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2011年6月28日火曜日

川崎に住んでいた


大学時代、私は川崎のアパートに住んでいた。
川崎駅西口からは20分程、南武線尻手駅からは10分程歩いた所。通りから路地に入った木造2階建てで名前は「幸和荘」といった。四畳半一間で家賃8千円。当時でも破格の安さであった。
地元の国立大を落ちて、一人暮らしをすることが決まった。川崎の親戚が自宅の敷地内でアパートを経営しており、そこなら何かと安心だろうと家族も私も思っていたのだが、その時、生憎空き部屋がなかった。そこで、そこから歩いて20分程の所にある、従姉の洋裁の先生の経営するアパートを借りることにしたのだった。
実は川崎以外にもアパートの候補はあった。同じ大学に通っていた従兄が卒業するので、彼のアパートをそのまま借りないかという話があったのだ。場所は下北沢。もし、そこを借りていれば、私の青春は違ったものになっていただろう。だが、初めての都会暮らしの不安から、なじみのある川崎、近くに親戚がいるという安心の方を、私は取ったのである。
大学で友達になった人たちは、皆小田急線沿いに住んでいた。落研の同輩も、そっちへ引っ越すように勧めた。実際、通学には小田急線の方が便利だった。当時、中原中也にかぶれていた私は、友達のアパートを泊まり歩いていて、自分のアパートにはあまり帰らなかった。同輩が引っ越しを勧めたのも、私の襲撃に耐えかねたということもあっただろう。
2年になる時、私は同輩に宣言した。「俺、引っ越すぞ。」
「どこだ?狛江か?経堂か?」と同輩が喜ぶ。
「2階だ。」
「え?」
「2階の部屋が空いたんで引っ越すことにした。1階は全然日が差さないんだ。」
何だそりゃ、と随分突っ込まれた。
それでも、引っ越しには悟空、八海、弥っ太の3人が手伝いに来てくれた。昼飯は近くの中華料理屋「ちづる」で肉野菜炒め定食をご馳走させてもらった。
2階は明るく気持ちよかった。その分家賃も上がり1万円となった。
結局、私は4年間、そのアパートにいた。何だかんだ言って、私はあのアパートが、あの界隈が大好きだったのだ。向かいの作業場から聞こえるグラインダーの音、路地で遊ぶ子どもの声、日曜の朝には大家さんの娘が琴を弾いた。しんと静まる冬の夜は「火の用心」の拍子木が聞こえた。私自身は、ゴミ溜めのような部屋で、夜毎サントリーレッドに酔い、無頼派を気取ってはいたが、あのアパートの周りは優しい音で充ち満ちていた。
あの部屋は今も心の中にある。もうちょっと大切にしてやればよかったなあ。

写真は、友川かずきの名曲『歩道橋』の舞台だと私が勝手に決めている、尻手駅近くの歩道橋から見える一角。ここは見事に昔のままだ。

2011年6月23日木曜日

『子別れ』から思いを巡らす

大福さんの『子別れ』の文章を読んで、色々考えた。
柳家小三治の『子別れ』通しのCDは、私も持っている。1983年9月の録音か。私が大学を卒業した社会人1年目の年だ。そうか、大福さん、この高座を観ていたか。いいなあ。いい出来だ。私はこの中では、地味だけど「中」が好き。ここがあるから「下」が生きる。この「中」が小三治の凄さを感じさせる所だ。
実の親子という点では、本当にうろ覚えだけで、はなはだ心許ないが、あえて調べずに書くけど、『文七元結』に、長兵衛の娘は彼の連れ子で、おかみさんの実の娘ではないという演出があったような気がする。間違ってたらごめんなさい。でも、それはありだと思う。娘は実の父親の情けなさと継母への申し訳なさから、自分の身を売ろうとしたのかもしれない。
それにしても、落語に共通するのは、駄目な男とそれを受け入れる女、立ち直らせる女、許す女、という組み合わせだ。
色川武大は『名人文楽』という文章で「文楽の落語は男の呟きだ。」というようなことを書いていたが、こう考えると、やはり落語というのは「男の呟き」に他ならないな。男は、駄目な自分を、女に受け入れてもらい、立ち直らせてもらい、許して欲しいものなんだ。
確かに大福さんが言うような設定の落語も聴いてみたい。そのためには多分、女性落語家の視点が必要になるかもしれないな。
大福さんの文意からは大分それた。申し訳ない。あの文章から大福さんの今が、少し分かったような気がした。
軽々しくは言えないが、きっと大丈夫、きちんと誠実に向き合っていけば何とかなるもんだ。幸せの形は人の数だけあるさ。
大福さんの幸せを祈る。

