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2021年6月12日土曜日

鹿島神と蝦夷征討

前回の記事で、宮ケ崎の鹿島神社が大同2年(807年)創建と書いていて、はたと気づく。

大洗磯前神社の創建が斉衡3年(856年)。鹿島神社の方が歴史が古い。

また、小美玉市下馬場にある鹿島神社も、やはり大同2年創建だ。調べてみると、この年は那須茶臼岳や尾瀬、蔵王で噴火の伝承が残り、前年には磐梯山も噴火を起こしたという。そうした自然災害に加え、時の平城天皇が健康祈願を全国に命じてもいる。寺社が多く建てられたとしても不思議はない。

東北各地の神社には大同2年創建がわんさとあり、しかも鹿島、香取の軍神を祀るものが多いという。当時は坂上田村麻呂による蝦夷討伐が行われた直後で、それとの関連を指摘する記事も目についた。

常陸国設置が大化2年(646年)、大化の改新の翌年だ。大和朝廷の中央集権化と同時に常陸国は生まれた。常陸守だった藤原宇合が後に征夷大将軍になったことからみても、ここ常陸が征夷、つまり蝦夷征伐の軍事拠点になったのは明らかだ。出雲の国譲りで大きく貢献した、鹿島・香取の軍神に対する信仰がそれを後押ししたことも想像に難くない。(『常陸風土記』の記述では天智天皇の御代に鹿島神宮整備が行われたと明記されている)そして、鹿島神が正三位となったのは宝亀8年(777年)。宝亀5年(774年)からは38年に及ぶ東北地方で大和朝廷と蝦夷との戦争が始まっていた。

延暦21年(802年)に蝦夷の族長アルテイとモレが、胆沢(現岩手県奥州市)で500人を率いて降伏、坂上田村麻呂の助命嘆願にもかかわらず二人は処刑され、戦闘は一応の終結を見た。蝦夷征討自体は弊伊村(現岩手県遠野市・宮古市・上閉伊郡・下閉伊郡及び釜石市の大部分)征討をもって弘仁2年(811年)に終了する。(ただ、その後も蝦夷による反乱は何度かあった。弊伊村(閉伊郡)の完全制圧は延久2年(1070年)、源頼俊らによる延久蝦夷合戦を待たなければならない)

大洗磯前神社は蝦夷征討終了から約半世紀経った斉衡3年(856年)に創建された。その大洗磯前神社で繰り返された出雲の国譲り神話を再現する神事は、地方の王を大和朝廷が屈服させるという点において、そのまま蝦夷征討とオーバーラップしてはいないだろうか。軍神鹿島神の力を讃えるのは、出雲の国譲りにおいてだけでなく、陸奥まで制圧したことをも含んでいるように、私には思えるのである。


大洗磯前神社、神磯の鳥居。
ここに出雲神である大己貴命と少彦名命が降臨したといわれている。


鹿島神宮東の一の鳥居。
鹿島神は目の前の海から上陸したとされる。


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