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2023年1月16日月曜日

八代目桂文楽の葬儀

八代目桂文楽の葬儀の画像が手に入った。

我々の大学落研OBのLINEに、初代風柳さんがアップしてくださったのである(私は現役時代、風柳の三代目を継がせていただいた)。

初代さんは、私にとっては雲の上の大先輩。今も「たちばな家半志樓」の名前で高座に上がっていらっしゃる。画像をブログに掲載することについて許可を申し出たところ、快諾してくださった。

以下、その画像を紹介する。まずは祭壇の写真。

遺影の向かって左側には秩父宮、右側には当時の落語協会会長、三遊亭圓生からの献花がある。秩父宮殿下は昭和28年に亡くなっており、これは宮家による献花であろう。殿下は文楽を贔屓にされており、その交流は『あばらかべっそん』に詳しい。



こちらは参列者の写真。左の写真には三遊亭圓生が写っている。彼は葬儀委員長を務めた。

右の写真は文楽一門。左から桂文平(現六代目柳亭左楽)、林家三平(文楽門下七代目橘家圓蔵の弟子)、桂小益(現九代目桂文楽)、橘家二三蔵(三平と同じく圓蔵の弟子)。小益と二三蔵の間から顔を覗かせているのは三遊亭さん生(後の川柳川柳)だろうか。


八代目桂文楽の葬儀は、昭和46年(1971年)12月18日午前11時から浅草・東本願寺において落語協会葬として執り行われた。当時の新聞記事によると約2000人が参列、会葬礼状には「いま更にあばらかべっそんの恥かしさ」という句が添えられていた。

葬儀では三遊亭圓生が弔辞を述べた。以前にもその一部をブログに載せたが、ここに全文を紹介しよう。(出典は『CDブック・完全版・八代目桂文楽落語全集』による)

  弔辞(桂文楽師匠へ)

 桂文楽文楽師匠・・・いや、そんな改まった言葉はよそう。文楽さん、貴方とは随分古いなじみでしたね。貴方が小莚の前座時代で、私は圓童といったまだジャリでした。あの当時三筋町のむらく師匠・・・後の圓馬師匠の所へ毎日噺の稽古に通いましたね。死んだ四代目の小さんさんも一緒で、八、九人がせまい二畳の座敷に肩を押し合っていた頃・・・思えば六十年前位になるでしょう。其の後お互いに、商売の関係で一緒になったり別れたり、いろいろな変遷はあったが、戦前お互いに落語協会に入ってからは、貴方とは一つ倉に入って、芸の上でも位置の上でも貴方は先輩として立っていられた。そして貴方は早くから売り出して、すでに馬之助時代から若手としての売れっ子になり、中堅となって貴方は益々芸は上達した。四代目小さんの無き跡は落語協会を背荷って立ち、外面内面ともに納めて行かれた事は並大ていのことではなかったろうとお察し致します。
 尚私が云いたいのは戦後、人心の動揺、人情、生活と、以前とは移り変わり行く世相で、勿論落語界も、世間のあおりを喰い、動揺をしたその中で、貴方の芸は少しも、くずれなかった。我れ人ともに時流に押し流されやすい時に貴方は少しもゆるがなかった。悪く云えば貴方の芸は、融通が利かない、無器用な芸だとも云える・・・ごめんなさいね・・・だがそれがよかったのだと思う。なぜならば、戦前の通りに少しも芸をくずさずに演った、それが立派な芸であれば客はよろこんで聞いてくれるのだ、これで行けるのだと、人々に勇気をあたえた。今日の落語界に対して貴方は大きな貢献をされた事を私は深く深く感謝しております。
 いつまでも生きて居てほしかったが、生あるものは一度は死なねばならぬ時が来る。貴方との長い別れになることは、思えば悲しい事である。だが貴方は芸ばかりでなく、人として人情の厚い方だった。私が満州から帰れなかった時にも、留守宅へ見舞ってくれたのは、貴方と、圓蔵君の二人だけだった。しかも二度までもたずねて私を心配してくれたという事を、家内から聞きました。人に対しての思いやりもある貴方の人格が、即ち芸に出て、丸味のある、ふっくらとした芸が生まれたのである。
 文楽さん、長い長い貴方との交際もこれで終わりになりました。いろいろと今までのことをお礼を申し上げます・・・では左様なら。
   昭和四十六年十二月十八日


もうひとつ、いただいた画像。


昭和46年の正月二之席、新宿末広亭のポスターである。夜の部主任は文楽。

柳家小満んの著書によると、昭和36年以降、文楽がトリをとるのは、人形町末廣、上野鈴本の初席、新宿末広亭の二之席、それから新宿末広亭のお盆興行(7月中席)だったという。その年の7月中席、文楽は生涯最後の寄席でのトリを務められたのだろうか。

8 件のコメント:

quinquin さんのコメント...

昭和46年の出番を見ますと、今も健在なのは昼の部で春日三球、夜の部は小益現文楽、小勇現小満ん、文平現左楽、勝二現小勝の皆さんでしょうか。皆80歳を超えていますね。さえずり姉妹のメンバーはもしかしたら健在かもしれません。小三治、さん生、ぬう生、圓窓、金馬と、立て続けに逝ってしまわれました。

音曲の米蔵という方(名古屋の雷門福助さんの弟子だった人)がこの頃まだいたのですね。私は生まれていましたが、もはや遠い昔に思われます。

densuke さんのコメント...

