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2022年10月30日日曜日

秋晴れの休日

昨日の日記。

朝、トースト、コーンスープ、チキンナゲット、スクランブルエッグ。

マイルス・デイヴィス『カインド・オブ・ブルー』を聴きながらコーヒーを淹れて飲む。

妻は仕事。いい天気、布団を干す。風呂のカビ取り。

次男を連れて買い物。ユニクロからヨークベニマル。お昼を買って帰る。

昼はのり弁とカップラーメン。

ゴンチチを聴きながら絵を描く。ガソリンを入れに行く。

おやつに今川焼。緑茶を飲む。

妻と夕方ビール。

夕食はささ身フライ、栃尾油揚げ、ぶり大根で燗酒。食後に妻とワイン。

寝しなにカティーサーク。



今日の日記。

朝、マフィン、紅茶。

セロニアス・モンクのピアノソロを聴きながら、コーヒーを淹れて飲む。

牛久へ行く。ひたち野うしくの「WA」さんで、義母の傘寿のお祝いの食事会。ふろふき大根、ホワイトソースのロールキャベツ、刺身、焼魚、天ぷらに寿司、蛤のお吸い物。私は、申し訳ないが、生ビール、お酒をいただく。旨し。お腹いっぱい。

2時ごろ帰る。昼酒は利くなあ。サラ・ヴォーンを聴きながら、うつらうつらする。

この間買った、文春ムック『阿川佐和子のこの噺家に会いたい』読了。さすが元祖「聞く力」の人。皆、気持ちよく喋っている。今は故人となった、小さん、談志、小三治、歌丸、円楽(六代目)、小沢昭一など、読みながらしみじみしてしまう。色々気づかされることもあった。また、改めて記事にしようと思う。

夕食は鍋で燗酒。お腹が空かない。食後にカティーサーク。


土、日ともに秋晴れ。いいお休みでした。




日本シリーズで、オリックス・バファローズの優勝が決まった。この球団はオリックス・ブルーウェーブと近鉄バファローズが合併して誕生した。オリックスとしては26年ぶりの優勝だが、バファローズとしては初の日本一だ。かつて近鉄バファローズを応援していた私にとっては、近鉄のうちに日本一にさせてあげたかったなあ。それにしても痺れるシリーズだった。思わず全試合(後半だけだったけど)見入ってしまったよ。





2022年10月28日金曜日

1970年祭り

この頃、通勤の車の中で「1970年のビートルズ祭り」をやっている。何のことはない、1970年にリリースされたビートルズのメンバーによるソロアルバムを繰り返し聴いているのである。

 

19691月、「ゲット・バック・セッション」を終えたビートルズは、そこでの音源をすぐにアルバム化せず、ジョージ・マーティンのプロデュースで新たなアルバムを制作する。それは同年8月にレコーディングされ、『アビイ・ロード』として完成した。

『アビイ・ロード』は「最後にもう1枚、ビートルズとして満足のいくアルバムを作ろう」という気迫のこもった名作となった。特に未完成曲をメドレーにしたB面は絶賛された。売り上げは当時の最高記録を叩き出したが、一方でグループは決定的な局面を迎えていた。

9月、ジョン・レノンが、メンバーに脱退を宣言したのだ。それまで、1968年の『ホワイトアルバム』レコーディング中にリンゴが、「ゲット・バック・セッション」中にジョージが、一時グループを抜けるということはあったが、それらは短期間で修復された。しかし、グループの創設者であり、リーダーであったジョンの脱退宣言である。グループとしては致命的だった。マネージャー、アレン・クラインの判断で、しばらくの間、この事実は秘されることになり、ジョンも公表は自重した。

時には憎まれ役にもなってグループを支えてきたポール・マッカートニーは、これで打ちのめされた。彼はスコットランドの農場に引きこもり酒に溺れたという。それでも、ポールは立ち上がる。

12月にロンドンに帰り、自宅スタジオでレコーディングを始める。ポールは全ての楽器を自分一人で演奏し、多重録音でアルバムに仕上げた。こうして彼のソロアルバム『マッカートニー』は完成する。ここからがいかにも彼らしい。

19704月、ポール・マッカートニーはメンバーの反対を押し切り、完成したソロアルバムをリリースする。その発売にあたって、新聞のインタビューに答え、ビートルズからの脱退を公にした。最後までビートルズを支えたポールが、ビートルズを終わらせたのである。

