細で臆病な人だと思う。針の筵のような協会にいるのが嫌だった。それよりも、圧倒的支持を得られる環境が欲しかった。案外、落語協会脱退の直接の動機は、そんなものだったのかもしれない。
熱狂的なファンを持つ談志に、もはや寄席は必要なかった。独演会を開けば、たちまち切符は売り切れた。談志は立川流を創設し、自らを家元と称した。そして、著名人を弟子にし、そのブランドイメージを高めた。多くの著書をものし、自分の価値観に反する者には激烈な批判を展開した。こうして、談志は、彼を取り巻く人々と濃密で特別な関係を結んでいく。誰もが彼を尊敬し、畏怖し、支持した。それは談志の望むべき環境だったに違いない。

2009年4月10日金曜日

立川談志考 その1

立川談志は青春の芸である。私も大学の頃、熱にうかされるように談志を聴いた。談志を語ることは、その頃の自分を語ることでもある。対象との距離がうまくとれない、難しい作業だが、やってみる。

談志の芸は観客との濃密な関係を強いる。
談志の高座は拒絶から始まる。不機嫌な出。聞こえるか聞こえないかの声でぼそぼそと話し出す。枕では現状に対する否定的な言葉が並ぶ。観客が歩み寄らなければ、談志の芸は楽しめない。談志を受け入れることで、我々はまず談志との特別な関係を結ぶ。(もちろん、受け入れられない人も中にはいる。事実、落語協会在籍当時、「早く落語やれ」と野次る客と談志はしばしば喧嘩をした。)
噺に入れば、世界は一変する。斬新な解釈、優れた人物描写、迫力ある語り口、感情の奔流が観客を飲み込む。我々は談志の世界に引きずり込まれ翻弄される。そして、時折見せる談志自身の苦悩、迷い。これがまるで彼の弱さを自分だけに見せてくれているかのように思わせるのだ。こうして、観客は談志との1対1の濃密な関係を結ぶことになる。そして、そこに感動が生まれる。(立川談春は「談志には感動がある」と言って談志へ入門した。)

私は大学1年の時、旧池袋演芸場で『鼠穴』を聴き、以来談志のとりこになった。私が落研部員だったことは以前にも書いたが、私の落語はやがて談志の口調に強い影響を受けた。2年の冬合宿、十代目桂文治のテープで覚えた『二十四孝』を聞いて、技術顧問の三笑亭夢楽師匠は「談志さんのテープで覚えたよね」と言った。合宿の打ち上げコンパでは談志の物真似をやって、夢楽師が連れてきた弟子の小夢さん(現・桂扇生)にうけたほどだ。私だけじゃない、談志門下のほとんどはあの口調である。それ程の強い影響力が、立川談志にはある。

既成の権威に独自の価値観で切り込む。落語に対する真摯な愛情。自分の芸への強い自負。自分の弱さをさらけ出す。傲岸と含羞。純粋と露悪。無頼と繊細。多面的で複雑な魅力が立川談志にある。いずれも、あくまで自分に忠実であろうとする、強烈な自我意識が根底にある。これはまさに、青春そのものではないか。
「選ばれし者の恍惚と不安、我にあり」。これは太宰治がその処女作に冠した言葉だが、立川談志をも言い表しているように、私には思えるのである。

立川談志については、まだまだ語り尽くせない。これからも、もう少しお付き合いいただくことになると思います。では。

2009年4月8日水曜日

桂文楽 東京復帰

大正5年、小莚は東京に帰った。彼はまだ二つ目。寄席に出るためには、誰かの身内にならなければならない。
当時、大阪から帰って来て売れに売れていたのが翁家さん馬、後の八代目桂文治であった。小莚はさん馬の弟子になり、翁家さん生の名前を貰う。(さん生という名前はもともと三遊亭の名前。四代目橘家圓蔵が前座時代名乗っていた。近年では川柳川柳の圓生門下時代の芸名であり、現在は文楽の弟子だった柳家小満んの弟子が柳家さん生を名乗っている。スケールの大きいいい噺家だ。)
こうして、さん生は東京の落語界に復帰した。大阪で寄席のお茶子をしていた、おえんという5、6歳年上の女と所帯を持ち、御徒町に住んだ。この頃、親友、春風亭梅枝らと「幸先組」というのを結成する。「幸先組ってのはどういうものなんだい?」と四代目志ん生(当時は金原亭馬生)に聞かれた梅枝は、「強気を助け、弱きをくじくんです。」と言って煙に巻いた。
梅枝の奇人ぶりを示すエピソードは多い。そのひとつ。行水をしていたさん生の女房を、切符を売って仲間に覗かせた。さん生も切符を買わされ、自分の女房の裸を仲間と一緒に覗いたという。
やがて梅枝は東京を去り、放浪の挙げ句、大阪で不遇のうちに死ぬ。臨終の際、女房に向かって「俺が死んだら四天王寺のどこそこを掘り返してくれ。壺の中にお前に残した金がある」と言った。葬式を済ませた後、女房が言われたとおり掘り返すが、何も出てきはしなかった。(一説に言う、女房が言われたとおり掘り返すと、果たして壺が出てきた。中を見ると一枚の紙切れがあり、そこには「これが嘘のつき納め」と書いてあった。)
翌年、さん生はさん馬から「真打ちになれ。」と言われる。自信が持てず一度は断るが、ついには承諾し、馬之助と名前まで決めて、昇進の準備を進めた。しかし、その頃、東京落語界は月給制を敷いた演芸会社とそれに反対した睦会とに分裂する。さん馬は睦会に参加すると言って血判まで押したにもかかわらず、三代目柳家小さんへの義理を果たすため、演芸会社へ寝返った。若いさん生はそれが我慢できず、睦会のリーダー五代目柳亭左楽のもとへ走る。
下谷黒門町の左楽の妾宅を訪ねたさん生に対し、左楽は「それは公用だからここでは聞かない。明日本宅の方へおいで。」と言った。そして、翌日左楽はさん生にこう言った。「よろしい、引き受けた。亭号なんぞはそのままでいいから、うちへおいでなさい。」左楽の人柄を偲ばせるエピソードだと思う。
八代目桂文楽が、人生の師と終生仰いだのが、この五代目柳亭左楽であった。

