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2012年10月31日水曜日

牧志公設市場

牧志公設市場。
こういう所がそそるのよ。
魚なんか見てるだけで楽しいよねえ。
奥の方はこんな感じだった。

2012年10月30日火曜日

沖縄の晩飯

沖縄に出張。
沖縄に行った日の晩飯は、牧志公設市場の二階にある食堂で食べた。
ポーク玉子沖縄そばセット。こういうのが旨いのよ。

大福さん、ありがとね。ちょっとため息がでただけなのよ。
ま、“やり手”の人にはじれったいかもしれないけど、不器用に誠実に身の丈に合った仕事をしていこうと思いますよ。

2012年10月23日火曜日

どうでもいいんだけどね

このんとこ、ちょっとばかり心が弱ってた。
中島みゆきの『蕎麦屋』の、「世界中の誰もかもが偉い奴に思えてきて/まるで自分一人が要らないような気がする時」という歌詞そのままの気分。こんな時は、もともと低い自己評価が、どんどん低くなる。
この年齢になると、突然蕎麦屋に誘ってくれて、何となく慰めてくれるような友達なんていない。
だけど、あれか、家族がいるか。妻や子どもの顔を見ると、何とか頑張んなきゃな、という気になるよな。
結局のところ、皆に生かされているんだな、私は。まだまだ修行が足りないねえ。

写真は10年ほど前の浜川崎の駅前。

2012年10月20日土曜日

キッザニアに行って来た

妻子を連れて、キッザニアに行って来た。
職業体験型のテーマパーク。長男が小学生のうちに行こう、と妻が常々言っていた。
先月の末から、土日はずっと仕事。この後もしばらくそんな調子なので、ここらでどこか連れてってあげないと、家庭の安寧が保てないよな。
初めて行ったけど、よく出来てるね。
豊洲のららぽーとの中にあって、そんなに広くはないんだけど、それがかえって歩く距離が少なくて済み、子どもも歩き疲れなくていい。
制服を着て仕事をして、キッズォというお金を貰う。基本的にパビリオンに入ることができるのは子どもだけというシステムもいい。
9時過ぎに着いたが、1部終了の3時まで、ずっと遊んでいた。長男はサービス業、次男は技術系が好きみたいだな。
随分喜んでくれて、親としても嬉しい。また、行きましょう。

下の写真は、薬剤師の仕事をする長男です。

2012年10月17日水曜日

昔の上野駅

昔の上野駅。
JRのりばから地下鉄の方に下りる辺りに、こういうシブい店がいくつかあった。
私も若かったからね、なかなかこういう所には入れなかったな。
今は上野も大分きれいになった。
一度くらい、こんな所で飲んでおけばよかったなあ。

2012年10月15日月曜日

安藤鶴夫『三木助歳時記』

久し振りに『三木助歳時記』を読む。
安藤鶴夫の絶筆。高校の頃、旺文社文庫版を買って読んだ。夢中で読んだな。大学の時、この本は八海君にあげた。今持っているのは河出文庫版。すっきりとした装丁できれいな本である。
三代目桂三木助の一代記。人呼んで「隼の七」。長い間博奕に狂い、不遇を託った落語家。一時踊りの師匠として生計を立てていた頃の女弟子に恋におち、一念発起、生活を立て直して落語に精進し、やがて、文楽・志ん生・圓生・小さんとともに、戦後古典落語の旗手として大成するが、その全盛期に癌に倒れた。鯔背な江戸前の落語家であった。十八番の『芝浜』は、彼の代名詞にもなっている。
今回読んだ感想としては、前半の不遇時代がよかったな。賭場に向かう佃島の場面や、いわゆる土手組の寄席の場面なんかがいい。大正の東京の、いわば場末の雰囲気の臨場感たるや、見事。闇の深さ、空気の匂いまで、まざまざと感じさせる。安藤鶴夫の筆力を、再認識したな。
あと、ストーリーとは関係ないけど、食べ物が出てくる所もいいよ。前述の佃島で、ミルクホールでトーストを食べる場面、ミルクのほんのりとした甘さ、さくっとしたトーストの歯触り。大正の洒落た感じも漂う。惚れ抜いた女弟子、後の仲子夫人に叉焼麺を食べさせる場面、ここで三木助は仲子が食べ終えた後のスープだけを飲むのだが、これがものすごく旨そうなのよ。黒門町の文楽の自宅に招かれて、文楽と鳥鍋をつつく場面なんか、まさに一幅の絵を見るが如きだな。
ただねえ、安藤の分身、こんかめ先生が登場してくると、いささか煩わしい。何かいい役回りを演じたがるんだよな。『巷談本牧亭』でもそうだったけど、いいとこをさらっていく感じ。
それから、素人のこんかめが三木助の落語を見てやって駄目を出すという場面を得々と描くのも、今は違和感を感じる。当時としては、作家先生の方が落語家ふぜいより偉かったんだろうが、6歳年長の三木助がこんかめにやたらへりくだるのもなあ。しかも、書いてるのが当の安藤なんだからね、自分で自分のことを書いているんだもんなあ。もうちょっと控えめでもいいんじゃないかな。
そうは言っても、あの落語黄金時代をびしびしと感じる。人形町末廣があり、文楽が、志ん生が、圓生が、生き生きと描かれる。たまんないよねえ。
安藤の死によって未完に終わったのが、返す返すも惜しい。
最後になっている場面、三木助が、娘茂子の一言に傷ついて、酒に酔って泣く。自らの老いを振り返り、年若い妻、幼い子どもを思う。これが、また、しみじみと切ないんだよねえ。

