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2022年10月28日金曜日

1970年祭り

この頃、通勤の車の中で「1970年のビートルズ祭り」をやっている。何のことはない、1970年にリリースされたビートルズのメンバーによるソロアルバムを繰り返し聴いているのである。

 

19691月、「ゲット・バック・セッション」を終えたビートルズは、そこでの音源をすぐにアルバム化せず、ジョージ・マーティンのプロデュースで新たなアルバムを制作する。それは同年8月にレコーディングされ、『アビイ・ロード』として完成した。

『アビイ・ロード』は「最後にもう1枚、ビートルズとして満足のいくアルバムを作ろう」という気迫のこもった名作となった。特に未完成曲をメドレーにしたB面は絶賛された。売り上げは当時の最高記録を叩き出したが、一方でグループは決定的な局面を迎えていた。

9月、ジョン・レノンが、メンバーに脱退を宣言したのだ。それまで、1968年の『ホワイトアルバム』レコーディング中にリンゴが、「ゲット・バック・セッション」中にジョージが、一時グループを抜けるということはあったが、それらは短期間で修復された。しかし、グループの創設者であり、リーダーであったジョンの脱退宣言である。グループとしては致命的だった。マネージャー、アレン・クラインの判断で、しばらくの間、この事実は秘されることになり、ジョンも公表は自重した。

時には憎まれ役にもなってグループを支えてきたポール・マッカートニーは、これで打ちのめされた。彼はスコットランドの農場に引きこもり酒に溺れたという。それでも、ポールは立ち上がる。

12月にロンドンに帰り、自宅スタジオでレコーディングを始める。ポールは全ての楽器を自分一人で演奏し、多重録音でアルバムに仕上げた。こうして彼のソロアルバム『マッカートニー』は完成する。ここからがいかにも彼らしい。

19704月、ポール・マッカートニーはメンバーの反対を押し切り、完成したソロアルバムをリリースする。その発売にあたって、新聞のインタビューに答え、ビートルズからの脱退を公にした。最後までビートルズを支えたポールが、ビートルズを終わらせたのである。

ビートルズのラストアルバム『レット・イット・ビー』が発表されたのは、翌5月。1年以上棚ざらしになっていた音源を、ジョージとジョンに依頼されたフィル・スペクターが、辛抱強くアルバムに仕立て上げた。その独特のウォールサウンドは、これまでのジョージ・マーティン・プロデュースのサウンドとはあまりにも違っていた。私自身、これを今までのビートルズのアルバムと同列に置くのは、どうしてもためらってしまう。

映画『レット・イット・ビー』も同時期に公開された。ビートルズが崩壊していく様を描く陰鬱な映画だ。

ジョージ・ハリスンのソロアルバム『オール・シング・マスト・パス』がリリースされたのは、その年の11月である。ビートルズの中で、なかなか自作の曲を発表できなかった、その鬱憤を晴らすがごとく、3枚組の大作となった。親友、エリック・クラプトンとそのバンド、デレク・アンド・ドミノスがバックを務め、リンゴ・スターも参加するという豪華な布陣、「マイ・スウィート・ロード」「美しき人生」「オール・シング・マスト・パス」、ボブ・ディランが提供した「イフ・ノット・フォー・ユー」などの名曲佳曲が目白押しで、大ヒットとなった。

12月、いよいよ真打ジョン・レノンが、『ジョンの魂』を発表する。いささか性急だった『マッカートニー』を受けて、「おれがビートルズを終わらせる」という気持ちがジョンにあったのだろう。(事実、「ゴッド」の中で、ジョンは「ビートルズを信じない」「夢は終わった」と歌っている。)シンプルな構成ながら作り込まれたサウンド、個人的な内容ながらきちんと作品になっている完成度の高い楽曲、名盤と呼ぶにふさわしい見事なアルバムである。

 

続けて聴くと色々な発見がある。面白い。1970年といえば、私は当時小学4年生だ。こんなに濃い1年だったとは、その頃には分からなかった。個々の作品についてはいずれそのうち書いてみたい。とりあえず、今日はここまでとする。 


通勤途中のクルマドの風景。




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