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2008年12月27日土曜日

川端康成「浅草紅団」

寒い。強風が吹きすさぶ。終日、川端康成の「浅草紅団」を読む。

時は、関東大震災からの復興の槌音高き昭和初期。
聖と俗、繁栄と貧困、全てないまぜとなった混沌の街浅草。
浮浪者といかがわしい商売を営む男女があふれる街浅草。
小説家である「私」が、土地の不良少女らとともにその浅草を縦横無尽に駆け巡る。
言問、象潟警察署、隅田公園、花屋敷、カジノフォーリイ、射的場、地下鉄食堂…。地名や風俗は具体的で詳細を極め、さながら昭和初期の浅草ガイドマップを見るよう。
「…だ」を多用した文体はスピード感にあふれており、小説世界も現在と過去を自由に行き来する。
「私」は川端の分身でもある。
川端康成という人、ノーベル賞作家ということで日本の良心のような扱い方をされているが、その実、すこぶる妖しい。
川端は不良少女を浅草を愛している。
しかし、そこには慈愛も同情も憐憫もない。
あるのは好奇心だ。「この美しさの源は何か」ということに対する好奇心。
(「私」は震災直後の浅草へ見物にさえ行く。)
「伊豆の踊子」を純愛小説と読む人もいるが、自分とは住む世界が違う女に興味を持ち、後を付け回すという点では、この「浅草紅団」と同じ構造だと思う。
違うとすれば、ヒロインの美しさの種類か。
「浅草紅団」の弓子の美しさは、刃物の切っ先のような美しさだ。
退廃と爛熟の中に、危うい透き通った美しさがある。
それにしても、この人、女が好きだねえ。

2008年12月25日木曜日

川柳川柳の伝説

「すいません、酔っ払ってます。」
 その日、高座に上がった川柳川柳は、開口一番こう言った。2001年のゴールデンウィーク、浅草演芸場夜の部、客席は立ち見が出ていた。
 川柳という人には無頼の匂いがある。とりわけ彼の酒の上での失敗は数限りなくあり、師匠六代目圓生のマンションの玄関に、酔っ払って大便をしてしまった話は有名である。私自身、旧池袋演芸場の初席で、彼が酔っ払って高座に上がり噺にならなかったことを見ているし、七代目橘家圓蔵の葬儀の際、来客用のテントの中でコップ酒をあおりながら、「圓蔵は死んだんだ。」と気勢を上げて顰蹙を買っていたところも見ている。
 しかし、この時の彼は、これまでのような無頼漢ではなかった。続けて彼はこう言ったのである。
「右朝が死んだんだよ。今、骨揚げから帰ってきたの。おれが可愛がっていた奴なんだよ。」
 古今亭右朝が亡くなったのは新聞で知っていた。放送作家の高田文夫とは日大芸術学部での同級生。落研時代二人会を開き、学生でありながら上野本牧亭を満員にした伝説を持つ。最初寄席文字書きをしていたが、落語家の夢絶ちがたく、古今亭志ん朝に遅い入門を果たす。52歳。将来を期待されながらの急逝であった。私も彼の高座を見たことがあったが、すっきりとした何とも様子のいい落語家だった。
「右朝知ってる? 新聞に出てたでしょ?」
 川柳が高座の上から客に話しかける。反応はなかった。落語ファンのなかでは評価は高かったが、右朝の存在は広く一般的に知られているわけではなかった。川柳は自分の悲しみを客席と分かち合いたかったのだろうが、よしんば知っていたところでどう反応すればいいのだろう。正直、私は困惑した。
「そうか、知らないか。志ん朝の弟子。志ん朝が死んだって言った方がインパクトあるか? ま、いいや。」
 川柳は前座に水をコップに一杯持ってこさせ、それをぐっと飲み干すと、いつものネタを始めた。手慣れた芸で客席を沸かせた後、「志ん生の伝説を川柳が再現してやったぜ。」と言って高座を下りていった。(五代目古今亭志ん生は酒豪で知られ、寄席の高座で酔っ払って寝てしまった伝説を持つ。)川柳を見送りながら私は思った。確かにこの日、私は伝説を見た。それはただ単に酒に酔った落語家の高座を見たということではない。右朝の死を、川柳川柳がそんなになるまで悲しんだということ、そして、古今亭右朝がそれほどまでに急逝を惜しまれる落語家だったということである。

