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2015年10月31日土曜日

四天王の時代、そして志ん朝・談志の時代

東京落語界を、その時その時を代表する落語家で表現してみる。
昭和20年代から30年代にかけては、文楽・志ん生の時代。昭和40年代から50年代の半ばにかけては圓生の時代。そして、三遊亭圓生の死後、四天王の時代というのがあった。
戦後の落語黄金時代、最初に若手四天王を提唱したのは精選落語会を主宰した矢野誠一である。彼が挙げたのは、五代目春風亭柳朝、三代目古今亭志ん朝、五代目立川談志、五代目三遊亭圓楽の4人だった。
しかし、昭和50年代半ばの四天王は、少々メンバーが入れ替わる。志ん朝、談志、圓楽は変わらないが、ここに爆笑派として売れっ子だった月の家圓鏡(後の八代目橘家圓蔵)が加わるのである。
この四天王は、川戸貞吉が言い出し、山本益博あたりが賛同したのだと思う。
本格派とは言い難い圓鏡を入れることに、当時も異論がなかったわけではない。柳家小三治は、三遊亭圓窓はどうなんだ、という声はあった。しかし、元祖四天王柳朝を推す声はあまりなかったように記憶している。その頃、柳朝は、むしろ四代目三遊亭金馬や三代目三遊亭圓歌といった人たちと同列に、ベテランとして扱われていたように思う。
月の家圓鏡が入ったのは「あえて」感がある。志ん朝、談志、圓楽といった本格派3人に、あえて爆笑派圓鏡を入れることで厚みを加え、現代性今日性の色彩を濃くしたい、といった趣旨の文章を読んだ覚えがある。
近年、吉川潮の『江戸前の男』によって、柳朝が復権を果たしたせいか、現在は、柳朝・志ん朝・談志・圓楽を四天王と呼ぶ人が多い。しかし、四天王という言葉がメディアで盛んに使われていた昭和50年代半ば(それは私の大学時代と重なる)には、志ん朝・談志・圓楽・圓鏡こそが四天王だった。 

だが、四天王の時代はあくまで過渡的なものであった。それはやがて、そのまま志ん朝・談志の時代に移行していく。
文楽・志ん生もそうだが、二人の対照的な天才が屹立する時代に巡り合うことが、いかに幸運であるか。私たちの世代は、まさに志ん朝と談志が丁々発止の鍔迫り合いを繰り広げるのを、リアルタイムで観ることができたのだ。
「団菊爺」という言葉がある。明治期の九代目市川団十郎と五代目尾上菊五郎を知る老人が、何かといえば「今の芝居はなっちゃいねえ、昔の団十郎は、菊五郎は…」と繰り返すのを揶揄したものだ。(桂文楽でさえ、「今でこそ文楽は、と言われているけど、圓生さん(五代目)が生きていたら、こんな噺聴いちゃいられねえ」と言われたそうだし、志ん生の噺を聴きながら楽屋では「三語楼じゃねえか」とか「圓右じゃねえか」と言う年寄りがいたらしい。)
でも、青春時代に出会った芸が、ずっとその人の基準になる。そして、繰り返しその芸の素晴らしさを語る。だから、語ることのできる(象徴としての)団十郎、菊五郎を持てるということは、この上なく幸福なものなのだ。
私は、文楽・志ん生をリアルタイムでは知ることができなかったが、残された音源によって彼らの落語に魅了され、「文楽・志ん生の時代」に憧れた。志ん朝・談志に至っては、青春期にリアルタイムで体験できた。これが私の原点だ。
文楽・志ん生時代の色川武大が、三遊亭圓生を二人より幾分低く感じると言っているように、やはり私の場合も、志ん朝・談志に続く人たちが、自分の中であの二人を超えることはないと思う。(それは小三治も例外ではない。)
しかし、私より若い人たちには、彼らの「志ん朝・談志」がいる。小朝、志の輔、談春、志らく、昇太、たい平、喬太郎、三三…、今の若い人にとっては彼らの芸こそ名人芸なのだろう。それでいいのだ。そうやって落語はいつの時代も人の心を掴んできたのだ。
私は「団菊爺」のように彼らを否定しないよ。ただ、「志の輔は志ん朝を超えた」とか言われると、「ちょっと違うんじゃない?」くらいは言いたくなるけどね。まあそれも爺の繰り言なんだろうけど。