ビートルズのラストアルバム『レット・イット・ビー』が発表されたのは、翌5月。1年以上棚ざらしになっていた音源を、ジョージとジョンに依頼されたフィル・スペクターが、辛抱強くアルバムに仕立て上げた。その独特のウォールサウンドは、これまでのジョージ・マーティン・プロデュースのサウンドとはあまりにも違っていた。私自身、これを今までのビートルズのアルバムと同列に置くのは、どうしてもためらってしまう。

映画『レット・イット・ビー』も同時期に公開された。ビートルズが崩壊していく様を描く陰鬱な映画だ。

ジョージ・ハリスンのソロアルバム『オール・シング・マスト・パス』がリリースされたのは、その年の11月である。ビートルズの中で、なかなか自作の曲を発表できなかった、その鬱憤を晴らすがごとく、3枚組の大作となった。親友、エリック・クラプトンとそのバンド、デレク・アンド・ドミノスがバックを務め、リンゴ・スターも参加するという豪華な布陣、「マイ・スウィート・ロード」「美しき人生」「オール・シング・マスト・パス」、ボブ・ディランが提供した「イフ・ノット・フォー・ユー」などの名曲佳曲が目白押しで、大ヒットとなった。

12月、いよいよ真打ジョン・レノンが、『ジョンの魂』を発表する。いささか性急だった『マッカートニー』を受けて、「おれがビートルズを終わらせる」という気持ちがジョンにあったのだろう。(事実、「ゴッド」の中で、ジョンは「ビートルズを信じない」「夢は終わった」と歌っている。)シンプルな構成ながら作り込まれたサウンド、個人的な内容ながらきちんと作品になっている完成度の高い楽曲、名盤と呼ぶにふさわしい見事なアルバムである。

 

続けて聴くと色々な発見がある。面白い。1970年といえば、私は当時小学4年生だ。こんなに濃い1年だったとは、その頃には分からなかった。個々の作品についてはいずれそのうち書いてみたい。とりあえず、今日はここまでとする。 


通勤途中のクルマドの風景。




2022年10月23日日曜日

クルマド、秋深し

昨日の日記。

朝、パン、牛乳、チキンナゲット、スクランブルエッグ、サラダ。

コーヒーを淹れて、朝ドラを見ながら飲む。

みほ落語会。昼はヨークベニマルの稲荷寿司、海苔巻き。野菜ジュースを飲む。

扇乃丞さんが休演のため、二回上がり。『小言念仏』、トリで『締め込み』。

5時ごろ帰る。

夕食は鍋。剣菱を燗して飲む。食後、寝しなにジョニーウォーカー。

美浦の行き帰り、信号待ちで車の窓から写真を撮る。荒木経惟言うところの「クルマド」の風景。

コカ・コーラの工場は外灯もコカ・コーラ・カラーである。


日本郵政の車がずらり。


愛用している土浦ラーメン。

阿見坂下。

今日の日記。

朝、御飯、昨夜の鍋の残り、ベーコン卵炒め、鮭フレーク、海苔の佃煮。

朝一で床屋。散歩がてら行く。



いい天気。帰ったら豆ちゃんがお出迎え。


子どもたちと本屋に行く。文春ムック『阿川佐和子のこの噺家に会いたい』と谷川俊太郎の詩集『さよならは仮のことば』(新潮文庫)を買う。

昼は焼うどん。旨し。

午後、ユニクロへ行き、妻のパーカーを買う。猫に引っ掻かれてパーカーがぼろぼろになってしまったので、新品を買ってあげることにした。我が家の猫担当大臣が責任を取ります。ついでにヨークベニマルでハートランドビールを買う。

紅茶を飲みながら、小さいドーナツと長男が買って来た芋けんぴを食べる。おいしい。

妻と夕方ビール。ヨークベニマルで買って来たハートランドビールを飲む。

夕食は、父が買って来てくれた肉でしゃぶしゃぶにする。剣菱の燗。しっかりシメのうどんも食べる。旨し。

食後にジョニーウォーカー。

今日は一日いい天気。晴れると陽射しが暖かい。気温も23℃まで上がった。でも、風はひんやり。秋も深まって来ましたねえ。

柿が色づきました。

2022年10月16日日曜日

長い休みだった

朝、御飯、昨夜の鍋の残り、ハムステーキ、納豆。

コーヒーを飲みながら『日本霊異記』を読む。平安時代初期の成立。仏教説話。善行を積めば仏の功徳があり、悪行に耽れば報いを受けるという話が延々と続く。法外な献金は求められない。宗教が素朴だった頃の話である。

