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2016年12月30日金曜日

お絵かき

今日は障子貼りと洗車をやる。
昼はスパゲティーミートソース。
晩飯は北海道の鰯のパン粉焼き、鯖の塩焼き、地元産の蓮根の挟み焼で燗酒。

掃除をしながら、ちょっと前に描いた絵を見る。
気持ちががさがさした時なんかは、細かい絵を描くと落ち着くんだよな。

子どもの頃の私の家。
この辺では珍しい藁葺きの2階建てだった。

日暮里のおでん屋。

今はなき、石岡の朝日屋。
隣の喫茶四季は今も健在。

小川の小月庵、旧店舗。

最近描いた、人形町末廣。

2016年12月26日月曜日

笠間稲荷の千社札・奉納額

以前、笠間稲荷神社の東門にある奉納額について紹介した。
他にも境内に絵馬殿という建物があり、多くの奉納額が掲げられている。

改めて見ると、瓦の重い屋根を柱だけで支えている。
よく震災で崩れなかったものだ。

ここで落語関係のものはないか眺めていたら、まず千社札で見つけた。
それが、これ。



橘右近のが、2枚も貼ってあった。
橘右近。明治36年生まれ。初め浪曲師として芸界に入るが、大正11年、柳家さくら(後の三代目つばめ。漫談の宮尾たか志の実父である)に入門し、落語家に転向する。柳家龍馬からさん三、昭和14年には橘右近と改名した。同21年、師匠の名前さくらを継ぐも、2年後には橘右近に戻す。
昭和24年に落語家を廃業。寄席文字を専業とする。専門職としての寄席文字書きは、とうの昔に途絶えており、残された資料を基に、彼は独学で自らの書体を確立した。
昭和40年には八代目桂文楽の勧めで「橘流家元」を名乗った。現在の寄席文字の源流を辿れば、すべてこの人に行き着く。
大学時代、落研で寄席文字書きをしていた私は、しばしその筆跡に見惚れていました。

そして、この奉納額。


上段右端、「大根がし・三周」と書いてある。とくればこれはもう、三遊亭圓朝の名跡を預かる、落語三遊派宗家の始祖藤浦三周(本名、周吉)その人である。
いやここでこの名前を発見しようとは思わなかったなあ。

やっぱり笠間稲荷は宝の山だねえ。

2016年12月23日金曜日

四代目三遊亭小圓遊

長男がせっせと「笑点」を録画しては、早起きして観るのを楽しみにしている。彼は、この間地元の文化センターで聴いて以来、林家たい平のファンになったようだ。かくいう私も、長男と同じぐらいの頃には、「笑点」が大好きだった。
私の頃は、司会が三波伸介。大喜利のメンバーは、三遊亭圓楽、三遊亭圓窓、桂歌丸、三遊亭小圓遊、林家木久蔵、林家こん平といった面々。中でも歌丸、小圓遊のバトルが人気を呼んでいた。

四代目三遊亭小圓遊。昭和12年、群馬県前橋市に生まれ、中学の時に東京に転校して来る。高校を中退して、昭和30年、四代目三遊亭圓遊に入門、金遊の名を貰った。
ちなみに圓遊一門は、笑遊、金遊、千遊、万遊といて、師匠の圓遊を加えると、その頭文字が「しょう・きん・せん・まん・えん(賞金千万円)」となる。
昭和43年、四代目小圓遊を襲名して真打に昇進した。
「笑点」ではキザを売り物にしていた。 立川談志は著書の中でこう言っている。
「小円遊の金遊に、テレビの『笑点』であのキャラクターをつけたのは、私だ。なに小円遊ばかりではない。全員につけた。円楽は物識りでいけ、こん平はバカでいけ、歌丸は常識的に、というふうに彼らの地を生かしてキャラクターを鮮明にさせたのが当たった。(中略)小円遊はキザの小円遊でいけ、と。『別れた時に一言』なんて司会の私が聞くと、『別れなければまた逢えないじゃないか』と言わせた。」(『談志楽屋噺』・文春文庫)
小圓遊の渾名は、談志曰く「韓国のヤクザ」。その容貌で小指を立てて「ボクちゃん」なんて言うのだから、これはウケた。
当時、「笑点」の演芸コーナーで小圓遊の落語を聴いたことがある。ネタは『権助魚』だった。ドスの利いた声、男っぽい口調。骨格の太い本格派で、上手いと思った。この人の落語は、大喜利のキャラクターとはずいぶん違うなあと、子ども心に思ったものだ。
人気が出るにつれて、客の方が高座の落語の方にまでキザのキャラクターを要求してくるようになった。
若くして売れた人にはこの手のエピソードが多い。八代目桂文楽は、若手真打の頃『明烏』しか演らせてもらえなかった。その弟子で、後に三升家小勝になった桂右女助は、自作の新作『水道のゴム屋』で売れた人だが、寄席で古典落語を演ろうとして、客に「お前はゴム屋やってりゃいいんだ!ゴム屋やれ!」と強要されたという。
小圓遊の場合、枕でキザをやると、爆笑を生んだ。しかし、本題に入ると落ち着いてしまう。小圓遊はそのギャップに苦しんだ。そして彼はその苦悩を酒で紛らせた。酒量は増し、それが命取りになった。
昭和55年10月4日、公演先の山形で急死。動脈瘤だか静脈瘤だかが破裂したのだと記憶している。43歳の若さだった。
因縁めくが、初代小圓遊は旅先の尾道で32歳で死亡。三代目は北海道巡業中に腸チフスで夭折(年齢は正確には分からないが、30そこそこだったという)した。何と小圓遊代々の4人のうち3人までもが、旅先で早死にしているのである。 

