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2017年12月1日金曜日

初代都々一坊扇歌

石岡市、国分寺の境内に扇歌堂というのがある。
それがこれ。

初代都々一坊扇歌。生年は文化元年(1804年)ではないかといわれている。同世代には三遊亭円朝の師匠である二代目圓生(文化2年生まれ)、「八丁荒らし」と言われた初代古今亭志ん生(文化5年生まれ)がいる。
常陸国佐竹村(現在の茨城県常陸太田市)の医師の家に生まれた。子どもの頃に疱瘡に罹ったが、医師の父親が「疱瘡に鰹は毒だ」という通説を我が子で実験したために弱視となる。養子に出されるも、17歳で家出、三味線の門付けをしながら放浪し、当時流行した「よしこの節」や「神戸節」をもとに都々逸を作り上げた。
江戸に出て門付けをしているのを見出され、初代船遊亭扇橋の弟子になる。扇橋は初代三笑亭可楽門下。可楽十哲の一人に数えられ、音曲噺の元祖として知られた。
扇歌は、都々逸、曲弾き、謎解きを売り物に評判を取る。だが、嘉永3年(1850年)、謎解きが政府批判と取られ、江戸を追放になる。常陸府中(現在の石岡市)の姉の嫁ぎ先に身を寄せ、2年後の嘉永5年(1852年)、この世を去った。享年49歳。ペリー来航の前年であった。

扇歌終焉の地を記念して、国分寺境内に扇歌堂が建立されたのが昭和8年(1938年)。昭和27年(1952年)11月28日には、石岡市観光協会主催による「都々逸祭り」が開催された。当日は堂の直径が2mもの大三味線が登場して街を練り歩き、市民の目を驚かせる。堂前では七代目扇歌が都々逸を奉納したということである。
あの都々逸の元祖所縁の地が、すぐ近くにあるというのが何とも嬉しいね。

都々逸は7・7・7・5、あるいは、5・7・7・7・5の音で歌われる。寄席でもおなじみだが、花柳界で好まれたせいか、色っぽい文句が多い。
「明けの鐘 ぼんと鳴る頃 三日月形の 櫛が落ちてる 四畳半」
「弱虫が たった一言 小っちゃな声で 捨てちゃ嫌よと 言えた晩」
「四国西国 島々までも 都々逸ぁ恋路の 橋渡し」
「三千世界の 烏を殺し 主と朝寝が してみたい」(高杉晋作の作と言われる)
ね、いいでしょ。
初代扇歌作では「白鷺が 小首かたげて 二の足踏んで やつれ姿の 水鏡」というのがあります。
酒の方では、「お酒飲む人 花ならつぼみ 今日も咲け咲け(酒酒) 明日も咲け」というのが、よく落語の枕で使われますな。私としては、昔、永六輔のラジオで聞いた、(うろ覚えだけど)「寂しがり屋が 寂しがり屋に 一升提げて 会いに来る」というのが、好きだねえ。

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