昼は炒飯を作って食べる。紅しょうがを添えるとおいしい。

午後は生涯学習センターで映画を観る。昨日で自宅待機期間は終わっている。

布川事件で冤罪を受けた桜井昌司氏のドキュメント。彼の強く前向きな生き方に胸を打たれる。世に冤罪事件が多いことに驚く。しかも死刑判決を受けている人も多い。人は間違う。冤罪を起こす可能性がある以上、死刑というものが存続していていいのか、と思う。

映画を見終えて晩飯のおかずを買いに行く。

夕食は、ホッケ、海老の磯辺揚げ、マカロニサラダ、フランクフルトソーセージで酒。食後にジョニーウォーカー。


禁足期間後半は家事の日々だった。今日はいっぱい失敗したなあ。慣れてきた頃が危ない、というのは万事に当てはまるのだ。猫ともずいぶん遊んだ。うまく社会復帰できるといいなあ。

豆よ、そこがこの部屋の最高点だ。

豆はこの箱にお気に入りのおもちゃをため込んでいる。

午後、ココアを飲みながらサリンジャーを読んでいた。


2022年10月15日土曜日

三遊亭圓窓についての私論

 三遊亭圓窓のことが気になっている。

彼はアマチュア落語の指導に熱心に取り組んでいた。私の落語仲間にも彼の指導を受けた人は多い。圓窓の60代半ばから指導を受けていたという人もいる。

三遊亭圓窓は、特にその晩年、プロよりもアマチュア落語の方に居場所を求めていたような気がする。YouTubeでの発信はアマチュアの稽古用のように思えたし、YouTubeチャンネル「丈熱Bar」におけるロングインタビューも、相手は落語も演じる俳優であった。

なぜだろう。

 

私が最初に落語を覚えたのは中学生の頃だった。人前で初めて演じたのは中学3年の卒業式の前日、謝恩会でのことだった。圓窓のテープで覚えた「寿限無」を喋った。バカ受けだった。66名の同級生及び教職員は、腹を抱えて笑ってくれた。私は「寿限無」笑いをとれる噺だと思ったが、後に落研でこの噺を覚えて高座にかけた時はちっとも笑いが来なかった。

脇道にそれた。だから圓窓は私にとっては特別な人だった。上手いとずっと思っていた。いや、過去形ではなく今も上手いと思っている。でも、志ん朝や談志や小三治のように、熱くなれなかった。

なぜだろう。

 

圓窓は上手い。三遊亭圓生門下で先輩を飛び越して真打になったのは、圓楽、圓窓、圓弥、圓丈の4人である。あの芸に厳しい圓生の眼鏡にかなったのが、彼らだったと言ってよい。そして1978年の落語協会分裂騒動の時、圓生・圓楽が真意を明かし幹部として扱ったのが圓窓と圓弥であった。圓楽、圓窓、圓弥、圓丈と並べると、上手さだけで言えば、私は圓窓がいちばんだと思う。

 

圓窓に対する評価を、手持ちの落語雑誌を開いて調べてみた。

まずは1973年発行、『別冊落語界 現代落語家集大成』から。沢田一矢の「生きている落語と共に」という文章を引用しよう。

 

 稽古に埋没していた二ツ目の吉生が、多くの先輩を飛び超えて真打に昇進したとき、つづいてさん治が同じように小三治を襲ったとき、落語ファンはこの二人に瞠目し、古典のホープ誕生ともてはやし〈好敵手〉のイメージを冠した。その後も二人は、努力に裏打ちされた芸の〈過程〉を着実に歩んでいる。

 

当時の圓窓に対する高い評価が見て取れる。

そして圓窓は「ただ教えてもらった落語を上手く喋るだけの落語家」でもなかった。それは、次の記述から分かると思う。

 

「噺家に大切なことは、出演者であると同時に演出家であるという認識だ。なぜなら、つねにその時代に合った演出でなければ落語は古臭くなって滅びてしまうからだ」

 これが円窓の持論である。

 だからさげの改良という点でも、つまり落語を生きている状態に保たんがための考えから、現代人に解釈されにくいものや、より良くなるであろうと判断したものには意欲的に手直しの姿勢を見せている『唐茄子屋政談』『居残り』をはじめ、いわゆる忘れられかけていた“掘り出し物”と対するときなど、さげ一つで夜を徹するほどの腐心ぶりだという。そんな彼に、

