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2021年6月27日日曜日

雨はそれほど降らなかった

朝、パン、トマト煮、チキンナゲット。

妻とカメラのキタムラ。昔撮った8ミリビデオをDVDに焼いてもらうことにする。

昼はインスタントラーメン、函館塩。チャーシュー、メンマ、水菜入り。妻が作ったのは、普段私や子どもたちが作るのとビジュアルがちがうね。

長男と土浦の古本屋に行く。桂文楽『あばらかべっそん』旺文社文庫版、『昭和二十年東京地図』(文・西村一夫/写真・平島彰彦)ちくま文庫、それから先週保留にしておいた茨城県市町村資料の昭和56年度版を買う。





 昨日の天気予報では一日中雨だったのだが、結局降らなかったな。

妻と夕方、妻の実家からいただいたヱビスビールを飲む。

夕食は麩チャンプルー、ジャーマンポテト、きんぴらごぼうでビール、酒。食後に妻と赤ワイン。


昨日買った『「ことば」に殺される前に』(高橋源一郎・河出新書)を読了。

その中でアメリカの南北戦争において南軍の司令官ロバート・E・リー将軍についてのエドマンド・ウィルソンの考察が紹介されていた。以下に記す。

「誤てる祖国(故郷)は、全的敗北によってしか蘇らない。底の底まで敗れ尽くすまでには、惨苦を舐め、現実に気づくためには徹底的に戦うしかなかった。それができるのは狂信的愛国者で目が眩んだ軍人ではなく、その戦争の無意味さを誰よりの知っている自分だ、とリーは考えたのだ」

我が国も76年前に「全的敗北」を味わったはずだ。しかし今になって帝国の亡霊のようなものが出てきたということは、我が国は「底の底まで敗れ尽くす」ことができなかったのだろう。もちろんそれは戦闘においてではなく戦後処理においてなのだが。

2021年6月26日土曜日

梅雨の晴れ間

朝、さばトースト、コーンスープ。

朝イチで医者に行き血圧の薬を出してもらう。「基礎疾患があるからワクチン申請できますよ」と言われた。

次男と本屋。高橋源一郎の新書を買う。

昼は子どもたちが作ったナポリタン。

梅雨の晴れ間。ここで懸案の網戸の張替をやる。ミー太郎が開けた穴から虫が入るのだ。

『青菜』を稽古してみる。何とかできそう。

夕食はトマト煮、シューマイでビール、酒。

寝しなに焼酎。


桔梗が咲く。



 あじさいの次は桔梗、その次は百合か。


通勤で毎朝海を見る。海はいいなあ。雨もいいが、朝日にきらめく海はたまらない。こういう時は、ランボーの『永遠』という詩を口ずさむ。

「もう一度見つけたぞ 何を? 永遠を それは太陽に溶け合う海だ」

いいよね。

俵万智のこの短歌も好き。

「今日までに私がついた嘘なんてどうでもいいよというような海」


色々あるけど頑張ろう。

2021年6月25日金曜日

桂文楽と四代目小さんの妹

前回した四代目小さんの妹の話、もう少し続けてみる。

『あばらかべっそん』と宇野信夫の「桂文楽と塙保己一」を比較してみよう。

 

『あばらかべっそん』

〇1回目(戦前)

・場所:新宿の花園神社のすぐわき。

・きっかけ:四代目小さんに勧められて。

・お告げ:「あなたは病気だというが悪い所はひとつもない。これから多くの人を指導する立場になるだろう」「戦争はこれからひどくなるからこれこれこういうふうにしておけ」

最後に「両国橋の盲人が・・・」と繰り返すが、詳しいことは不明。

 

実は小さんは妹から「今年は落語界にとって大切な人が大変なことになる」と言われていたたので、当時、神経衰弱で苦しんでいた文楽のことだと思い、心配になって見てもらおうとした。

しかし、五代目圓生がその直後に死んで、小さんは「ああこれだったのか」と思う。

 

〇2回目(戦後)

・場所:高畑不動尊近く。

・きっかけ:四代目の未亡人がひょっこり文楽宅に訪ねて来たので、戦争で行方不明になった息子のことを見てもらいたいと申し出た。

・お告げ:「息子は金魚になっている」 

その後「両国橋の盲人が・・・」と言い出す。「これは塙保己一先生の霊である」

 

新宿末広亭の高座を務め神田立花へ車で向かおうとすると、同乗していた金原亭馬の助(当時はむかし家今松)が「その墓なら、生家の近くなので知っている」というので、後日、五代目小さん、馬の助などを連れて墓参りに行く。住職が系図を見せてくれたが、今の当主は小さんが軍隊にいた時の上官だった。

 

宇野信夫の「桂文楽と塙保己一」

〇1回目(戦前)