2009年4月5日日曜日

狼になりたい

時々、無性に食いたくなるものがある。私の場合、①ラーメン、②カツ丼、③カレーライス、というラインナップなのだが、別格として吉野家の牛丼を挙げておきたい。 
牛丼は、孤独な食い物である。それは、他のものと比較した時、歴然とする。 
例えば、ラーメンの場合、味噌にするか塩にするかスタミナにするか、それともここはシンプルに醤油ときめるか、注文する段階で楽しい逡巡がある。そして、出来上がりを待つ、気持ちの高まりがある。カツ丼にしろ、天丼や親子丼を勝ち抜いた威厳がある。 
ところが、牛丼の場合、注文する時は、並か大盛りかのどちらかしかない。そして、すぐに、湯気を立てた牛丼が目の前に供されるのである。ここには、我々が食い物と対峙する時の、間もない、対話もない。ただ、目の前の牛丼に紅ショウガを載せ、七味を振りかけて、わしわし食うしかないんである。そして、食い終わった後は余韻に浸る間もなく、茶を一口、口に含んで夜の街に出て行かなければならぬ。(こういう店は回転が勝負だからね)急いでい食ったもんだから、胃がしくしく痛む。寂寥感でいっぱいになる。 しかし、である。人間、これがたまんない時があるのである。 
牛丼は戦闘的な食い物である。かつて、中島みゆきが、自作「狼になりたい」の中で、吉野家の牛丼を歌ったように、人は狼になる時に牛丼を食うのである。カツ丼の、よーし、わしカツ丼食っちゃるもんね、という陽気な気分とは別の、暗く内にこもった戦闘意識が蓄積されるのである。 
いちばん印象に残っているのは、(現存はしないが)池袋駅西口付近にあった吉野家である。私は、立川談志が旧池袋演芸場に出ている時は、随分通ったものだ。この寄席は、盛り場の路地裏にあり、当時としても珍しい畳み敷きの席だった。まず、客は入らない。ここで、談志は年に二三回、十日間よほどの事がない限り休演せず、熱のこもった高座を務めた。それは、今思い出しても、とても濃密な空間だった。私は、ここに入る時、決まって腹ごしらえに牛丼を食った。そして、内なる戦闘意識をたぎらせて、しくしく痛む胃をおさえながら、思いつめた目で、立川談志の高座を見つめるのだった。

2009年4月4日土曜日

お花見

妻子を連れて、牛久のシャトー神谷へ花見に行く。
私と妻に言わせれば、旧名の牛久シャトーの方がしっくりくる。
花は八分咲きといったところ。
中では結婚式をやっていた。皆、晴れやかな笑顔。人が幸せそうにしているのを見るのはいいものです。
お腹が減ったので、栄町の千成亭へ。
私と妻は味噌ラーメン(正式名称は「サッポロラーメン」という)、息子二人には醤油ラーメンとチャーハンをとる。
味噌ラーメンは、具はもやしと挽肉のみ。にんにくと七味を効かせた濃厚なスープ。旨いのよ、これが。妻などは、ここを凌ぐ味噌ラーメンがなく、苦労している。
息子二人もばくばく食べる。チャーハンも食べさせて貰うが、うん、正しいチャーハンだな。いいねえ。
夕食はスーパーで買った鮪の切り落としと頂き物の鯵の干物、伊豆土産のわさび漬けでビール、燗酒。

4月1日から、12年勤めた職場から転勤した。全く違う環境で戸惑うことばかりだが、背伸びせず、出来ることを出来るようにやるつもり。

2009年3月29日日曜日

伊豆家族旅行

4年ぶりで、家族を連れて伊豆へ行く。
1日目は長岡でイチゴ狩り。
子供二人、服をべたべたにしながら食べておりました。
天城湯ヶ島「たつた」に投宿。
いつもながら心地よい雰囲気。
いちばん安いプランだったものの、料理も大満足でありました。
2日目は修善寺「虹の郷」で遊ぶ。
市内の宿に泊まった人は、何と400円引き。
中は花がいっぱい。子供も遊べるし、お勧めスポットだと思います。
それから戸田に出て昼食。
魚フライ定食は、アジフライが何と5枚。これが旨い。ぺろっといけました。
海と富士を楽しみながら帰途へつく。
渋滞で東京を抜けるのに手間取りはしましたが、楽しい旅行でありました。

2009年3月22日日曜日

桂文楽 むらくとの別れ

小莚が東京に帰った時、彼の芸の師匠、朝寝坊むらくは既に東京を捨てて旅に出ていた。
それにはこのような経緯があった。
新富座の芝居茶屋で四代目橘家圓蔵と口論の末、むらくが圓蔵を殴った。立花家橘之助との三角関係が原因と言われている。橘之助は浮世節の大家。明治、大正の演芸界で女帝と言われた人物である。もともとむらくは大阪で橘之助に見出され、立花家左近として東京でデビューした。そして、真打ち昇進時に襲名した「朝寝坊むらく」の名前は、橘之助の亡夫のものだった。いかに橘之助がむらくを支えたかが分かる。橘之助はむらくよりも15歳年上だったが、二人は男女の仲になる。まるで『真景累ヶ淵』の豊志賀と新吉のようだが、橘之助は豊志賀のように一途ではなかった。橘之助は恋多き女であり、その情夫の一人が圓蔵だった。圓蔵からすれば、師匠と深い仲になったむらくを身の程知らずと思っていたかもしれないし、また、橘之助の引き立てでめきめき売れ出し、名人の道をひた走るむらくに脅威も感じただろう。いずれにしても、圓蔵はむらくに対して激しい敵意を燃やしていた。むらくにしろ、橘之助の情夫である圓蔵に嫌悪感を抱いていたに違いない。二人は一触即発の状態だったのだ。
圓蔵はむらくよりも18歳年長。大正期の三遊派をリードした大看板である。上下関係の厳しい芸界にあって、そのような人間を殴って無事でいられるはずもない。むらくは名前を橋本川柳に改め、長い旅に出た。
この旅についていった若い落語家がいる。初代三遊亭圓歌門下の歌笑。元は講釈師だったが、落語家に転向していた。彼は師匠の世話を兄弟弟子の歌奴に任せ、川柳の後を追う。そして巡業の間、たっぷりと川柳の芸を吸収した。この歌笑が後の三代目三遊亭金馬である。後年「三代目圓馬の豪放な部分は金馬が、繊細な部分は文楽が受け継いだ」と言われた。三代目圓馬の若き日、橋本川柳時代の勢いのある芸に薫陶を受けた結果であると言われている。
こうして、ひとまず小莚はむらくと別れた。ただ、二人の縁はここで切れたわけではなかった。

余談。四代目橘家圓蔵は四代目三遊亭圓生門下である。二つ目で橘家圓蔵の名前を貰い、その名前のまま真打ちに昇進した。人呼んで「品川の圓蔵」。その能弁は、芥川龍之介をして「全身これ舌」と言わしめた。三代目柳家小さんとともに大正の落語界を牽引し、もともと二つ目名の圓蔵を一代で大看板にのし上げた。五代目三遊亭圓生襲名を決意するも59歳で急死。一門には五代目、六代目の圓生がいる。

