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2017年12月30日土曜日

今日の日記

朝、納豆カレー。
妻と次男は、妻の実家に餅を届けに行く。長男は冬休みの宿題をやると言って家に残る。私も留守番。
宿題が一段落した長男と近くのホームセンターに行って、障子紙と菊正宗樽酒純米を買う。
昼はスーパーで買って来た、鴨ロースト丼と緑のたぬき。
午後は洗車。
漱石の『それから』を読む。『三四郎』を読み返して面白かったので、三部作の2作目に取り掛かっている。代助と三千代の悲恋がいよいよ佳境に入る辺り。
アマゾンで頼んだ、友川カズキの『光るクレヨン』が来たので、早速聴く。西東三鬼の句に目を付けたか。友川節が炸裂。残り1枚、定価より1000円以上高い値段で買ったけど、それでも買ってよかったな。
夕方ビール。
晩飯は石焼ビビンバにすいとんで燗酒。すいとん、久々に食べた。旨かったよ。義妹の会社の社長さん手作りのキムチも旨しでした。



2017年12月29日金曜日

天宝 和風スタミナラーメン


鉾田市、天宝。和風スタミナラーメン。800円也。
茨城県のご当地ラーメンに、「スタミナラーメン」というのがある。本場は水戸で、ラーメンガイドに載っているような名店も多い。醤油味のラーメンに、キャベツ、ニラ、カボチャ、レバー等を炒めてとろみをつけた、甘辛い餡が載っている。
天宝では、これとは別に、もつをふんだんに使った「スタミナラーメン」というメニューがあり(以前このブログで取り上げた)、茨城で言う「スタミナ」の方は「和風スタミナラーメン」と呼んでいる。
けっこう唐辛子を使っていて辛さは半端じゃないが、カボチャの甘味がいいアクセントになって癖になる旨さ。いつの間にかスープまで飲み干してしまったよ。ここのは、でっかいレバーがごろごろ入っていて、実に良心的なのだ。旨し。


レバーとニラはよく合うが、そこにカボチャを加えたのが秀逸だな。
茨城へお越しの際は、是非お試しください。

2017年12月27日水曜日

㋑食堂 豚七味焼き定食


鉾田市、㋑食堂。豚七味焼き定食。
かつて七味焼きといえば、「たきのい食堂」であった。あの震災で、「たきのい」が閉店してからこっち、私は七味焼きを食べていない。
その七味焼きが、㋑食堂で食べられるということを、最近知った。行こう行こうと思いながら機会がなく、やっと今日、念願が叶うことになったのである。
副菜が2つ付いて750円。「たきのい食堂」が副菜なしで900円だったから、大分リーズナブルである。
もちろん、「たきのい」そのままの味を求めてはいない。「たきのい食堂の七味焼き定食」は、6年も前の思い出の味だ。相当にハードルも上がっていよう。あくまで「㋑食堂の豚七味焼き定食」を楽しみたい。
ではアップで。

画像が暗いな。席の選択を間違えたか。

御飯はちょっと控えめ。辛さにもう少しパンチがあってもいいが、やっぱり御飯が進むなあ。この次は大盛りにしよう。千切りのキャベツが、またよく合うんだよなあ。旨かったよ。何より七味焼きがいつでも食べられることが分かって心強い。
メニューも多いので、色々試してみよう。いい持ち駒ができました。


2017年12月25日月曜日

メリー・クリスマス


メリー・クリスマス。
昨日のイブは、懸賞で当たった和牛サーロインステーキを焼いて食べ、赤ワインを飲んだ。
今日は鯖の味噌煮で燗酒を飲む。鯖の味噌煮は長男のリクエスト。次男はクリスマスだからチキンが食べたいと言って、鶏のもも焼きにかじりついていた。

ジョン・レノンは『ハッピー・クリスマス』の中で、「もしあなたが望むなら、戦争は終わる」と歌っていたけど、勇ましい人たちは、そういう言葉を「お花畑だ」と言ってせせら笑う。だけど、その勇ましい人たちが、自ら武器を手に取り、最前線で戦う気があるようには思えない。勇ましい人たちは、勇ましい言葉で、ほかの誰かを最前線に送り込もうとしているように見える。

沖縄の小学校に、米軍のヘリから部品が落ちた。当然、米軍に対する抗議の声が挙がったが、一方で「自作自演じゃないのか」とか「そんな所に学校を作るな」とかいうクレームの電話が、その小学校にかかってきているという。