2011年6月21日火曜日

上田毅八郎『上田毅八郎の箱絵アート集』


「箱絵」というのは、プラモデルの箱のことである。あの、プラモデルの箱に描いてある細密画の画集なのだ。
私たちがガキの時、プラモデルの花形といえば、旧日本軍の戦艦や戦闘機であった。
私の母の実家が霞ヶ浦のすぐ側で、泊まりに行った時、どういうわけか従兄に戦艦大和のプラモデルを作ってもらった。それを霞ヶ浦に浮かべて遊んでいるうちに、いつの間にか沈んでなくしてしまったことがある。あの箱の颯爽と白波を切って走る戦艦大和の絵は、今も心に焼き付いている。
作者は旧日本海軍の兵士。乗り込んだ船が6回も撃沈されたにもかかわらず、その度ごとに奇跡の生還を果たす。戦争で利き手の右手の自由を失うが、戦後左手で絵を描き始めた。あの精密な絵は、実は利き手で描いたものではないのだ。そのことに、まず驚愕する。
大和、武蔵、榛名、陸奥、長門などの戦艦、妙高、筑摩などの巡洋艦、赤城、加賀などの航空母艦はもちろん駆逐艦、潜水艦から輸送船、病院船に至るまでの艦船の数々、ゼロ戦、紫電、隼などの戦闘機が、ページを捲るたびに目に飛び込んでくる。まさに圧巻だ。しかも、錆や塗装の剥がれなど細部も忠実に描写されているは、海域によっての海の色や天候による波の切れ方、煙のたなびき方なんかも描き分けられているは、もうとんでもない描写力なのだ。
途中に挿入されるコラムがまたいい。作者の職人気質を遺憾なく伝えてくれる。きっぱりとした骨太な言葉が心に迫る。
先日、新聞の記事で、ある戦争体験者が「日本はあの戦争で300万人が死に、全国が焦土と化した。我々はあそこから復興を果たした。今度だって出来ないことはない。」というようなことを言っていたのを読んだが、その通りかもしれない。この世代の凄みを感じるなあ。
利き腕の自由を失い、塗装業の傍ら、戦友の鎮魂のために描いた6000点の中から厳選された傑作選。決して兵器マニアでもない、あの戦争を賛美するものでもない私が圧倒された。大事な本が、またひとつ増えました。

2011年6月20日月曜日

笠間に行く


平日の休み。妻と笠間へ行く。
まずはお稲荷さんにお参り。雑貨屋で小さい猫の置物を買う。
共販センターに寄ってみると、震災で割れたお気に入りの皿と同じものがあった。早速購入。もう一枚、気に入ったのが見つかり、それも買う。
昼食は、芸術の森近くのカフェでランチ。妻はチキンの香草焼き、私はジャーマンポークのセット。けっこう奥様たちで賑わっていた。旨し。
月曜日で美術館が休みだったので、水戸の方に向かう。久々に内原イオンに入る。
本屋で上田毅八郎『箱絵アート集』とCD屋で泉谷しげるのベスト盤を買う。ちょいと値が張ったが『褐色のセールスマン』が入っていたからなあ。
サーティーワンでアイスを食べて帰る。
ここんとこ忙しくて少々疲れ気味だったが、ようやくのんびりできた。いい休みだったな。

写真は4月の初めに撮った、笠間稲荷側の路地の奥にある「昭和館」。好きな建物だったんだけど、震災で屋根が落ちてしまったようだ。私の好きな建物のほとんどが震災の被害を受けている。趣味の散歩も楽しくなくなっちゃったなあ。

2011年6月17日金曜日

長生きしてえな、と清志郎は歌った

このところRCサクセションの『カバーズ』を聴いている。
ここで歌われる、『ラブ・ミー・テンダー』や『サマータイム・ブルース』で危惧されたことが、現実のものとなってしまったのだなあ。
このアルバムは、原発批判の曲を収録していたために、彼らが所属していた東芝EMIから発売することが出来なかった。こんな形で表現の自由は潰されようとしたのだが、このような事態になっても、シンガーソングライターが原発の安全神話を「みんな嘘だったんだぜ」と歌った動画が削除されたり、芸能人が反原発の意見を書き込んだブログが閉鎖されたりといったことが起こっているらしい。
まさに「何やってんだ、じょうだんじゃねえ」だ。
『カバーズ』は、清志郎の絶唱『イマジン』で終わる。絶望的な状況を鋭く攻撃しながら、清志郎は最後に希望を歌うのだ。清志郎、やっぱりあんたはかっこいいぜ。
残念ながら、今この地平に清志郎はいない。だけど、きっと彼はどこかで私たちを見ている。清志郎に恥ずかしくないように、私たちも頑張んなきゃな。