2008年12月23日火曜日

しみじみと十代目金原亭馬生

 馬生の「うどんや」のテープを持っている。私が高校生の頃に録音したものだから、もう30年も前の音である。 私はこのテープを何度も繰り返し大事に大事に聴いた。
 好きなんだなあ、この馬生。
 様々な客に翻弄される気弱なうどんや。何度も何度も同じ話を繰り返す酔っ払い。ひそやかな馬生の語り口が、しみじみと心に響く。馬生自身、酒に酔うと多少くどくなる癖があったらしい。とすれば、あの酔っ払いなどは、まさにはまり役といっていい。寒風吹きすさぶ中、ちぎれる売り声。サゲ際の、風邪っ引きのお店の若い者が、一心にうどんを食う様子。この「うどんや」の中には、馬生の、名もなきひとへの限りない愛情が感じられる。 
 馬生という人、弱き者、小さき者を描くのがうまい、と私は思う。「干物箱」の善公、「百年目」で旦那の前で恐縮する番頭、こらえこらえて最後に啖呵を切る「たがや」。彼らを馬生は慈しむように丁寧に演じていく。 
 よく父志ん生、弟志ん朝と比較された。人は、父の才能を天真爛漫に受け継いだのが志ん朝で、馬生は父の呪縛を逃れようと、父とは違う路線を歩んだ、と言った。大西信行は、「馬生の不幸は、志ん生の子として生まれたことだ」とまで言った。
 しかし、今にして思えば、志ん生がよくやった三遊系の人情噺を、志ん朝はあまりやらなかった。志ん朝はむしろ、「お客様を泣かしちゃいけない。」と言って落語にこだわった文楽のやり方を継承したように見える。また、出来不出来の激しかった志ん生に対し、志ん朝はどんな状況でも一定の水準は保とうと心がけていた。この辺も、志ん朝は、文楽タイプであろう。
 一方、馬生は、出来不出来の激しい人だった。ひどい時の高座は、ただ噺の筋を追っているだけのようなものだった。端正なように見えて、高座度胸はすごかったらしい。時にはうろ覚えの噺でさえ平気で高座にかけたという。このような天衣無縫さを、三遊系の人情噺とともに、馬生は父からしっかりと受け継いでいる。
 私が東京に出て寄席に通えるようになった頃、既に、馬生は早い晩年を迎えていた。寄席の高座では、ほとんど「しわい屋」ばかりやっていた。その中で、新宿末広亭での「替り目」が強く印象に残っている。「替り目」は、寄席ではポピュラーな噺で、ほとんどいつ行っても誰かがやっている。例の「元帳見られちゃった」の辺りは特に聴かせ所だが、馬生のものほど心にしみじみと迫ってくるものはなかった。 妻にしつこくからみながらも、その実、感謝の気持ちを表さずにはいられない酔っ払い。口ではあれこれ言いながらも、優しく見守る妻。そんな彼らに対して、馬生は限りない愛を注いでいる。そして、高座の上で自在に酔う境地に馬生はいた。
 「元帳見られちゃった。」そう言って、馬生はにっこりと笑って頭を下げた。何ともいえない、優しい笑顔だった。

2008年12月22日月曜日

七代目橘家円蔵師匠のこと

 色川武大言うところの、「オールドタイマー」に入る人であろう。一般のファンにも、仲間内にも、それほど高い評価を得てはいなかったと思う。

 声が小さく聞き取りにくい高座であった。技術的にも格段に優れているようにも感じられなかった。それでも、何だか妙なおかし味があった。軽み、人なつっこさ、屈折した感じ、一言では言い表せない魅力が確かにあった。 

 私は、円蔵師のことを、師匠と呼ぶ。私の大学の落研時代、円蔵師がクラブの技術顧問をされていたからである。

 私にとって、師匠はまさに「雲の上の存在」だった。師匠が合宿などにみえる時、怖い先輩達は「緊張しろ、緊張しろ」と繰り返し言った。先輩自身、緊張しているのが、ありありと見えた。人呼んで「小言の円蔵」。寄席の楽屋でも怖い存在だったらしい。 