私の手元に小圓遊のCDが1枚だけある。「落語名人全集」シリーズの18で、「現代艶笑話(1)・現代艶笑話(2)」という企画もの。バレに近い小噺をいくつも並べている。女優の声が合いの手に入り、イヤホンをしても、ちょっと家族の前で聴くのは憚れる内容だ。
この、「落語名人全集」と銘打たれたCDに、落語が1本も入っていないことが口惜しい。テーマに沿えというのなら、『紙入れ』とか『短命』とか、艶っぽい落語だっていくらでもあるじゃないか。せめて半分は落語にして欲しかった。小圓遊はそれを望んでいたと思うのだ。

2016年12月21日水曜日

府中誉


石岡市の酒蔵、府中誉。茨城が誇る銘酒「渡舟」の蔵元である。
渡舟というのは酒米の名前だ。あの山田錦の親にあたる。
作るのが難しく、長い間幻の酒米になっていたのを、八郷の農家に頼み込んで作ってもらったのだと聞いた。山田錦のような洗練された酒米ではないので、酒造りにも苦労があったという。男っぽい、旨い酒だ。
お使い物にするのにいい日本酒を、と頼まれたので、とっさに浮かんだのが、この「渡舟」だった。ところが、今年は原料の米が不作で、生産量が減るという噂。店で探すより蔵元の方が確実だろうと思って行ってみた。
「渡舟・純米大吟醸」、4合瓶で5000円を2本ゲット。受け取った人はとても喜んでくれたとのこと。選んだこちらとしても嬉しいや。

近くをちょっとだけ歩く。さすがに12月、暗くなるのが早い。








2016年12月19日月曜日

吾妻庵総本店 カレー南蛮そば


土浦、吾妻庵総本店、カレー南蛮そば。800円くらいだったかな。
長男と土浦を散歩した時の昼食。長男はいつものざるそばを食べた。
ちょうど前の日、昼のテレビ、タカ&トシの路線バスの旅で紹介されていたばかり。昼時というのもあって、ほぼ満席だった。
粋に「もり」といきたかったけど、外を歩いて寒かったので、温まりたかったのよ。ふうふうしながらいただきました。カレーの辛味で体の中からほっかほか。ちゃんとそばつゆの出汁が利いている。旨し。
100年以上続く老舗。御飯ものはやっていない。それでいて気取りがない。正しい街の蕎麦屋さんである。

この店構えに、ゲストのピーターも心を奪われておりました。

2016年12月17日土曜日

冬晴れの日

朝、マフィン、オニオンスープ、紅茶。
子どもたちが髪を切りに行く。
留守番。CDを聴きながら、絵を描く。


昼は和風パスタ。たらことツナ醤油をハーフハーフ。
親子4人でWiiパーティーをやった後、ちょっとお出掛け。
買い物のついでに、小川の街を散歩する。
きりっとした冬晴れ。歩いていて気持ちいい。


大町商店街。

素鵞神社は屋根の葺き替え中。



素敵な洋館。元は医院。

園部川。

橋向商店街。

1時間ほど歩いて帰り、買って来たハートランドビールを飲む。
夕食はおでんで燗酒。温まるなあ。
『笑伝林家三平』再読。読了。
仕上げはタラモアデュー。


2016年12月15日木曜日

石岡イオンの洋食屋


ちょっと前、長男と行った石岡イオン1階にある洋食屋のハンバーグセット。
ハンバーグはデミグラスソースがかかった、オーソドックスタイプ。ボリュームもあって旨し。


これにスープとコーヒーが付いて1000円也。


昔からあったけど、入るのは初めて。
けっこうお客がいた。固定ファンが多いみたい。

長男が食べたミックスピザも旨そうだった。


店構えもデパートのレストランっぽくていいなあ。



パスタの種類が豊富だった。今度はパスタに挑戦してみよう。

2016年12月6日火曜日

初冬の土浦散歩

先日、土浦を散歩した。
1回目は、モール505付近の駐車場に車を止め、桜川の方を歩いた。
この日は、木枯らしが吹きすさび、寒かったなあ。
駅ビルのパン屋のイートインに入り、コーヒーを飲みフレンチトーストのハムサンドを食べる。
本屋で買った平松洋子を読んだ。

その時の写真。

モール505。人通りもない。

武蔵屋。かっこいいなあ。





橋の上は歩くのに苦労するぐらい風が強かった。




2回目はまちかど蔵の駐車場に車を止め、喫茶蔵でコーヒーホットアップルタルト。
中城通りから亀城公園を歩く。

喫茶、蔵。


吾妻庵の店先の、見事な盆栽。


周りの建物がなくなって、見事な蔵がよく見えるようになった。


亀城公園に入る。

冬枯れになったおかげで東櫓がよく見える。

楼門。

西櫓。






中城通りに戻る。