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2009年3月10日火曜日

桂文楽 旅暮らし

明治43年、桂小莚18歳で二つ目昇進。同年、後の古今亭志ん生、美濃部孝蔵は二代目三遊亭小圓朝に入門し、三遊亭朝太の名前をもらう。小圓朝は小莚を師匠小南に紹介してくれた人である。もしかしたら、二人の名人の初対面はこの時期だったかもしれない。
小莚は前座修業を2年で駆け抜けた。本来であれば、洋々たる前途が開けているはずだった。しかし、翌年、師匠小南が別派を立てようとして頓挫。小南は大阪へ帰ってしまう。
師匠をなくした小莚は小金井芦洲の一座について旅に出る。ところが、この芦洲先生、芸は凄いが人間はずぼら。ワリを全部自分で飲んでしまう。しかし、いったん芸を目の当たりにすると給金をもらえないことも忘れ、見惚れてしまう。挙げ句の果てに芦洲先生、興行の途中で東京へドロンしてしまった。
やむなく小莚は名古屋へ下る。そこで三遊亭圓都の身内になり、小圓都を名乗り一緒に旅回りをすることになった。圓都夫妻にかわいがられ、評判も上々、女にももてた。しかし、明治天皇崩御に伴う歌舞音曲の停止令で一座は解散。小莚もいったん東京に帰った。
だが、まだまだ小莚の旅は終わらない。まもなく京都に出て笑福亭という寄席の楽屋に1年間暮らし、その後は大阪に移り富貴に1年間出演、翌年は神戸、さらには中国大陸にまで遠征した。結局、旅暮らしは5年にも及んだ。
旅は修羅場をくぐることでもある。東京のままの綺麗事の芸では通用しない。どんな客相手でも受けなきゃならない。お題噺、落語角力など即興性を要求される場面もある。後の文楽にとってこの旅は、ビートルズのハンブルグ興行のように、実戦的な修業の日々でもあり破天荒な青春の日々でもあったろう。実際、この時代を話す時、文楽は楽しげだったように思う。
ただ、後に文楽はこう語る、「旅で芸は達者になるけど、くさくなる」。いつまでもそこにどっぷりと漬かっていると、道を誤ることになるのだ。
大正5年、小莚は東京に帰った。ここで彼はもう一人の人生の師と出会うことになるのである。

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