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2009年3月12日木曜日

桂文楽 旅暮らし(補足)

前回の補足。

別派を立てようとした小南が所属していたのは三遊派だった。その三遊派の頭取は二代目小圓朝。つまり、この時点で小南と小圓朝は敵対していたことになる。
小南の企ては失敗し、大阪へ落ちた。師匠の家に住んでいた小莚は、師匠と共に住処をもなくした。師匠なしでは寄席にも出られない。小莚は師匠に捨てられたのだ。
ここで私は、なぜ小莚はむらくの弟子にならなかったのだろうという疑問を持つ。その芸に心酔し、目もかけられていた。当時むらくは29歳。若手ではあるが、別に弟子をもってもおかしくはない年齢だと思う。むらくが四代目橘家圓蔵との確執によって東京を捨てるのはその5年後。小莚が東京へ帰る直前である。まだ、むらくは東京にいたのだ。
しかし、小莚は小金井芦洲について旅に出た。芦洲の芸にも惚れていたというのがその理由だ。当時、旅で修業するというのが一般的なやり方だったのかもしれない。ただ、ひとつ言えるのは、小莚はここで(意識的かどうかは定かではないが)自立の道を選んだのである。
ちなみに、小圓朝も月給制の失敗から多額の負債を抱え、程なく旅に出る。もちろん弟子の朝太(後の志ん生)もそれについて行った。旅の途中で朝太は師匠と別れ、小莚と同時期、2年の間旅暮らしをしている。

小莚が旅で辿ったルートは次の通り。まず芦洲と静岡へ。芦洲に捨てられ名古屋へ落ちる。名古屋で圓都の身内になり、金沢、福井と北陸を旅する。明治天皇崩御で一座は解散。いったん東京へ戻るものの再び旅へ。京都桂派に属し笑福亭に住み込む。ここでは後の三代目春風亭柳好と一緒だった。その後は大阪。そして神戸。1年後、大連行きの一座に参加。長春、遼陽まで遠征した。

随分長い補足ですみません。もっとよく調べてから書けよということですな。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

これ、考えすぎですけど、この時点の文楽は圓馬のことが嫌いだったから弟子にならなかったんじゃないですかね?川に落とされたりしたり、今考えたらパワハラですしw

よくある縦社会ですけど、人間は嫌いだけど能力はあってこの人から学ぶことが多いから仕事として自分のためにも付き合うし、この人に認められたい、見返したいって気持ちがあってしつこく通ってたってのもあると思いますよ。

でも、真打になって文楽も歳を歳をとって経験して成長したことや、圓馬も歳をとって丸くなったことで文楽との付き合い方も変わって、次第に文楽も嫌いから好きに変わっていったんだと思いますよ。

よくある話ですよ、嫌いだったけど、その人の名誉を傷つけたくなかったり、自分が少しでも負けて逃げたって事実を作りたくないじゃないですか。

普通に考えてみれば、落語家も人間ですし、そりゃ若い頃は落語しか道が残ってなかった文楽からしてみれば、そういう暴力にも耐えなきゃいけないですし、今の世間から見れば立派なパワハラですよ。
私は文楽が圓馬の弟子になってたら、もっとパワハラを受けていて縮こまって大成してなかったと思いますよ。

圓馬のこの時の、文楽さんに厳しくした理由についての考察は、日乗さんが興味あれば説明しますので。

densuke さんのコメント...

コメント、ありがとうございます。
確かに、この記事を描いた時、私は、なぜ文楽は圓馬の弟子にならなかったのだろう、と疑問を持ちました。その理由をここでは「自立」に求めたたんですね。
文楽は圓馬について「ゲロを舐めろと言われたら舐めました」と言っているほど心酔していたので、「嫌い」という見方は出てきませんでした。
なるほど、人間は感情の動物で、やはり「感情」は重要なのでしょう。
『あばらかべっそん』に旅に出る辺りのことは、あまり詳しく書いてありません。書かないということにも意味はあり、もしかしたら匿名さんの言う通りなのかもしれません。
いずれにせよ、文楽はこの時、圓馬の弟子になっていなくてよかった。何せ、その後、圓馬は品川の圓蔵を殴って東京にいられなくなったのですから。もしかしたら、文楽は圓馬の性格に、いつかそんなトラブルを冒す危険性を感じていたのかもしれません。
「圓馬のこの時の、文楽さんに厳しくした理由についての考察」、興味ありますねえ。是非、お聞かせください。