メリー・クリスマス。
私たちは今、そういう世界に生きている。

2017年12月19日火曜日

火の見櫓 その13

久し振りの火の見櫓特集。あまり需要はないとは思いますが。
まずは、大子町袋田の火の見櫓。きちんと半鐘が付いています。



お次はこれも大子町。袋田から国道を南下して少しの所にありました。

竹が生い茂っていて、これで見晴らしはどうなんでしょうね。

今度は潮来にあったやつ。ビジネスホテルの裏っ手に、ぽつんと立っておりました。


装飾性の少ないタイプ。

今日はこんなところで。
在庫はここまで。また見つけたらアップします。

2017年12月17日日曜日

この週末

昨日の日記。
朝、雑炊、味噌汁。
土曜講座の長男を駅まで送る。
帰りに恋瀬川の堤防で写真を撮る。日の出が美しい。落語『芝浜』を思い出す。





家で本を読む。梯久美子著『狂うひと/「死の棘」の妻・島尾ミホ』。
前の日には、沢木耕太郎の『檀』を読んでいた。こちらは、『火宅の人』の檀一雄の妻、ヨソ子の物語。
『死の棘』、『火宅の人』と言えば、浮気小説の双璧。どちらも壮絶極まりない話だ。その妻の記録。続けて読むと、かなりきつい。それでもぐいぐい読まされてしまう。
昼は焼きそば。
午後、長男を学校まで迎えに行き、帰りに耳鼻科に寄る。先週はずっと次男が風邪で学校を休んでいた。ここへきて長男と妻も風邪を引いたらしい。
夕食はきのこチャウダー、手羽先で赤ワイン。

今日の日記。
朝、御飯、味噌汁、目玉焼き、ウインナー、納豆。
次男が月1ぐらいで「お教室」的な所に通っており、千葉の南流山まで連れて行く。いつもは妻が行くのだが、今日は風邪でお休み。
つくば駅からTXに乗る。冬晴れ、筑波山、富士山がきれいに見える。
次男をお教室に預け、南流山の街を散策する。

南流山の駅前。

イベントをやっていた。

大通りに出る。

千葉県のお菓子屋といえば、これ。オランダ屋。

流山と松戸の間を流れる川。

東京スカイツリーが見える。



店主がベンチャーズのファンなのだろうか。

JR武蔵野線、南流山駅。

お教室が終わった次男と、駅前のモスバーガーで昼食。
1時半ごろには家に帰る。
おやつにキリンハートランドビール。妻と、お土産に買って来たミスタードーナツのシナモンアップルを食べる。
夕食は、父が買って来たとんかつで燗酒。
引き続き『狂うひと/「死の棘」の妻・島尾ミホ』を読む。圧倒的な取材量。じっくり読み進めようと思う。

2017年12月14日木曜日

『友川カズキ独白録 生きてるって言ってみろ』



土浦イオン、未来屋書店のリサイクル本コーナーで買う。

友川カズキ。1950年生まれ。秋田県山本郡八竜村出身。フォーク歌手。
といっても、ほとんどの人は知らない。
大学時代、秋田県出身の女の子に訊いてみたら、知っていたけど、「あんなの歌じゃないです」と一刀両断された。
このブログでも何度か書いているが、私は高校時代からこの人のファンであった。しかも、私の大学時代のアパートは、友川のアパートと番地が1つしか違わなかった。通っていた銭湯も同じで、同じ湯船に浸かったりもしていたのだ。

2015年刊。65歳になった友川カズキが、自分の半生を、仕事を、人生観を、縦横無尽に語り尽くす。
中学2年で中原中也の「骨」に出会って詩作を始めた。能代工業高校でバスケットボールがやりたくて中学浪人し、高校時代は部活に明け暮れた。上京して就職するが、色々あって故郷に舞い戻り、ぶらぶらしていたところを能代工の恩師から中学校のバスケのコーチを紹介され、指導者を目指すが、挫折。故郷にもいられず、上京し、川崎で日雇いの肉体労働をしながら、詩作、曲作りにのめり込む。1974年、24歳で歌手デビュー。
本人曰く、「歌だけで食えた例(ためし)がないんだな。よくステージでも言いましたよ。『土方が歌ってるのか、歌手が土方やっているのか、自分でもよく分かりません』って。」
以来40年以上、それでも友川は歌い続けている。その間、友川はずっと友川だった。叩きつけるようにギターをかき鳴らしながら、難解な歌詞を秋田訛で、叫ぶように歌う。まるで血管が切れそうなくらい。長いキャリアを積んでも、少しも洗練されることはない。それがすごい。
この本の冒頭で友川は言う。
「私、ひとりでなければなんにもできないって思ってるんです。
 自分自身、変な人間だとは思っていますけどね。生活も性格も破綻寸前でなんとか踏みとどまってるに過ぎないんですが。表現者の端くれとしては、『ひとりである』ということがすべての起点であり、基準であり、全部でもあるわけなんです。群れちゃダメだ、簡単に他人と肩を組んだり握手しちゃいけないってね。それだけは、今も昔も変わらない。」
見事なもんだな。友川カズキという人間が、このセリフに凝縮されている。いいなあ。個人であることがしんどいこの国で(「日本国民は個人として尊重される」という日本国憲法の条文を、「人として」に変えたがっているようなこの国で)、気負いもせず、さらっとこんなことが言える友川は、やっぱりかっこいい。
初エッセイ集の『死にぞこないの唄』が、幾分青臭い、若さに任せて突っ走る感があったのに対し、こちらは年を経て、さらに強靭になった感じ。たこ八郎との交友、名曲『無残の美』のもとになった弟の自殺、ギャンブル、絵、等々、内容も分厚い。そうか、息子が4人もいるんだなあ。(ふと気づいたが、恋愛の話だけがない)
よく文学書で『芥川龍之介必携』とか『宮澤賢治必携』とかあるけど、まさに『友川カズキ必携』的な1冊であります。