2011年6月16日木曜日

バルザック『谷間の百合』

古くさい小説が読みたくなって読んでみた。
有り体に言えば、若者が人妻に恋をして自分の恋心を縷々と述べる、貞淑な人妻は若者に好意をほのめかしながらも決して恋情に身を任せることはしない、若者苦悩する、といった話だ。
ナポレオン失脚後の王政復古時代、フランスの貴族社会が舞台。大時代的な台詞廻しが多く、最初は読みづらかった。
若者、フェリックスは、人妻モロソフ伯爵夫人に魅了され、彼女の住むアンドルの谷間に足繁く訪れる。夫モロソフ伯爵は人格破綻者、加えて病弱な二人の子どもを抱える夫人は、気高く清楚な、谷間に咲く百合そのものであった。
この夫人にフェリックスが言い寄る、言い寄る。やはり押してみるもんだなあ、夫人もまんざらではない雰囲気になってくる。ところが、貞淑な妻、母親でありたい夫人は、させそでさせない。
伯爵はとんでもない悪役として描かれているが、考えてみりゃ可哀想だよな。絶世の美女を妻にしながら、子どもを二人作った後は体を許してもらえないのだ。人格的に問題があったにしろ、そんな環境が彼の破綻を加速させたのは言うまでもない。
まあ夫人としても、美しい若者に、させそでさせない関係はそれなりに快いものだったのだろう。しかし、フェリックスが栄達を果たし、ダドレー夫人の強引な誘いに惑わされ恋仲になると、そうはいかなくなってくる。
このダドレー夫人の登場から、俄然面白くなってくるぞ。ダドレー夫人は、あらゆる意味でモロソフ夫人とは対照的な存在だ。自分の欲望に正直、夫や子どもなどほったらかしにしてフェリックスとの恋に生きる。高慢で淫乱、モロソフ伯爵夫人が純白の百合なら、ダドレー夫人は深紅の薔薇だ。そりゃあ男はやらしてくれる女の方に行くわなあ。フェリックスはダドレー夫人を悪く言っているけど、その道を選んだのは自分だもんな。ぐじぐじと言い訳をしているに過ぎないよ。多分フェリックス自身、それに気づいているに違いないけどね。
モロソフ夫人は貞淑であろうという精神とフェリックスと結ばれたい肉体との矛盾に引き裂かれ、やがて死の病に取り憑かれる。モロソフ夫人死の直前の肉の叫びから、目をそらそうとするフェリックスを、私は卑劣だと思う。結局、彼はモロソフ夫人を清純な檻の中に入れておきたかったのだ。男は情けないな。モロソフ夫人の娘マドレーヌから投げつけられる、「またご自分のこと、いつでもご自分のことばかり」という言葉が痛い。そうなんだ、男はいつでも自分のことばっかりなのかもしれない。苦労人バルザックらしく苦い味わいを残してくれる。これは絶対純愛小説ではないと思う。
しかも、この話をただの悲恋に終わらせない皮肉な結末をバルザックは用意するのだ。この親父、本当に一筋縄ではいかない男だなあ。

