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2012年4月29日日曜日

お花見、そしてBBQ

今日はいい天気だったので、お弁当を持って笠間市岩間の愛宕山へ行った。
そうとは知らずに行ったのだが、八重桜が満開。早速、花の下にレジャーシートを広げる。ほどほどの賑わいだ。
子どもたちはローラー滑り台やらアスレチックで遊ぶ。
お腹が空いたので、妻が作ったお握りをぱくつく。眼前には下界が広がる。いいねえ。
デザートに木いちごソフトを食べる。 次男が飽きてきたので、笠間のあそびの杜に行こうといって連れ出した。
生憎、陶炎祭(ひまつり)初日、あそびの杜の駐車場へは長蛇の車の列ができていた。 やむなく北山公園へ。
しかし、急な予定変更が苦手な次男がヘコむ。
鯉の餌やりで何とか持ち直し、ここにもあったローラー滑り台で完全復活した。
夕食は、じいさんばあさんを加えて庭でBBQ。大人はビールと赤ワインを飲む。
いい休みでした。
写真は愛宕山からの眺望。

2012年4月28日土曜日

大垣の看板建築

大垣にあった看板建築。
T君との旅行中は色々とシブい建物が楽しめた。
水門のすぐそばにあったが、元は菓子屋だったようだ。
銅版がいい感じ。

2012年4月24日火曜日

筍が食べたい

「筍が食べたい」って、『二十四孝』の孟宗のおっ母さんじゃないけどね。
晩春から初夏にかけてのこの時期、私がこよなく愛していたのが、鰹の刺身と筍の味噌汁なのである。しかも、うちの裏山では筍がわんさと生える。本来なら新鮮な筍が食い放題なのだ。
でも、今年はもう駄目だな。この辺で採れる筍から、基準値を超えるセシウムが出ている。両親は「おれらはもういい」と言って食べている。これがまた、「今年の筍は旨い」んだとさ。だからと言ってさあ、子どもがいる食卓に上らせる訳にはいかないよなあ。
妻の好物だからと言って、両親が椎茸を作っていたけど、これも同じ理由で駄目。この間、近所を車で走っていたら、椎茸が山になって捨てられているのを見た。ああいうのを見るとほんと切なくなる。
福島第一原発から150㎞も離れていてこれだ。原発事故が、いかに広い範囲に大きな影響を及ぼすか、私たちは身を以て体験しているはずなのに…。そして、それがこれからどうなるのか、今もまるで分らないままなのに…。清志郎じゃないけど、「何やってんだ、冗談じゃねえ」だ。
筍が食べられる時期は年に1度だけ。セシウムの半減期は30年。かつては「おれは、あと何回筍が食えるだろう」と思っていたけど、今は「うちの筍が食える日は来るんだろうか」なんだよなあ。

2012年4月23日月曜日

妻の誕生日


先日は妻の誕生日だった。
子どもたちは、お母さんの絵を描いてプレゼントにした。
次男は、お誕生日会のプログラムを夢中で書いていた。幼稚園の頃から、お母さんには心配をかけていたからな。子どもなりに、お母さんには大分感謝しているみたい。
昼間に皆でつくばに行ってコートダジュールでケーキを買い、夕方、子どもたちがゲームをしている間に抜け出して花を買って来た。
夜は一家で焼き肉を食べる。お腹いっぱい。旨かったねえ。
写真は妻の好きな花、桜。うちの畑に植えてあるやつです。