2009年3月19日木曜日

日本酒には豆腐がよく似合う

日本酒には豆腐がよく似合う。 
日本酒に刺身、これは最良の組み合わせとして、巷間伝えられている。例えばここに、小生愛飲の銘酒「神亀」があったとする。その隣に、スーパー山内で千二百円也の中トロを置く。これ以上美しいカップルはない。神亀といえば、日本酒界の押しも押されもせぬエース。マグロ中トロは、スーパー山内鮮魚部が自信を持って推薦する、魚界の才媛である。それは、あたかも、プロ野球の人気球団のエースが、モデルやスチュワーデスと結ばれるようなものだ。 
この豪華な組み合わせの前に、豆腐はいかにも分が悪い。スーパー山内で、八十七円。ピンクに肌を染まらせた中トロに対し、色は真っ白で、形もまっ四角、色気も愛嬌もない。 
しかしだね、この豆腐というやつが、実に日本酒の味を引き立ててくれるのである。鼻腔に芳醇な香りを漂わせつつ、何の未練もなく喉を通過する酒。その、わずかに残るべたつきを、さり気なく払拭する豆腐。その絶妙のコンビネーションは、酒に、そういえば、おれの隣にはいつもお前がいたんだなあ、という感慨を喚起させずにはおかないであろう。 
中トロがモデルなら、日本酒と豆腐の組み合わせは、エースと、高校の時の野球部のマネージャーといったような、マコトにほほえましくも、大地にしっかりと足をつけた関係と言えまいか。 
しかも、暑い時は冷奴、寒い時は湯豆腐と、いかようにも合わせてくれる。そう考えると、あの白ささえもが、花嫁の白無垢を連想させてくれるではありませんか。 
中トロだと、こうはいきませんよ。刺身じゃなきゃ駄目、山葵は本ワサ、醤油に溶くなんてとんでもない、と気位が高いだけに注文が多い。 
ところで、倒幕の立役者の一人、大村益次郎は、豆腐で酒を飲むのが、唯一の楽しみだったという。高校生の時やってたNHKの大河ドラマ「花神」での、彼の杯を口に運ぶ手つきが印象的で、私はいまだにそれを真似しているのである。 

2009年3月12日木曜日

桂文楽 旅暮らし(補足)

前回の補足。

別派を立てようとした小南が所属していたのは三遊派だった。その三遊派の頭取は二代目小圓朝。つまり、この時点で小南と小圓朝は敵対していたことになる。
小南の企ては失敗し、大阪へ落ちた。師匠の家に住んでいた小莚は、師匠と共に住処をもなくした。師匠なしでは寄席にも出られない。小莚は師匠に捨てられたのだ。
ここで私は、なぜ小莚はむらくの弟子にならなかったのだろうという疑問を持つ。その芸に心酔し、目もかけられていた。当時むらくは29歳。若手ではあるが、別に弟子をもってもおかしくはない年齢だと思う。むらくが四代目橘家圓蔵との確執によって東京を捨てるのはその5年後。小莚が東京へ帰る直前である。まだ、むらくは東京にいたのだ。
しかし、小莚は小金井芦洲について旅に出た。芦洲の芸にも惚れていたというのがその理由だ。当時、旅で修業するというのが一般的なやり方だったのかもしれない。ただ、ひとつ言えるのは、小莚はここで(意識的かどうかは定かではないが)自立の道を選んだのである。
ちなみに、小圓朝も月給制の失敗から多額の負債を抱え、程なく旅に出る。もちろん弟子の朝太(後の志ん生)もそれについて行った。旅の途中で朝太は師匠と別れ、小莚と同時期、2年の間旅暮らしをしている。

小莚が旅で辿ったルートは次の通り。まず芦洲と静岡へ。芦洲に捨てられ名古屋へ落ちる。名古屋で圓都の身内になり、金沢、福井と北陸を旅する。明治天皇崩御で一座は解散。いったん東京へ戻るものの再び旅へ。京都桂派に属し笑福亭に住み込む。ここでは後の三代目春風亭柳好と一緒だった。その後は大阪。そして神戸。1年後、大連行きの一座に参加。長春、遼陽まで遠征した。

随分長い補足ですみません。もっとよく調べてから書けよということですな。

2009年3月10日火曜日

桂文楽 旅暮らし

明治43年、桂小莚18歳で二つ目昇進。同年、後の古今亭志ん生、美濃部孝蔵は二代目三遊亭小圓朝に入門し、三遊亭朝太の名前をもらう。小圓朝は小莚を師匠小南に紹介してくれた人である。もしかしたら、二人の名人の初対面はこの時期だったかもしれない。
小莚は前座修業を2年で駆け抜けた。本来であれば、洋々たる前途が開けているはずだった。しかし、翌年、師匠小南が別派を立てようとして頓挫。小南は大阪へ帰ってしまう。
師匠をなくした小莚は小金井芦洲の一座について旅に出る。ところが、この芦洲先生、芸は凄いが人間はずぼら。ワリを全部自分で飲んでしまう。しかし、いったん芸を目の当たりにすると給金をもらえないことも忘れ、見惚れてしまう。挙げ句の果てに芦洲先生、興行の途中で東京へドロンしてしまった。
やむなく小莚は名古屋へ下る。そこで三遊亭圓都の身内になり、小圓都を名乗り一緒に旅回りをすることになった。圓都夫妻にかわいがられ、評判も上々、女にももてた。しかし、明治天皇崩御に伴う歌舞音曲の停止令で一座は解散。小莚もいったん東京に帰った。
だが、まだまだ小莚の旅は終わらない。まもなく京都に出て笑福亭という寄席の楽屋に1年間暮らし、その後は大阪に移り富貴に1年間出演、翌年は神戸、さらには中国大陸にまで遠征した。結局、旅暮らしは5年にも及んだ。
旅は修羅場をくぐることでもある。東京のままの綺麗事の芸では通用しない。どんな客相手でも受けなきゃならない。お題噺、落語角力など即興性を要求される場面もある。後の文楽にとってこの旅は、ビートルズのハンブルグ興行のように、実戦的な修業の日々でもあり破天荒な青春の日々でもあったろう。実際、この時代を話す時、文楽は楽しげだったように思う。
ただ、後に文楽はこう語る、「旅で芸は達者になるけど、くさくなる」。いつまでもそこにどっぷりと漬かっていると、道を誤ることになるのだ。
大正5年、小莚は東京に帰った。ここで彼はもう一人の人生の師と出会うことになるのである。

2009年3月7日土曜日

老眼鏡デビュー

先日、代休で平日が休みになった。
久々に妻とデート。
つくばのQ’tで誕生日のプレゼントに老眼鏡を買ってもらう。
ついでにCDを購入。『バービーボーイズ・シングルコレクション』、なぎらけんいち『葛飾にバッタを見た』の2枚。
楼外楼でランチ。妻は豚の角煮。私は五目焼きそば。両方旨い。窓際の席でゆっくりいただく。ジャスミン茶も結構でした。
夜、老眼鏡をかけて読書。劇的に見える。感動のあまり手当たり次第に本を読む。