2015年10月28日水曜日

息栖神社 その2


先日、神栖に用事があって行き、帰りに息栖神社に寄った。
鹿島神宮、香取神宮と並び、東国三社の一つに数えられる。
パワースポットブームのせいか、参拝客がけっこういたね。
前にもブログに載せたけど、あの時は写真が2枚だけだったからね。今回はもうちょっと載せてみます。


拝殿。鉄筋コンクリート製。

境内にあるお稲荷様。

力石。

芭蕉の句碑。

一の鳥居を川の方から。

もう一枚。

見えないけど、金魚が一匹泳いでた。

柳もいいねえ。


二の鳥居から一の鳥居を望む。

河岸の佇まいがよかった。その昔、参拝客は船で来たんでしょうなあ。

この日、長男は父に連れられて落語会に行った。
市民ホールでの林家たい平独演会。昨年同様、中学生はご招待。
ネタを聞くと「二番煎じ」と「愛宕山」とのこと。さすがたい平、志が高いねえ。
長男に「去年より面白かったろ?」と訊くと、「うん」と言っていた。
こういうの、大事だと思うんだけどねえ。


2015年10月26日月曜日

出口一雄と月の家圓鏡(八代目橘家圓蔵)

先日亡くなった八代目橘家圓蔵は、1953年(昭和28年)、七代目橘家圓蔵に入門した。竹蔵の名前を貰うが、当時、大師匠の八代目桂文楽に前座がいなかったため、内弟子のような格好で黒門町に預けられた。
1958年といえば、文楽がラジオ東京の専属になった年だ。後にデグチプロの稼ぎ頭になる月の家圓鏡(後の八代目橘家圓蔵)と出口一雄との関係は、文楽と出口が本格的にタッグを組んだのと同時期に始まったのである。
竹蔵は1955年(昭和30年)に升蔵と改名して二つ目に昇進。この升蔵時代からラジオで売れ出すことになる。(「ラジオ出演が売れ始め」ということは、ラジオ東京プロデューサー、出口一雄の影響がないとしたら不自然だろう。)
1965年(昭和40年)、師匠の前名である月の家圓鏡を襲名して真打昇進。その後は、ラジオ、テレビ各局総なめの売れっ子となる。 
京須偕充が、三遊亭圓生のレコード制作交渉のため、出口の事務所を初めて訪れるのが、1973年(昭和48年)のことである。その時に彼は月の家圓鏡と居合わせた。圓鏡は、二人いる出口の部下のうちの一人と、にぎやかにヘボ将棋に興じていたのである。
その時の様子を、京須はこんな風に書いている。(『落語名人会夢の勢揃い』より) 

 何かの都合で時間つぶしをしていたらしい圓鏡はまもなく立ち上がった。外へ出るとき、見知らぬ私と出口への挨拶をかねて、「デグチプロとどんどん仕事をしてください。モーカリマスヨ!」と大声で叫んだのを覚えている。口火を切ったばかりの地味な対話劇に突然予定外のCMスポットがぶち込まれたようで、私は一瞬あっけにとられ、出口は小さく苦笑した。 

人を食ったような、しかし人をそらさない圓鏡の人柄がよく出ている。
出口は圓鏡を買っていたようだ。 Suziさんはこう語る。
「『あんなバカ言ってるけど、こいつほど利口なヤツに会った事はない』伯父はそう言っていました。ド近眼で分厚いメガネかけていました。今こういう表現をして解ってもらえるかどうかですが、牛乳瓶の底みたいなあんなレンズでした。伯父の死んだ後は彼がデグチプロを買いました。当時人気の出だした毒蝮三太夫の向こうを張るために。
彼は一般の人には受けていたけど(利口だから立ち回りが上手い)、芸人仲間ではそれなりにマークされていた人です。(利口過ぎてソツなさ過ぎて嫌われていたと言うか、ちょっとねたまれたのかな。それくらい反応が早く相手の言うことをパッと先まで読める人でした)
圓鏡は一度円形脱毛症をやりました。芸能界を生き抜くってそれは大変な神経がいります。そういうストレスからなったんです。ある日朝起きたらとか髪の毛をとかした途端に突然パカッと2、3センチの円形禿げ出現なんですからね。びっくりしますよ。時々定期的に医者だった父のところに来て注射を打っていました。あまり世間に知れちゃまずいんですよね、こういうことで。芸人が生き延びていく、人気を保つ、ってことは並大抵の努力と神経じゃ勝ち抜けないんです。痛い注射だそうですよ。何ヶ月か続けてきていたようですが、どのくらいの期間だったかは覚えていません。
『あんな利口なやつでも神経がすり切れるんだなあ。禿げるのか』そんなことを伯父は言っていましたね。伯父がとっても信頼していた、若手の、気心の合う関係の人でした。」

