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2009年5月15日金曜日

桂文楽 真打ち昇進

大正6年、さん生は五代目柳亭左楽のもとで、翁家馬之助を襲名し、真打ちに昇進した。
左楽の睦会は、東京演芸会社に対抗して結成された。三代目小さん、四代目圓蔵などの当時の大看板はこぞって演芸会社に参加した。したがって、睦会は若手を売り出すしか手はなかった。左楽は有望な若手を重用する。
その中に、馬之助もいた。彼の端正で明るく艶やかな芸は人気を呼んだ。中でも、三遊亭志う雀から教えて貰った『明烏』は強力な売り物になった。
『明烏』という噺は、新内『明烏夢泡雪』のパロディー『明烏後正夢』の発端の部分、稀代の堅物、日向屋時次郎の、吉原での初体験を描く。初午の日、遊び人の源兵衛と多助に「お稲荷さんのお籠もり」と騙されて、時次郎は吉原に行くことになった。(そこには息子の堅物さを心配した父親の意志も大いに反映されていた。)疑うこともなく登楼するが、やがて、そこが女郎屋であることに気づき大騒ぎする時次郎に、二人は「今一人で帰れば不審に思われ、門番に大門で拘束されるのが吉原の決まりだ」と脅す。やむなく時次郎は泊まることに同意する。そこで彼の敵娼で出たのが、絶世の美女、浦里。さて翌朝、二人が部屋を訪ねると、時次郎は昨夜至福の時を過ごしたらしい。二人は帰ろうとせかすが、時次郎は同衾している浦里と離れようとしない。業を煮やして自分たちだけで帰ろうとする二人に、時次郎はこう言う。「あなた方、帰れるもんなら帰ってご覧なさい。大門で止められる。」
当時は際どい描写もあったというこの噺を、馬之助は、品良く、さわやかな色気あふれる一遍に仕立て上げた。しかも、翌朝の場面で、多助がぼやきながら食う甘納豆の仕草が評判を呼ぶ。(この仕草は三代目三遊亭圓馬に厳しく仕込まれた賜であろう。)馬之助が『明烏』を演じた後は、売店の甘納豆が飛ぶように売れた。
こうして、馬之助は新進気鋭の若手真打ちとして認められるようになった。
大正8年、馬之助は最初の妻おえんと別れ、日本橋にある「丸勘」という旅館に婿に入る。桂文楽を襲名するのはその翌年。要は金のためである。
前に書いたが、おえんは大阪でお茶子をしていた。馬之助とともに東京に出て所帯を持った。おえんは、年下の馬之助に懸命に尽くした。売れっ子の若手真打ち、男っぷりもいい、素人玄人問わず、女にもてた馬之助に捨てられまいと必死だったのだろう。馬之助が足を挫いたときは、彼を背負って医者に連れて行ったという。私は『厩火事』のお崎さんは、このおえんがモデルではないかと見ている。
その糟糠の妻を、馬之助は(手切れ金は払ったというが)、いとも簡単に捨てた。当時のゴシップ紙には「馬之助のイロになると尻の毛まで抜かれる」と書かれる始末だった。

馬之助がめきめきと売れ出したのと同時期、古典の世界に近代的な解釈を施した短編小説を次々に発表し文壇の寵児となった青年がいた。馬之助と同じ明治25年生まれの、芥川龍之介である。

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