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2009年12月25日金曜日

雑感

文春ムック『今面白い落語家50』を買う。
落語好き523人に対するアンケートによるランキング。
第1位は柳家喬太郎。意外だがうなずける結果。
ちょっとマニア寄りかもしれないが、落語のライブを数多く観ている人たちの意見なんだなと思う。
柳家、林家の止め名の人は入っていない。ってゆうか、大きな名前の人は一人も入っていない。
最近読んだ、5代目柳家つばめ『落語の世界』の中で、つばめが、「現在のようにマスコミが発達すると襲名の必要がなくなり、一つ名前で通す人が多くなるかもしれない」というようなことを書いていたが、まさにそういう世の中になったと言えるだろう。
それと、スター春風亭小朝がベスト10に入っていない。
立川談笑、春風亭昇太、柳亭市馬、柳家三三が小朝の上に立っているのを見ると、堀井憲一郎が『落語論』で、「小朝の現在の評価は低すぎる」と言っているのが真実味を帯びてくる。
ただなあ、小朝、少々イタいのだ。今時、金髪のソフトモヒカンだし、ブログは絵文字が踊ってるし、彼のセンスに、まさに堀井の言ではないが、「80年代ファッションを見せられているような」気持ちになるのだ。
もちろん小朝は圧倒的に上手い。プロデューサーとしての才能も抜群、落語に対する問題意識も高い。東京の落語界にとって最も重要な人物と言っていいだろう。三遊亭圓朝襲名の噂も依然としてある。
それが実現すれば一発逆転だろうな。恐らく社会現象になるに違いない。それだけの仕掛けを、小朝のことだ、仕掛けてくるだろう。落語も押しも押されもせぬメジャーな存在になるんだろうな。それはこの上もなく喜ばしいことだ。
ただ、私はその熱狂からは、少し距離を置くと思う。それは単に趣味の問題なんだけどね、多分その時も、私は少々イタいと感じると思うな。
今回は徒然なるがままの、ものぐるほしけれな感想でした。

2009年12月18日金曜日

絵を見に行く

午後から休みが取れる。
ちょっと足をのばして、笠間日動美術館へ行く。
5年ぶりぐらいか。本当に久し振り。
企画は「輝ける女性像展」と「高橋由一と近代日本美術展」。
フランス館、日本館とゆっくり楽しむ。
作者は忘れたが「口紅ー明治の女」という小さい絵がよかった。
貧相でやせっぽちな女が、暗がりの中、緋縮緬の長襦袢をはおり、紅をさしている。
それが何とも哀れでいいな。
もちろん、ルノアール、ゴッホ、ピカソ、シャガールなど錚々たる名作が勢揃い。素晴らしい。
2時間ほどいて、コーヒーを飲んで帰る。
たまにはこんな日があってもいいよねえ。

2009年12月12日土曜日

私の原風景

久し振りに、カメラをぶら下げ、霞ヶ浦の堤防を散歩する。
鏡のような湖面に鴨が浮かぶ。
前日の雨で空気が澄み渡り、筑波山が近い。
ああ私の原風景はこれなのだ、そう思いながらシャッターを切ったのでした。