2009年3月4日水曜日

桂文楽 前座修業

むらくのもとに通って1年が経った。しかし、小莚は『道灌』しか教えてもらえなかった。
ある大雪の夜。小莚は前座として牛込藁店の寄席に出ていた。雪のため師匠連が山の手まで行くのを億劫がって抜いてしまう。当然、高座に穴が空いた。その度に小莚が上がることになるが、出来るのは『道灌』しかない。とうとう一晩に3回も『道灌』を演ることになってしまった。さすがに3度目は小莚も泣きべそをかきながらの高座であった。高座を下りた小莚に、見かねた客が祝儀をくれた。いい話だ。この事があって後、小莚は「道灌屋」「道灌小僧」という異名をとる。(ちなみにこのエピソードは、古谷三敏『寄席芸人伝』の『道灌小僧』という話にそのまま取り入れられている。)
なぜむらくは小莚に『道灌』しか教えなかったか、それにはこんな話がある。
むらくは、かつて初代柳家小せんと1年間同じ寄席に出たことがあった。初代小せん。廓噺に天才的な冴えをみせた。人呼んで盲の小せん。後年業病のため失明、高座を退き、師匠三代目小さんの勧めで後進の指導に専念した。それは「小せん学校」と呼ばれ、柳・三遊といった派を問わず多くの落語家が薫陶を受けた。小せんは、その寄席でむらくが同じ噺を2度とかけなかったのに対し、1年間『道灌』1席で通した。その時、むらくは「あいつに負けた」ともらしたという。
その『道灌』を、むらくは小莚に1年間演じさせた。とりわけ小莚に厳しかったことといい、どこかでむらくは彼に期する所があったのだろう。
前座修業が2年になった。小莚も、よくむらくの厳しい稽古に耐えた。ある時小莚が『代脈』を演じ終えて楽屋に戻った時、「銭の高を間違えた」と言って、むらくから叱責された。その時の叱責はいつにも増して厳しく、同席していた師匠小南がとりなしてくれても聞く耳をもってくれない。さんざんにやりこめた後、むらくはこう言った。「来月から二つ目にしてやる。」
当時でも前座修業は5年が当たり前。異例の抜擢である。つまり、この叱責は、小莚がこれで天狗にならぬよう、いわば小言のための小言だったのだ。小莚は感激のあまり号泣したという。

余談だが、後年文楽は、立川談志(当時の柳家小ゑん)が勉強会で『源平盛衰記』を演った後、満座の中彼を叱責した。談志が天狗になっていたので、締めておこうとしての小言だったらしい。もちろんかつての、むらくの自分への小言を意識していただろう。親心もあったにちがいない。談志の才能を認めてのことだったと思う。しかし、談志は文楽の意図を理解はしたが、感激もしなかったし反省もしなかった。

こうして小莚は二つ目に昇進した。しかし、彼の前途は順風満帆というわけにはいかなかったのだ。

2009年2月28日土曜日

長谷川泰子『中原中也との愛ーゆきてかへらぬ』

長谷川泰子。中原中也と小林秀雄という二人の天才に愛された女、その人が語る一代記である。面白くないわけがない。
最初に愛したのは中原だ。泰子が売れない女優として京都でくすぶっていた頃、当時17歳の中原と出会い同棲することになった。劇団がつぶれて途方に暮れていた泰子に、中原が「僕の家に来てもいいよ」と言ったのだ。その日のうちに中原の下宿に行った泰子は、中原に迫られ関係を結ぶ。泰子に中原を愛した様子はない。泰子自身、中原との性交渉は嫌だったと言っている。
その後二人は上京し、小林秀雄を知る。やがて、泰子は都会的で優しい小林に惹かれ、小林のもとへ走る。泰子が小林と暮らすため中原の下宿を去る時、中原がその引っ越しの手伝いをしたのは有名な話だ。
しかし、小林と暮らし始めた泰子は潔癖性を病み、二人の生活は破綻する。小林は泰子から逃げ、姿をくらました。
失意の泰子は再び女優を志したり、中原に勧められて詩を書いたりしながら転々とする。そのうち、好きでもない男との間に子供ができるが、その男は泰子を捨てる。中原はその子の名付け親になるなど、何かと泰子の面倒を見ようとしたが、泰子は中原の所には決して戻らなかった。その間泰子は「グレタ・ガルボに似た女」コンテストで1位になったりもしたが、結局何者にもなれなかった。なりふり構わずのし上がる強さを、彼女は持っていなかった。
中原を「私の思想の故郷」と呼び、自分の原点と自覚はしていたものの、泰子が愛したのはずっと小林秀雄だった。
考えてみれば、定職を持たず中学までの学歴しか持たない田舎者の中原と、東大出のエリートで洗練された都会育ちの小林では、女にもてるということについては勝負にならない。小林は旅館の朝食にオイルサーディンを食べ、女郎の手土産にも美家古の穴子寿司を持っていくような男だ。新進気鋭の評論家として認められるほどの知性もある。とうてい中原ごときが太刀打ちできる相手ではない。だが、中原には物事の本質にずばりと迫る天才的な感性があった。小林は後年中原に「お前は千里眼だよ」と言ったという。世間的には大きな開きはあったが、小林は内心この年下の詩人に畏敬の念を持っていたと思う。
結局、泰子は小林とも中原とも結ばれなかった。
やがて、中原は遠縁の女と結婚し、泰子はある実業家と結婚する。二人の間にも適度な距離ができて穏やかな付き合いができるようになったのもつかの間、中原は長男を亡くしたショックで精神を病み死んでしまう。中原の死後、泰子の夫は中原中也賞を設立してくれ、立原道造が第1回目の受賞者となる。
第二次大戦後、泰子は夫と別れた。宗教の世界に入り、長年横浜でビルの管理人を務め、晩年は湯河原の老人ホームに入った。それでも、度々東京に出て昔の仲間に会っていた。その仲間は、青山二郎、大岡昇平、河上徹太郎といった錚々たる人たちだった。彼らは泰子の面倒を実によく見た。彼らにとって泰子は、小林、中原と共に青春そのものであり、アイドルであったのだと思う。
中原の熱狂的なファンのストーカーめいた行動に悩まされながらも、凛とした佇まいをくずすことなく泰子は88歳でこの世を去った。巻末に70歳の泰子の写真がある。巻頭にある若き日の写真より、私は美しいと思う。