出口の死後、圓鏡は二人の社員を引き取って、デグチプロを引き継いだ。そして、名前を「一八プロ」に改めた。落語ファンにはおなじみ、落語に登場する幇間の名前から取ったものである。
その後圓鏡は、決して本格派ではなかったものの、本業の落語の方でも評価を上げ、1980年代初頭には、志ん朝・談志・圓楽と並び「四天王」の一角を占めるようになる。
1982年(昭和57年)師匠の名を継いで、八代目橘家圓蔵を襲名。落語協会の重鎮として、また爆笑派の旗手として、長く寄席の高座に上がり続けた。細かい気配りで、他の一門の落語家にも人望は厚かったという。
もしあっちで再会したとしたら、出口さんはデグチプロを引き継いだ圓蔵さんに、どんな言葉を掛けるのだろうか。
Suziさんは言う。 「私の想像ですが、『お前よく引き受けてくれたよ。』それ以上のせりふは伯父にはないでしょうねエ。伯父は男同士では特に口下手の優等生でしたから。 今頃志ん生さん、文楽さん、そこに私の父も加わり〈くさやの干物〉で一杯じゃないでしょうか。 圓鏡さんは『アタシャそう飲めるほうじゃなくて。そんなに飲んじゃうちのセツ子に怒られ・・・』 『バカヤロウ、カミさんにペコペコすんな』なんて志ん生さんが言って。そこへ三亀松さんが三味線持ってきて・・・『どうです、お一つ』、なんて・・・。」
彼女はこうも言っていた。
「(圓鏡さんが亡くなって)どんどん昔話が増えますねエ。益々伯父の事を知っている年代は居なくなってしまいます。頑張って書き残さないといけませんね。寂しくなります。」 
圓蔵さんが行けば、出口さんは「ご苦労さん、まあ飲め」と言って、剣菱の瓶を傾けるだろう。圓蔵さんが頭をかきながら、困ったような笑顔を浮かべるのを、私は想像する。

2015年10月22日木曜日

少しだけ、石岡散歩


この前、妻と子どもたちが床屋に行く隙をついて、小1時間ほど石岡を歩く。
久し振りに、ミノルタの銀塩1眼レフをお供に持って行く。
やっぱりシャッター音がいいなあ。いかにも、今この情景を切り取りました、と言っている感じ。
秋のきりっとした晴天。光線の具合もいい。この季節はカメラ片手の散歩にうってつけだなあ。
いつか飲み食いしながら、ゆっくり歩きたいもんですな。

ちなみに、ここではデジカメで撮った写真を載せています。


府中酒造。銘酒「渡舟」で有名。

洋館づくりのお家。もとは何だったのだろう。

この建物、好きなんだよなあ。

もとは小料理屋さんでしょうか。

朝日屋なき後、昔ながらのラーメン屋さんはここぐらいになっちゃったかなあ。


秋の光線がいいねえ。

平松理容店。
あまり写真に撮ってないのは逆光になっちゃうからなんだんなあ。

路地の奥にはこんなお店もある。



東京庵に戻って来ました。

2015年10月20日火曜日

続 文楽と出口③

晩年、出口一雄は八代目桂文楽について、京須偕充にこんなふうに語っている。(引用は『みんな芸の虫』中「鬼の眼に涙」から)

「放送で手がかかったのは黒門町と三遊亭だな。黒門町は用心深すぎるし、三遊亭は註文が多い」
「(黒門町は)ラジオ東京の専属になったばかりの時分が一番よかった。あとは咽喉を痛めたりして、当人も臆病になったしなア」 