「円窓はさげを改悪している」

 などという雑音もはいってきたことはあるらしいが、なに結果の良し悪しは聴く側の判断にまかせればよいのであって〈名作の悪さげ〉も少なくないこと、大いに前向きであってもらいたい。ただし、一人よがりは禁物。一人でも多くの意見を聴き、雑音にも耳を傾け、点数少なきときは勇気と謙譲心が必要であることはいうをまたない。

 

考えてみれば師匠の鋳型にはまった芸が売れるはずがない。圓生は認めなかったが、さん生(後の川柳川柳)も圓生の型からはみ出したからこそ売れた。似すぎて嫌われた好生(後の春風亭一柳)は悲劇だったな。圓窓は師圓生を敬愛しながらも、しっかりと自分を持った落語家だったと言える。

 

次は『落語1994年・32号』、平井知之という高校の先生の「円窓—おじさん面の少女」という文章から。

平井氏は、鈴本演芸場での圓窓のトリ席での演目を挙げてくれている。92年の二月中席では『叩き蟹』『匙加減』『竹の水仙』『甲府ぃ』『くしゃみ講釈』『戴き猫』『猫定』『鼓ヶ滝』、93年は『叩き蟹』『匙加減』『竹の水仙』『五月幟』『洒落小町』『蚊いくさ』『野田の宿帳』(新作)が演じられた。お馴染みの演目もあるが、なかなか耳にすることができない珍品も多い。「もう一度聴きたいな」と思っても、容易に巡り合えない、圓窓は移り気な少女のようだ、というので「おじさん面の少女」。

氏はこんなことも書いている。

 

例えば『子ほめ』では「半分(ただ)でございます」という通常のセコい下げは使わない。柳枝の型だそうだが、最後に当意即妙の下句付けをする主人公は、単なるお世辞猿真似間抜け男ではなく、言葉のずれを楽しむ洒脱な好人物に造形されている。

 

工夫の人、圓窓の面目躍如と言ったところか。

でも、私の本心を言えば、「子ほめ」が楽しいのは「お世辞の概念がない男」が本気で間違うところにあって、「言葉のずれを楽しむ洒脱な好人物」では面白くならない。

 

次は『落語1999年・35号』、「円窓に“かなしさ”をみる」(山本明子)より。

 

「伝統芸能保存革新一手引受所」の看板を出しているかのごとき八面六臂の活躍、高座での常にきちんと筋立った話しぶりは、「落語教育担当者」のような印象である。

(中略 「円窓五百席」「おもしろ落語図書館」『猫の定信』の宙乗り演出、野村万之丞との「落語狂言会」、パソコン通信による発信、「落語の日」設定準備など、圓窓の近年の業績が列挙される)

 が、それらはすべて「落語は伝統芸能である」「だから保存しなければならない、それには革新も必要である」という前提によってたった明瞭さがあって、どこかつらい。いつの時代も根っこで変わらない人間の普遍性でもって、落語はのらりくらりと生きていくような気がするからか。円窓は立派すぎる。

 

圓窓の活躍の数々が挙げられ、でも、しかし、筆者は「苦しい」「かなしい」と書く。どうしてだろう、私はそれにためらいながら共感してしまう。

 

最後は落語2003年・36号』、「花井伸夫版東京落語家名鑑」より。

 

噺家としては、こだわり派のマイペース型を“強いられた”苦労派の大家とも言えるだろう。78年春に故三遊亭円生が中心となって起こした落語協会分裂騒動によって、師・円生と行動を共にしたが、僅か数日にして円生一門だけの別派行動(落語三遊協会)へと卑小化。翌年に円生が急逝して、さらに一番弟子・円楽一門だけが現在の円楽一門会という形で動くこととなり、落語協会への復帰という経緯を辿った。

 当時は古今亭志ん朝、立川談志、三遊亭円楽、故春風亭柳朝、柳家小三治、月の家円鏡(現橘家円蔵)らと並んで、時に“「四天王”の一人に数えられたほど。テレビの人気番組「笑点」などへもレギュラー出演し、古典の本格派としても名を馳せていたが、自ら望んだのではない曲折以後は独自の地位、人気の中で“我が道”を広げてきたと言えようか。その意味では“落語一筋”にこだわって独自の境地を開拓してきた噺家である。

 