 しかし、師匠自身はなかなか面白い人だったのではないか。合宿の時、部員が置き忘れたチューブ入りの軟膏を歯磨きと勘違いして歯を磨いたり(この時師匠は「泡の出ねえ歯磨きだな」と言ったと言う)、ある部員の出身地が北海道の根室だということを受けて、「あそこは遠いもんで、みんな疲れちゃう。もう、ねむろってな」などというセコ洒落をとばしたりもする。我々にとって「雲の上の存在」であっただけに、このようなエピソードが、かえって好もしい。(枝雀師の言う「緊張の緩和」ですな)

 師匠の前半生は、まさに(師匠の著書そのままの)「てんてん人生」であった。鍛冶屋の小僧を振り出しに、ガラス職人、畳屋、弁当屋、雑貨屋、八百屋、船乗り、魚屋と様々な職業を転々とした後、八代目桂文楽に弟子入りして落語家になる。ところが、度重なるしくじりの末破門され、幇間や牛太郎をしていたが、やがて、文楽に再入門、帰り新参として再出発を遂げた。

 当時、師匠文楽は、五代目小さんの小さん襲名で奔走していたため、師匠はほったらかしにされた状態だった。それを同情した六代目円生が、円蔵の名前をくれたという。

 師匠の、屈折した、一筋縄ではいかない感じは、こんな中で育まれたものだろう。しかし、門下から三平、円鏡(現円蔵)という売れっ子を出し、また、それをよく自慢してもいた。二人も師匠思いだったし、最後は落語家として幸せな人だったと思う。

 晩年は「芝浜」や「お直し」などの大ネタに新境地を拓いた。考えてみれば「芝浜」の魚屋も、「お直し」の牛太郎も、師匠がかつて実際にやっていたものだ。私は、そのような大ネタより、むしろ、寄席の真中ぐらいに出てきて、小言めいた世間噺をした後、「紀州」なんぞに入っていく師匠の方が好きだった。

 昭和55年初夏、突然師匠は逝った。師匠文楽、恩人円生と同じ79歳での逝去だった。

2008年12月20日土曜日

八代目桂文楽 生い立ち

明治25年(1892年)11月3日、父親の赴任先である青森県五所川原町に生まれる。

本名並河益義。並河家はもともとは常陸宍戸藩松平家の家臣。士族の家柄である。

父・益功、母・いくの次男。七人兄弟の上から5番目。

父の益功は徳川慶喜の御典医小原家から養子にきた。今業平と言われたほどの美男子だった。

母・いくは器量はよくなかったが、明るく人の気をそらさない性格で、芸事にも優れていた。近所で催しがあると、高級幇間のような役で呼ばれたという。一方感情の起伏が激しく、怒るといわゆるキレる状態になったらしい。

こう見ていくと、文楽はこの母の性質を強く受け継いでいると思う。

文楽自身、円満な人柄ではあったが、実はキレやすい性格だった。しかし、彼は自らの欠点を知っており、周囲の者には「あたしを怒らせないでおくれよ」と言っていたという。

東京根岸に帰るのは、3歳の時。

ということは、文楽の言葉の獲得は津軽の地でなされたということだ。

あの江戸前の芸からは意外な感も受ける。

ちなみに同年の生まれでは、芥川龍之介ときんさんぎんさんがいる。(並べて書くとけっこう凄い)