文楽が小心で臆病なことは、彼を知る万人が認めるところである。文楽の弟子、七代目橘家圓蔵は、「師匠は『河豚は喰いたし、命は惜しい』といった人でした」と言っている。
その部分を、出口も十分に承知していたことが、前述の台詞で分かる。 

文楽が「咽喉を痛めた」のはいつか。河出書房刊『文藝別冊・八代目桂文楽』の年譜によると、1954年(昭和29年)に「喉のポリープ除去手術を受ける」とある。文楽62歳のことだ。
私が見た「文楽年譜」の中で、喉のポリープ除去手術に触れたものは、これだけ。(ちなみに、1961年、昭和36年には「この歳、入れ歯を入れることになる」との記述もある。こういうところが、この本の値打ちだと思う。)
1954年といえば、文楽がラジオ東京の専属になった翌年。出口は、文楽が臆病になった転機を、ここに見ていたか。 

実際、咽喉の手術は、文楽の芸に少なからぬ影響を及ぼした。
川戸貞吉編『落語芸談2』には、このような件がある。 

川戸「昭和30年代の文楽師匠は、実にいい声でした。晩年の頃とは雲泥の差でしたね。」
円楽「そう。咽喉を手術したのが昭和32年頃だと思いますが、手術して、しばらくは元に戻らなかった。」
川戸「ええ。」
円楽「声がちょっと高くなっちゃってね。キンキン声ンなっちゃった。全盛期の錆びた声がうわついちゃってね。」
川戸「そう。」
円楽「それを気にして、とてもイライラしてた、一時はね。」
川戸「ああ。」
円楽「だから、あんな練れた人が八方に当たってましたよ、その時分は。楽屋でも自分の家でもね。」
川戸「まあイライラしてたんでしょうね。思うがままに声が出ないということで。」 

また、圓楽は自署『圓楽 芸談 しゃれ噺』の中でこんなことを書いている。 

 これははっきり覚えているんですが、昭和32年、文楽師匠がのどの手術をしたあとでイライラしてたんでしょう。幹部会の席で金原亭が何気なく上座に座ったら「清っ(馬生の本名)、お前はそんなとこに座れる芸人じゃないんだっ」って黒門町が怒った。
 金原亭も若かったですから、むかっとしたんでしょう。そのことを家に帰って愚痴った。
 そうしたら古今亭が怒ってねえ。
 そのときはまあ、林家が間に入って丸くおさめたんですが、人前で自分の子供が恥をかかせたら許さないっていうところがありましたね。旗本の血も騒いだのかもしれません。

圓楽は、文楽の咽喉の手術を昭和32年(1957年)と記憶している。
咽喉の手術が、昭和29年なのか、32年なのか、それとも2回にわたっての手術だったのか、正確な所は分からない。
ただ、この手術が、文楽の芸にとって大きな転機となったのは、間違いなさそうである。
そして、昭和36年には文楽は入れ歯を入れる。そのことによって、滑舌が悪くなった。
色川武大は、「入れ歯以後の口跡によるものは、いたしかたないとはいえ、真正の文楽とは認めがたい」と言っているし、春風亭小朝が声の分析を依頼した日本音響研究所の主任研究員は、文楽を「本当に素晴らしい声の持ち主です」としながらも、欠点として「各音韻の区切りが曖昧ではっきり聞き取るのが難しいところがある」と入れ歯の影響を指摘している。 