余談だが、あの友川が住んでいた川崎のアパート「藤荘」は、元青線だったそうな。知らなかったよ。あの辺、ただの住宅街だったんだけどなあ。

2017年12月10日日曜日

高浜を歩く

朝、マフィン、コーンスープ。
午前中に、車のタイヤ交換に行く。
昼は、サッポロ一番みそラーメン。
午後、長男のピアノの送迎。1時間ぐらい時間があったので、高浜の街を歩く。

高浜は、霞ケ浦の舟運で栄えた。
古くは『常陸風土記』にもこんなふうに描かれている。
「そもそもこの地は、乗り物を命じて行き、舟を漕ぎ出して遊ぶ。春には花々が浦を彩って鶯が鳴き、秋には岸の木が色とりどりに紅葉し、宙を舞う鶴を渚の干潟で見ることができる。農夫の若者と海女の娘が浜辺で群れ集い戯れ、商人や農夫たちの小舟が行き交う。まして真夏の暑い朝、蒸す夕暮れ、友を呼び、僕(しもべ)を引き連れて浜かげに腰を下ろし、海上はるかを眺めやる。さざ波が立ち、夕風が吹いてくると、暑さを避けて集まった者たちは、心の憂さを風に払い、日が傾くに従って、涼を求める者たちは、喜びに心を動かすのである。」

セブンイレブンでミルクティーを買い、まずは高浜神社から歩き出す。
祭神は武甕槌尊。常陸国の国司は着任すると、高浜から舟に乗って鹿島神宮に参拝した。荒天で船が出ない場合には、高浜に仮殿を作り遥拝したという。その遥拝所のあった所に建てられ、この地の鎮守の神となった。

屋根は拝殿も本殿も茅葺。
拝殿は最近葺き替えた。


寛政年間の祠。

県道沿いを歩く。
親鸞聖人爪書阿弥陀堂。鎌倉時代の建立。
親鸞聖人が平石に爪で書いたとされる阿弥陀碑が厨子の中に安置されているとのこと。その昔、背後の台地の南縁に西光寺という寺院があったが、廃寺となって、現存するのはこの阿弥陀堂のみらしい。


修復前は瓦屋根だった。
その頭頂部が残されていた。

少なくはなったが、道沿いには往時を偲ばせる古い建物がまだまだ残っている。

肉屋さんの看板建築のレリーフ。

古い商家。


大杉神社。美浦村の「あんばさま」が有名。海河の守護神だから、ここ高浜でも信仰を集めたんでしょうなあ。


霞ケ浦を望む台地の上にある。

台地の上を歩き、高渕寺に出る。


絶景だねえ。

ここから下りて、恋瀬川の堤防に出る。

恋瀬川河口。

鴨がいっぱい泳いでた。



帰って夕方ビール。
夜は、妹がお歳暮に送ってくれた牛肉でしゃぶしゃぶ。義母が買ってくれた「渡舟純米吟醸」を飲む。しみじみ、旨いねえ。

2017年12月5日火曜日

扇歌、その他の雑談

前々回話に出た、七代目都々一坊扇歌について詳しいことが分かったので書いておく。
『いしおか 昭和の肖像』では、盲人らしい初老の男が、羽織姿で三味線を弾いている写真があった。彼が七代目扇歌であるのは間違いない。
その人が、『古今東西 落語家事典』(平凡社)に載っている。
本名、天野春吉。明治23年3月生まれ。昭和60年6月7日没。
7歳ごろ失明。初め三代目柳亭燕路の弟子となり勝丸。明治末に二代目三遊亭小圓遊門に移り、小登吹から三代目富士松ぎん蝶を襲名した。昭和27年頃、自ら七代目都々一坊扇歌を名乗る、とある。
石岡の「都々逸祭り」で、彼が扇歌堂の前で都々逸を奉納したのが、昭和27年の11月28日であった。確かに『古今東西 落語家事典』の記述と符合する。
Suziさんからもらった『芸人重宝帳』(昭和46年度版)を見てみたが、都々一坊扇歌も富士松ぎん蝶の名前もない。もうこの頃には寄席に出ていなかったのだろう。
生没年から見ると95歳の長寿を保ったらしい。一体、どのような芸人人生を送ったのだろう。興味がある。