2012年4月19日木曜日

中原中也的生活

かつての私にとって、「憧れの人」の一人が、中原中也であった。ああいった放蕩無頼の生活をしてみたかった。大学の一人暮らしは私を野放しにさせた。そこに歯止めなんてものは存在しなかった。
金はなかったので、中原中也的な生活とは、友人の家を泊まり歩いては、飲んだくれるというものになった。
泊まり歩くうちに、定宿というべき所ができた。もちろん、これは私の好みが全てで、相手の迷惑なんて、これっぽっちも考えていない。
1年の時は、狛江の小文治さんのアパートと春”短(バルタン)君のアパートに、実によく行った。(おかげで春”短君は落研を辞めてしまった。)
2年からは、経堂の歌ん朝さんのアパート、祖師ヶ谷大蔵の八海君のアパート、それから小文治さんの後に入った弥っ太君の所。弥っ太君は翌年、経堂に引っ越した。その経堂のアパートにも通った。
3年からは、弥っ太君の後を継いだ蘭丸君の所。
向ヶ丘遊園駅近くの三代目紫雀さんのアパートにも随分行ったなあ。
4年の時は、喜多見に住んでいた岐阜T君のアパートに足繁く通った。T君の所で酒を飲むことはなかった。ほうじ茶でカールをつまみながら話し込むのが常だった。T君は基本的に人を泊めなかったので、歩いて30分ほどの所にある落研の後輩、松弥君のアパートに泊まった。松弥君の部屋には裸電球が下がっていた。裸電球の下で、少々込み入った話をしたのを覚えている。
そういう、いわゆる「定宿」を一回り泊まり歩いてから、やっと自分のアパートに帰るといった生活だったのである。
こう並べてみると、色んな人に迷惑をかけた。申し訳ない。
弥っ太君には「伝助は自分一人が孤独だと思っている」と言われた。痛い言葉だ。私としては、憧れの中原中也的な生活を実践していたつもりだったのだが…。無邪気な子どもだったんだな。本当に馬鹿だったなあ。
それでも、私が部屋を訪れると、皆、「よお。」と迎えてくれた。そして、小文治さんは「安芸」に、歌ん朝さんは「マネーチョット」に連れて行ってくれた。八海君は砧温泉に行ってから祖師ヶ谷大蔵駅前の飲み屋に一緒に行ってくれた。弥っ太君も「代一元」や「マネーチョット」に付き合ってくれた。三代目紫雀さんは、さんざっぱら飲ませてくれた後、当時としても珍しかったオープンリールのテープデッキで、色々な音楽を聴かせてくれた。皆皆優しかった。その優しさに私は甘えた。
本当に馬鹿だったなあ。
本当に本当に、私は馬鹿だったなあ、と今更ながら思うのだ。

2012年4月18日水曜日

石岡プラザホテル付近の建物


石岡プラザホテルの路地を入った所にある建物。
かっこいいよね。
高校の頃から好きな建物だったな。
震災の影響が見られるものの、何とか健在のようだ。
それにしても、ちょっと電柱が邪魔だなあ。

2012年4月15日日曜日

お花見


今日は子どもの科学教室に行く。
風邪気味の次男は、途中でリタイア。お兄ちゃんはいつものハイテンションで色んな実験にチャレンジしておりました。
昼食は団地の桜並木でお花見。妻が作ったおにぎりとコンビニで買って来たパンを食べる。桜吹雪が美しい。
帰って庭で長男と野球。その間、ずっと次男は眠っていた。
一日いい天気。穏やかな休日でした。

2012年4月11日水曜日

伝助の根多帳①

私が落研の二つ目時代に覚えた噺について、思い出話をしたい。
1本目は、以前も書いたが「牛ほめ」。初の対外発表会出演のためのネタである。
二つ目になると、プロの録音で覚えていい。私も「牛ほめ」のテープを探したが、ない。
そこで、十代目桂文治に入門間もない、先輩の亭治さん(現小文治師匠)が、「文治の会」で「牛ほめ」を演ると聞いて、録音させていただくことにした。
だから、私の「牛ほめ」は十代目桂文治の型だ。文治の「牛ほめ」は、他とはちょっと違う。普通は家も牛も同じおじさんの所で褒めるのだが、文治は家を褒めるのは佐兵衛おじさん、牛を褒めるのは牛乳屋さんのおじさん家。くすぐりも多く、爆笑編に仕上がっている。この噺は1本目ということもあり、テープのまま素直に演った。春合宿でもウケて、牛乳屋さんのおじさんが与太郎に呟く、「やっぱり馬鹿だな。」というフレーズはちょっと落研の中で流行ったな。
本番は、今はなき本牧亭の高座であったが、この時もけっこうウケたなあ。
それから、私の鉄板ネタになってくれた。1本目の噺としては幸福な出会いでした。