花井伸夫の筆は、これまでに挙げたものとは違い、どこか突き放したような感がある。あるいは客観的な記述というべきか。「こだわり派のマイペース型を“強いられた”苦労派の大家」「自ら望んだのではない曲折以後は独自の地位、人気の中で“我が道”を広げてきた」などの言葉が苦い。

 

そうだ。花井氏も触れているが、落語協会分裂騒動は圓窓にも深い傷を残した。圓丈が書いた『御乱心』の中で、圓窓は圓楽の下の鬼軍曹のような存在として描かれている。

圓生と圓楽は、一門が協会を離脱し、新協会を設立するということについて、弟子たちには黙って話を進めていた。知らされていたのは圓窓と圓弥。どちらも圓生の眼鏡にかなった芸の持ち主で、一門の幹部扱いだった。一門離脱、新協会設立を知らされ動揺する圓丈らに向かって、師と行動を共にするよう恫喝するのが圓楽と圓窓だった。(温厚な圓弥はそういうことはしなかった、いや、できなかったか。)

組織に例えれば、一般職から管理職へ登用されるとあって、圓窓も頑張ってしまったのだろう。この年になれば、そういう気持ちは分かる。しかし、それは他の弟子たちとの亀裂を生んだ。しかも圓生が死に、その後は圓楽一門のみが独自行動に走り、他の弟子たちは協会へ復帰することになる。圓窓も圓楽一門に入ることはせず、協会に復帰する。復帰にあたって出戻り組は香盤を下げられた。以前、小三治の上にいた圓窓は、馬風の下まで下げられた。圓丈らは圓弥を中心に一門としてまとまろうとしたが、それも協会によって禁じられた。この辺りの経緯を指して、花井は「自ら望んだのではない曲折」と呼ぶのだろう。

 

圓丈は『落語家の通信簿』の中で、圓窓について次のように書いている。

 

 圓窓師匠と言うと、若い落語ファンからは「知らない、誰その人?」って聞かれそうだが、円丈の兄弟子で、1960年代には小三治(当時、さん治)・圓窓(当時、吉生)と並び称され、師圓生に認められた抜擢真打だ。スゴイ師匠なのだ。

 (中略)

 圓窓師の今の評価は、小三治師と比べるとかなり低い。でも、普通の古典を演じると、けっこうスゴイ!

 

圓丈もまた、圓窓に対する評価が実力に見合わないことを認めている。

圓丈は、この文の最後でこう言う。


 それより、圓窓兄も七十代、最後に今一度、古典落語の王道ネタでパッとひと花咲かせて、圓窓ここにありと見せてほしい。そうなったら、いつでも「圓生」を継いでください。

 

私ももろ手を挙げて賛同する。しかし、もう圓丈も圓窓もこの世にはいない。

今になって悔いる。なぜ、私は圓窓が生きているうちに、もっと彼の落語を聴かなかったのだろう。なぜ、私はもっと彼を積極的に評価しなかったのだろう。圓窓については、「なぜ」ばかりが積み上がる。もちろん、そこには理由があるのだが、そこを越えての「なぜ」なのである。

 

20年以上前、池袋演芸場で圓窓がトリをとる芝居を見に行った。三升家小勝が代バネで、客を高座に上げて『桑名舟』を演っていた。私の圓窓について心に残っている思い出の中で、圓窓は落語を演っていない。なぜなんだろう。

2022年10月12日水曜日

実はまだ家にいるのです

先日、禁足が解けたと書いたが、(何だか、つげ義春の「李さん一家」のようなもの言いだけど)実はまだ家にいるのです。

今度は妻が陽性になった。だから、今週いっぱい禁足生活が続く。一昨日からは主夫生活に入った。自分の家事のポテンシャルの低さに、つくづくあきれ果てる。

今朝は、昨夜の残りのカレーを食べた。カレーを作るのもずいぶん久し振り。飯盒炊飯で作った以来じゃないかな。独力で作るのは初かもしれない。不味くはなかったが、それでも妻のカレーの方が旨い。

洗濯をしたり療養期間を終えた息子を送ったり、わらわらとしているうちに半日が過ぎる。次はあれしなきゃ、次はこれしなきゃと、次々にやることが現れる。今まで妻がしてくれるそれらにただ乗りしてきたのかと思うと、申し訳ない。

昼は残っていたパンをトーストし、残り物のモツ炒めをおかずにして食べる。

サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて」を読み始める。私には野崎孝の訳が合っているようだ。

