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2013年8月30日金曜日

五代目柳家小さんの仕草

この間、三遊派の話をしたが、落語界でもう一方の雄といえば柳派である。
柳派の首領は、(春風亭も由緒正しい柳派の亭号だが)柳家小さんということに異論はあるまい。特に近年では、五代目小さんの存在感は大きかった。
三遊が華麗な型の芸であるのに対し、柳は幾分地味。(「三遊若旦那、柳隠居」という言葉が残っている。)
小さんの演出は一言でいえば、「そのものの料簡になる」ということだ。「型よりも心」とでもいえばいいだろうか。圓生のようにはっきりとした上下も切らず、殊更美しい動きもない。両手を膝の上に置き、淡々と喋る。だが、そこにそこはかとない可笑しみが滲み出る。色鮮やかな錦絵ではなく、枯淡な水墨画といった趣か。三代目も四代目も、そんな芸風だったと聞く。
五代目の師、四代目小さんは仕草もほとんどしなかったという。「仕草なんかどうでもいい」と四代目は若き日の五代目に言ったそうだが、四代目のおかみさんは、それを脇で聞いていてこう言った。「嘘嘘、お父ちゃんは毎朝神棚に向かって、『仕草が上手くなりますように』って拝んでるよ。」
そんなエピソードがあるが、そのような師を持ちながら、五代目は仕草がまたよかった。『時そば』『うどんや』『饅頭怖い』『長短』の仕草の楽しさ、『強情灸』『笠碁』の表情の面白さなど、今でも思い出す。
五代目小さんは、四代目の死後、八代目桂文楽門下となる。文楽の仕草は、三代目三遊亭圓馬仕込み。持ちネタには仕草で売ったものも多かった。文楽門に転じた時、小さんは既に真打に昇進しており、文楽のもとで修業をしたわけではない。小さん自身、器用な人だったから、仕草も苦にはしなかったのだろう。だが、小さんもまた、文楽のように仕草が売り物になり得たことは、師弟関係として興味深い。
ただ、小さんの仕草は、文楽のように様式美を感じさせるものではなかった。いかにも自然体だった。 落語の仕草はパントマイムではない。過度に技巧的になると、かえってあざとく、噺を壊す。あくまで日常的でさり気なく、ほどよい誇張が施される程度でいい。
その点でいえば、小さんの芸は形で見せる部分でも観客を魅了したが、それはあくまで柳派の伝統に則ったものだったと言えるだろう。

2013年8月28日水曜日

近所の神社のお祭り

この間の日曜日、近所の神社のお祭りに、長男を連れて行く。
私の親が子どもの時には、近郷近在から人が集まって、流鏑馬や相撲大会が行われる、盛大なお祭りだったらしい。
戦後途絶えてしまい、10年ほど前、村の商工会主催の祭りとして復活した。だから、私などはちょうど空白の世代に当たる。
何年か前は、父がイベントの進行なんかやっていた。今回も何やら運営の手伝いをしていたようだ。
行ったのは夕方の4時頃。曇っていて涼しい。ちょうど立浪部屋の力士がステージに上がっていた。
無料配布のポップコーン食べて、缶ビール飲んだ。長男はミニ畳づくりをやる。
ちんどんバンドのライブを見て帰る。
派手じゃないけど、和やかな雰囲気のいいお祭りでした。