2012年10月10日水曜日

山の上大学(仮称)2012

藤子F不二雄ミュージアムに行った時は、大学にも寄って来た。
3号館跡の、何もない空間もこの目で見た。ちょっと信じられなかったなあ。
3号館の地下には学食があって、文学部仲間は「貧民食堂」と呼んでいた。 薄暗い、あまりおいしくない食堂であった。
私は、一人の時は、そこでカツ丼かモーニングセットを食べた。どことなくうらぶれた雰囲気は好きだった。(あまりおいしくなかったけど。)
こっちは落研が愛用していた、森永食堂があった所。「末廣飯店」という中華屋になった模様。
森永にはよく行った。 記憶に自信はないが、カレーが150円、コロッケライスのランチが180円、そぼろ丼230円、カツカレーが250円だったかな。特にそぼろ丼は卒業してからも無性に食いたくなったな。

そして最後に部室。通称、らせん階段。建物は当時のまんまだ。よく見ると各部屋に冷房が入っている。

2012年10月8日月曜日

登戸駅前

藤子F不二雄ミュージアムに行った時に撮った、登戸駅付近の写真。
この辺りだけは、昔の面影をとどめていますな。

2012年10月3日水曜日

友川かずき『死にぞこないの唄』

物置から持って来て、一気に読んでしまった。友川かずきが書いた、初めての本だ。
奥付を見ると、1977年5月15日初版発行、とある。初版本である。(多分、重版はなかったろうが。)
この本は、大学に入った年、川崎のアパートの近くの本屋で買った。とすると、2年間、私が買うのを、その本は待っていたことになる。
奥付には、今では考えられないことだが、「川崎市幸区**町3-17」(**は自主規制)と著者の現住所も書かれていた。
それを見た私は、思わず膝が震えた。私のアパートは、同じ町内の「3-16」にあったのだ。 この本に出てくる、南河原銀座も三玉酒店もすぐ近所。友川がつげ義春のマンガを買った本屋にも、私はよく行っていた。
前半はエッセイ、後半は対談。途中、何篇かの詩が挿入される。友川、20代の文章。今読むと、かなり青臭い。でも、彼の肉声が聞こえるようだ。
秋田の八郎潟湖畔の村に生まれ、高校卒業後上京し就職するもすぐにそこを辞め、飯場を渡り歩く。岡林信康の影響で歌を作り始め、1974年歌手としてデビューした。難解な詩を、秋田訛りで絞り出すように絶叫して歌う。一度聴いたら忘れられない。そのスタイルそのままに、言葉を叩きつけるように、己の過去を、日常を、書き綴る。
当時、夜、酒を飲みながらむさぼり読んだ。そして、ほんの数百メートルの所にある、ここと同じような木造アパートの中にいるはずの、友川を強く意識した。
だからといって、彼の部屋を訪ねる勇気はなかった。行ったところで、何を話せばいいか分からなかったし、気安く近づくのはあまりに図々しい気がしたのだ。
久しぶりに読んだら、あの頃を思い出した。あの汚い四畳半を思い出した。「川崎で俺は秋田を見ている」なんて文章を読みながら、茨城生まれなんて、何て中途半端なんだ、てなことを思ってたんだ。友川に八郎潟と寒風山があるなら、俺には霞ヶ浦と筑波山がある、てなことを思ってたんだ。友川に影響されて、サントリーの白を飲んでたんだ。(すぐに金が続かなくなって、レッドに変えたけど。)

今や友川も還暦を過ぎた。元同僚のHさんの情報によると、友川の曲が、カラオケに15曲ぐらい入っているという。すげえなあ。俺、スナックで『トドを殺すな』なんて歌う勇気ないぞ。