五代目小さんは、芸についてこんなことをよく口にした。
「芸ってのは、上がるだけ上がると、そっから先は落ちていくもんなんだ。」
文楽は、歌人吉井勇からもらった「長生きするも芸のうち」という言葉を終生大事にした。出口も「芸も大事にしたが、身体にも気をつかった。神経質だったな」と言っている。
確かに健康に気を付けることで、文楽は80年近い齢を保つことができた。戦後すぐに落語協会の会長になった四代目柳家小さんは1947年(昭和22年)に60歳で、睦の四天王で売れた三代目春風亭柳好は1956年(昭和31年)に69歳で、共に三代目三遊亭圓馬の薫陶を受けた三代目三遊亭金馬は1964年(昭和39年)に70歳で、それぞれ世を去った。1971年(昭和46年)まで高座に上がっていた文楽の現役生活は、同世代の落語家のそれよりも長いものだったといっていいだろう。― 五代目古今亭志ん生ですら、1968年(昭和43年)以降は高座に上がっていないのだ。
 しかし、一方で文楽は、臆病さゆえに噺の数を限定し、いわゆる十八番しか高座に掛けなくなった。また、無器用さゆえに噺のスタイルを変えることもできなくなっていた。体力気力が充実した頃に確立した演出で、彼は70歳を越えても演じようとした。当然、完成されたスタイルと衰える身体とのギャップは、年を経るにしたがって次第に大きくなっていく。
京須は、著書『落語名人会夢の勢揃い』の中でこう記す。
「歌人吉井勇に、文楽さん、長生きするのも芸の内だよ、と言われたのはいつのことだったのだろう。命短し 恋せよ乙女、と詠ったひとに長生きを説かれて、文楽はことのほか健康に気をつかったという。しかし、乙女の朱き唇は褪せ、文楽の至芸は老境に入り次第に凋落の影を濃くしていった。」
京須は「自分は誰かのファンになったことがない」と公言して憚らない人である。芸が落ちてくれば容赦なく離れる。そこにべたべたした情はない。クールでドライな一面は、時として非情に映らないこともない。 

出口が言うように、文楽の芸がラジオ東京専属契約時にピークにあったとすれば、出口は文楽の死まで、その下り坂を伴走して行ったことにならないだろうか。
特に、出口がTBSを退社し、デグチプロを立ち上げ、文楽の私生活のかなり立ち入ったところまで面倒を見始まったのは、文楽が70歳半ばを迎えた頃だった。その日々は、やがて訪れる文楽の芸の終焉へと至る道筋と重なる。
文楽の芸に惚れ、その人となりに心酔していた出口にとって、それは、さぞ切ない日々であっただろう。
そうして二人は運命の日、1971年(昭和46年)8月31日を迎えるのである。

2015年10月17日土曜日

八代目橘家圓蔵師の訃報に接して

八代目橘家圓蔵さんが亡くなった。81歳だった。

月の家圓鏡で、私が子どもの時分から売れっ子だった。
大橋巨泉が司会をしていた「お笑い頭の体操」は毎週欠かさず見ていた。替え歌のコーナーで、横森良造氏のアコーディオン伴奏で、すんごい音程で歌ってた。
末広演芸会の大喜利では、円形脱毛症を隠すために毛糸の帽子を被って出演した姿を憶えている。
「エバラ焼き肉のたれ」「メガネクリンビュー」のCMも忘れ難い。

私が大学に通っていた頃は、落語の充実ぶりが凄かった。当時は落語協会分裂騒動の直後。圓鏡さんは三遊協会に参加しながらも、寄席への出演が不可能になったことから、古今亭志ん朝とともに協会へ戻った。その時、志ん朝は「これからは落語で勝負します」と語ったというが、「落語で勝負」することにしたのは志ん朝だけではなかったのだ。
寄席では必ず爆笑をとっていた。速射砲のように繰り出されるギャグに、我々は文字通り腹の皮をよじらせて笑った。「猫と金魚」「堀の内」「幇間腹」「豆屋」「寝床」…、まさにギャグのシャワーのような高座だった。

落研の技術顧問だった先代の圓蔵師匠が亡くなった時、対外発表会の代演に圓鏡さんが来てくださった。慌ただしく楽屋入りされて、「猫と金魚」で爆笑をさらった後、あっという間にお帰りになった。スターのオーラで満ち満ちていた。私の対外発表会初出演の時のことなので、忘れようにも忘れられない思い出だ。

そして、間もなく八代目橘家圓蔵を襲名する。
圓蔵襲名後は、大ネタにも果敢に挑戦した。「火焔太鼓」や「鰻の幇間」といった志ん生・文楽の十八番も、見事に圓蔵の噺になっていた。

晩年には、黒門町の思い出をよく高座で喋っていた。内弟子として常に身近にいた人が語る昭和の名人のエピソードのひとつひとつを聴くだけで、私は幸せな気持ちになれたものだ。
2011年の正月に、BSでやった「昭和なつかし亭」という番組に、圓蔵さんがゲストで呼ばれていた。司会の二代目林家三平とのからみが最高だった。三平のカンペを取り上げて、頭を引っ叩き、「こんなのアドリブでやれ」と毒づく。全盛期そのまま、70歳半ばを過ぎてこんな大暴れができることに、私はマジで感動した。