俵挙げコンテスト。親父が俵を直している。
お笑いライブ。松竹芸能、「三等分」のお二人。
ちんどんバンドのライブ。曲は懐メロが中心。なかなかパンチのある歌声。

2013年8月23日金曜日

三遊派の人、古今亭志ん朝

先日、妻が子どもを連れて実家に行っていた時があった。
まとまった時間を一人で過ごすことになり、まあせっかくだからと古今亭志ん朝の『文七元結』のDVDを観ることにした。
1時間余り、まさに至福の時間でしたな。
改めて感じたのが、志ん朝の型の美しさ。
父、志ん生の芸は型とは対極にあり、基礎を固めるのには不向きであった。そこで、志ん朝は前座時代、八代目林家正蔵のもとに通う。正蔵はきっちりとした型の人、そこで基礎を固めた。正蔵自身は地味なタイプだったが、やがて志ん朝は、より華麗な型の人である八代目桂文楽を志向する。それに加え、六代目三遊亭圓生の演劇性、さらには三木のり平に師事して芝居の舞台に立った経験も取り入れた。
白眉は、やはり、吾妻橋で身投げをしようとしている文七と左官の長兵衛のやりとりだろう。文七を取り押さえ欄干から引きずりおろす。繰り返す度に入れ替わる上下。長兵衛が文七の表情を確かめるのに顎を掴まえる。長兵衛がやろうかやるまいか逡巡し懐から金を出し入れする。投げつけられた財布を捨てようと振りかぶった文七が、その感触から本物の金が入っていると気づく。その型が、いちいち美しいのだ。目線、仕草、表情、全て見事。
娘が身を売って作った金、それを目の前で身投げしようとする若者を救うためにやっちまおうとする苦悩、葛藤を、克明に描かれると正直つらい。志ん朝は、そこを華麗に型で演じてくれる。確かにケレンの匂いがするし、正蔵のようにあっさりやってしまうのが粋だとは思うが、志ん朝のように見事に演り切ってくれれば文句はない。志ん朝の芸談にある、「クサく演れ」「客はイカしてやれ」というのの真骨頂が、この『文七元結』にあると思うな。
「型より入って心に迫る」というのが三遊派の演出だとすれば、志ん朝は三遊亭派を体現する落語家だったといえよう。
志ん朝が基礎を習った正蔵は、三代目柳家小さんを敬愛し、五代目小さんと名跡を争った人だが、三遊亭圓朝門下の三遊一朝から怪談噺・芝居噺を継承した人だった。父志ん生は二代目三遊亭小圓朝門下で落語家人生をスタートし、四代目橘家圓喬に憧れた。文楽は三代目三遊亭圓馬の薫陶を受けている。落語協会分裂騒動で行動を共にしようとした圓生は言うに及ばず、志ん朝のバックボーンになっている人たちのほとんどが三遊派の人たちだった。
もはや三遊の、柳のといった伝統は無きに等しいが、平成の世に三遊派の華麗な様式美を見せてくれたのが、古今亭志ん朝だったのではないだろうか。

2013年8月21日水曜日

石岡市役所付近

石岡市役所付近。
なかなか多彩な店が隣り合っていますなあ。

隣りの空き地にはこんな看板があった。

その先には仏壇屋さん。色っぽい天女様。
その屋上には金色に輝く仏様。

2013年8月17日土曜日

小川を少しだけ歩く

先日、小月庵に寄ったついでに、小川の街を少し歩く。
その昔、霞ヶ浦の舟運で栄えた街。
そのせいか材木屋さんが多い。今を時めく「ジョイフルホンダ」は、ここの本田材木屋が発祥である。
旧小川町と旧玉里村の境が、園部川。ただし、昔、この川は「園部の七曲り」と呼ばれていたほど蛇行していた。その後、改修工事で流れは真っ直ぐになったが、境は昔の流れで決めていたのだろう。小川と玉里はこの川を挟んで、その境がけっこう入り組んでいた。

写真は橋向商店街。橋向というのは玉里側から見て、ということになるんでしょうかね。

こちらは旧園部川付近。その昔は河岸があった。今はその流れは暗渠になっている。

2013年8月15日木曜日

『まんだら通信』

大福さんからテープが返ってきた。
おまけに、色々送ってくれた。
写真は、そのひとつ。昭和の頃の第1次落研OB会設立当時の会報、『まんだら通信』。
巻頭の、七代目橘家圓蔵師匠の似顔絵は、私が描いた。