2008年12月14日日曜日

土浦を歩く

日中、冷たい雨。

久々に土浦の町を歩く。

かつての県南第一の街も、他の地方都市と同じように、今や往時の面影はない。

ただ、古い建物があちこちに残っており、そのたたずまいが好きで、時間があると散策に来る。

昼は「小櫻」。何年も前から高い評価を得ているラーメン屋。

場所が分かりにくいこともあり、今まで行ったことはなかった。

今日は散策の途中、偶然スープの匂いに気づき、発見。

店内を見ると、ひとつだけ空席があった。

「小櫻麺」を注文。色は濃いめだが、絶妙な醤油スープ。

地元で言うエビマコ(川エビの卵を乾燥させたもの、高級品です)がのせてある。

スープを口に含むたび、エビの香ばしさが立ち上る。すこぶる美味。

ちなみにエビマコは、ご飯にかけて醤油をたらすと、これまた旨い。

「小櫻」を出て、中城通りへ。

「蔵」でホットアップルタルトとコーヒーのセット。

五代目小さんの好きだった「アップルペエとコーシー」みたい。

それから、駅前に出て「高月堂」で妻子への土産に「ジャージー牛の生クリームロールケーキ」を購入。

帰宅後、みんなで食べたが、ふわふわで美味しかった。

充実の一日でした。



夕方、晴れる。筑波山頂付近、降雪の様子。

2008年12月9日火曜日

「明烏」

午後から冷たい雨。


夕食はナシゴレン。





もうひとつ思い出話を。


この文楽の代名詞ともいえる噺を初めて聴いたのは、中学3年の時だった。


NHKだったかTBSだったか、ある時テレビで放映されたのだ。


私はラジカセで録音の準備をして放送を待った。


映像は昭和46年3月のもの。文楽の最晩年の口演であった。


後から聴けば、悲しいほどろれつも回らず、とちりも多い。


全盛期とはほど遠い出来だったと思う。


それでも私は魅了された。


枕の牛鍋の何と旨そうなこと。


源兵衛と多助の温度差のおかしさ。


若旦那時次郎の初々しさ。


「お稲荷さんのお籠もり」と騙されて吉原に連れてこられた時次郎が、駄々をこねた末、浦里花魁と一夜をともにした翌朝。


「花魁は口でばかり起きろ起きろと言ってますが、あたしの手をぐっとおさいて・・・」


中学3年生の私でも、その時、この78歳の老人に匂い立つ色気を感じたのだ。


そして、絶品の甘納豆の仕草。(その昔、文楽が「明烏」を演った後は、売店の甘納豆が飛ぶように売れたという)


この時録音した「明烏」のテープは、それこそ大事に大事に何度も聴いた。


同級生のE君に聴かせると、彼も感動していた。



彼が家に遊びに来ると、いつも母親の煮た大根を食べながら、二人で「明烏」を聴いたものだった。


今思うと、二人とも変な中学生だったよなあ。

2008年12月7日日曜日

「締め込み」

晴。寒風。
昼は家族で近所の中華屋。五目そば。田舎の素朴な中華そば。旨し。
夜はわかめそば。頂き物の目刺し。菊正宗熱燗。体の中から暖める。

文楽との出会いは中学2年の時。
ラジオで「締め込み」を聴いた。
空き巣がこさえた風呂敷包みが元での夫婦喧嘩。
そのおかみさんの啖呵にしびれた。
ぐっとためての「はばかりさまっ!」
お互い惚れ合っているからこその大喧嘩。
喧嘩の場面の迫力に圧倒されながらも、おかみさんのいじらしさ可愛らしさにひっくり返って笑った。
まさに心を奪われた瞬間でした。
以来、私は八代目桂文楽の名前を追いかけるようになります。
「締め込み」自体は、文楽のネタの中で最高の評価を得ているわけではありません。
でも、私にとっては文楽との出会いとなった特別なネタになりました。
そういう宝物を持っているというのも、幸せなものなんだなと思います。

余談ですが、後年私は落研に入り、憧れの「締め込み」を演ることになります。
ところが、あの夫婦喧嘩の場面、一所懸命やればやるほど笑いがこない。
発表会で一度演っただけ、結局モノにできませんでした。難しい噺だと思います。

2008年12月6日土曜日

開口一番

新聞広告を見て、今月号の「サライ」を購入。

八代目桂文楽の復刻手ぬぐいをゲットする。

黒門町は私がいちばん好きな落語家。

中学2年の時、ラジオで聴いて以来、惚れています。

他にも好きな人はたくさんいるけど、これからもずっといちばんであり続けると思う。

もちろん、文楽が完全無欠の存在である、とは言わない。

彼の足りない所も、不得手な分野の存在も分かった上で惚れている。

多分、私にとって、八代目桂文楽は運命の人だったんだと思う。

ただ、ここのところずっと、一方の雄の志ん生に比べて、文楽を語る人が少ないのは少々寂しく感じます。

文楽ファンとして、かれこれ30年余、私なりに色々思ったことなどをたらたら書いていこう、とふと思い立ちました。

よろしかったら、お付き合いくださいませ。