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2008年12月22日月曜日

七代目橘家円蔵師匠のこと

 色川武大言うところの、「オールドタイマー」に入る人であろう。一般のファンにも、仲間内にも、それほど高い評価を得てはいなかったと思う。

 声が小さく聞き取りにくい高座であった。技術的にも格段に優れているようにも感じられなかった。それでも、何だか妙なおかし味があった。軽み、人なつっこさ、屈折した感じ、一言では言い表せない魅力が確かにあった。 

 私は、円蔵師のことを、師匠と呼ぶ。私の大学の落研時代、円蔵師がクラブの技術顧問をされていたからである。

 私にとって、師匠はまさに「雲の上の存在」だった。師匠が合宿などにみえる時、怖い先輩達は「緊張しろ、緊張しろ」と繰り返し言った。先輩自身、緊張しているのが、ありありと見えた。人呼んで「小言の円蔵」。寄席の楽屋でも怖い存在だったらしい。 

 しかし、師匠自身はなかなか面白い人だったのではないか。合宿の時、部員が置き忘れたチューブ入りの軟膏を歯磨きと勘違いして歯を磨いたり(この時師匠は「泡の出ねえ歯磨きだな」と言ったと言う)、ある部員の出身地が北海道の根室だということを受けて、「あそこは遠いもんで、みんな疲れちゃう。もう、ねむろってな」などというセコ洒落をとばしたりもする。我々にとって「雲の上の存在」であっただけに、このようなエピソードが、かえって好もしい。(枝雀師の言う「緊張の緩和」ですな)

 師匠の前半生は、まさに(師匠の著書そのままの)「てんてん人生」であった。鍛冶屋の小僧を振り出しに、ガラス職人、畳屋、弁当屋、雑貨屋、八百屋、船乗り、魚屋と様々な職業を転々とした後、八代目桂文楽に弟子入りして落語家になる。ところが、度重なるしくじりの末破門され、幇間や牛太郎をしていたが、やがて、文楽に再入門、帰り新参として再出発を遂げた。

 当時、師匠文楽は、五代目小さんの小さん襲名で奔走していたため、師匠はほったらかしにされた状態だった。それを同情した六代目円生が、円蔵の名前をくれたという。

 師匠の、屈折した、一筋縄ではいかない感じは、こんな中で育まれたものだろう。しかし、門下から三平、円鏡(現円蔵)という売れっ子を出し、また、それをよく自慢してもいた。二人も師匠思いだったし、最後は落語家として幸せな人だったと思う。

 晩年は「芝浜」や「お直し」などの大ネタに新境地を拓いた。考えてみれば「芝浜」の魚屋も、「お直し」の牛太郎も、師匠がかつて実際にやっていたものだ。私は、そのような大ネタより、むしろ、寄席の真中ぐらいに出てきて、小言めいた世間噺をした後、「紀州」なんぞに入っていく師匠の方が好きだった。

 昭和55年初夏、突然師匠は逝った。師匠文楽、恩人円生と同じ79歳での逝去だった。

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