2009年12月9日水曜日

襲名考 その2

襲名に関する騒動で最も有名なのが五代目柳家小さんのものだろう。
四代目小さんの死から3年後、桂文楽が、進境著しい小三治を五代目小さんにしようとした。時に小三治、35歳。これには、四代目門下の兄弟子たちが猛反発した。中でも蝶花楼馬楽が強硬に「自分が小さんになる」と言って聞かない。
馬楽は三遊派で落語家としてのスタートを切りながら、紆余曲折を経て三代目小さん門下になった人だ。三代目引退の後は四代目門下となり、四代目の前名である馬楽を譲られた。三代目小さんを敬愛し、小さんという名前には強い憧憬があった。
この一件では、一時テキ屋の親分までが乗り出す騒ぎとなった。結局、五代目小さんは小三治が継ぎ、馬楽は「小さん」級の名前を襲名することで片が付く。
白羽の矢が立ったのは、「林家正蔵」という名跡だった。七代目が死に、彼の息子三平はまだ前座の身だった。そこで落語協会幹部が遺族と交渉し、「一代限りの借用」ということで八代目林家正蔵が誕生したのである。
この時の借用の証文が今も残っている。八代目正蔵の本名、岡本義名義で書かれた証文には、九代目正蔵は海老名家(七代目正蔵の遺族)へ返上すると明記されている。
八代目は三平が売り出すと、正蔵を返す旨を申し出たが、三平は、八代目存命中は正蔵で通して欲しいと言って辞退した。ところが、三平は八代目より早く死ぬ。そこで八代目は彦六と改名し、正蔵の名を海老名家に返した。
この時、七代目の未亡人は「ずいぶん遅くなりました」と言ったという。海老名家としては、三平の真打ち昇進時に返してもらうつもりだった。正蔵という名前はあくまで海老名家のものであるという意識だったのだ。
しかし、七代目正蔵襲名の経緯を知ると首をかしげたくなる。
大正15年、柳家三語楼が落語協会を脱退、師三代目小さんと袂を分かつ。三語楼門下の小三治も行動を共にしたのだが、小三治は柳家の出世名、小さん門下から流出させるわけにはいかない。昭和4年、落語協会は小三治の名前の返上を要求するが、三語楼側ではそれに応じない。業を煮やした落語協会は、後に落語協会の事務員になる高橋栄次郎に小三治を襲名させてしまう。そこでやむなく三語楼門下の小三治は、たまたま空いていた名跡、七代目林家正蔵を襲名するのだ。(ここでも柳家小三治という名前が絡む。何やら因縁めいたものを感じる。)
七代目正蔵は他の三語楼門下と同じく爆笑派で、三平の「どうもすみません」のギャグはこの人が元祖だという。怪談噺の始祖、林家正蔵の芸風ではない。
三平は正蔵になることを拒み、昭和の爆笑王として、三平の名前を落語史に残した。
五代目小さんは柳家本流の滑稽噺を見事に継承する。七代目三笑亭可楽経由で三代目小さんの芸を吸収し、その器の大きさで門弟に慕われ、今日の柳家隆盛を築いた。
八代目正蔵はもともと三遊派の人である。型から入る演出で、彼が小さんになったら、柳家の芸は変質してしまっただろう。三遊亭一朝に仕込まれた怪談噺や人情噺で、文字通り「正蔵らしい正蔵」となった。
こう考えると、神は絶妙な配材をしたのだと思う。
芸名はあくまで落語界のもので、家のものではない。その名前に合った芸風でしかるべき実力を持った者が襲名すべきではないか、と私は思うのだ。

2009年12月8日火曜日

襲名考 その1

文楽・志ん生・圓生が昭和の名人なら、平成の名人は志ん朝・談志・小三治の3人だと思うが、こう並べてみると、昭和と平成では際立った違いがある。
昭和の名人が、それぞれの亭号の最高位か、それに準じた名前を襲名しているのに対し、平成の名人の名前はいずれも小さい。
志ん朝を真打ちで名乗ったのはたった一人。談志は明治期の「寄席四天王」として売れた名前だが、名人が名乗る名前ではない。小三治は将来小さんを継ぐ有望株に与えられる名前で、あくまで大看板は小さんである。
つまり、彼らは彼らの芸に相応しい名前を継ぐことなく、若手の名前のままでいることを選んだのだ。
実力者ほど名前を変えない。志ん朝・談志・小三治の同世代では圓楽・圓弥・圓窓の圓生門下。彼らに続く世代でも、小朝・さん喬なども芸の格と名前とのギャップがあると思う。芸協では米丸・歌丸の師弟、小遊三あたりか。
確かに売れているのに名前を変えるのは大きなリスクを伴う。何せ圓歌・圓蔵がいまだに歌奴・圓鏡のイメージで見られがちなのだ。また、自分で名前を大きくしたいという気持ちもあるだろう。
古くは三遊亭圓朝が弟子に三遊亭の最高位圓生を継がせ、圓朝の名を不朽のものにした。(小朝も自分の弟子に五明楼玉の輔や橘家圓太郎など由緒ある名前を継がせている。)橘家圓喬は自らの至芸で、もともとの二つ目名を落語界の永久欠番のような名前にした。(志ん朝という名前も近々そうなるに違いない。)
それに、襲名には色々な事情が絡む。圓生一門は襲名どころではない状況だったろうし、適当な名前もなかったのかもしれない。小三治は、小さんが衰えたとき「さん翁」にでもなって譲ってくれれば六代目を継げただろうに、完全にタイミングを逸してしまった。先代の遺族との関係も複雑らしい。(最近世襲による襲名が目立つのも、原因は案外この辺にあるのではないか。)
もちろん、襲名は落語家の側の問題で、門外漢が口を出すべき問題ではない。現文楽襲名の際、囂々たる非難の中、襲名返上を小さんに申し出て慰められたエピソードなどを聞くと気の毒だと思う。
でも、歌舞伎で言えば、団十郎より海老蔵の方がいい、歌右衛門より福助の方がいいという状態は寂しいものだと思うのだが。