2009年2月27日金曜日

カツ丼はさらに重く運ばれてきた

子供の頃、外食でしみじみとうまいなあと思ったものは、あまりない。カレーライスは子供の口に辛すぎたし、ラーメンは、正直言ってサッポロ一番みそラーメンの方がおいしく思えた。町の食堂でお金を出して食べるものより、ただで家で食べる物の方が好きだったのである。 
そういう思い込みを根底から覆したのが、カツ丼だった。 
カツ丼に関して一番古い記憶は、小学校の低学年の頃である。親戚と一緒に鹿島神宮にお参りに行き、食堂に入った。中学生になっていた従兄は、かたやきそばなんぞというコザカシイものを頼んでいたが、私は勧められるままカツ丼を頼んだ。これがうまかった。
それまでにとんかつは食べていたのだが、それとは全く違うものに思えた。それだけでもおかずとして成立するとんかつを、さらに卵をからめて煮てご飯の上にのせるという行為に感動すらおぼえたのだ。そのときの私の気持ちを表すとすれば、多分こんな言葉だ。「藍は藍より出でて藍より青し」、「カツ丼はカツより出でてカツよりうまし」。 
三上寛の唄に「カツ丼はさらに重く運ばれてきた」という歌詞があるが、やはり(それが出前であっても)、カツ丼は瀬戸物の丼で重く運ばれてくるのが望ましい。あの左手にかかる、ずっしりとした重量感こそが、カツ丼にもっともふさわしい。
食べる時には、おれの場合、まず一番手前のカツを二番目のカツの上に載せるね。そして、あざやかに露出しためしを、わしわしと食べる。丼のふちとカツの間のめしをすっかり食べ終えたあと、おもむろにカツを食べる。こうして順順に食べ進んでいくと、最後にカツが一切れ残る。それをお茶とともに余韻を楽しみながら食べるのである。 
この近くでは小川の小月庵がうまい。何の変哲もない町のそば屋だが、肉厚の、とても優しい味のカツ丼が出てくる。この頃は年齢のせいか、昔ほど頻繁には食べないが、時々無性に恋しくなる時がある。
以前、北海道を旅した時、最終日にどうしてもカツ丼が食べたくなって、室蘭の食堂でカツ丼を頼んだ。持ってこられて驚いた。それはカツ煮を皿に載せ、白いめしを丼に盛った、いわば「カツ煮定食」というべき代物だったのだ。これは丼もんじゃないよなあ、私はそうつぶやきながら、カツ丼の世界の奥深さに、暫し呆然としたのであった。  

2009年2月26日木曜日

師匠の影法師

だいぶ前の話だが、八光亭春輔の落語を聴いて驚いた。師匠である八代目林家正蔵に、実によく似ているのである。口調といい、間の取り方といい、声がひっくり返る所まで、そっくりなのだ。 
春輔といえば、真打昇進時に、故三遊亭圓生から名指しで、「あれはセコでげす。」と言われたことでその名を知られた。考えてみれば、これほど不幸な名の知られ方はない。この時の大量真打昇進問題で、圓生は落語協会を離脱するという大騒動となった。もう30年も前の話である。 
春輔の噺は、正蔵そっくりであったが、少しもいやな感じはなかった。師匠への敬慕の情が感じられて、かえって暖かい気分になった。 
師匠そっくりといえば、もう一人、思い出さずにはいられない落語家がいる。春風亭一柳。圓生門下では三遊亭好生といった。人呼んで「圓生の影法師」。師匠圓生を尊敬すること神の如し。その結果、口調から高座における立ち居振舞い、何から何まで圓生に似てしまった。 
彼の不幸は、それほどまでに尊敬した師に、徹底して嫌われてしまったことだ。この辺のことは、彼の著書「噺の咄の話のはなし」に詳しい。特に圓生の落語協会離脱時の一柳への仕打ちは、残酷といっていい。 
では、なぜ圓生が、そんなに一柳を嫌ったのだろうか。自分を敬愛し、その芸を忠実になぞる弟子は、異端を嫌う圓生にとって、可愛い存在であってもよさそうなものなのに・・・。 
ここで私は、昭和の名人、六代目三遊亭圓生が、若い時分にはまるで売れなかったという事実に思い当たる。古今亭志ん生も売れなかったが、彼には「売れなかったが、噺は本寸法でうまかった」という評価がある。しかし、こと圓生に関しては、「気障なばかりで、まずかった」という話ばかりなのである。 もしかしたら、圓生は、一柳に若き日の自分を見てはいなかったか。昭和の名人として落語界に君臨し、誰もがその至芸を賞賛する圓生にとって、一柳の存在は、忌まわしき過去を思い出させるものだったのではないか。もちろん、これは推測でしかない。危険な見方かもしれないが、私はそう思わずにはいられない。 
一柳は、圓生が死んでほっとした、と書いた。師匠との愛憎からも、それで解放されるはずだった。しかし、程なく彼は自ら命を絶った。「自分の間(ま)が、確立できない」と悩んでいたという。一柳は、ついに「師匠の影法師」から解放されることはなかったのだ。

2009年2月24日火曜日

土浦の雛祭り

この前の週末、昔の職場の仲間との飲み会で土浦に泊まる。
せっかくなので二日にわたり土浦の街をうろつく。
街は「雛祭り」の真っ最中。方々の商家で、蔵に眠っていた雛人形を持ち出し店先に展示している。真壁で当たってから、石岡、土浦と歴史のある街が軒並み始めた。
いつもはそれほどでもない中城通りが、リュックを背負った中高年で結構な賑わい。土浦は交通の便がよく、人も集まりやすいのだろう。
ざっと見物して、亀城公園へ向かう。途中、古本屋で「縮図」(徳田秋声)、「東京の下層社会」(紀田順一郎)を買う。2冊で200円。安い。公園は土屋氏の居城跡。以前、建物は楼門しか残ってなかったが、平成になって東西2つの櫓を再建した。ここはいつも落ち着いた雰囲気で、私は好きだな。
隣にある市立博物館に入る。今日は一人なので、じっくりと見て歩く。歴史のある街だけに見応えがありますな。
それから大手通りから再び中城通りへ。折からの強風で歩きづらく少々疲れた。いつもの「蔵」に入るもほとんど満席。やっとひとつ空いた。最近お気に入り、ホットアップルタルトとコーヒー。先程買った本を読む。
充分休んで、櫻川沿いに出、ぶらぶら歩く。
ゑびすやに投宿。大満足の大宴会。みんないいおじさんになったなあ。でも話し出すと変わんないんだよなあ。
翌朝は9時にチェックアウト。匂橋を渡る。白き鳥の嘴と脚と赤き鴫の大きさなるが盛んに飛び交う。
亀城通りに出ると、今日もリュックを背負った中高年(私もそうだ)がいっぱい。
真鍋の宿まで歩く。所々で子供が路上に出て遊んでいる。街の子だねえ。こっちの方までは観光客は来ない。1時間ほど歩き、またぶらぶらと土浦に戻る。商工会のテントでお汁粉を配っていたのでご馳走になる。熱くて旨い。白玉を久し振りに食べた。
駅前のイトーヨーカドーで「昔の土浦の写真展」を見る。私は古い写真を見るのが好き。いいねえ。宝の山だ。昭和40年代の写真がなかったのが残念。次回に期待したい。
昼食は「小櫻」。10分並ぶ。またもや小櫻麺。えびまこに惹かれた。今度は別のに挑戦してみよう。
お土産に高月堂の利休ロールを買って電車で帰る。普段は甘いものを食べない下の息子が、この利休ロールはばくばく食べた。お勧めですよお。

2009年2月19日木曜日

石岡を歩く

出張で石岡に行く。
昼食は稲吉屋でランチ。中国みそそば、シューマイ、杏仁豆腐。
会議の合間に時間があったので、また町に出る。
喫茶サニーでコーヒー。まったりする。
会議後、飲み会が流れたので、その辺で飲んで帰ろうと思い、またもや町をうろつく。
小野越に入る。モツ煮込みでビールの中瓶。その後燗酒と鴨汁そばを注文。そばは太目。
茹で立てがいいと思い、まずはそばをたぐる。口中に広がるそばの香り。旨い。
汁の鴨肉、葱をつまみに酒を飲む。これまた旨い。
1時間ほどで店を出て帰った。
たまには仕事帰りに一杯、というのもいいもんですな。