夕食は御飯、味噌汁、肉ニラ炒め、無限ピーマン。味噌汁は、葱と豆腐、舞茸を入れる。味噌汁を独力で作ったのも初かもしれない。肉ニラ炒めの味付けは必殺の焼肉のたれである。次男と二人で、もそもそ食べる。

長男は実験でいつ帰れるか分からないと言っていた。猫を腹に載せてサリンジャーを読む。

結局、長男が家に帰ったのは9時半になっていた。

本当にお前は高い所が好きだねえ。


2022年10月9日日曜日

久々の散歩

朝、栗御飯、けんちん汁、ポテト。

朝一で猫の蚤取り薬をもらいに行く。

禁足生活で運動不足だったので、天気はいいし散歩に出かける。霞ケ浦の堤防に出て、1時間ぐらい歩く。6000歩いく。




この船溜まりで、震災の時はトイレの水を汲んだ。

昼は残ったけんちん汁でけんちんそばにする。旨し。

「世界の果てまでイッテQ」の録画を見る。

午後は豆ちゃん、ずーっと膝の上にいてくれた。


庄野潤三『せきれい』を読み進める。

夕食は手羽と大根の煮物、厚揚げ、水餃子、酢の物で酒。

寝しなにカティーサーク。

夜になって雨が降り出す。

2022年10月8日土曜日

十三夜、禁足生活が終わる

朝、グラノーラ、牛乳、ハムステーキ。

久し振りに皆で「世界の果てからイッテQ」の録画を見る。

昼はマルシンハンバーグを使ったハンバーガー。旨し。

病院から電話があり、次男の検査結果を聞く。結果は陰性。これで禁足生活は今日までとなる。

伊藤比呂美に感化されたか、午後は森鴎外を読む。「じいさんばあさん」「阿部一族」「山椒大夫」。鷗外の文体に身を任せる。

伊藤比呂美は『切腹考 鷗外先生とわたし』に中でこう書いている。

「鷗外が外国語を日本語に変換して声に出すや、それは巧んでないしは巧まずして、子どもの頃から習い、作り、すっかり自分の一部になった五言や七言の絶句や律詩の大きなリズムとなってたゆたうのである。」 

伊藤は(ここでは翻訳を例にとっているが)、鷗外の文体を、押韻で読み解く試みをしている。さすが詩人。目から鱗が落ちる。

今夜は十三夜のお月見。夕食は、栗御飯、けんちん汁、秋刀魚の塩焼き、もつ煮、鶏の唐揚げで酒。秋の味覚、旨し。

表に出ると雲の向こうに月が出ていた。



食後に妻と白ワイン。寝しなにカティーサーク。

2022年10月7日金曜日

禁足生活②

禁足生活2日目。

朝、御飯、味噌汁、ベーコンエッグ、納豆。

夜中に次男が「のどが痛い」と言い出したので、妻が朝一で病院へ連れて行く。

あまりの寒さに昨日、炬燵を出した。豆はずーっと炬燵の中で寝ている。

八代目林家正蔵の『怪談牡丹灯籠・幸手堤』を聴く。圓生も聴きたくなり『鰍沢』をかける。途中、妻からメール。「間もなく帰るので昼食を作っておいてほしい」とのこと。

昼はチキンライスを作って食べる。

午後は『切腹考 鷗外先生とわたし』(伊藤比呂美)を読む。読了。

武田花『嬉しい街角』。1997年刊。本棚の奥から取り出す。関東近郊をぶらぶらした写真日記のようなもの。けっこう茨城県に来ているんだな。特に鹿島灘の海が好きみたい。母親は『富士日記』の武田百合子。父は小説家の武田泰淳。写真もいいが、文章が素晴らしい。

夕食は、茄子と茸とひき肉の味噌炒め、水餃子、レタスの一夜漬け、大根の煮物で燗酒。食後に妻と赤ワイン。

寝しなにカティーサーク。


今日も一日雨。12月中旬の寒さ。

どこにも行けないので、お散歩写真で我慢する。

稲敷市古渡の辺り。

北浦大橋のたもとにある船溜まりから。風が強かった。

那珂市のロードサイドのマーケット。

常陸太田市の酒屋さん。

常陸太田市馬場町の街並み。

石岡中町。

石岡御幸通り。


2022年10月6日木曜日

禁足生活

この度、コロナウィルスの濃厚接触者となり、週末まで禁足生活を送ることになった。

朝、御飯、味噌汁、レトルトのハンバーグ、海苔の佃煮。

ポール・マッカートニーの『ラム』を聴きながら、『切腹考 鷗外先生とわたし』(伊藤比呂美)を読む。


『ラム』は1971年発表。ポールのソロ第2弾である。クレジットは妻、リンダとの連名。この辺り、ジョンとヨーコを意識していたのかもしれない。前作『マッカートニー』が全楽器ポールの演奏であるのに対し、このアルバムは見事なバンドサウンド。スコットランドのポールの農場で録音された。リンダのバックボーカルが加わると、アメリカンロックのような大らかな雰囲気になる。素直でいいアルバムだ。