2011年6月12日日曜日

入部の日

私は大学の時、落研にいた。今から30年以上も前の話だ。
随分昔のことだが、私にとっては濃密な日々だった。その頃の話を新シリーズで始めようと思う。(もちろん大福さんのブログの影響は大である。)
あの頃は私も未熟だったし、とても人様に言えないようなことをした覚えもある。あまり関係する人に迷惑のかからない範囲で、時系列にもこだわらず、気楽にぽつりぽつりと書いていくつもりだ。
まずは入部の日から。
同輩は通算で13人いたが、その中で私は入部順では8番目だった。新入生勧誘期間も過ぎた4月も半ば、直接部室に行って入部を願い出たのだった。
中学の時に落語を知り、ずっと好きだった。中学卒業の時の謝恩会では『寿限無』を演って喝采を博した。
もちろん大学では落研に入りたい気持ちもあったが、勧誘期間では声も掛けてもらえなかった。一度、サイクリングの愛好会に誘われて入ったものの、自転車を買わなければならないと言われてすぐ辞めた。ここで落研に入らなければ、一生後悔することになる、と悲壮な決意を持って部室のドアを叩いたのだった。
部室には何人かの先輩がいて、親切に説明してくれた。部員名簿に名前を書くと、先輩は優しく言った。「髪はスポーツ刈りにしてもらうよ。」
そう、当時、男子新入部員は短髪にするという決まりがあったのだ。ちょっと抵抗はあったが、中学の時は丸刈りだったのだ。それに特別な感じがしていいじゃないか。などと思っているところへ、短髪にした1年の男子部員が5人(このうち2人はすぐ辞めた)、女子部員が2人、暗い顔をして部室に入ってきた。後で聞いた話では、向かいにある和室で諸注意(いわゆる説教)を受けていたということだった。
帰りは、代表の雀窓さんの下宿に飲みに連れて行ってもらうことになった。同輩の男3人も一緒だった。
雀窓さんの下宿は狛江にあった。途中、鯖の缶詰や魚肉ソーセージなんかを買い込む。雀窓さんは普通の家の一間を借りていた。まずはビールで乾杯。日本酒にも手を出し始める。私を含め新入生4人、酒を飲むのは初めてに近い。すぐに愉快になった。雀窓さんが「この家にはもう一人下宿人がいて、こいつがなかなか気難しいんだ。少し静かにしろよ。」言うと、我々は「大丈夫ですよ。矢でも鉄砲でも持ってこいってんだ。」と気炎を上げた。
大分夜も更けて、私は同輩の1人とトイレに行った。私が用を足していると、ドアの向こうでぼそぼそと声が聞こえた。「…何時だと思っているんだ。いい加減にしろ。」
同輩の怯えた声で「はい」という返事がかすかに聞こえる。二人の会話が終わるのを待って、私はトイレを出た。
「お前、何で早く出てこないんだよ。」同輩が言った。「あいつ、日本刀持ってたんだぞ。」
矢だの鉄砲だのとは誰かが言ったが、日本刀は言っていない。雀窓さんの話では、その人は他の大学で事務の仕事をしており、日本刀の収集が趣味だという。
落研入部1日目、波乱の幕開けであった。

2011年6月8日水曜日

古今亭志ん朝と蕎麦

今はもう出ていないが、かつて月刊『太陽』という雑誌があった。1998年12月号、特集は「そばを極める」だったが、ここにあった古今亭志ん朝の談話がいい。本にもなっていないし、もったいないので、ここで一部を紹介することにする。タイトルは『ささやかな道楽』である。
「あたしは、こういうそばじゃなきゃ駄目ってのはないんです。丼ものを置いてある店なんて何がうまいもんかとおっしゃる方もいますけどね。万人に好かれるように味付けをしてきちっとやってたら、まずかろうはずがないんですよ。
時と場合によっては、腰の強いしっかりしたそばは食べたくない…なんてこともある。風邪ぎみなのを酒の勢いで治そうてんで、前の晩にわっと飲んで二日酔いで目を覚ます。なにか胃にやさしいものをなんて思いながら、バス停の前にあるようなごく普通のそば屋に入って、卵とじとか、餡かけなんかを頼む。するとね、つなぎの多い腰の強くないそばなんですが、胃にやさしくて、とてつもなくうまいと思うんです。」
ね、いいでしょう。志ん朝の声が聞こえるようだ。ここで、志ん朝は自らの志向するものについても語っている。「ごく普通のそば屋」で、「万人に好かれるように味付けをきちっとしてやる」のが好き。志ん朝の世間での評価はまぎれもなく名人であったが、自身はあくまで「普通の芸人」であろうとした。名人と奉られるよりも、芸人仲間との気楽な交友を彼は好んだという。
話題はそばが好きになったきっかけを経て、そばの旨いシチュエーションに及んでいく。
「今日一日仕事がないてえと、朝は納豆と魚の開きなんかでもってすまして、カメラをぶらさげて出かける。ずいぶん歩くんです。途中そば屋に寄ってね、映画の一本も観て、いっぱい飲んで帰って来るってのが楽しみなんですよ。なにが一番いいかっていうと、朝のうちに今日はどんなそばを、どこそこのそば屋で食べようって考えるのが楽しい。ささやかな道楽なんですよ。
暖簾をくぐりますとね、やっぱり最初はビール。それから酒にするか、あれば焼酎をもらう。肴は店によって違いますが、室町砂場だったら玉子焼きに酢の物、連雀町の藪なら合鴨とねぎの合焼き。それにぬき。浅草なら並木藪蕎麦のそば味噌がいい。そば味噌だけで十分ですよ。それと尾張屋で玉子豆腐と、あればそら豆、ここのは、ゆで加減が性に合っているんでしょうか、うまいと思いますね。」
うーん、今すぐそば屋に行きたくなるな。
この後、自分でそば屋のネタを使って創作するという話になる。これがまた旨そうなんだ。決して贅を尽くしているわけではないが、そそられる。まさに「ささやかな道楽」だ。
そして、こう締める。
「妙なこだわりがなくて、きちっとそばや丼ものを食べさしてくれる。そんな店がやっぱりいいんです。」
志ん朝もそういう芸人であろうとしたのだろう。これはもう芸談と言ってもいいんじゃないかなと思う。
もし志ん朝の談話集なんて本が出たら、是非とも載せて欲しい文章です。誰かそういう本、作ってくれないかなあ。