ここ数年は寄席への出演もやめ、引退状態にあった。台詞がうまく出てこなくなったから、というのが大きな原因だったという。あの回転の速さを維持するのは大変だったろうな。78歳で絶句して高座を下りた、大師匠八代目桂文楽の悲劇を、自分は繰り返したくなかったのだろう。
これで、私たちが若い頃、「四天王」といわれた人たちは全て鬼籍に入ったことになる。一つの時代が終わったんだなあ。本当に月並みな言い方だけど。

八代目橘家圓蔵師匠の御冥福を心よりお祈り申し上げます。


1979年刊『落語』の表紙を飾った、山藤章二画伯描くところの橘家圓蔵師。
(当時は月の家圓鏡)


2015年10月11日日曜日

おさかな天国 鯵のたたき丼


次男を連れて大洗に行く。
昼食は、アウトレット内の「おさかな天国」。
今回は、鯵のたたき丼、980円(税抜)をチョイス。
やはりこういう近海ものがいいね。キトキトのキレキレ。
切り身も大きく食べ応えがある。たたきというより刺身ですな。旨し、でした。
いばらきキッズカードで5パーセント引き、アンケートに答えると次回10パーセント引きのクーポンをくれる。しかもこのクーポン、期限なしとのこと。
店内も明るく、オーシャンビュー。店員さんたちも感じがいい。
いくら丼をぺろりとたいらげた次男は、「次はねぎとろ丼もいいなあ」と言っておりました。

では、鯵のたたき丼をアップでどうぞ。




2015年10月6日火曜日

「鉄ちゃん」じゃないよ②

去年の3月、職場の仲間と北海道へ行った。
その時に長男から、鉄道の写真を撮って来てほしいと頼まれた。
かわいい我が子の願いであればやむを得ぬ、せっせとシャッターを切っていると、仲間からは「**さん(本名)、撮りテツでしたか」と言われた。
別にマニアじゃないんだけどなあ。
そんなふうにして撮った写真。せっかくなので載せてみる。

千歳空港から札幌へ向かう車中より。

旅のお供は、もちろんこれ。

札幌駅ホーム。


銀河鉄道999に出て来るような駅員さん。

この小樽行に乗りました。

小樽駅のホーム。


小樽駅構内にはたくさんのランプが下がっていた。

小樽から札幌へ向かう列車に乗り込む。

札幌市内を走る地下鉄。
これに乗ってススキノへ飲みに行く。

札幌市内を走る路面電車。
ススキノで飲んで、いい気持ちで撮りました。

帰りの札幌駅ホーム。


札幌駅。

駅前の銅像。
こういうの撮っちゃうんだよなあ。

2015年10月4日日曜日

初「そ・ら・ら」


妻子を連れて、「そらのえき、そ・ら・ら」に行く。
茨城空港のほど近い場所に,昨年夏オープンした。妻や子どもたちは何回か来ているらしいが、私は初めて。
毎月第1日曜はイベントをやっているという。小さい子どもを連れた家族連れ、お年寄りのグループなどでほどほどの賑わい。
スタンプラリー、吹き矢、紙飛行機、竹とんぼ、だるま落とし…、中2と小5がまあ無邪気に遊ぶ。
妻のお目当てはソフトクリーム。小美玉ソフト350円也をいただく。


小美玉は乳製品が盛ん。このソフトクリームも、敷地内の工場で作られている。
濃厚。旨し。
工場はこちら。


お昼は、私と次男がキーマカレー、妻と長男はピザを食べる。


キーマカレーは650円。レンコンが入っていて、食感がいい。辛くないので、子どもでも大丈夫。
美味しくいただきました。
お土産も色々あるし、遠方から来た客を案内するのにいいな。
小美玉の観光拠点として、地元の憩いの場所として、末永く頑張ってほしい。

午後はウェルシアへ酒を買いに行く。
近くのウェルシアには、ハートランドビールが置いてあるのだ。
酒は常総の地酒、「一人娘」を買う。


休みの日のお楽しみ、夕方ビールは旨かったねえ。