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2009年4月15日水曜日

立川談志考 その2

前回、立川談志の芸は客との特別な関係を求める、と書いた。それを私が意識したのは、談志が落語協会を脱退した後である。
立川流創設後の「ひとり会」を収めたビデオを観て、私はちょっとした違和感を覚えた。そこにはまさしく談志と客との特別な関係があった。客は談志を求めて集まる。談志はその支持者を前に、思う存分持論を披露し、苦悩や迷いをさらけ出す。踏み込んだ表現を使えば、客も談志も、お互いに媚びているような印象を受けたのだ。
談志が落語協会を脱退したのは、弟子の真打ち昇進問題が発端だった。弟子が真打ち昇進試験に落ちたのに腹を立て、落語家の狭い世界にほとほと嫌気がさしたのだという。そして、他の芸能や娯楽と真っ向勝負をすべく、あえて寄席を捨てたのだ。多くの人が、この出来事をそのようにとらえているが、私の見方は少々異なる。
談志の協会脱退は昭和58年。それに先立つ昭和53年、協会の分裂騒動があった。六代目三遊亭圓生が、五代目柳家小さんの協会運営、とりわけ大量真打ち昇進に反対し、一門始め古今亭志ん朝、七代目橘家圓蔵一門を引き連れて落語協会を脱退し、新協会を設立するというものだった。この事件に談志が深く関わったことは有名な話だ。談志自身が新協会設立のプランを圓生に進言し計画を推進したが、圓生が後継者に志ん朝を指名するやいなや、その話から抜けてしまう。圓生らは新協会設立を発表するも、席亭の支持を得られず、志ん朝と圓蔵一門は落語協会へ戻ることになる。
談志が暗躍したことは周知の事実だった。師匠小さんを裏切った上、圓生を支えきることもせず、あっさりと寝返った。その行動は、周囲の顰蹙を買うに充分だったろう。加えて、正式に反旗を翻した志ん朝らに対し、落語協会はペナルティーを課さなかった。弟子のために寄席の高座を失いたくない一心で、どんな罰をも受けるつもりで戻った志ん朝は、神妙に「これからは芸で勝負します」と誓い、かえって男を上げた。以後、柳家一門にも協会内部にも、談志に対し冷ややかな空気が流れたことは想像に難くない。
談志は強面で強いイメージがあるが、その実、繊細で臆病な人だと思う。針の筵のような協会にいるのが嫌だった。それよりも、圧倒的支持を得られる環境が欲しかった。案外、落語協会脱退の直接の動機は、そんなものだったのかもしれない。
熱狂的なファンを持つ談志に、もはや寄席は必要なかった。独演会を開けば、たちまち切符は売り切れた。談志は立川流を創設し、自らを家元と称した。そして、著名人を弟子にし、そのブランドイメージを高めた。多くの著書をものし、自分の価値観に反する者には激烈な批判を展開した。こうして、談志は、彼を取り巻く人々と濃密で特別な関係を結んでいく。誰もが彼を尊敬し、畏怖し、支持した。それは談志の望むべき環境だったに違いない。

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