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2013年8月12日月曜日

落語の「演技力」

若い落語ファンのブログを読んで、ふと、「演技力」という言葉に違和感を持った。
私がオールドファンなのかもしれないが、それに相当する言葉は「人物描写」であったはずだ。
彼は、例えばこんなもの言いをする。「柳家喬太郎の演技力に感動」というように。確かに喬太郎の落語には「演技力」という言葉がふさわしい。
でも、そんなところに、喬太郎の落語に対する、私の違和感がある。 私は柳家喬太郎の芸は、落語というより演劇だと思う。落語はあくまで「喋り」あるいは「語り」であって、一人芝居ではない、と思う。
落語は演劇とは違い、客席を暗くしない。客の顔が見えないと演りづらいのだ。客の反応を見ながら、それに合わせて演じるのが落語。役になりきるのが全てではないのだ。
そういうことを考えていたら、立川談志が昔、こんなことを書いていた。
「落語と言う話芸は、ありがたいことに一つの形やルールが伝統の上に出来上がっており、客はその形やルールを理解してくれているからこそ、人物が替ったように見てくれているだけなので、自分が演じる人物の気持ちになって、感情移入をして演っているわけではない。感情移入はルール上の感情移入なのである。/この、実は役になりきっていないことの楽しさが落語の魅力で、またそれが落語の粋な演じ方であり、それを味わうのが落語通であった。」(『あなたも落語家になれる』より)
ただ、この文章はこう続く。 「ところがテレビに映ると、その楽しさであった演じ方が逆に劇中の、駄目さ加減として映り、目立ってしまう。」
これは1985年当時のテレビにおける落語での現象だが、現在では現実の高座でもそうなのだろう。つまりは、そういう感性を持つ観客が多くを占めるようになった。それにつれて落語も「演劇的な」方向に変質したのだ。立川志の輔や柳家喬太郎の落語(立川志らくは劇団を結成したっけ)が圧倒的な支持を受けるような土壌が醸成されているのが、現代の落語なのかもしれない。
私はそれに異を唱えたいわけではない。落語はそのように変質することで(進化と言うべきか)、「伝統を現代に」という理念を体現しつつあるのだろう。
ただ、その方向で、晩年の談志が希求した「江戸の風」が吹くかどうかは分からないけど。

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