夏合宿には2本の噺を持って行った。「垂乳根」と「豆屋」。「垂乳根」は桂南喬、「豆屋」はやはり文治だった。
「豆屋」は二代目紫雀さんに「(豆屋を脅す)最初の男と二番目の男が同じだ。」と駄目を出された。その後、随分文治のテープを聴いたが、二番目の男の方をより威勢をよくしているだけで、それでは私の力でははっきりと描き分けができないことが分かった。プラスによりプラスを足しても違いを際立たせることはできなかったのである。そこで、思いついたのが、ある恐れ多い先輩の口調だった。この方の語り口は陰陽で言えば、陰。それだけに怖い。で、最初の男を威勢よく、二番目の男をその先輩の声色で演ってみたら、これがハマった。
プロの落語家さんは、人物描写で実在の人物をモデルにすることが多いという。五代目柳家小さんは「長短」の気が長い方を、三代目桂三木助で演ったというし、八代目桂文楽の「酢豆腐」の若旦那のモデルは、五代目古今亭志ん生の天狗連時代の師匠、奇人三遊亭圓盛だという。
自分を文楽や小さんと比べるとは余りにおこがましいが、この時は上手く行ったのだ。
「豆屋」は自他ともに認める得意ネタになった。長く演っているうちに、先輩の口調からはどんどん離れて行ったけどね。
「垂乳根」は笑福亭仁鶴の「延陽伯」の気分を入れて演った。これはあまりモノにならなかったな。

2012年4月9日月曜日

瀬戸の三叉路


愛知県、瀬戸市。瀬戸銀座近くの三叉路にある食堂。
三叉路は何故かそそられる。つい写真を撮ってしまう。
荒木経惟もよく撮っていたし、横尾忠則などは三叉路だけで写真集を出してしまった。
いいねえ。
関係ないが、マンガ『深夜食堂』も同じようなシチュエーションにある。もっともあっちは新宿だけどね。

2012年4月7日土曜日

金子光晴『どくろ杯』

永遠の不良少年、詩人金子光晴の自伝である。
妻三千代との馴れ初めから、上海行、その留守中に起きた妻の恋愛事件、そして5年に渡る海外放浪の発端を語っている。時は大正、関東大震災直後の終末的な雰囲気漂う時代背景だ。
それにしても、大正の恋愛は見事に肉食系だな。がつがつと一途にお互いの肉を貪り食う。妻の妹が寝ている隣でも交わる。「お姉さん、息が苦しいの?」と言う妹に対し、妻の上に乗っている光晴が「心配しないで、今、義兄さんが療治しているから。」と答えるなんざ、凄いねえ。
若い恋人のもとへ妻を取り返しに行く場面も、苦いが何とも言えない味わいがある。
この恋愛事件を清算するため、光晴は三千代を連れてパリへ行くことを企てる。三千代はパリへ行く前に恋人と旅行をするのを許すという条件で受け入れる。その旅行先が、茨城県高萩なのだ。『家宅の人』の檀一雄は情人と牛堀へ旅行した。茨城も昔はけっこうな観光地だったのね。
パリへ行くと言っても、直接行けるような金はない。そこで、まず大阪へ行き、そこで金を作って取り敢えず上海へ渡るという、極めて頼りない計画だった。
この大阪の場面が面白い。大阪での案内役は正岡容。光晴たちが泊まった旅館が初勢旅館。これは東京から大阪に出演しに来た芸人たちの定宿であった。(八代目桂文楽もこの宿に泊まった。文楽はここから三代目三遊亭圓馬のもとに稽古に通ったのである。)この宿を拠点に繰り広げられる乱痴気騒ぎ。正岡の奇人ぶりが楽しい。金子光晴も寄席が好きだったのか、しきりに芸人のことが話題に上る。
そして、上海での爛熟退廃の日々。大陸の退廃はスケールがでかい。どうしようもない。その中を、光晴と三千代は堂々とそして淡々と泳ぎ回る。二人とも胆の太い点ではお似合いのカップルだ。
タイトルの「どくろ杯」というのは、文字通り人間に頭蓋骨で作った酒器である。上海で光晴がつるんでいた友人が持っていたものだ。蒙古で手に入れたもので、男を知らない処女の骨だという。そして、この「どくろ杯」に憑りつかれた男も登場する。彼はガラス吹きの職人だが、話のついでに光晴が「どくろ杯」の話をすると、異常な関心を示した。遂には自ら墓を暴き死骸を盗んでどくろ杯を作ってしまう。この男が幽霊に悩まされ、相談を受けた光晴が、一緒にそのどくろ杯を墓に返しに行く。「くらくして見た子供のどくろは…陰火でぼうぼう燃えているようにさえみえた。」とは陰惨な描写だな。
小林清親門下の画家でもある光晴は、絵を売って金を作りながら、上海からシンガポール、ジャワに渡り、パリを目指す。やっと一人分の旅費を得て、三千代だけ先にパリへ見送るところで、ひとまずこの話は終わる。
それにしても、恋人を持つ妻との道行というのはどんな気持ちなんだろう。志賀直哉の『暗夜行路』の主人公時任謙作は、たった一度の妻の過ちを許せず七転八倒の苦しみを味わうが、光晴は、他の男に体を許した妻を抱くという被虐的な悦びと、そして恋人から妻を引き離すという加虐的な悦びを感じている節がある。したたかで食えない。
しかも、この文章を書いた時、金子光晴は75歳だ。全くとんでもない爺さんだなあ。