 『切腹考 鷗外先生とわたし』をどうカテゴライズしようか。エッセイ、小説、評論・・・。私はこれを詩として読みたい。詩人、伊藤比呂美が綴る言葉はすべてが詩だ。伊藤比呂美女史が鷗外魚史と言葉で切り結ぶ。もはやこれは言葉による交情であり交接である。熊本、カリフォルニア、ワルシャワ、ベルリン、ロンドン、伊藤は軽々と時空を超える。まだ読了はしない。伊藤の言葉にもう少し溺れていたい。

昼はサッポロ一番味噌ラーメン。旨し。

夕方、アマゾンで頼んでいた『マッカートニー』が届く。ポール・マッカートニーのソロ第1弾。1970年、ビートルズのラストアルバム『レット・イット・ビー』に先駆けて発表された。このアルバムを発売するにあたり、ポール・マッカートニーはビートルズからの脱退を表明した。最後までビートルズを存続させようと奮闘したポールが、結局、ビートルズを終わらせた。『マッカートニー』は全楽器、ポールの演奏による。高山T君は「あれだけ必死にビートルズを守ろうとしていたポールは、腹立たしさもあってか、見事にビートルズのメンバーを拒絶して、たった一人でソロアルバムを作っていた」と言っていたが、まさにその通りである。

発売当時酷評された。曲自体はポールさんが作っているんだから、まずかろうはずはない。ただ、いかにも荒削りで、インストゥルメンタルが多いところがそういう評価を生んだのだろう。演奏は達者だが、やはりわくわくするような一体感はない。

夕食は豚の生姜焼き、さつまいものバター焼き、ナムル、大根の煮物で燗酒。食後に妻と赤ワイン。

寝しなにカティーサーク。


一日中雨。寒い。12月上旬の気候だという。ひっそりと家族で身を寄せ合って過ごす。



2022年10月2日日曜日

10月になった

昨日の日記。

朝、ホットサンド、冷たいコーンスープ。

父が水戸でやる日本酒祭りに行きたいと言うので、駅まで送る。

ついでに石岡の街を散歩する。




昼は次男が作った冷やしスダチうどん。

長男をバイトに送った帰りに本屋に寄って、『落語の凄さ』(橘蓮二)、『切腹考 鷗外先生とわたし』(伊藤比呂美)を買う。

父を迎えに行く。

夕食は担々鍋、肉じゃがで酒。寝しなにカティーサーク。


アントニオ猪木が死んだ。

学生の頃、村松友視の『私、プロレスの味方です』を熱狂して読んだ。当時、プロレスを見ることは、文学行為の一種だった。その象徴がアントニオ猪木だった。

猪木伝説の絶頂はIWGPだったと思う。ハルク・ホーガンに敗れ、彼の緩やかな下り坂が始まったのではないか。私にとってのベスト・バウトはストロング小林戦だったな。あのジャーマン・スープレックス・ホールドには痺れた。

政治家への転身、闘魂注入、「だぁー」・・・、見事に外連(けれん)の人だった。合掌。


今日の日記。

朝、御飯、味噌汁、チキンナゲット、スクランブルエッグ、鮭フレーク。

布団を干す。

コーヒーを淹れて飲みながら、『せきれい』(庄野潤三)、『落語の凄さ』(橘蓮二)、『切腹考 鷗外先生とわたし』(伊藤比呂美)を読む。

昨日から読んでいた『落語の凄さ』、読了。 著者は演芸写真家。春風亭昇太、桂宮治、春風亭一之輔、笑福亭鶴瓶、立川志の輔との対談が収められている。彼らに共通するのは「優しさ」だと橘は言う。登場人物に対して、観客に対して、仲間に対して、彼らは人に対して謙虚で優しい。気持ちのいい読後感。