2009年2月15日日曜日

桂文楽 落語家入門

益義が東京へ帰った時、母は本多忠勝という旗本出身の男と再婚していた。この男が二代目三遊亭小圓朝と懇意であったことから、益義は初代桂小南を紹介され、入門することとなった。
ちなみに、二代目小圓朝は五代目古今亭志ん生の最初の師匠。志ん生が入門するのは、文楽の二年後のことになる。
こうして、益義は浅草河原町の師匠小南の家で内弟子として住み込むのだが、これもまた体のいい厄介払いとはいえないだろうか。
ともかくも、桂小南の弟子で桂小莚。これが八代目桂文楽の落語家としての第一歩であった。
明治41年11月3日、奇しくも16歳の誕生日、小莚は神田連雀町「白梅」で初高座を踏む。演目は素人時代に聞き覚えた『道灌』。緊張で何を喋ったか覚えてはいないが、楽屋にいた先輩の落語家に、「小僧さん、お前さんは噺家になれますよ」と言われたという。その後、彼は『道灌小僧』と異名をとることになるが、その話はのちほど。
小莚の師匠である初代桂小南は、豆電球を羽織につけて宙づりになって『夜這い星』などを踊り、人気者になった上方出身の落語家だった。東京落語は一つも出来ない。
そこで小莚は下谷黒門町に住む立花家左近の所に稽古に通うことになる。
立花家左近、後の三代目三遊亭圓馬。父は大阪の落語家月亭都勇。最初、笑福亭木鶴に入門し小勇を名乗るが、浮世節の大家、立花家橘之助に見出され東京に出てきた。大阪生まれだが、見事な東京弁を駆使し、新進気鋭の若手落語家として将来を嘱望されていた。
左近は間もなく真打ちに昇進、朝寝坊むらくを襲名し、浅草三筋町に居を構える。その三筋町の家へ小莚は毎日通い詰めた。
早朝、小莚は、師匠小南の家の掃除を済ませるとすぐむらくの家に駆けつけ、表を掃除しながらむらくが起き出すのを待つ。むらくが起きると家の中を掃除。やがて、むらくのもとには修業中の落語家が稽古にやってくる。(その中には、後の四代目小さん、五代目、六代目の圓生など錚々たるメンバーがいた)
来た順番で小莚から稽古が始まるが、むらくは「だめだ、だめだ」と言って彼を後に回してしまう。そうして、最後にみっちりと小莚に稽古をつけるのだ。その稽古は厳しさを極めた。後に文楽は「どうしてあたしにだけこんなに厳しいんだろうと思いました」と語っている。
稽古は厳しかったが、合理的だった。小莚の発声を聞いて「お前のは川向こうの人に話しているようだ」と言い、長屋の見取り図を書いてくれたり、「ええ」という口癖を矯正するのに小莚が「ええ」と言う度におはじきを投げてその頻度を数値化し、目に見える形で認識させたりした。仕草の稽古では物差しで手の甲を腫れ上がるほど叩いて体で覚え込ませたという。(このおはじきと仕草のエピソードは正岡容の『小説・圓朝』の中で、若き日の圓朝に対する師匠二代目圓生の稽古の場面で使われている)小莚は、この厳しい稽古に耐えた。というよりむらくに必死にすがりついた。彼について行くことが小莚にとって落語家としてやっていく唯一つの道だったのだ。

2009年2月11日水曜日

ハンタマ

妻子を連れて、塩原ハンターマウンテンスキー場に行く。
北関東自動車道が、東北道につながったおかげで、大分便利になりました。
午前中はキッズひろばで雪遊び。
午後はそり遊び。
息子二人、夢中で遊んでおりました。
帰りに千本松牧場に寄ってソフトクリーム。
東北道のサービスエリアでは、餃子フランクなるものを食べました。餃子の餡の味がするフランクフルトソーセージ。なかなか美味しゅうございました。
5時過ぎ帰宅。
夕食は、帰りにスーパーで買った焼き鳥と鯵フライで、ビール、酒。
妻が早くに寝てしまったので、古今亭志ん朝の『五人廻し』を聴く。至福の45分間。言葉にならない。

2009年2月5日木曜日

少年期の桂文楽3

東京で職を転々とした益義だが、16の年、東京の家を出て横浜に舞い戻り、いとこがいたマルカという米相場の店に勤める。益義が女の味を知るのはこの頃。ある女郎屋で花魁の方からのお見立て、といえばとんだ「明烏」だが、相方は30余歳の大年増であった。後年、年上の女性と数々の浮き名を流す文楽の、最初の女もやはり10以上も年上の女だった。
しかし、このマルカ、実態のないノミ屋で、程なく廃業。益義は方々の株屋を泊まり歩くうち、土地のやくざ、カネキという家に出入りするようになる。下働きをしたり、博打の人集めをしたり、もうこうなると立派な不良少年ですな。
そのうち、益義はこの親分の養女といい仲になる。得意の絶頂にあったが、やがて事が露見し、彼は袋だたきにあった挙げ句、放逐される。後年の艶福家、桂文楽の初めてのしくじりだ。
手痛い制裁を受けた後、ぼんやりと湯屋に入ったが、番台のおかみさんに声を掛けられ改めて自分の体を見、その傷の惨たらしさに益義は気を失ってしまう。傷が治るまで、その湯屋で厄介になって、やっとのことで東京へ帰った。その時迎えてくれた母親に「お前が手水鉢の側の南天の木に縛られてみんなにぶたれている夢を見て、心配していたんだよ」と言われ、彼はその場へ泣き崩れたという。

閑話休題。文楽の盟友、五代目古今亭志ん生は、15歳で家を出て、そのまま生家には帰ることがなかった。
志ん生は自ら家を捨て、文楽はいきなり奉公に出されるといった形で家に捨てられた。二人はその後、同じように明治の不良少年となり、芸人としての道を歩むことになる。
志ん生は、人に見放されようが己を貫き通して自分の道を切り開き、文楽は自らの才覚で周囲を味方につけながら自分の道を切り開いていった。一方は自ら家を捨てた者、一方は家に捨てられた者の、精一杯の「普通人のはぐれ者」としての生き方だったに違いない。

2009年2月1日日曜日

漫画を買う

晴れ。強風。
妻子を連れて、千波湖に行く。
白鳥、鴨、鳩にビスケットをやる。
昼食はロックシティ。丸亀製麺でかけうどん大盛り、かしわ天。
本屋で、林静一『赤色エレジー』、阿部夜朗『深夜食堂』①、③を買う。
『赤色エレジー』は復刻版。昔、小学館で出した漫画文庫を持っている。
が、今回のは漫画とともにアニメの台本も載っていて二度美味しい。
漫画はかなり省略や抽象的なシーンがあって、難解な部分があったが、アニメの台本のおかげでその辺りがすっきりする。 それにしてもこの人は絵が上手い。一コマ一コマが、優れたイラストレーションだな。 まさに絵師といった感じ。
今、絵師と言えるのは、この林静一と江口寿史かな。
『深夜食堂』は2巻を買って面白かったので、揃えようと思っていていた。
ビッグコミック系らしくいい話だ。こういう大人の漫画が、この頃はしっくりくる。絵も達者。
しばらくこれで楽しめそうです。