昭和46年1月当時、私は小4で、さすがに落語ファンではありませんでした。
後に落語を聴くようになりましたが、リアルタイムでは「留さん」の文治は聴けませんでした。存命ではありましたが、引退状態だったと思います。さえずり姉妹は知りませんでしたねえ。ネットで見たらメンバーのうちの一人は御存命らしいです。何しろ50年前ですからねえ、随分昔のことになりました。
私が学生の頃は、柳家紫朝とか東富士夫とか波多野栄一とか、よく寄席に出ていました。十年一日という感じの高座でしたが、今思うと懐かしい。映像が残っていれば見てみたいです。

quinquin さんのコメント...

波多野栄一さんは名前だけ知っていますね。紫朝師は何回か見ています。病気が残念でした。曲技の東富士夫さんは初めて行った鈴本(小三治師がトリでした)で一度見たきり。大したことはない、と感じたのですが、よく考えると我々にはとてもできないことをあのお歳でやっておられたのだなあ、と思います。

ところで中公文庫の「八代目正蔵戦中日記」は読まれましたか。敗戦前の馬楽時代の日記ですが、いろいろと興味深い内容です。編集者が僕が思うに力不足なのですが(解説が弱い)、ぜひ読んだ感想をうかがえれば、などと思います。


densuke さんのコメント...

『八代目林家正蔵戦中日記』は青蛙房版を買って読みました。奥付に平成26年発行とあるので、その頃買ったのだと思います。
便所の汲み取りの記事が多いのとか、正岡容と喧嘩したり黒門町に御馳走になったりとか、寄席のワリを律儀に書いていたりとかなどが印象に残っています。壮年期のものだけに、正蔵の一徹さがより強く感じられた覚えがあります。もう一度読んでみようと思います。
編者の瀧口雅仁氏は、2000年頃「うっかり八兵衛」のハンドルネームで『生活の柄』というホームページをやっていました。私も当時、氏の「落語日誌」や古今亭志ん朝に関する特集記事を愛読していましたよ。その頃は会社員だったと思いますが、後に芸能史研究家として独立されました。雑誌『東京人』によると「墨亭」という寄席も経営されているそうですね。

quinquin さんのコメント...

そのHPは知っています。確か志ん朝師の葬儀の後で何やら話題になっていたような。

それはそれとして、日記に描かれている人間関係(文楽、圓生など)を洞察すればいろいろと見えてくるのに解説がない、とか、正蔵師だけに歌舞伎も見に行っているわけですが(六代目菊五郎などが出てきます)、編者に知識がなく全くスルーな点が残念です。小山観翁さんや保田武宏さんが解説していればもっと面白く読めるだろうなあ、と空想します。

densuke さんのコメント...

よくご存じですねえ。私はあのHPの草創期からの読者で、掲示板にも「伝助」という名前で、書き込みをしていました。
志ん朝葬儀の頃はちょっと離れていましたが、後であの騒ぎを某大型掲示板で知り、あの炎上を遠くの町の火事のように眺めておりました。HPが閉鎖されたのはその頃だったと思います。

quinquinさんがおっしゃる「編集者が力不足」というのが、具体的にはどういうことなんだろうと思っていましたが、コメントを読んで腑に落ちました。
で、赤鉛筆で線を引きながら、この本を読み始めました。あまり本を汚すのは好きではないのですが、それが今回は必要かな、と思ったからです。
確かに、脚注などで登場人物の経歴などは詳しく紹介していますが、出来事に関する注釈が少ない。まだほんのとば口ですが、例えば、古今亭今輔を「不愉快極まる存在だ」という記述がありますが、このままだと正蔵は今輔が嫌いだったんだ、で終わってしまいます。だけど、そこに、正蔵と今輔が20代の頃、新会派を立ち上げて頓挫した事実を紹介しておけば、内容に奥行きが出てくるんじゃないかと思います。
quinquinさんのおかげで、いい再読ができそうです。ありがとうございます。

何はともあれ、こんな素晴らしいテクストを世に出してくれた瀧口氏には感謝したいと思います。また、それが文庫化されたことにより、広く知られるようになったのもいいことだと思います。

それにしても、稲荷町は本当に魅力的な人物ですねえ。

quinquin さんのコメント...

実は志ん朝師の護国寺での葬儀に私も行ったのですが(後程丁寧なご挨拶が手拭いとともに届きました。ご厚意は癌研に寄付したという文面でした)、あの騒動は普通に「そりゃないだろう」と思いました。

正蔵師と今輔師の確執は、川戸さんの「落語芸談」で圓楽師が語っていますね。70過ぎて林家が折れて和解したそうですが、今輔師の強情っぷりが可笑しかったです。

きりがないのでこれくらいにしますが、是非正蔵日記の読み解きをブログに書いていただければと思います(人任せで実にいい加減ですが)。

densuke さんのコメント...

quinquinさん、志ん朝師の葬儀にいらっしゃったんですね。いつかその時の様子を教えていただければ、と思います。

《あの騒動は普通に「そりゃないだろう」と思いました。》それはそうですよね。あれは、私もやり過ぎだと思いました。私はその頃にはそのHPを離れていたので、「やっちゃったなー」という感じで見ていました。ネットの中である程度の評価を得ると頑張り過ぎてしまうということが、やはりあるんでしょうね。

大きな宿題をもらってしまいました。「読み解き」というより「感想」になってしまうと思いますが、何とかやってみようと思います。あまり期待しないでいてください。