・場所:雑司ヶ谷

・きっかけ:戦地に赴いた息子のことを見てもらおうとして。

・お告げ:「もくずとでました」

 

お告げの半年後、息子が乗った船が撃沈され、全員が戦死を遂げたという知らせが届く。

 

〇2回目(戦後)

・場所:雑司ヶ谷

・きっかけ:文楽が胸を患い心細くなったから。

・お告げ:「塙保己一が出てきて桂文楽は大丈夫だと言っている」

 

新宿末広亭から上野に向かう車に同乗した金原亭馬の助が、子どもの頃、保己一の墓のそばにいて場所を知っているという。そこで上野の高座を務めた後、五代目小さんと馬の助を連れて墓参りをする。住職から過去帳を見せてもらうと、子孫は小さんが軍隊にいた頃の上官だったことが判明する。

 

『あばらかべっそん』は正岡容による聞き書き。1957年(昭和32年)の刊行。当時文楽は62歳だった。

「桂文楽と塙保己一」は『今はむかしの噺家のはなし』に収められている。1986年(昭和61年)刊だから文楽の死から約15年後である。この話は文楽が亡くなる10年ほど前に「ぜひ聞いてもらいたい話がある」と言って、宇野の家まで出向いてしたものだという。宇野もまた文楽から直に聞いたのだろう。それがどうしてこうも違うのか。

人の記憶は面白い。

2021年6月22日火曜日

桂文楽の息子

1969年(昭和44年)終戦記念日の朝日新聞に、戦時未帰還者の記事が載っている。この時点で、消息不明の未帰還者が2万2千人おり、そのうちの2千人の家族が「戦時死亡宣告」を拒んでいるという。

その中に、八代目桂文楽がいた。 記事の一部を引用する。


 あと継ぎの期待をかけた長男並河敏男さんが敗戦直前、大陸に渡ったまま、まだ帰らない。「ウチの坊主といっしょに遊んだお隣の坊ちゃんが立派な店主になられて、みかけるたびに思いますよ。あれも無事でいれば三十九歳。明るい子でした。踊りも三味線もスジがよくって、ひとかどの芸人にゃなれましたよ」と文楽師匠(七六)は東京・上野の自宅で、アルバムを手に語る。


文楽は長年連れ添った寿江夫人との間に子を生すことができなかった。親戚から養子をもらい後継ぎとしたのが、この敏男である。


 敏男さんは二十年七月初め、内地を離れた。十五歳だった。電波探知機関係の軍属を志願、採用されたのだ。門司港から船出する前、敏男さんから便りが届いた。なにがしかのお金が添えてあった。「うれしいのなんのって、初めて息子が送ってきた“おあし”でしょ。家中大騒ぎで、神だなにあげて・・・」。

 それきり消息は途絶えた。二十一年帰還した同僚の話では、敏男さんは、栄養失調のため、奉天駅から列車からおり、近くの病院に収容されたという。厚生省の調査では、この病院の退院者名簿に敏男さんの名がない。調査資料の最後のページに「死亡確実」の朱印がある。

 が、文楽さんは「最期をみとった人でも現れない限り」と、戦時死亡宣告の手続きを拒む。「坊主を親が殺せますか」。生きていると信じることが親の生きがいなのだという。


戦後24年経ったこの日も、文楽は敏男が技術者だったことで現地に残され「かみさんももらって、子どもでもつくって、親のあたしに顔向けができないってんで、手紙もよこさない」と半ば自分に強いるように信じていた。いや信じようとしていた。


文楽は戦後になって行者をしている四代目小さんの妹に見てもらった。すると彼女は神がかりになってこう言ったという。『あばらかべっそん』からその場面を引用する。


「息子さんのことは申し上げたくない。泡沫(うたかた)のようなもので、まだはっきりとはしないが—」

といっているうち、今度は倅の霊が来まして、

「いま私は金魚になっています。しかし幸せでいるから心配しないでください」

と奇妙なことを申しました。


宇野信夫は「塙保己一と桂文楽」という文章の中で、同じ場面を戦争中のこととしてこんな風に書いている。

 

 四代目小さんの妹が雑司ヶ谷で、戦前から拝み屋をして相当にさかっている。

 戦争中、文楽は見てもらったことがある。というのは、文楽の養子が、志願して出征した。安否を気づかっていると、誰かが、四代目小さんの妹の話をしてくれたので、雑司ヶ谷へ行ってみた。小さんの妹は、ややしばらく拝んだあと、