2009年1月31日土曜日

はま寿司

雨、強風。大荒れの天気。
近所の床屋で散髪。ご主人と世間話。
家族で「はま寿司」で昼食。
あじ、づけまぐろ、ホッキ貝、豚カルビ、姿やりいか、穴子等。
一皿105円。安心してばくばく食べる。
下の息子は、イクラを4皿。
スーパーで買い物をして帰る。
家で「ドラえもんの日本旅行ゲーム」。
夕飯は鶏塩鍋、ラーメン入りで熱燗。
ミュージックフェアに岡林信康が出演。
いい具合に年取ってるなあ。定年間際の数学の先生みたい。
偉い人なのに、全然偉そうじゃない。相変わらずの軽妙洒脱なトーク。素晴らしい。
『君に捧げるラブソング』は圧巻でした。

2009年1月29日木曜日

志賀直哉『暗夜行路』

 これは、もしかしたら「性愛小説」なのではないか、とふと思った。
 前半のテーマは、主人公、時任謙作の生い立ちに関する疑惑。謙作は祖父と実母との不義の子だったということ。そして、後半は謙作の妻の従兄との間違い。人間の理性では御し切れない動物的な側面がえぐり出される。
 自分が祖父と母との子だったと知った時の衝撃は凄まじいものがあったろう。男にとって母親とは女性観を形作る重要なバックボーンである。その母親が不義を犯した。否応なく、母を女として意識せざるを得なくなる、聖母としての母親に動物の匂いを嗅がざるを得ない、そんな状況に時任謙作は追い込まれたのではないだろうか。
 その疑念のために、長年の間陥った父との不和。そこをやっと脱したと思ったら、最愛の妻が彼女の従兄と間違いを犯したことが発覚する。
 ここでも、人間のどうしようもない動物としての側面がのぞく。しかも、妻はその従兄弟と幼い頃、性的な遊戯を繰り返していた。その間違いの時も、妻は最初、激しく抵抗したものの最後はなすがままにされたらしい。夫としてはたまんないよな。
 謙作は理性でそれを納得させようとする。起きてしまったことは取り戻せない。妻も自責の念にかられている。許すしかないのは分かっている。でも、許せない。川崎長太郎は「他人の粘液が入った体を許せないのだ」と言う。身も蓋もないが、でも人間てそんなもんかもしれない。
 いくら人間が崇高な理念を持っていても、慎ましく貞淑であっても、駄目になるときは駄目になってしまう。地位もあり、守るべきものもある人が、いとも簡単に転落してしまう。それが性だな。人間のどうしようもない業、動物としての部分だな。
 そんな暗夜を私たちは行くのだ。危うい均衡を保ちながら。いつ奈落の底に落ちるとも限らない暗闇を。

2009年1月23日金曜日

少年期の桂文楽2

多勢商店で人気者になった益義だが、やがて芝居見物など夜遊びに夢中になる。
益義15の年。夜遊びで締め出しを食った彼は、そのまま京浜電車で東京へ帰ってしまう。
結局、店を辞めてしまうことになるが、主人はこんな益義に、今までの給金にボーナスを加えて届けてくれる。主人の人柄と、いかに益義が可愛がられていたかを示すエピソードだ。
その後、東京でいくつかの店に奉公するが、どれも長くは続かない。器用な質で、そのまま精進すればいい職人になったであろうものを、調子に乗って義理を欠いた仕事をしたりして続けられなくなってしまうのだ。
明治生まれの芸人の略歴を読むと、奉公をするがどこも長く続かず、転々と職を変えた末芸人になるといった例が多い。(最も甚だしいのが、文楽門下の七代目橘家円蔵である。)
色川武大は、文楽と志ん生を称して「普通人のはずれ者」と呼んだ。確かに、はずれ者に違いない。しかし、彼らが勤勉な商人や職人ではなかったおかげで、我々は得難い落語家を得ることが出来たのだ。
この転々とした時期に、益義は四代目橘家円喬を知る。
四代目橘家円喬。三遊亭円朝門下で、こと話術にかけては師匠を凌ぐと言われた不世出の名人である。後に、文楽・志ん生・円生という昭和の名人が、そろって円喬を「自分が聴いた中では最高の名人」として尊敬した。初代円右、三代目小さん、四代目円蔵、三代目円馬など錚々たる名人が居並ぶ中で、三人そろって円喬と言うところをみると、そのうまさは際立っていたのだろう。曰く、『鰍沢』で川の水音が聞こえた、曰く『金明竹』で二階から水が垂れる様子が見えた、等々まるで左甚五郎のような神業のごとき描写力が、昭和の名人の口から語られたものだった。ただ、円喬、人柄としては所謂「性狷介、自ら恃むことすこぶる厚く」といった人で人望はなかったらしい。嫌なやつだけどうまい、うまいけど嫌なやつだ、という評判がつきまとったというが、それを芸の力で圧倒していたのだろう。(タイプとしては六代目円生、あるいは当代談志か?)
益義は、多勢商店で「おしゃべり小僧」と言われていた頃、おかみさんから「どうしてお前のおっかさんは、お前を噺家にしなかったのだろう」と言われたという。その時、彼は落語に興味を持ってはいなかった。が、円喬を知ってから「自分は何者になるべきか」ということを心のどこかで意識し始めたのかもしれない。

2009年1月21日水曜日

佐藤多佳子『しゃべれども しゃべれども』

遅まきながら、『しゃべれども しゃべれども』を読む。映画にもなった有名な話だ。
芸の壁にぶち当たり、スランプ中の二つ目の噺家、今昔亭三つ葉が、ひょんなことから素人相手に落語を教えることになる。
この相手が一筋縄じゃいかない。吃音のテニスコーチで三つ葉のいとこでもある良。関西弁の小学生、村林。周囲の者に敵意むき出しの猫のような謎の女、十河。口下手で性格の悪い野球評論家、湯河原。どいつもこいつも他人とのコミュニケーションの取り方に問題を抱えている。
彼らと三つ葉とがぶつかり合いながら、お互いを理解していく過程が、甘酸っぱく、胸がちりちり痛い。
まず、今昔亭三つ葉がいい。古典落語に惚れ、師匠に惚れ、気持ちがまっすぐで、落語に正面から向き合うが故にスランプに陥る。そこを悩みながら、不器用に、でも逃げることなく壁に立ち向かっていく。たたずまいは古風だが、それでもしっかりと今時の若者に描かれている。(私のような田舎者には、人形町で生まれ、幼いうちから祖父に連れられ寄席に通う彼の生い立ちは、こと落語に関しては、特権階級に見えるけど。)
楽しいのは、三つ葉の師匠、今昔亭小三文とその弟弟子の草原亭白馬。小三文は柳家小三治、白馬は立川談志がモデルで間違いはないだろう。いかにも彼らがしゃべりそうな台詞が出てきて、おもわずにんまりしてしまう。リアリティーを持たせつつ、白馬を弟弟子とすることで、うまくフィクションとして処理している。
読んでいて、とても気持ちがいい。歯切れのいい、さわやかな語り口。見所もふんだんにある。
クライマックスは今昔亭の一門会における三つ葉の高座、それから、村林と十河による「東西『饅頭怖い』対決」だろうが、それに至るひとつひとつの場面が心に残る。いいなあ。
これは、優れた青春小説であり、芸道小説であり、恋愛小説だな、と思います。

