日曜の午後、靖国神社には、絶えることなく、参拝する人々がやって来た。
多くの人は黒い服を身に着けていた。それは、多分、「英霊」に対する弔意の表れであったのだろう。
鳥居をくぐるとき、彼らは深く一礼し、決して真ん中を通ることはしない。拝殿の前では、二礼二拍手一礼を丁寧に行う。
その昔、そのように几帳面に参拝する者はいなかった。賽銭を放り込むと、ぱんぱんと柏手を打ってお辞儀をしておしまいだった。
他の神社でも殊更に作法通りお参りをする人はいるが、ここ靖国ではそういう人が大多数を占める。
彼らは身なりもきちんとしているし、礼儀正しい。職場や地域のコミュニティーの中心にいる人たちのように見える。
私の後ろから歩いてきた女性二人連れから「私は日本の味方だし、真実を・・・」と言う声が聞こえた。
その「真実」とは、「南京事件などなかった」という真実なのだろうか。あるいは「慰安婦などいない。いたのは売春婦だ」という真実なのだろうか。
「日本国憲法は日本を弱体化させるためにアメリカが押し付けたものだ」という真実だろうか。
「このまま漫然としていると中国に征服されてしまう」という真実だろうか。
「活動家には報酬が支払われている」「左翼は中国の手先である」という真実だろうか。
自省する。
私は靖国を参拝する人を、特定のイメージで十把一絡げに捉えようとしているのかもしれない。それは正しいやり方ではない。
私の隣で祈りを捧げていた青年は、何事かを唱えながら随分長く神前に立っていた。私は彼の後に神前に立ち、すぐにそこを離れたから、いつまで彼がそこにいたかを知らない。
私は彼と話をしてみたかった。「英霊」に何を話しかけたのか。私の伯父と祖父は「英霊」である。聞いてみてもいいのではないか、と私は思った。
私は何を話したかったのだろう。戦争を美化するな、ということか。日本が近隣諸国に行った加害行為を忘れるな、ということか。全体主義の恐ろしさを知れ、ということか。
私は青年を啓蒙し、正しい道に戻してやろうと思ったのか。だとしたら、それは傲慢なことだ。では、私はいったい何がしたいのだろう。
少なくとも、彼は真剣に靖国に向かっていた。だからこそ、私は彼と話をしたいと思ったのだ。
昔あった小さな茶屋は、お洒落なカフェになっていた。生ビールが一杯500円だった。私の身体は生ビールを欲していたが、何だか飲む気がせず、そのまま脇の鳥居から外に出たのだった。
靖国は、今も、すぐれた装置である。
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