「もくず(※傍点あり)と出ました」という。

 もくず—もくずというのは、なんのことだろうと思っていると、やがて養子の船が沈没して戦死したという知らせがきた。成程、海の藻屑となり果てたのである。


『あばらかべっそん』の文楽の話とは、かなりの相違がある。時期も違うし、場所も違う(『あばらかべっそん』では戦前は新宿、戦後は高幡不動尊そばとしてある)。また、この話だと敏男の戦死公報が届いたことになって、先の新聞記事とは事実の根底が違っている。船が沈んだことも『あばらかべっそん』の中で「私の船は機雷にかかって沈みましたが、幸いにして私は助かりました」という手紙が来たと書いている。同じネタでこれほど違うのはなぜなんだろう。


文楽は最晩年になって敏男の名を自分の家の墓石に刻み供養をした。自らの死を覚悟してのものだったと思う。

あの新聞記事から2年後のことであった。

2021年6月19日土曜日

雨の土浦散歩

朝、御飯、味噌汁、ウィンナーソーセージ、スクランブルエッグ、納豆。

妻は仕事、次男は土曜授業。

長男と図書館に行き、そのまま土浦へ行く。

久し振りに古本屋に行く。まさに宝の山。大西信行『芸人もしくはエンターテイナー語録』『ガロ 荒木経惟特集号・1994年7月号』を買う。

雨の中、しばし土浦散歩。



昼は中城通り、吾妻庵総本店。もりそばの大盛を食べる。

長男はざるそば。


おっ、格子を新しくしましたな。

腹ごなしに駐車場までぶらぶら歩く。






モール505もちょっとだけ。



「半分、青い」って土浦でロケやっていたんだ。

妻と夕方ビール。

夕食はピザ、新じゃがの蒸かしたので白ワイン。食後は妻と赤ワイン。

寝しなに焼酎。

2021年6月15日火曜日

2010年7月の日暮里散歩

しばらく東京散歩もしていないなあ。

昔の写真を引っ張り出して懐かしむことにしよう。

2010年7月、日暮里駅で降りた。東口から歩き出す。

太田道灌公がお出迎え。
しいたけがあおり食らったような帽子を被っております。

 
駅前にあったイカすお店。

日暮里から根岸へ向かう。

日暮里エリアには韓国料理屋が多かった。


石野真子だよね。かわいい。
と思ったら、浅田美代子でした。

「東京ねじ会館」ですよ。

喫茶店のようです。

根岸柳通り交差点にある肉屋さん。

根岸の蕎麦屋さん。正蔵・三平兄弟の扇子。

竜泉にある朝日弁財天。

弁天様のお社は撮っていないけど、この建物には写欲がそそられたんだな。

これもその付近。このフォントに惚れた。

竜泉まで歩き、そろそろ上野に向かう。

入谷の辺り。
多分、この辺でカツカレー食ってビール飲んだんだ。

上野に出て、鈴本演芸場の昼席を見た。


これから東京もオリンピックや何やらで騒がしくなりそうだ。いつになったら落ち着いて街歩きが楽しめるのだろう。

 ※ ちなみにこの時のブログ記事はこちら。「日暮里を歩く」

2021年6月12日土曜日

鹿島神と蝦夷征討

前回の記事で、宮ケ崎の鹿島神社が大同2年(807年)創建と書いていて、はたと気づく。

大洗磯前神社の創建が斉衡3年(856年)。鹿島神社の方が歴史が古い。

また、小美玉市下馬場にある鹿島神社も、やはり大同2年創建だ。調べてみると、この年は那須茶臼岳や尾瀬、蔵王で噴火の伝承が残り、前年には磐梯山も噴火を起こしたという。そうした自然災害に加え、時の平城天皇が健康祈願を全国に命じてもいる。寺社が多く建てられたとしても不思議はない。

東北各地の神社には大同2年創建がわんさとあり、しかも鹿島、香取の軍神を祀るものが多いという。当時は坂上田村麻呂による蝦夷討伐が行われた直後で、それとの関連を指摘する記事も目についた。

常陸国設置が大化2年(646年)、大化の改新の翌年だ。大和朝廷の中央集権化と同時に常陸国は生まれた。常陸守だった藤原宇合が後に征夷大将軍になったことからみても、ここ常陸が征夷、つまり蝦夷征伐の軍事拠点になったのは明らかだ。出雲の国譲りで大きく貢献した、鹿島・香取の軍神に対する信仰がそれを後押ししたことも想像に難くない。(『常陸風土記』の記述では天智天皇の御代に鹿島神宮整備が行われたと明記されている)そして、鹿島神が正三位となったのは宝亀8年(777年)。宝亀5年(774年)からは38年に及ぶ東北地方で大和朝廷と蝦夷との戦争が始まっていた。

延暦21年(802年)に蝦夷の族長アルテイとモレが、胆沢(現岩手県奥州市)で500人を率いて降伏、坂上田村麻呂の助命嘆願にもかかわらず二人は処刑され、戦闘は一応の終結を見た。蝦夷征討自体は弊伊村(現岩手県遠野市・宮古市・上閉伊郡・下閉伊郡及び釜石市の大部分)征討をもって弘仁2年(811年)に終了する。(ただ、その後も蝦夷による反乱は何度かあった。弊伊村(閉伊郡)の完全制圧は延久2年(1070年)、源頼俊らによる延久蝦夷合戦を待たなければならない)