今年、三遊亭小円歌が、二代立花家橘之助を襲名した。こうなると、柳家小菊にも何か大きな名前を継がせたくなってくる。ついちゃあ、八代目都々一坊扇歌なんかどうでしょう。二代目、四代目が女性だったというから、小菊が継いでもおかしくはない。しかも初代の師匠は、初代船遊亭扇橋で、柳家の源流に当たる人である。系譜としても筋が通る。ぜひ、御一考願いたい。

閑話休題。
八代目桂文楽の川柳に、「日本は今各国のたいこ持ち」というのがある。
小心な文楽は、この句が表に出て政府批判と取られるのを恐れたという。武力に依らず、世界の国々の間を取り持とうという態度は実に立派で、政府批判になんかなり得ない、と私などは思うのだが、戦時中の言論統制を経験した文楽には、この程度のことでも恐れるに十分だったのかもしれない。
むしろ、今や「アメリカのたいこ持ち」、「トランプのたいこ持ち」という状態。しかも、江戸の昔、政府批判に対する攻撃は、鹿野武左衛門や初代都々一坊扇歌の時のようにお上から降ってきたものだが、今は横から弾が飛んで来るからなあ。
文楽師匠、今の方がやばいっす。

紅葉もそろそろ終わりだねえ。


2017年12月2日土曜日

鹿島で行楽

今日は天気もいいし、お兄ちゃんのテストも終わったし、どこかへ出かけよう、ということになった。
では、常陸の国一之宮、鹿島神宮なんかどうだい、と長男に訊くと、ぜひ行きたいと言う。次男はあまり気が進まないようだったが、それでも皆でお出かけということもあり、喜んで車に乗り込んだ。

10時半頃、鹿島神宮到着。
私はこの間来たばかりだから、あまり写真も撮らず、案内役に徹する。
拝殿をお参りし、参道を奥に進む。晴れてはいるが、空気は冷たく、寒い。でも、心地よい寒さだな。
鹿園で、次男が鹿に餌をやる。鹿島は昔、「香島」と表記されていたが、神宮の神の使徒が鹿であったことから、「鹿島」となったという。
奈良の春日大社に鹿島神宮の武甕槌命を勧請した時、命が白鹿に乗って上ったという伝説があり、奈良でも鹿は神様の使いとして大事にされた。あの落語『鹿政談』の鹿は、鹿島由来のものだったのだなあ。
奥宮、要石と見て、奥宮前の茶店で甘酒を飲む。子どもたちは抹茶甘酒、妻は小豆甘酒、私は普通のをいただく。
それから御手洗池に下りた。

要石と御手洗池を示す道標。

この辺でちょうどお昼時。前の茶店で食事ができるようなので、ここで昼食にする。
新蕎麦の時期、せっかくだからと蕎麦を頼む。男子チームはせいろ、妻は温かいのがいいと言って、かけにした。蕎麦は御手洗池の湧水を使って打ったもの。腰があって旨かった。


参道を戻る。参道は地元の方々によって掃き清められている。まさに神域の名にふさわしい清浄さである。


子どもたちは宝物殿を見学。私と妻は表で待つ。
鹿島アントラーズの、必勝祈願の寄せ書きがあった。



ここで鹿島神宮を後にし、お隣の神栖市の港公園に行く。


鹿島開発の象徴である、日本一の堀込港、鹿島港の完成を記念して造られた。岩上二郎、竹内藤男、二代の県知事の名前が刻まれている。
タワーに登ると、鹿島港と鹿島臨海工業地帯が一望できる。







実は私、「工場萌え」もするのである。

3時ごろ帰宅。皆でおやつ。
その後、ごろごろしながら、ベニー・グッドマンとセロニアス・モンクのレコードを聴く。
夕食は、ししゃも、豚の味噌漬、きつね納豆で燗酒。ししゃもは八海くんが送ってくれた北海道産。肉厚で卵もぎっしり。この辺のスーパーで売っているのとはレベルが違う。旨し。

子どもたちを連れて鹿島に行くのは初めてだったか。気が進まなさそうだった次男が、ずいぶん楽しそうだった。