2012年4月5日木曜日

落語は過去を向いている

「落語に現代を」と、かつて立川談志は提唱した。そう言わなければならなかったということは、基本的に落語は昔を語るものだったということでもある。もちろん、現代の聞き手に共感を得られなければ、落語は生命を失うだろう。だからこそ、談志は「落語に現代を」と声高に叫ばなければならなかったのだ。
しかし、彼は晩年「江戸の風が吹く」という言い回しで、聞き手に古き良き過去を喚起させることも、落語の重要なファクターであることに行きつく。
桂文楽は、昭和30年代、名人としての地位を確立していく。そこには安藤鶴夫、正岡容、久保田万太郎、吉井勇等の文人たちの支持が大きく影響しているが、それは文楽の芸が、明治大正の香りを色濃く感じさせるものであったからであると私は思う。文人たちばかりではない。当時の聴衆にとっても、老年層であればそれは青春の思い出であり、若年層であれば、自分たちが間に合わなかった、ちょっと昔の、古き良き時代への憧れを体現するものであったに違いない。
古今亭志ん生は郷愁とはあまり関係ないイメージがあるが、その実、語り口は古風なものがあった。志賀直哉は「皆、文楽がいいというけど、志ん生の方が昔を感じさせていいな。」と言っているし、色川武大は「志ん生の口跡に残る、前代のコピーはむしろ邪魔だった。」と言っている。
古今亭志ん朝、立川談志には、私は昭和30年代の東京を感じる。志ん朝は絢爛たる江戸文化に浸らせてくれる一方、廓噺の枕で振る吉原の思い出話などでは、廃止直前の遊郭の風俗をよく伝えてくれた。談志の昭和の名人へのリスペクトは『寝床』、『野ざらし』などで十分堪能できる。
実は人は「ちょっと昔のこと」にぐっとくるのである。
新作にしろ、川柳川柳の『ガーコン』も、三遊亭圓丈の『グリコ少年』も、柳家喬太郎の『すみれ荘201号』も、ベクトルは過去に向いている。
落語は過去を語る。そうでなければ、着物を着、扇子と手拭いを小道具にし、座布団に正座して喋るといったクラシカルなスタイルをとる必要はあるまい。肝心なのは、現代の聴衆が共感できる内容と共感させる芸の力だ。

そんなことにくどくど思いを巡らしているのは、京須偕充の本を立て続けに読んだせいだ。彼の著作もまた過去を向いている。若い読者は、その「上から目線」に拒絶反応を起こすだろう。ネットでもあまり評判は良くない。ただ、「落語はかつてこのように聴かれてきた」という情報はあっていい。自分だけで全てが分かるほど、私には能力がない。様々な見方考え方に触れることで、理解は厚みを増す。批評や評論はその点で存在意味がある。
京須の立場は、今流行の落語の見方に異を唱えるものだ。このような意見を、旧弊と断じ老害と切って捨てるのは簡単だが、世の中は常に古いものと新しいものとがぶつかり合ってよりよいものを生んできた。古いものの壁が高いほど新しいものは力をつけるものだ。京須は若い落語ファンにとっての壁になるつもりかもしれない。
でも、京須の落語観も面白いし、いささか古い落語ファンに入るであろう私にとって共感できる部分が多々ある。まあ落語なんて面白ければいいのだ。そして、色んな見方を知れば、もっともっと面白くなるのである。