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2012年4月5日木曜日

落語は過去を向いている

「落語に現代を」と、かつて立川談志は提唱した。そう言わなければならなかったということは、基本的に落語は昔を語るものだったということでもある。もちろん、現代の聞き手に共感を得られなければ、落語は生命を失うだろう。だからこそ、談志は「落語に現代を」と声高に叫ばなければならなかったのだ。
しかし、彼は晩年「江戸の風が吹く」という言い回しで、聞き手に古き良き過去を喚起させることも、落語の重要なファクターであることに行きつく。
桂文楽は、昭和30年代、名人としての地位を確立していく。そこには安藤鶴夫、正岡容、久保田万太郎、吉井勇等の文人たちの支持が大きく影響しているが、それは文楽の芸が、明治大正の香りを色濃く感じさせるものであったからであると私は思う。文人たちばかりではない。当時の聴衆にとっても、老年層であればそれは青春の思い出であり、若年層であれば、自分たちが間に合わなかった、ちょっと昔の、古き良き時代への憧れを体現するものであったに違いない。
古今亭志ん生は郷愁とはあまり関係ないイメージがあるが、その実、語り口は古風なものがあった。志賀直哉は「皆、文楽がいいというけど、志ん生の方が昔を感じさせていいな。」と言っているし、色川武大は「志ん生の口跡に残る、前代のコピーはむしろ邪魔だった。」と言っている。
古今亭志ん朝、立川談志には、私は昭和30年代の東京を感じる。志ん朝は絢爛たる江戸文化に浸らせてくれる一方、廓噺の枕で振る吉原の思い出話などでは、廃止直前の遊郭の風俗をよく伝えてくれた。談志の昭和の名人へのリスペクトは『寝床』、『野ざらし』などで十分堪能できる。
実は人は「ちょっと昔のこと」にぐっとくるのである。
新作にしろ、川柳川柳の『ガーコン』も、三遊亭圓丈の『グリコ少年』も、柳家喬太郎の『すみれ荘201号』も、ベクトルは過去に向いている。
落語は過去を語る。そうでなければ、着物を着、扇子と手拭いを小道具にし、座布団に正座して喋るといったクラシカルなスタイルをとる必要はあるまい。肝心なのは、現代の聴衆が共感できる内容と共感させる芸の力だ。

そんなことにくどくど思いを巡らしているのは、京須偕充の本を立て続けに読んだせいだ。彼の著作もまた過去を向いている。若い読者は、その「上から目線」に拒絶反応を起こすだろう。ネットでもあまり評判は良くない。ただ、「落語はかつてこのように聴かれてきた」という情報はあっていい。自分だけで全てが分かるほど、私には能力がない。様々な見方考え方に触れることで、理解は厚みを増す。批評や評論はその点で存在意味がある。
京須の立場は、今流行の落語の見方に異を唱えるものだ。このような意見を、旧弊と断じ老害と切って捨てるのは簡単だが、世の中は常に古いものと新しいものとがぶつかり合ってよりよいものを生んできた。古いものの壁が高いほど新しいものは力をつけるものだ。京須は若い落語ファンにとっての壁になるつもりかもしれない。
でも、京須の落語観も面白いし、いささか古い落語ファンに入るであろう私にとって共感できる部分が多々ある。まあ落語なんて面白ければいいのだ。そして、色んな見方を知れば、もっともっと面白くなるのである。

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