昼はナポリタンを作る。玉ねぎを入れるのを忘れた。惜しい。

豆が風呂場の網戸を破って外に出たので、回収する。網戸の修理。

Sくんが来て、映画の切符を買わないか、と言うので購入する。『オレの記念日』という映画。布川事件の犯人とされた桜井昌司さんのドキュメント。彼は冤罪が認められ釈放されたが、がんの余命宣告を受けている。当日は桜井さんの舞台挨拶もあるという。

妻と夕方ビール。今日は暑かった。

たらたらと『せきれい』を読む。何気ない、かけがえのない日常。日曜の午後に読む小説として、これに勝るものはない。

夕食は秋刀魚の煮たの、冷奴、卵あんかけ、肉じゃが、茗荷の梅酢漬けで酒。酒は父が昨日買って来た、常陸大宮市根本酒造の「○上純米吟醸」。旨し。

食後にカティーサーク。


2022年10月1日土曜日

北海道からの海の幸、円楽が逝った

昨日、北海道の海の幸が届いた。今回は秋刀魚をたくさんいただいた。

早速、八海くんに電話をする。

「いやあ、孫が生まれたんであれこれ選んでいる余裕がなくて、今回は秋刀魚だけだ」とのこと。6月に娘さんが出産したのだという。

「目の中に入れても痛くない、っていうけど本当だな。本当にかわいい」と、もはやおじいちゃんはメロメロだ。

いずれ引退をしたら娘さんの暮らす横浜に出てくるつもりだ、と言う。

「横浜に寄席があるんだって?」と八海くんが訊く。

「にぎわい座。小文治さんも出るらしいよ」

「そこでアルバイトをしながら余生を送るというのはどうだ」

「おっ、いいな、それ」

などという話をして、お互いの健康を祈って電話を切った。 


六代目三遊亭円楽師が亡くなった。72歳、肺がんだったという。

1981年、楽太郎のまま真打昇進。六代目三遊亭圓生一門が落語協会を脱退し、圓生死後、直弟子たちは協会に復帰したが、五代目圓楽一門はそのまま独自の道を歩いていた。だから、楽太郎の落語を寄席で聴くことはできなかった。しかし、その才気あふれる芸は、我々落研部員も注目をしていた。

当時聴いた噺では『道具や』が思い出深い。ここで楽太郎は「知的な与太郎」という新機軸を打ち出した。

「そこを行って、ぶつかって右だよ」「ぶつかって右、ぶつかって右、どしーん、ぶつかって右」「ほんとにぶつかりやがった」というギャグは秀逸だったな。

彼が笑点メンバーになったのは、1977年、二つ目で楽太郎を名乗っていた27歳の時だった。

「笑点メンバー」を落語家としてのステイタスシンボルにしたのは、この六代目円楽と桂歌丸だったように思う。彼らは「笑点」という看板をとても大切にした。それは一般的に知名度の低い芸術協会や、寄席に出演しない圓楽一門会の落語家にとっては、極めて有効なカードだった。笑点メンバーをセットにした落語会は全国で開かれ、それは彼らの落語家としての評価を、幅広い層の人々へ定着させるのに大いに貢献した。私が地元で彼の落語を聴いたのも、当時は木久蔵だった林家木久扇との二人会だった。

それから円楽は「博多・天神落語まつり」などのプロデューサーとしても活躍。異なる団体の落語家のつなぎ役として手腕を発揮した。これは特筆されるべき彼の功績だったと思う。

また、歌丸との信頼関係をもとに、圓楽一門会の落語家が芸術協会興行の寄席に出演できるようになったのも大きい。

落語界全体のために汗をかいた落語家、それが六代目三遊亭円楽だった。

晩年は七代目三遊亭圓生襲名に執念を見せた。圓生という名前をどうしてもまた世に出したい、という思いは、やはり三遊亭本流としての矜持がそうさせたのだろう。ただ、鳳楽・圓窓・圓丈の圓生襲名争いがあり、円楽が圓生襲名を目指せる状況になった頃には70歳近くになっていた。肺がん、脳腫瘍、脳梗塞と次々と病魔が襲い、その度に復帰を果たしたが、肺がんに倒れた。軽い肺炎を起こし入院したが、急に容態を悪化させたのだという。無念の死だったと思う。

先代のような押しの強さはなかったが、それがかえって私には好感が持てた。洗練されていて、それでいて男っぽい語り口。達者な人だった。

六代目三遊亭円楽師匠のご冥福を祈る。

自分が青春時代、若手だった人の死は、やはり寂しい。


ちょっと前の夕焼け。