2009年1月19日月曜日

温泉へ行く

この間の土曜日。
ここのところの寒さで、妻のしもやけがひどくなり、麻生温泉白帆の湯へ行く。
ここへは、毎年、冬場に2、3回は行っている。
まず、眺めがいいね。
眼前に広がる霞ヶ浦。遠くに筑波山が霞む。漁に出た舟が浮かぶ。つがいの鴨が泳ぐ。
上の息子とひとっ風呂浴びて、休憩室兼食堂でサイダーを飲みながら、妻と下の息子が上がってくるのを待つ。のんびりして居心地がいい。
四人で昼食。上の子はおでん。下の子はざるそば。妻はやきそばで私は牛丼。食休みをしながら、少しうとうとしてしまう。
子供たちが飽きてくると、もう一度湯に入りに行く。息子は泡風呂が面白いらしい。
風呂上がりのシメは、妻たちはアイスクリーム、私は牛乳の一気飲み。
ぽかぽかで帰る。車の中では兄弟二人、眠りこけておりました。
いい休みだったなあ。

2009年1月16日金曜日

島崎藤村『春』

中断していた島崎藤村の『春』をやっと読み終える。
教え子との実らぬ恋。敬愛する青木(北村透谷がモデル)の壮絶な自殺。没落する生家。長兄の受難。これから自分は何者となるかという苦悩。藤村の分身である岸本捨吉の精神的闘争の遍歴は、この後『家』、『新生』へと続いていくが、この『春』には若さ故の青臭さがある。
この人の小説を読むと、煮え切らない男の愚痴話を聞かされているようだ。読んでいて楽しくない。『春』の教え子への恋、『家』の生活苦、『新生』の姪との関係、どれもこれも自分で選んだものじゃないか、と言いたくなる。
食べ物に例えると不味い。苦悩に太宰治のような甘美な酔いはない。ただ、この不味さ、癖になる。本来、苦悩とは不味いもののはずだ。藤村はそこに甘い味付けをしない。不味いものを不味いまま出してくる。この不味さは本物だ。
父と姉は狂死した。父は実の妹と関係し、母は不義を働いた。不義の子である兄は放蕩の末廃人となった。名家の澱んだ血に搦め捕られるように、後に自らも姪と間違いを犯す。
身勝手なものを美化しない。身勝手なまま出してくる。その上で「自分のようなものでも何とか生きていたい」と居直る。見事だと思う。困難から目を背けても、逃げてでも、生きる。美しく死ぬことなんかしない。
自らの醜さに身悶え、生き恥をさらし、しかし、それすらも商売道具にしてしまうしたたかさ。島崎藤村の凄みはそこにある。
ふと、新潮文庫の出版リストを見ると『新生』がなくなっていた。相当問題のある内容だし、桂文楽の『按摩の炬燵』みたいな扱いをされているのかもしれないなあ。

2009年1月8日木曜日

初春 東京散歩

妻子を実家に置いて東京へ行く。
上野で降りて、御徒町まで歩く。
広小路亭の前を通り、風月堂の所から路地へ入る。
黒門町、八代目桂文楽の旧宅跡を見る。今は空き地。私が学生の頃には、まだ建物があったらしい。行っときゃよかった。
それから、湯島へ上る。湯島から神田明神。
聖橋を渡って、ニコライ堂下のカフェで休憩。コーヒーを飲みながら、『しゃべれども、しゃべれども』を読む。面白い。
神田駅まで歩き、電車で再び上野へ。
蓮玉庵で鳥南蛮そば。酒2本。しみじみと旨い。
鈴本演芸場、夜の部を観る。
小三治休演のためか、客の入りは薄い。
一琴『真田小僧』、小袁治『紀州』、小さん『替わり目』、小燕枝『手紙無筆』、藤兵衛『こり相撲』、さん喬『長短』、たい平『粗忽の釘』、扇橋『二人旅』、燕路『幇間腹』、金馬『七草』、〆治『松竹梅』。
扇橋の声量が大分落ちた。何言ってるか分からなかった。
初席で持ち時間は短いが、漫談は一つもなし。
権太楼が代バネ。『笠碁』。満足。
家に着いたのは11時ちょっと前。上野駅で買った鰺寿司で酒を飲む。

2009年1月7日水曜日

少年期の桂文楽

 益義7歳の年、父益功が赴任先の台湾でマラリアに罹って死んだ。
 この時から並河家の家運は傾き始める。根岸七不思議のうちに数えられた立派な門を持つ屋敷も、その半分を人に貸すことになった。
 益義は尋常小学校を3年で中退。そして、11歳で奉公にやられることになるのであるが、この体験は彼に大きな傷を残した。
 その日、益義少年は家の中で友だちを集めて戦ごっこに興じていた。日の暮れるのも忘れ、大暴れをしているところに、母いくが帰宅する。家運の衰微に鬱屈していた彼女は、ここで感情を爆発させる。1時間以上も益義を叱りつけ、母子ともども号泣しているところへ見知らぬ小父さんが訪ねてくる。いくは益義少年にこう言ったのである。
 「このひとに付いてお行き。お前は奉公に出るんだよ。」
 何が何だか分からないまま、益義は横浜まで連れて行かれ、多勢商店という薄荷問屋の丁稚となる。彼は三日三晩泣き通したという。
 多分当時としては珍しくないことだったろう。だが、幼い子どもにこのような体験は、今も昔もきついことには変わりない。益義少年の心には「捨てられた」という感覚が深く刻みつけられにちがいない。
 その後、天性の明るさと人なつっこさで「おしゃべり小僧」の異名を取り、益義は主人やお得意様に可愛がられるようになる。しかし、そこには「ここで見捨てられたら最後だ」という必死の思いはうかがえないだろうか。可愛がられることが、益義にとって唯一の生きる手段ではなかったか。
 後年、彼が三代目三遊亭圓馬にどんなに厳しくされてもすがりついていく様、五代目柳亭左楽に付き従う様の源流はここにあるのではないか。
 また、この母親に捨てられたという体験は、母性への思慕という形をとる。文楽は生涯5回の結婚をしているが、そのうちの初めの方の3回はどれも5、6歳年上の相手だった。