この会報で、私はマンガも担当しておりました。それがこちら。
ベタなタイトルですがね。ほとんど実話を、エッセイマンガ風にまとめてみました。

ちなみにこんなミニ知識のコーナーもありました。
こういう情報に需要があったかどうかは定かではありません。

その後、第1次OB会は、あえなく立ち消え。『まんだら通信』も第2号までしか続きませんでした。

他に、対外発表会「みな好き会」の時に出していた『与太郎』のコピーも送っていただきました。
いやあ懐かしいやらこっ恥ずかしいやら、大福さんありがとうございました。

2013年8月12日月曜日

落語の「演技力」

若い落語ファンのブログを読んで、ふと、「演技力」という言葉に違和感を持った。
私がオールドファンなのかもしれないが、それに相当する言葉は「人物描写」であったはずだ。
彼は、例えばこんなもの言いをする。「柳家喬太郎の演技力に感動」というように。確かに喬太郎の落語には「演技力」という言葉がふさわしい。
でも、そんなところに、喬太郎の落語に対する、私の違和感がある。 私は柳家喬太郎の芸は、落語というより演劇だと思う。落語はあくまで「喋り」あるいは「語り」であって、一人芝居ではない、と思う。
落語は演劇とは違い、客席を暗くしない。客の顔が見えないと演りづらいのだ。客の反応を見ながら、それに合わせて演じるのが落語。役になりきるのが全てではないのだ。
そういうことを考えていたら、立川談志が昔、こんなことを書いていた。
「落語と言う話芸は、ありがたいことに一つの形やルールが伝統の上に出来上がっており、客はその形やルールを理解してくれているからこそ、人物が替ったように見てくれているだけなので、自分が演じる人物の気持ちになって、感情移入をして演っているわけではない。感情移入はルール上の感情移入なのである。/この、実は役になりきっていないことの楽しさが落語の魅力で、またそれが落語の粋な演じ方であり、それを味わうのが落語通であった。」(『あなたも落語家になれる』より)
ただ、この文章はこう続く。 「ところがテレビに映ると、その楽しさであった演じ方が逆に劇中の、駄目さ加減として映り、目立ってしまう。」
これは1985年当時のテレビにおける落語での現象だが、現在では現実の高座でもそうなのだろう。つまりは、そういう感性を持つ観客が多くを占めるようになった。それにつれて落語も「演劇的な」方向に変質したのだ。立川志の輔や柳家喬太郎の落語(立川志らくは劇団を結成したっけ)が圧倒的な支持を受けるような土壌が醸成されているのが、現代の落語なのかもしれない。
私はそれに異を唱えたいわけではない。落語はそのように変質することで(進化と言うべきか)、「伝統を現代に」という理念を体現しつつあるのだろう。
ただ、その方向で、晩年の談志が希求した「江戸の風」が吹くかどうかは分からないけど。

2013年8月8日木曜日

追憶のチキンライス

復権を果たした洋食といえば、オムライスがあるね。
昔ながらの紡錘形をしてケチャップつけたやつもあるかと思えば、ふわとろデミグラスソース添えなんてのもあるし、中にはオムカレーなんてのもある。
それに比べれば、チキンライスといのは、甚だ地味だ。貧乏臭いと言ってもいい。
ただのケチャップ炒め御飯でしょ、と言われればそれまで、といった感もある。
だがね、チキンライスの旨いのは、これがまた旨いの。
私がチキンライスに目覚めたのは、昔、牛久の市役所の近くにあった「のぶちゃん」という洋食屋。ここのは旨かった。メニューにはオムライスもあったが、チキンライスの旨さの方が魅力だった。鶏肉とマッシュルーム、ケチャップの絶妙な絡み具合、バターが効いているのがよかったなあ。
小さい店であった。お新香と味噌汁が付いてくるような、至って庶民的な店であった。
今はない。
それから、店でチキンライスを食べていない。

下は当時描いた絵です。

2013年8月7日水曜日

イカす店

この間、イタコ自販の写真を撮ったついでに、付近をぶらついた。
この看板は高校の頃からあった。もちろんその頃はCDの文字はなかったけど。
この裏手に回ると、この店があった。車では何度も通ったけど、気づかなかったなあ。

で、こんな店だ。
イカしてるねえ。
ファンキーだよね。
絵もかっこいい。今度、入ってみようかな。

2013年8月4日日曜日

小月庵 ミニカツ丼ともり蕎麦

今日は妻子が子ども会の行事で出かけたので、お留守番。
昼は小川の小月庵に行って食べる。久し振り。
町の正しいお蕎麦屋さんだ。安くて旨い。
ミニカツ丼ともり蕎麦。これで800円ですよ。
私はねえ、色んな所でカツ丼を食べましたが、私にとってはここがナンバーワンですな。
肉厚のカツに卵が絶妙に絡んでくる。少し甘めの味付けが、すごく優しく感じるんだよね。
蕎麦も食べたかったので、もり蕎麦も付けたんだけど、蕎麦もまた旨いよお。
大事にしたいお店です。

2013年8月3日土曜日

イタコ自販

イタコ自販。見ての通り、自動販売機ではなく、自動車を販売している。
茨城県民なら「イタコ」は容易に「潮来」と脳内変換されるはずだが、他県の人はそうはいかないらしい。友人の岐阜T君は、茨城に来て看板を見て、恐山のイタコを連想したという。
やはり漢字は表意文字ですなあ。
話は変わるが、筑波山の土産物で「まんげ鏡」というのがあった。字面だけ見るとどきっとするが、何のことはない、「万華鏡」である。
ほんと表記ひとつで印象は変わるものなんだねえ。