大洗磯前神社は蝦夷征討終了から約半世紀経った斉衡3年(856年)に創建された。その大洗磯前神社で繰り返された出雲の国譲り神話を再現する神事は、地方の王を大和朝廷が屈服させるという点において、そのまま蝦夷征討とオーバーラップしてはいないだろうか。軍神鹿島神の力を讃えるのは、出雲の国譲りにおいてだけでなく、陸奥まで制圧したことをも含んでいるように、私には思えるのである。


大洗磯前神社、神磯の鳥居。
ここに出雲神である大己貴命と少彦名命が降臨したといわれている。


鹿島神宮東の一の鳥居。
鹿島神は目の前の海から上陸したとされる。


2021年6月10日木曜日

神明雷神社と鹿島神社

 先日記事にした、大洗磯前神社の八朔祭で活躍する、茨城町網掛の神明雷神社と宮ケ崎の鹿島神社を紹介しよう。

まずは網掛の神明雷神社。

集落にある小高い丘の上に神社はある。


境内はきれいに整備されているが、案内板などは一切ない。

涸沼を見下ろす。

この階段を上る。ロケーションとしては大洗磯前神社に似ているか。

お次は宮ケ崎の鹿島神社。網掛からはわずか数百メートルの所にある。

一の鳥居。

二の鳥居。

拝殿。

本殿。

昭和56年、拝殿屋根替の時に建てられた石碑。

こちらは明治33年の神社改修の時に作られた石碑。

この長い参道を見よ。

鹿島神社の方には境内に石碑があり、故事来歴を丁寧に解説してくれている。

創建は大同2年。鹿島神宮より分霊を迎え近隣七ケ邑の村社とした。大洗磯前神社の末社といわれているが、これを読むとまさしく鹿島神宮の流れをくむ神社であることが分かる。

八朔祭については以下のように書かれている。

「往古より斎行いたしおります大洗神社へ渡御の八朔祭の御儀は年代不詳なるも鹿島神宮より海路渡御せるも道遼遠にして且又風雨にと遭へ困難を窮めしこと屢々にして當神社に代行せられ現今名のみ残す」


八朔祭は「出雲の国譲り」を模した祭事である。では、なぜ出雲から遠く離れたこの地で、それが行なわれているのだろう。

ここで私はこの常陸国が、かつて朝廷による陸奥征服の最前線基地であったことに思いつく。鹿島の神は出雲国譲り神話の主役である武神だ。鹿島神宮の拝殿本殿は、他の神社と違って北を向いて建てられており、それも陸奥へのにらみを利かせる意味合いがあるという。

もしかしたら、国譲りの神事は、陸奥征伐のためのものではなかったか。もっと踏み込んで言えば、この神事のために大国主神を祀る大洗磯前神社は建てられたのではないか。

あくまで私の妄想に過ぎない。でも、こういう妄想をふくらませるのは楽しい。

2021年6月6日日曜日

あじさいが咲く

昨日の日記。

朝、パン、牛乳、チキンナゲット。

散歩がてら床屋に行く。帰って、ビリー・ホリデイのレコードを聴く。


妻は仕事。次男は文化祭で学校に行く。長男と図書館に行く。

昼は長男と和風きのこパスタを作って食べる。

夕食は春巻、マカロニサラダ、たこ焼きでビール、酒。

食後に妻は赤ワイン、私はアイリッシュウィスキーを飲む。

あじさいが咲き始めた。

栗の花も咲いた。




今日の日記。

朝、御飯、味噌汁、ハムステーキ、納豆。

次男は文化祭で学校に行く。

妻と長男でイーアスつくばに行く。

朝日新聞の書評欄に載った、萩尾望都の『一度きりの大泉の話』が、くまざわ書店にあるのではないかと当たりをつけて行ったのだが、これが当たり。一冊だけ残っていたのを、すかさずゲットする。

昼はフードコートのリンガーハット。長崎ちゃんぽんに半チャーハンをつける。




1時頃帰る。半日かけて『一度だけの大泉の話』を読了。夢中で一気に読んでしまった。

感想はあえて書かない。お勧めもしない。萩尾望都、魂の叫び。いや彼女は叫んではいない。封印した傷に何とか向かい合いながら訥々と語る。私も同じような体験をしているから、読んでいてつらい。つらくても萩尾望都は語ったのだ。語らなければならなかったのだ。それが胸を打つ。



夕食は鶏の唐揚げ、ハムサラダ、にんにくの丸揚げ、ポテトフライでビール、酒。

食後に白ワイン。