2011年6月6日月曜日

神栖に泊まる


週末は仕事だった。
午前中に1つ仕事を済ませ、別の仕事で神栖に向かう。
途中、鹿嶋の華禄というラーメン屋で昼食。とんこつラーメンとミニ豚丼。旨し。
夜は打ち上げ。宴会後、流れでがんこや。みぞれラーメン、生ビール。
1日にラーメン2食は20代の時にやったことがあるが、さすがに今はきつい。
ただ、みぞれラーメンは見た目よりあっさりで旨かった。
神栖セントラルホテルに投宿。温泉パックで朝食付き7000円。
翌朝はバイキング。ホテルの朝食は久し振り。私はこういう時、基本的に洋食を選ぶ。パン、コーンフレーク、ポタージュスープ、スクランブルエッグ、ベーコン、サラダにグレープフルーツジュース。食後はコーヒーを飲みながら新聞を読む。いいねえ。
帰りは、大福さんのあやめ祭りのブログを思い出し、潮来市街を通る。
やはり液状化がひどかったんだろうなあ。電柱が傾いている。
街はあやめ祭りの真っ最中。時間が早いので、まだ人は少ないが、何となく華やいだ雰囲気。娘船頭さんの呼び込みが至るところにいる。
2月の末、宴会をやったあやめ旅館はどうやら無事なようだ。中にはけっこうなダメージを受けていた建物もあったな。
潮来から牛堀へ。北斎の富岳百景に描かれた所だ。土浦から潮来までの定期船が通っていた頃は栄えていたらしいが、今は普通の集落といった感じ。
10時少し前、家に着く。一晩家を空けた埋め合わせといっては何だが、妻子を連れてつくばへ遊びに行く。

2011年6月3日金曜日

京須偕充『こんな噺家はもう出ませんな』

名人論である。
優れた落語家は数多いたが、名人と呼ばれた人は限定される。
最高峰、三遊亭圓朝。話術では師圓朝を凌ぐと言われた四代目橘家圓喬。
大正期の初代三遊亭圓右、三代目柳家小さん。
この四人がその昔、名人と呼ばれた人たちだった。
そして、昭和30年代以降、八代目桂文楽を筆頭に、五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭圓生の三人が昭和の名人としての地位を得ていく。
その名人誕生の過程の分析がすこぶる面白い。特に「昭和の名人」については、著者が時代の体験者であるだけに説得力がある。ああそうだったのか、とぐいぐい読ませるな。特に桂文楽が、昭和の「俺たちの名人」だったというのは興味深い。
私たちにとっての「俺たちの名人」、古今亭志ん朝も登場する。しかし、彼はもはや「名人はもう出ない」という価値観に生きる人であった。三遊亭圓生のように、名人を目指し、ぎらぎらした野心を剥き出しにすることはない。志ん朝のそういう名人観もやはり彼らしい。
タイトルの『こんな噺家はもう出ませんな』というのは、四代目圓喬の噺を聴いた客が、思わずもらした言葉である。八代目文楽が若い頃それを聞いて、圓喬の名人芸を語る時には必ずその言葉を引用したという。もはや名人は出ないという志ん朝の考えに通じるし、さらに言えば、著者もそう思っているのだろう。
名人へのオマージュを語る美しい本だと思う。
ただ、この本に私が思う「平成の名人」、古今志ん朝、柳家小三治は登場するが、立川談志は一切出てこない。筆者の好みではないのだろうな。でも、小林信彦にも言えることだが、談志を無視するのは、フェアじゃないと私は思う。好むと好まざるとに関わらず、文楽・志ん生後、並び称される存在といえば、志ん朝・談志であることは誰もが認めるところだろう。談志をきちんと論じないことは、著しく客観性を欠いているのではないかと思う。吉川潮の評論が、(反対の立場から)客観性を欠いているのと同じようにである。談志を認めないのであれば、取り上げてきっちりと批判すべきだ。無視はいけない。
まあ、きっと東京人の著者にとって、そういうのは野暮なことだったんだろうな。でも、それでいいんだろうか。